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日蓮大聖人・池田大作

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第六十二回本部幹部会、婦人部幹部会 「大いなる行動」が「大いなる幸福」を

1993.1.17 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

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2  先日も申し上げたように、本年の新年勤行会は、どの地も、まことに、にぎやかに楽しく行われた。
 また本日、沖縄研修道場には、台湾の友が集われている。遠いところ、本当に、ご苦労さまです。
 また、さきほど秋谷会長からもあったように、大規模な地震(十五日)に遭われた北海道、東北の方々に、心からお見舞い申し上げます。
 私も創価大学から本部へ車で移動中に、ニュースを知り、すぐさま、お見舞いをさせていただいた。「電光石火」──大切な会員の皆さまのためであれば、私は常に、その決心で行動している。
 本日は、震度6の「烈震」を記録した北海道・釧路の皆さまも、元気に集われているとうかがい、本当にうれしい。
 とともに、第六十二回本部幹部会、第二十六回全国婦人部幹部会、おめでとうございます。
 そして、ここ創価国際友好会館では、東京の「大目黒」「大渋谷」「大荒川」の合同総会。本当に、おめでとう!
 皆さまの、ご健闘を心から祈りたい。さらに、見事な前進の歴史を、よろしく。
3  仏法を根本に、法のため、社会のために尽くす行動は、すべて自身の仏道修行となる。また、社会への献身の行動は、それ自体、「菩薩」の実践に通じていく。
 戦う人に功徳はある。勝つ人に幸福はある。戦い、そして断じて勝つ一念であっていただきたい。
 また、とくに中心者は、友を温かくたたえ、励ます、賢明なリーダーであってほしい。尊き同志を、自分の感情にまかせて怒(おこ)ったり、軽んじては絶対にならない。会えば勇気がわき、希望がわく──そうした「励ましの心」あふれる名指導者であっていただきたい。
4  東方歌舞団を育てた周総理の厳愛
 現在、中国の「東方歌舞団」が来日し、日中国交正常化二十周年、民音(民主音楽協会)創立三十周年を祝賀する全国公演を続けられている。
 先日(十五日)は、創価大学の講堂で、素晴らしい舞台を見せてくださった。訪日団の代表と学会の幹部が懇談した折、歌舞団の原点について、こんな話が語られたという。私たちにとっても大切な教訓と思うので紹介しておきたい。
 「東方歌舞団」と命名し、発足当初から育てたのは周恩来総理である。最初はわずか二十人の少年で結成された。
 はじめから何もかも整ったところから出発したのではない。むしろ″何もない″なかから一歩ずつ築きあげてこそ本物となる。
 私も「鼓笛隊」を自分のポケットマネーで楽器を買い、発足させた。ゼロからの出発である。すべてそろった、恵まれた環境から、偉大なものが生まれるのではない。方程式は同じである。
 (″世界の鼓笛隊″は、一九五六年<昭和三十一年>、専門家もいないなか、三十三人で出発。また、音楽隊も名誉会長<当時、参謀室長>の発案で一九五四年<昭和二十九年>に結成された。楽器代も名誉会長が用意し、蝶ネクタイもみずからデパートで買いそろえた)
5  周総理は、外国訪問の折、若き団員たちを連れて行った。十数カ国を訪れるなかで、総理は語った。
 「外国に行ったら、異国の文化を学ぶとともに、その国の精神も学んでいくことだ」──そこにこそ平和もあると教えられたのであろう。「開かれた精神」の総理であった。
 人類の遺産である(ベートーヴェンの)″歓喜の歌″の合唱を「外道げどう礼賛らいさん」などとおとしめる(日顕宗の)低俗さとは、根本的に次元が違う。
 真の指導者は、「理念」「思想」を与える。
 総理は、団員に、漢詩を引いて、こうも教えられた。「たとえ歌舞団が外国で死んだとしても、骨はその地に埋める覚悟で行きなさい」
 遊びに行くのではない。その地で死んでいく決意で行くのだ。戦いに行くのだ──との指導である。
