Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ブラジル代表者研修会 広布への行動は一切が善根

1993.3.7 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

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1  陰の労苦が生命を飾る
 はじめに、日本はじめ六十七の国から、ブラジルの皆さまへ、素晴らしい自然文化センターでの集いを祝福するメッセージが届けられていることを紹介申し上げたい。
 ブラジルの全宝友の祈りに包まれて、一日が一年にも十年にも匹敵する日々を刻ませていただいた。
 人生は、また歴史は″長さ″ではない。″深さ″である。
 お世話になった、すべての役員の皆さまに、私は万感を込めて御礼申し上げたい。
 皆さま方の真心は生涯、いな永遠に忘れることはできない。お会いできなかった皆さまにも、どうか、お一人お一人にくれぐれもよろしくお伝えください。ムイト・オブリガード(本当に、ありがとうございました)。
 近い将来、ぜひ五度目のブラジル訪問を果たし、第二回の南米総会等をこの地で開催したいと願っている。
2  広宣流布のために働いたことは、すべて自分の「善根」となる。広布の団体・創価学会のために行動したことは、すべて自身の「福徳」となる。仏法には、一切、無駄がない。因果の理法は絶対である。
 他の世界では″要領″が通用したとしても、仏法の世界では、陰の労苦、目に見えない一念が、そのまま結果となって現れる。ゆえに、だれが見ていようと、いまいと、勇んで行動することである。
 大聖人は、同志を大切にする献身の行動を決して見逃されなかった。
 ある年の弥生やよい三月、一人の女性門下が、はるばる身延の山中におられる大聖人をお訪ねした。
 この同志の婦人を、池上兄弟の弟・宗長夫妻は、大切な馬に乗せて送り出してあげた。そのことを大聖人は、こうたたえておられる。
 「此度此の尼御前大事の御馬にのせさせ給いて候由承わり候、法にすぎて候御志かな・これは殿はさる事にて女房のはからひか」──このたびは、この尼御前を(大聖人のもとへ来るにあたって)大事なお馬に乗せてくださったとうかがいました。並大抵ではない真心だと思います。これは殿(宗長)のお心であることは言うまでもありませんが、むしろ、その夫人のお心遣いであろうかと思います──と。
 大聖人は夫妻の清らかな心をこのように愛でておられる。
 なかんずく、陰で支える夫人の信心を賛嘆されている。私には、皆さま方の姿と二重写しに拝されてならない。
 皆さま方ご一家の尊い真心を大聖人がすべて御照覧くださっていることは絶対に間違いない。どうか、留守を守ってくださったご家族の皆さまにも、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。
3  また、大聖人は因果の理法のうえから、法のため、友のために尽くした功徳によって、自分自身が大福運の人生、三世にわたる幸せを満喫していけることを示されている。
 大聖人はわかりやすく″同志を乗せてあげた馬が、あなたが長寿をまっとうされた後の、霊山浄土への旅路にあっては、そのまま、あなたを乗せてくれる馬となりますよ″とも仰せである。
 すべてにおいて、原理は同じである。たとえば、広布の城を真心の花々で飾ってくださった人は、生々世々、美しい花園に包まれるような境涯となっていくと信ずる。
 学会活動の労苦は、一切が、みずからの、また一家一族の永遠の福徳となる。私は、皆さま方がいよいよ健康・長寿・安穏・裕福の人生であられ、「永遠の希望」の道が開かれゆくことを、一生涯、祈り、見守らせていただく。
4  これが「私の道」「信念の道」と
 このブラジルの地にあっても、悪侶が皆さま方の真心を裏切り、踏みにじった。この背信を永久に許してはならない。悪の″根″は断じて断ち切らねばならない。
 ブラジル文学アカデミーの創立者アシス初代総裁は、こううたっている。
   ブラジルの民衆よ!
   このブラジルの大地に叫べよ
   ″卑怯に また臆病に生きながらえるよりも
   むしろ栄誉ある死を″と。
   野望のひょうが爪を研ぎ
   眼を光らせ
   ブラジルの大地を狙い
   我らに吠え立てる
   誇り高き自由のために
   誇り高き栄冠のために
   この南米の地にて侵略者にひざまずいてはならない
   自由の国こそ我らが栄光なり
   束縛の鎖を解き放て!
