Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ブラジル池田記念講堂を初訪問 「唱題の人」が「勝利の人」

1993.3.3 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

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1  唱題は一切を変毒為薬する力
 この娑婆世界は「堪忍」の世界とされる。耐え忍ばねばならない、さまざまなことが常にある。そのなかで、どんな悲しみも、どんな苦しみも、どんな宿命も、全部、悠々と乗り越えて、最も幸福な境涯を得ていけるのが、日蓮大聖人の「仏法」であり、創価学会の「信心」である。
 自分や家族の病気、また死、経済苦、人間関係の悩み、欲しいものが得られないつらさ、その他、生きているかぎり、ありとあらゆる戦いがあり、苦しみがある。これは避けようがない。どうしようもない人生の現実である。
 「信心」とは、「唱題」とは、それらを、ことごとく変毒為薬する力である。苦しみの毒が、幸せという薬に変わる。
 煩悩即菩提で、悩みが悟りに変わり、幸福に変わる。悩み、悲しみが大きければ大きいほど、より大きな幸福に変えていける。これが題目の力である。ゆえに妙法を唱える人は、何ものも恐れない。恐れる必要がない。
2  木も、小さいうちは、少しの風にも揺れる。大木になれば、どんな嵐にも揺るがない。人間も、生命力が弱ければ、少しの悩みの風にも紛動されてしまう。
 娑婆世界である以上、風を止めることはできない。自分が強くなる以外にない。自分が大木になれば、どんな大風も平気である。むしろ楽しんでいける。そういう人生、生命へと、人間革命していくための信仰なのである。
 目には見えないが、木は毎日、生長している。私たちの唱題も、目には見えないが毎日、自分自身を福運の大木へと育てている。十年、二十年、学会のなかで信心を貫いていけば、やがて必ず、大樹となった福運が、はっきり目にも見えるようになる。
3  生命に「宝」を積む日々の持続
 妙法は宇宙の最高の宝である。唱題することは、毎日、わが生命に宝を積み重ねていることになる。一方、生命のなかの過去の罪業は、清浄な水に濁った水が押し出されるように、洗い流されていく。
 だから、完全に清浄になるには、ある程度、時間がかかる。はじめのうちは、少し濁った水、すなわち自分の宿命との戦いがある。それも唱題の力で軽く受けているのである。ゆえに「持続」することである。やがて、すっかり生命が清浄になれば、どんどん、すべてがよくなってくる。
 福徳に満ち満ちた、何ものにも壊されない「絶対的な幸福」の境涯に、必ずなっていく。何があっても、楽しい。名声や財宝がなくても満足である。一瞬一瞬が、最高に充実している。喜びに満ち、すべてが美しく見える。何を見ても、ぱっと正邪がわかり、本質がわかる。何があっても、人のことを考えてあげられる。そういう自分になっていく。
 だから、幸福への道は決して難しいことではない。広布の世界のなかで、ともかく題目をあげ抜いた人が最後には勝つ。必ず「絶対の幸福境涯」、すなわち「仏」の境涯を得ていけるのである。根本は、これひとつ覚えておけば、人生は永遠に盤石である。
4  そのうえで、信仰者といっても、あとは何も特別なことはない。立派な社会人であり、良識と礼儀の人でなければならない。
 むしろ、だれよりも良き市民、良き父母、良き夫、良き妻、良き子供となっていくための信仰である。そのようになれるよう自分の境涯を高めるための仏法である。ゆえに、その信仰のことで、家庭で争うようなことは賢明ではない。その分、唱題したほうが価値的である。家族で、あまりやらない人がいたら、その人の分まで、自分が唱題し、祈ってあげればよい。あせらず祈りきっていけば、必ず自分が願った通りの方向に変わっていく。題目にかなうものは何もない。そして、心豊かに、夫を大切にし、妻を大切にし、子供は親孝行を重ねていくことである。
 南無妙法蓮華経は、大聖人のお名前であり、御生命であられる。題目を唱える人には、大聖人様の御生命がわいてくる。必ず仏になっていく。
 いつまでも貧乏で苦しんでいる仏はない。薄情な仏や、意地悪な仏もない。人生に負ける弱い仏もない。仏とは「絶対に勝つ人」の異名である。
 私は、皆さまの勝利を、健康、無事故、裕福、長寿を日々、一生懸命、祈っている。安心して、一緒に、無上の人生を生き抜いていただきたい。

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