6  ある時、歌舞団の団員が、外国に連れて行ってもらったお礼も含めて、今後の決意を詩に託して総理に報告した。
   東方歌舞一枝花
   決心学好亜非拉
   一心一意听党話
   誓把青春献給她
 ──東方歌舞団は一枝の花です。アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの歌舞を学ぶことを決心しています。また党の指導に誠実に従い、そのために青春を捧げることを誓います──と。
 私たちで言えば、あらゆることを学びながら、信心根本に、学会とともに、広布に身を捧げていくこととなろう。
 詩を一見した周総理は、しかし厳しかった。(四行目の)「青春」を「一生」に変えなさいと筆を入れられた。
 「皆さんの考えは、浅はかである。舞台は『青春』だけではない。『一生』である。芸術家は舞台だけが青春ではない。さまざまなかたちで、一生、貢献していかねばならない」と。
 この厳しさのなかから、中国を代表する、あの「東方歌舞団」が生まれたのである。
7  一昨年の民音公演を終えたあと、団の代表が周総理夫人の鄧穎超とうえいちょう女史に報告に行かれた。女史は北京病院に入院しておられた。
 代表は再度、訪日公演をすることになったと報告した。女史は喜ばれながら「もう一度、池田先生にお招きいただいたのだから、また、新しい演目に挑戦しなければならない」と指導されたという。
 最後まで、厳しく、温かく団の成長を見守っておられた。その指導通り、周総理夫妻の育てられた歌舞団は、立派な創造の演技を見せてくださった。
8  サンマルチン──「利害の友」より「誠実の友」こそ
 一昨日(十五日)、アルゼンチンのアルベルト・コーアン元官房長官と創価大学でお会いした。氏は一九四六年生まれの四十六歳。今後も母国の将来のために、大いに活躍が期待されている方である。
 一九九〇年(平成二年)三月、氏は、アルゼンチンでの「日本美術の名宝展」(大統領府並びに東京富士美術館主催、ブエノスアイレス市の国立美術館)で実行委員長を務めてくださった。国立コルドバ大学の精密科学・物理学・自然科学科の卒業である。
 (その後、三十代までに地下水公団総裁、地方財団局長等を歴任し、八七〜八九年に県知事、八九〜九〇年にメネム現大統領の官房長官を務める)
 大統領とは、二十年来の親交を結んでおられる。
 四十六歳──若くフレッシュなリーダーの登場は、世界的な趨勢である。わがSGI(創価学会インタナショナル)においても同様に、若く、はつらつとした広布のリーダーが、存分に指揮を執る時が来ている。また、私はそのための訓練・育成を重ねてきた。
9  コーアン氏の出身であるサンタフェ州サンロレンソの町は、「祖国の父」「南米の父」サンマルチン(一七七八〜一八五〇年)が解放闘争の初陣を飾ったところとして有名である。
 サンマルチンは、ちょうど百八十年前、一八一三年の「サンロレンソの戦い」で勝利を収め、以後、連戦連勝で祖国を解放へと導いていった。
 (サンマルチンは、チリ、ペルーをも植民地支配から解放した。シモン・ボリバルと並ぶ「南米解放の英雄」である)
 今も「祖国の父」として国民に深く敬愛されているサンマルチン──彼に次のような言葉がある。
 「利害関係に動かされてまとわりつく、名前ばかりの友人の何と多いことか。誠実な友人の何と少ないことか」
 ″利害の友″は、いくらでもできる。互いに利用し、利用されながら。しかし誠実な真の友人は少ないものだ──と。
 誠実な友情を求めてやまない、魂の声である。
 信仰の世界でも、学会を利用し、信心を利用するだけの悪人は、僧侶をはじめ、たくさんいた。
 私たちは「誠実な友人」をつくりたい。永遠の「金剛の友情」を広げたい。私も一人また一人、崩れざる真の友情で世界を結んでいる。
10  また、サンマルチンは、その功績をたたえて贈られた援助金を受け取ろうとしなかった。彼はそれを「図書館の設立のために使ってほしい」と申し出た。
 「学識と文学の奨励は、民衆を幸福にし、豊かさへの扉を開く。私はすべての人々を啓発したい。自由への自覚をうながす神聖なる権利をつちかえるように」と。
