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日蓮大聖人・池田大作

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リオデジャネイロ総会 わが胸中に″幸福の太陽″が

1993.2.13 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

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1  一人残らず胸に「勝利の勲章」を
 ついにリオの皆さまの素晴らしき「常勝の城」を訪れることができた。″お父さん″が帰ってきたつもりで、きょうは皆で楽しく過ごしましょう!
 皆さまのお陰で、リオでの一切の行事を、大成功で終えることができ、心から御礼を申し上げたい。すべて皆さまの真心の結晶である。すべてにわたって「世界一のリオ」である、と私は申し上げておきたい。
 お目にかかれなかった皆さまにも、どうかお一人お一人によろしくお伝えいただきたい。
2  今回、リオ連邦大学の名誉博士号、ブラジル文学アカデミーの在外会員などの栄誉を与えられたが、師弟は不二である。すべて皆さまを代表してお受けしたものであり、皆さま方ご自身の栄誉と受けとめていただきたい。
 そう、とらえて歓喜する人は、その心が、生々世々、実際に、大いなる栄誉を自分自身にもたらしていく。何より、皆さまは「心」に輝く勲章をもっておられる。信心という「永遠の勲章」をもっておられる。絶対に幸福にならないはずがない。
 必ず、一人残らず幸福になっていただきたい。それだけが、私のお願いである。
3  リオ連邦大学の名誉博士号授与式の会場はペドロ・カルモン講堂といって、偉大な教育者であったカルモン元総長の名前を留めている。カルモン元総長は、こうリオをたたえている。
 「私たちの諸都市の中でリオは最もコスモポリタン(世界市民的)な都市といっても過言ではない。とともに、その『普遍性』『人間性』『独創性』の驚嘆すべき特徴によって、つねに、そして、きわめてブラジル的であり、唯一無二の存在である」と──。
 皆さま方のリオは、さまざまな次元からみて、地球文明の未来にとって、かけがえのない天地である。この地にみなぎる普遍性、人間性、独創性が、仏法の哲理、そしてSGI(創価学会インタナショナル)の行動によって、さらに爛漫と開花しゆくことは間違いない。
 皆さま方の使命はまことに大きい。私もカリオカ(リオっ子)の一人として、愛するリオのため、さらに貢献していく決心である。
4  ブラジルのことわざ「女性がすべてを動かしている」
 今日のリオ広布を築いてくださった尊き婦人部の皆さま方を、私は最大に賛嘆したい。
 ブラジルのことわざに、ユーモアを込めて、「女は弱く男は強いといわれるが、実際は女性がすべてを動かしている」とあると、うかがった。
 学会にあっても、広布の前進は婦人部の力である。これは全世界に共通している。ゆえに、男性は婦人部を心から大切にしていただきたい。
 大聖人は、遠く離れた婦人門下の千日尼を「法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るる事なし」──法華経という師子王を受持する女性は、一切の地獄界・餓鬼界・畜生界などの百獣を恐れることはない──と励ましておられる。
 妙法という″師子王″を持ち、そして学会という″師子の集い″とともに生きゆく婦人部の皆さまは、この世で最も尊く、最も強い存在なのである。どうか、この大確信で、何があっても恐れなく、悠々と進んでいただきたい。
5  ある人が語っていた。「世界の中で、リオをはじめブラジルSGIほど、後継の人材が順調に育っているところはないと思います」と。
 たしかに今、ブラジルには見事なる青年の陣列ができあがった。広布の大河は、滔々と水かさを増している。それぞれの家庭で、お子さんを立派な広布の人材にと育ててこられたことを、私は心からたたえたい。そして、これこそブラジル婦人部の偉大なる勝利の実証である。
6  ″生きる喜びをあたえる″ことが喜び
 ところで、(ブラジル文学アカデミーの)アタイデ総裁は、九十四歳の今も一日一日、人権のため、人類のため、働いておられる。アタイデ総裁は、ご両親も、大変、長寿であった。お母さんも、どんなに年をとっても、青春の乙女のように生き生きとし、賢明な精神を輝かせていたという。
 このように、お母さんをたくましくしたのは何か。この点について、アタイデ総裁は、次のように振り返っておられる。
 「母をたくましくしたのは、十二人の子供たちをはじめ、その倍以上の数の孫や、見知らぬ他人の子供たちを育て、″生きる喜び″を与えることを、自分の最大の喜びとし続けてきたからだと思う」と。