   我らの誉れの歴史を思い起こし
   ブラジルの名誉を救おうではないか
 この偉大なる自由の天地・ブラジルに、新たなる「民衆の勝利の歴史」を堂々と残していただきたい。「私の道」「信念の道」を生命をして戦う──これが学会精神である。
 どうか、難攻不落のブラジルSGIを築き上げていただきたい。自分たちの世界を、自分たちの力でつくり、自分たちの団結で断固として守り抜いていくことである。
5  金剛の信心が、人生を金剛に
 ブラジルは「宝石の国」である。ご存じの通り、ダイヤモンドをはじめ、アクアマリン、トパーズ、アメシスト、エメラルド、サファイアなど数多くの美しい宝石を産する。
 金を除く世界の宝石の生産量の約六五%がブラジル産という資料もある。十八世紀から十九世紀にかけてブラジルは、世界最大のダイヤ産出国であったし、金の生産でも注目されている。まさに、ブラジルの大地の限りない豊かさを象徴していよう。
 とともに、ブラジルには人材が、「宝石」のごとく多彩に輝いている。昇りゆく朝日のように計り知れない可能性を秘めている。
 私は「二十一世紀のブラジルは、この上なく明るい」と申し上げたい。
6  「宝石の国」にちなんで、「金剛」、すなわち「ダイヤモンド」について話しておきたい。
 先日、前モスクワ大学総長のログノフ博士との対談でも、ダイヤモンドが話題になった。
 金剛については、仏法でも種々に説かれている。
 涅槃経には、「如来にょらい法身ほっしんは金剛不壊ふえなり(中略)われ護持正法ごじしょうぼう因縁いんねんにて今の金剛身常住不壊を成就じょうじゅすることをたり」──如来の法身は金剛のごとく壊れない(中略)自分は正法を護持した因縁によって、今、この常住にして壊れない金剛の身をつくり上げることができたのである──と説かれている。
 この経文は、御書(御書235㌻)にも引用されている。
 「金剛身」とは、仏の境界が、ダイヤモンドのように硬く、いかなる煩悩や、迷いにも壊されることがないことを表している。そうした素晴らしい境界は、「正法を護持する」ことによってこそ得られるのである。
7  大聖人は、生命の尊さについて、「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり(中略)三千大千世界にてて候財も・いのちには・かへぬ事に候なり」──生命というものは、一切の財宝の中で、第一の宝である(中略)三千大千世界(宇宙)に満ちた財宝であっても、生命に代えることはできない──と仰せになっている。
 だれびとの生命も、平等に、無上の価値をもっている。僧は上で、信徒は下、などと差別したり、蔑視したりすることは、日蓮大聖人の仏法に、完全に反している。
 その生命の尊さの根源は、本来、具わっている「仏の生命」、すなわち確固たる″ダイヤモンドの生命″にあるといえよう。わが生命の内なるダイヤモンドを自覚し、輝かせるための仏法であり、信仰なのである。
 なお、涅槃経には、正法護持の例として、「有徳王」が破法の悪僧らと激しく戦い、全身に傷を被った実践によって、後に仏の金剛身を得ることができたと説かれている。
 ダイヤモンドのごとき幸福な境涯は、正法を破壊しようとする極悪の僧らを呵責し、正法と広宣流布を護り抜く時に、厳然と得られるのである。
8  また大聖人は、同じ涅槃経の「の大涅槃微妙みみょうの経典・流布るふせらるるところまさに知るべしの地は即ち是れ金剛なり是の中の諸人また金剛のごとし」──この大涅槃の微妙なる経典が流布される所の地は、すなわち金剛である、その中に住む諸人もまた金剛のようである、と知るべきである──との文も引かれている。
 最高の妙法が流布する地と、そこに住む人は、ともに「金剛」の如くであり、ダイヤモンドの如くなのである。
 大聖人は、この文を、「守護国家論」、「災難対治抄」で引かれ、正法を信ずる人の住む所は、何ものにも壊されることのない仏国土であることを明かされ、国土の災難を止める、「立正安国」の依文の一つとされている。
 正法の広宣流布こそ、地域・社会の真の繁栄をもたらし、崩れざる平和を実現することを確信していただきたい。
9  生命の″ダイヤの原石″を磨きゆく日々を
 ところで、ダイヤの「原石」は、半透明の曇りガラスのような小石であり、光ってはいない。カットし、研磨して、初めて輝くのである。
 理想的な角度でカットされたダイヤは、光の屈折率が極めて高いので、結晶に当たった光が、内部で反射して、元に戻ってくるために、内部から光っているように見える。よく光を分散させるので、ダイヤ独特の「ファイアー」と呼ばれる、神秘的な虹色のきらめきを発し、女性の心を魅了するといわれている。