 民衆には幸福になる権利がある。豊かになる権利がある。正しい知識を得る権利がある。私は自分のことよりも、民衆をこそ応援したい。本当の自由をつかめるように──これが彼の信条であった。
 私も働いてきた。民衆のために。正義のために。そして、本山のため、学会のため、広布のために無量の貢献をしてきた。すべてを法のため、人のために捧げてきた。
11  また先日は、コロンビアのロドリゴ・ヴィジャミサル駐日大使ともお会いした(十二日、聖教新聞社で)。この方も、立派な人格の人である。
 大使との出会いは今回で二度目。前回は昨年五月、ガビリア大統領の夫人と会見した折に同席されていた。
 (大使は一九四八年生まれ。ヴァジェ大学を卒業後、米・テキサス大学で博士号を取得。コロンビア紙公社総裁、勧業公社総裁等を経て、昨年四月に駐日コロンビア大使に就任。著書も『コロンビアにおける民営化』等、多数)
 大使は、昨年七月、「日本経済新聞」のコロンビア特集の中で、次のように語っておられる。
 「日本とわが国は一九〇八年に友好関係を樹立、二〇年代には多くの日本人が移住し、その後、政治、経済、文化のあらゆる領域で強固な結びつきを確立してきました」
 「わが国は日本を二十一世紀における最も重要な太平洋地域のパートナーであると考えています」
 「経済や貿易分野だけでなく、学術文化における二国間の交流が一層発展していくことを切望しています」
 私も大使のご期待にあるように、″学術文化の交流″のために全力を尽くす決心である。
 みずから率先して「道」を開いていく。自分が動かずして、時代を動かすことはできない。その国のため、日本のため、世界のため、そして会員のため、広宣流布のために、大車輪で「行動」していく。各国を駆けめぐってまいりたい。
12  コロンビア解放の女性革命かポリカルパ
 さて、コロンビアでは、十九世紀の初めに独立闘争が起こる。およそ三百年にもわたる他国の支配からの解放を目指す″自由への戦い″であった。
 それは″南米解放の父″シモン・ボリバルをはじめ、多くの英雄が活躍する大闘争であったが、同時にまた″女性が勇敢に立ち上がった戦い″とも言われる。
 わが学会においても、草創の婦人部、女子部の方々の戦いぶりは、それは立派であった。お金もない、満足な洋服もない、パーマ代もない。それでもひたすら広布のため、学会のために、行動してくださった。
 私が直接、薫陶した人々が中核となって学会を支えてきてくださったのである。
 学会は永遠に、こうした、けなげに戦う人たちをこそ大切にする。社会的な地位など、仏法の世界には何の関係もない。特別あつかいは絶対にあってはならない。
13  コロンビアの独立運動は約十年にわたったが、多くの挫折を繰り返した熾烈な戦いであった。
 男性のなかには、いったん闘争に参加しながらも、厳しい逆境にあって、次第に意気消沈していくものもあった。いざとなると、意気地がなくなる男性が多いものだ。
 しかしそうしたなか、学会の婦人部の皆さまのように、三色旗をうち振り、勇んで戦う、気品に満ちた女性たちがいた。(現在のコロンビア国旗と学会の「三色旗」も、縦と横の違いはあるが同じ赤、青、黄の三色からなっている)
 彼女たちはいかなることがあろうと、「挑戦の心」「戦う誇り」「屈辱に対する怒り」、そして「不屈の勇気」をもって困難に立ち向かい、「金剛の信念」を貫いていったのである。
 そうした″戦う女性″の一人に、ポリカルパ・サラバリエタ(一七九五?〜一八一七年)という若き乙女がいた。
 彼女の活躍は、今なおコロンビアの人々に語り継がれている。真珠のように美しく、聡明で活発な女性であったといわれる。肖像を見ても、そうした気質がうかがわれる。
 (生まれ故郷にある「ポリカルパ博物館」には、彼女の肖像画や処刑の場面を描いた絵が展示され、庭には彫像が建てられている)
 いわんや、「永遠の妙法」のために戦った同志の誉れは、永遠に語り継がれていくにちがいない。そして諸天善神や十方の仏菩薩から、たたえられ、うたわれていくであろう。皆さまも、そのような人になっていただきたい。
14  「大願」に生きれば「大きな自分」が
 ポリカルパは、幼いころ、両親、また八人兄弟のうち姉、弟の二人を伝染病で亡くしている。しかし、彼女は負けない。いつも、はつらつとした明るさがあった。不幸があればあるほど、明るく生きよう!──それが彼女の生き方だった。
