Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

アメリカ代表者研修会 仏法は社会に開かれた宗教

1993.3.11 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

前後
2  日蓮大聖人は、本尊といっても自分自身の胸中にあると仰せである。凡夫の胸中の「本尊」を輝かせるために、大聖人は御本尊を御図顕してくださったのである。この根本を忘れてはならない。大切なのは自分自身である。皆さま方ご自身である。
 堂々と胸を張り、それぞれの立場において「最高の人生」「所願満足の人生」を生き抜くための信仰なのである。
 勤行で経を読むのも、仏を賛嘆申し上げることであり、それはそのまま自分自身の仏界を最高に賛嘆し、強めていることになる。
 唱題は、宇宙の最高の宝を日々、わが生命に積んでいるのである。宇宙の根源も南無妙法蓮華経、自分自身の生命も南無妙法蓮華経、大聖人の御名前も南無妙法蓮華経であられる。題目を唱えることは、この″宇宙で最高の力″を自分の生命から湧き出し、同時に、周囲に強く響かせていくことになる。ゆえに何ものも恐れるものはない。
 大聖人は、妙法を持つ人が道を歩けば、四菩薩が前後左右に立ち添って、ともに歩まれ、その人を守ると述べられている。
 ともあれ、大切なのは形式ではない。御書には、勤行についても、窮屈な形式など定めてはおられない。大切なのは生命のリフレッシュ(蘇生)である。
 朝の散歩や、ジョギングで心身ともに爽快になるように、皆さまの勤行も、根本的に身も心も、すがすがしく、さわやかになったと、自分自身が満足できる勤行であっていただきたい。
3  閉鎖的宗教は人間を抑圧する
 テキサスでの宗教団体のろう城事件が報道されているが、狂信の教祖に率いられたセクトの「反社会性」「閉鎖性」「非寛容性」は、まことに恐ろしい。残虐である。日顕宗の狂いも、実に多くの人々を苦しめている。
 日蓮大聖人は「一切の法は皆是れ仏法なり」──一切の法は皆仏法である──と仰せである。
 仏法は決して閉ざされたものではない。社会のすべてに、あまねく通じ、開かれている。
 また、大聖人は「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわ」──智者とは世間の法以外において仏法を行ずることはない──と。
 「社会」と「生活」と「人間」を最大に大切にしていくのが、正しき信仰の軌道である。SGIは、正法を基調にした平和・文化・教育で、さらに世界と人類に貢献してまいりたい。
4  縁ある人をすべて大切に
 大聖人は、門下が「開かれた心」で周囲の人々を大事にしながら、社会で大いに活躍していくことを願っておられた。
 四条金吾への御手紙では、こう仰せである。
 「さては・なによりも上の御いたはり所労なげき入つて候、たとひ上は御信用なき様に候へども・との殿其の内にをはして其の御恩のかげにて法華経をやしなひ・まいらせ給い候へばひとえに上の御祈とぞなり候らん」──さて何よりも、あなたが仕える主君のご病気のことを心配しております。たとえ、主君は信仰していないようであっても、あなたが主君のもとにあって、そのおかげで法華経を供養しておられるのですから、(その功徳は)ひとえに主君の(病気がよくなるための)お祈りとなることでしょう──。
 ここでは「主君」のことを仰せであるが、もちろん仏法では、封建的な道徳を促しているのではない。信仰している、していないにかかわらず、みずからにえんする人々の幸福、健康を祈ってやまない人間性が尊いのである。そして周囲のすべてを、限りない福徳の陽光で照らしていけるのが、私たちの信仰である。
 ブラジルのリオデジャネイロで広布の功労者にお会いした折、ご主人が未入信であった。私は、ご主人に「ご商売をさらに繁盛させ、奥さまをさらに大事にしてあげてください。それが、そのまま信仰に通じていきますから」と申し上げた。これもこうした御文の御心を拝したうえでのことである。
 家族が未入信であっても、窮屈に考える必要はまったくない。聡明に朗らかに、一家を和楽へとリードしていただきたい。
 親が信仰していようと、いまいと、子供は親孝行すべきである。夫婦の間も同じである。むしろ、だれよりも良き子供、良き夫、良き妻、良き両親となるための信仰なのである。