 結婚している方は、奥さまに、年に一度はダイヤを買ってあげるくらいの心であっていただきたい。
10  では、地上で最も硬いダイヤモンドを、どうやって磨くのか。
 「ダイヤモンドは、ダイヤモンドでカットする」というヨーロッパのことわざがあるように、ダイヤをカットし、研磨できる物質は、ダイヤだけである。実際には、ダイヤの粉が研磨材として用いられているようである。
 大聖人は、「一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性ほっしょう真如しんにょの明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」──(凡夫の)一念無明の迷いの心は、磨かない鏡である。これを磨けば、必ず法性真如(悟り)の明鏡となる。それゆえ、深く信心を起こして、日夜朝暮に、怠ることなく磨くべきである。どのように磨くべきであろうか。それは、ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつることを、磨くというのである──と仰せである。
 ″ダイヤの原石″のごとき凡夫の生命も、磨きに磨けば必ず、まばゆいばかりの光を放つ。ダイヤ(金剛)である自分を磨くためにダイヤ(金剛の仏身)そのものであられる御本尊を、大聖人は遺してくださったのである。
 御本尊を「信ずる心」が大切である。その心で題目を唱えた時に、凡夫の生命が自然に磨かれ、仏界の輝きを放つ。
 それが、生活のうえでは、功徳となり、福運となって顕れる。生命のうえでは、みずみずしい人間性となり、豊かな知知恵となり、逞しい生命力となって顕れるのである。
 どんな有名人も権力者も、自分を磨かなかった人の末路はわびしい。どんなに平凡に見えても、自分自身を磨ききった人は、年ごとに輝いていく。
 信仰は、決して義務ではない。幸福のための権利であり、すべて自分自身を光らせるためである。
 正法を持ち抜いたとき、貪り、瞋り、癡という三毒の曇りは払われ、生命は「慈悲」と「勇気」と「知恵」の輝きを限りなく発していく。
11  なお、ダイヤモンドは、宝石として珍重されただけではなく、昔から、石や槍を研ぐのにも用いられていた。
 現在では、工業用として、硬度の高いものを切断したり、研磨するのに欠くことのできない資材として、広く用いられている。工業用ダイヤがなければ、近代の精密工業は成り立たないという。
 自分が輝くだけでなく、他をも磨き光らせるために役立っているという点でも、仏法者の実践は、ダイヤモンドに通じているといえよう。私たちの道は、「自他ともに輝く」道なのである。
12  苦楽ともに思い合わせて妙法を
 大聖人は仰せである。
 「ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず」──世間のさまざまな難が起こっても、いちいち悩んで相手にすることはありません。たとえ、賢人や聖人であっても、難を受けることは逃れられないのです──。
 「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへさせ給へ」──苦しみを苦しみと悟り(達観し)、楽しみを楽しみと開いて、苦しくても楽しくても、南無妙法蓮華経と唱えきっていかれることです──。
 悩みのない人生、また問題のない世界など、どこにも存在しない。むしろ、いろいろなことがあるからこそ、人生は面白いのである。そして、妙法とともに生きゆく人生は、何があっても最高の「知恵」を発揮して打開していける。「所願満足」の価値ある一生を勝ち取ることができる。
13  わがブラジルSGIの皆さまは、仲良く、また仲良く、楽しくまた楽しく、励まし合い、守り合いながら、一緒に、よき人生を生き抜いていただきたい。
 名残は尽きないが明日、アメリカに出発します。必ずまた、愛するブラジルの地を、そしてこの素晴らしき自然文化センターを、再び訪問させていただきたい。
 わが、かけがえのないブラジルの宝友に幸あれ! 栄光あれ! 勝利あれ!と祈って、感謝のスピーチとさせていただく。
 本当に、お世話になりました。皆さまへ、お題目を一生涯、送り続けます。

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