 仏法では煩悩即菩提と説く。悩みがあるからこそ、幸せになれる。悩みを大きくもっていけば、より幸福になれる。それが信心であり、人生の真髄の姿である。
 彼女は、自分のことだけにとらわれなかった。ちっぽけな自分のためだけなら、だれでもできる。むしろ「祖国のために」働こう、「社会のために」働こう──彼女は「自由」という大いなる希望に燃えていた。
 大きな目的のために「行動」すれば、それだけ自分の「夢」が広がる。大きな「歴史」が輝く。
 私たちも広宣流布の「大願」に生き抜く時、自分の「小我」は「大我」となっていく。法のため、人のために「行動」した分だけ「大きな自分」となる。それは即「大きな幸福」である。自分が得するのである。
15  やがて、町のあちこちで革命の機運が高まる。彼女も「よし、私も戦おう!」と決心する。しかし、まだ十代後半の何の立場もない一人の少女である。彼女は焦らず、一つずつ、自分のできることから挑戦していった。
 まず自分の周りの多くの人と、「革命の友」になっていこう。皆を励まし、語りに語り、「革命の炎」を人々の心に点していこう。──まさに地に足のついた活動である。
 また、食料の確保など、何でも手伝った。戦いを支えるには、自分はどうすれば一番いいかを、いつも考えていた。
 やがて一緒に戦っていた婚約者が、敵に捕まる。最愛の恋人である。しかし、その悲しみさえも、彼女の心をますます燃え立たせた。
 偉大な人は、決して消沈しない。何があっても明るく、底抜けに明るく──この朗らかさ、この強さがあってこそ、いかなる戦いも勝っていける。
 それは「広布のリーダー」も同じである。リーダーが、いつも不景気な顔をしていては、皆、いやになってしまう。
 みずからも明るく、生き生きと、そして同志の身も心も軽やかに──そのような「名優」のごとき指揮をお願いしたい。
16  ポリカルパは、次第に重要な任務を受け持つようになる。たとえば、敵側の要所に潜入して情報収集等にも当たったようだ。
 女性が真剣になったら本当に強い。多くの男性とちがって、要領やずるさがないからであろうか。ともあれ、若くして彼女は、革命運動にとって、なくてはならない重要な存在になっていった。
 一方、敵は「戦う人間」を憎(にく)む。「戦う人間」を倒そうとする。″彼女がいなければ、やつらは困るだろう″と。
 方程式は同じである。だから私は敵の無数の攻撃を一身に浴びながら、一歩も引かない。一人、魔軍と戦い続けている。
 敵に追われた彼女は、とうとう捕虜になり、牢に入れられてしまう──。
 捕らわれたポリカルパに対し、執拗な尋問が繰り返された。美しく、きれい好きな彼女であったが、自由に体を拭くことさえ許されなかったという。
 一緒に捕まった弟が拷問を受けるのを、目の前で見せられたこともあった。
 姉弟、家族が、心を合わせて戦ったのである。学会も、同じ決心でなければならない。一家が、広布の第一線で働いていく──それを最高の誇りとしていくべきである。
17  「私は戦う!私の味方は『人間』!」
 ポリカルパは、いかなる仕打ちを受けても、気高く、毅然としていた。″私は、何一つ間違ったことはしていない。ゆえに最後まで誇りを捨てない。私は戦い続ける″──これが、彼女の信念であった。
 「共犯者は、だれだ!」。
 感情的になって、厳しく詰め寄る敵に、彼女は鋭く切り返す。
 「私の共犯者は『人間』です! 不正と抑圧と独裁を許さない『人間』です!」と。
 私たちの戦いもまた、世界の知性と世界の民衆──真実の「人間」を味方にしている。そこに広宣流布の正道がある。
18  不当な裁判によって、ポリカルパは、婚約者らとともに銃殺刑を宣告された。まだ二十代前半の若さであった。
 処刑の前日、敵側の神父たちは口々に説得する。「総督に謝りなさい。そうすれば、命は助けてもらえるだろう」と。
 しかし、彼女はきっぱりと断る。
 「私が許しを請い、生きながらえることは、敵の人間が正しいということを認めることになります。それだけはできません! 私は決して間違っていません!」