 信仰してない人を排除して見るような″排他性″は、反面、″信仰しているから自分は何をしてもよい″とする″独善″と裏はらである。その究極が日顕である。
5  また、大聖人が門下一人一人の社会的立場を、どれほどこまやかに思いやられ、大きく包容しておられたか。領主という立場にあり、さまざまな困難のなか、信仰に励んでいた三沢小次郎への御手紙では、こう仰せである。
 「各各は又たとい・すてさせ給うとも一日かたときも我が身命をたすけし人人なれば・いかでか他人にはさせ給うべき(中略)各各は日蓮ほども仏法をば知らせ給わざる上俗なり、所領あり・妻子あり・所従あり・いかにも叶いがたかるべし、只いつわりをろかにて・をはせかしと申し候いき・こそ候へけれ、なに事につけてか・てまいらせ候べき・ゆめゆめをろか候べからず」──あなた方は、たとえ法華経を捨てられたとしても、一日片時であっても私の命を助けてくれた人々ですから、どうして他人と同じように思えましょうか。(中略)あなた方は日蓮ほども仏法をご存じないうえ、在家の身です。領地があり、妻子があり、養うべき家来もある。(迫害のなか、信心を貫き通すことは)いかにも難しいでしょう。
 ですから「(表向きは信心をしていないように)いつわり、何も知らないふりをしておられたほうがよい」と申し上げた通りにしていきなさい。何があろうとも、あなた方を見捨てるようなことがあるでしょうか。決して決してあなた方をおろそかにすることはありません──。
 大聖人の仏法は、教条主義的な狂信とは無縁である。「宗教のための人間」ではない。どこまでも「人間のための宗教」なのである。
 もちろん大聖人は退転を認めたり、いわんや反逆を許しておられるのでは決してない。けなげに困難と戦っている門下であるゆえに″かりに、あなた方が信仰を貫けなくとも、片時でも私を助けてくれた信徒のあなた方を、私は守り抜きますよ″と包容しておられるのである。
 この大聖人の大慈大悲をよくよく拝さねばならない。
 長年にわたって未曽有の外護を尽くした学会の赤誠を踏みにじり、仏子を苦しめた日顕は、大聖人の御心と完全に反対なのである。御本仏への敵対者である。
6  「仏子を守る人」を諸天は守る
 どうか皆さま方も、広布のリーダーとして、大切な仏子であるメンバーを大きく包み、守り、励ましていただきたい。
 決して無理をさせてはならない。負担をかけてはならない。叱ってはならない。訓練と威張ることとは違う。人々が、どう安心していけるかに心をくだいていくのが指導者である。
 励ましが大切である。
 御書にも「余りに人の我をほむる時は如何様にもなりたき意の出来し候なり、是ほむる処の言よりをこり候ぞかし」──人があまりに自分をほめるときは、どのような状態にでもなりたいという心が出てくるものである。これは、ほめる言葉から起きてくるものである──と仰せである。
 仏子をたたえ、守った分だけ、その人は諸天・諸仏にたたえられ、守られる。仏子を叱ったり、苦しめた分だけ、その人は諸天・諸仏に叱られ、苦しむことになる。
7  昨日も財界人の方と語り合ったが、このマイアミの地はまことに素晴らしきサンシャイン・ステート(陽光の州)である。太陽の恵みがあふれている。
 また、中南米にも、カナダにも、ヨーロッパ、そしてアフリカにも開かれた要衝の地である。加えて、地震もない。さらにアトランタでの近代五輪百周年記念のオリンピック(一九九六年)にも期待が高まっている。
 「フロリダ自然文化センター」の構想も発表されたが、いよいよアメリカ南東部の興隆に貢献してまいりたい。
 センターがオープンした暁には、わが家と思って大切にしていただきたい。仏法の城を大事にすれば、その分、自分の福運となる。
 かりに夫婦げんかしたときも、嵐がおさまったあとは、二人して「あの希望の城へ行こう。三世の館を訪ねようよ」と、手をつないで、「銀の道」を「金の家」へと歩んでいくような──そういう心豊かな人生であっていただきたい。
 「常寂光土」といっても決して遠くにあるものではない。架空の話でもない。現実のこの人生、現実のこの国土に実現するものである。自然文化センターには、本日、参加された皆さま全員の植樹をして差し上げたいと願っている。
 この、素晴らしき天地にあって、皆さま方は、どうか今日の青空のごとく、心広々と友情のスクラムを広げていただきたい。
 最後に、皆さま方お一人お一人の、ますますのご健康、ご長寿、裕福、無事故、そしてご多幸を祈ってスピーチとさせていただく。サンキュー・ソーマッチ(本当に、ありがとう)。

1
2