 私には、「学会の母たち」と二重写しに思えてならない。
 多くの友に、最高の″生きる喜び″を贈り続けておられる婦人部の皆さまこそ、最高の人生の総仕上げを、はつらつと楽しみきっていける方々である。
7  今、日本の全国各地で、婦人部総会が行われ、あの地でもこの地でも、婦人部のお一人お一人が演出家となり、主役となって、温かな「心」と「心」のドラマが生まれている。
 ところで、真夏のブラジルと反対の厳しい北国の冬にあっても、赤々とした光で、ロシアの少年少女に、大きな夢と希望を贈り続けているのが、「国立モスクワ児童音楽劇場」である。有名なサーツ女史(ナターシャおばさん)が、世界で初めて、子供たちのために創設した音楽劇場である。
 女史は今年九十歳。独裁者スターリンによって、五年間も投獄されるなど、波乱万丈の人生であった。そして、今もなお総裁として大任を果たされている。
 女史は述べている。
 「私の場合、何でも簡単にできたことは一度だってなかった。常に困難があって、むしろそれをのり越えるのが好きだ。シェイクスピアの劇みたいに、悲劇性さえもどこかユーモラスな人生。とってもつらくなったとき、自分に自分でウインクしながら別の私がこう言う。『ちょっぴりやっかいになってきちゃったね。さあ、ナターシャ、あなたがどうやってここを切りぬけるか、みものだわ』。あたかも、二人の自分がいて、一人は舞台に立っている。その舞台の上の私がどんな苦況に置かれていても、もう一人の私は、演出家の気分で目を細めてにんまり名演ぶりをながめている。そのおかげで、舞台の上の私は、人生って行動することの異名だったんだ、とふと気づかされたりする」
 何かあると、すぐ自分の感情に流されて、右往左往してしまうようでは、「名優」にはなれない。どんな時でも、自分を見つめ、自分をコントロールしながら、堂々と、悠々と、人生の劇を演じきっていく。ここに「人格」の力がある。
8  牧口先生は、ある青年に「劇よりもさらに大きなこの世の劇をなんと見る」と呼びかけられた。
 すなわち、″ドロ沼のごときこの現実社会を「舞台」にして、悩み苦しんでいる人々を正しい幸福の人生へと導いていく。これこそ最高に価値ある「使命の劇」である″と訴えられたのである。
 どうか皆さま方も、「広布の名優」として、わが友を喜ばせ、励まし、勢いをつけていくリーダーであっていただきたい。
 自分のことにとらわれるのでなく、心広々と、人々のために、同志のために、広布のために尽くしていく。その行動によって「小我」から「大我」へと境涯も大きく開かれていくのである。
9  妙法は「無限の向上」の原動力
 人生の目的は何か。幸福である。仏法の目的も、信心の目的も幸福になることである。
 大聖人は、「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云」──一切の衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱えるより外に、遊楽はないのである。経(法華経の寿量品)には「衆生が遊楽する所」(開結五〇八㌻)とある──と仰せである。
 あえて分ければ、「遊」とは、人生を自在に生きていくこと、「楽」とは、人生を心から楽しむこと、といえるかもしれない。
 強い生命力と、豊かな知恵があれば、ちょうど、波があるから″波乗り″が楽しめるように、険しい山があるから″山登り″が楽しめるように、あらゆる人生の苦難も、楽しみながら、乗り越えていける。
 その生命力と知恵の源泉が妙法であるがゆえに、「南無妙法蓮華経と唱えるより外に、遊楽はない」と仰せなのである。
 現実は厳しい。その厳しさに堂々と挑戦し、生活のうえでも、職場・学校のうえでも、家庭においても、堂々とすべてを勝っていく。さらに勝っていく。その「無限の向上」の原動力が仏法であり、信心である。
 信心の「知恵」と「生命力」あるところ、すべてを、いよいよ明るい方向へ、いよいよ力強い方向へと向けていける。観念ではなく現実に勝利また勝利できる、そういうリズムに入っていけるのが、賢明な真の信仰者である。
10  戸田先生は、幸福について、こう指導されている。
 「幸福というものについて、一言教えておきましょう。それは、幸福には、絶対的幸福と相対的幸福という二つのものがある。絶対的幸福を成仏というのであります」
 「相対的幸福というのは、私は百万円の金がほしい、わしはああいうきれいな奥さんをもらいたい、わしはりっぱな子供をもちたい、ああいう家を建てたい、こういう着物を買いたい、その願いが、一つ一つかなっていくのを相対的幸福というのです」
 「そういうような幸福は、あんまりたいしたものではない。しかし、それを幸福なものだとみな思い込んでいる。
 しからば、絶対的幸福というのは、なにものぞや。絶対的幸福というのは、生きてそこにいる、それ自体がしあわせなのです」
 「絶対的幸福というのは、金にも困らず、健康もじゅうぶんである。一家のなかも平和で、商売もうまくいって、心豊かに、もう見るもの聞くものが、ああ、楽しいな、こう思う世界が起こってくれば、この世は、この娑婆世界が浄土であって、それを成仏というのです」
 「それは、なにものによって得られるか。相対的幸福感から、絶対的幸福感へといかなければならん。これは、この信心以外には、ほかの信心では絶対できないことです。
 それを教えるのに、私は大わらわになっているのだから、疑わずに信じて、そうして、そういう生活になってもらいたいと思う」──と。
11  牧口先生は「『金をためたい、金ができた。家がほしい、家ができた。そこで酒を飲む、ぜいたくをする。もうその先はわからない』──このような種類の人は、人生の目的を知らない人である」とよく話されていた。そして、人生の目的について、牧口先生は、「最高の価値を創造して、最大の幸福を獲得する。それが人生の目的である」と明確に示されている。
 「創価学会」という名称は、最高の価値を創造し、最大の幸福を実現する団体、という意味なのである。
 人生の目的は、最大の幸福、すなわち、絶対的幸福を実現することである。
 絶対的幸福とは、時間がたっても変わることなく、永遠に続くもので、外の条件に影響されることがなく、生命の内から込み上げてくる幸福感といってよい。
 世間的な地位や財産、満足等の一時的なものではない。「法」にのっとって生き、「法」のうえでいかなる位を得ていくか。その「生命の位」は、法とともに永遠である。私たちは永遠の「生命の王者」として生きられるのである。
 「病気や貧乏でも、幸せだと思えば幸せだ」という考え方もあるが、生命の奥底からの実感であればともかく、観念でそう言ってもしかたがない。
 「心のたから」は「身の財」「くらの財」となって現れてくる。
 私は日々、皆さまの「裕福」「健康」「長寿」を、一生懸命、祈っている。これからも一生涯、祈りに祈っていく。皆さまが、「私の人生は幸福だった」「悔いがなかった」「充実していた」と所願満足の一生を送られることが私の心からの願いである。
12  「自他ともに遊楽」の世界を
 大聖人は、「遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや、法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし」──遊楽とは、我々の色法と心法、依報と正報が、ともに一念三千の当体であり、自受用身(みずから広大な法の楽しみを受け用いる身)の仏であるということではなかろうか。(したがって)法華経を持つ以外に遊楽はない──と仰せになっている。
 大聖人は、遊楽、つまり、本当の幸福について、″信心の功徳に潤う色心ともの幸福″であり、しかも″信心の功徳に潤う依正ともの幸福″であると教えられていると拝される。
 「色心ともの幸福」とは、体は生き生きと働き、心も充実して生きる喜びを実感できてこそ、本当の幸福といえよう。
 「依正ともの幸福」とは、″社会や環境が悪くても、自分だけは幸福である″ということはありえない。自分も幸せを感じ、一家も、社会も幸せにしていこう、というのが仏法の目的である。
 皆さまは、この「色心」「依正」ともの幸福の道を、真っすぐに歩んでおられる。
13  ともあれ、ブラジル広布の「心臓」部、リオは勝ちました。
 太陽は、常に輝く。輝きをなくしたら太陽ではない。皆さまは″ブラジルの太陽″である。社会の太陽である。
 皆さまの胸中にこそ″幸福の太陽″は燃えている。その胸中の太陽を、仏界を赫々と光らせながら、周囲を照らし、温め、慕われ、信頼される皆さまであっていただきたい。
14  「人生の芸術とは、最大の悪から最大の善を引き出すこと」
 昨日、ブラジル文学アカデミーより、創立者であるアシス初代総裁(ブラジル近代文学の父)の名を冠する「マシャード・デ・アシス褒章」をいただいた。アシス初代総裁もここリオの出身である。
 その初代総裁の言葉に、「人生の芸術とは、最大の悪から最大の善を引き出すことである」と。
 変毒為薬の妙法を受持した皆さま方は、この「人生の芸術」を最高に謳歌し、最も幸福な、最も価値ある、勝利の劇を残していただきたい。
 最後に、リオの皆さまに歌を詠ませていただいた。
   三世まで
    共に共にと
      わが同志
    リオの真心
      嬉しく 讃えむ
   見事なる
    広布の夢の
      天地をば
    守り築きし
      リオは勝ちたり
 と申し上げ、今日のお祝いのスピーチとします。本当にありがとう。きょうの光景は、皆さまの真心とともに、一生忘れません。お元気で!

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