 今、日顕宗と戦っている私たちは、大聖人の「正法」に真っすぐに連なっている。大聖人の仰せ通りの「正道」を絶対に間違いなく進んでいる。何一つ妥協する必要はない。徹底的に戦い、責め抜いていくことが正義である。
 そばにいた将校が神父に言った。
 「きょうは威勢のよい″虎″でも、(処刑される)明日は″羊″になるさ」
 彼女は、言い放った。
 「あなたたちのほうこそ、今は″虎″を気取っているが、いざとなれば、すぐに″羊″の正体をさらけ出すでしょう。祖国が解放された時、苦しむのはあなたたちです!」
 「虎」とは、日本でいえば「獅子」に当たろう。
 日顕宗も同じである。獅子の学会員をバカにした傲慢な輩は、今や哀れな羊の群れの姿をさらしている。
19  「民衆よ! 不正をどうして認めるのか!」
 処刑の日、ポリカルパを取り囲むように、群衆が集まってきた。重苦しく、よそよそしい沈黙──皆、敵の兵隊を恐れ、自分は無関係だといわんばかりである。これも人間の弱さの実相であろうか。
 「民衆よ!」──彼女は、群がる人々に向かい、渾身の力を込めて訴えた。
 「民衆よ! あなた方は、罪のない同志が殺されることを、どうして認めるのか! このような卑劣な仕打ちをやすやすと受け入れるほど成り下がってしまったのか!」
 「もっと、誇りをもちなさい! もっと、勇気をもちなさい!」
 悪を見ても戦わない。怒りもしない。一体、いつから″心の乞食″になったのか──と。火を吐くような叫びであった。
 世には、政界の代表、経済界の代表等、さまざまな代表がいる。私は、ある外国の元首と会った時、「私は″民衆の代表″です」と言った。私はそのことを最大の誇りにしている。
 学会は″民衆の城″である。ゆえに、学会のリーダーは″民衆の代表″であり″民衆の真の友″でなければならない。そして学会を裏切り、「民衆」を裏切った反逆者は″乞食以下″の心である。
20  銃口が向けられた瞬間、彼女の最後の叫びが、放たれた。「祖国の権利を守るために、私は死にます。永遠なる神よ、この不正を見給え!」
 彼女の声は、銃声とともに消えた。しかし、死の瞬間まで「金剛の信念」を貫いた彼女の勇気は、不滅の炎となって、人々の心の中に赤々と燃え移った。一人、また一人と民衆は立った。
 そして、ポリカルパの死から二年後──ついに祖国コロンビアは完全な解放を勝ち取る(一八一九年)。彼女の予言通り、敵は羊のように逃げ去っていった。
 (コロンビアの祖国解放を決定づけた戦い″バルガス沼の戦い″について、一九九二年五月五日、創価教育同窓の友の集いでスピーチ)
 ポリカルパは大聖人の仏法を知らなかった。それでも、これだけの信念の人生を生きた。いわんや、私たちは大聖人直結の信仰者である。彼女以上の信念で戦う使命がある。
21  ここで「世界で最も美しい国歌」の一つとされるコロンビアの国歌の一節を紹介しておきたい。
   不朽の 栄光
   不滅の 歓喜
   苦しみの中に
   幸は芽生える
   恐怖の夜は 明けて
   気高き 自由が
   暁を 照らす
   強き光
 わが学会精神とも響き合う、魂の歌と思えてならない。
22  「師子王の子は師子となる」
 最後に「獅子王(師子王)」について触れておきたい。
 大聖人は「師子王」であられた。ゆえに大聖人直結の学会こそ、「師子王の教団」である。
 「師子王御書」(「閻浮提中御書」)に、大聖人は、こう仰せである。
 「願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵のとがを顕せ・師子は値いがたかるべし」──願わくは、日蓮の弟子等は、師子王の子となって、群れた狐などに笑われてはならない。遠い遠い過去以来、日蓮のように身命を捨てて強敵の罪を顕す師子には会うことは難しいのである──。
 また熱原の法難の折には、こう述べられている。
 「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり」──一人一人が、師子王の心を取り出して、どのように人が脅そうとも、決して恐れてはならない。師子王は百獣を恐れない。師子の子もまた同じである。彼等は狐が吼えているのである。日蓮の一門は師子が吼えているのである──と。
 この御指南のままに、国家の権力も宗教の権威も、何ものをも恐れず、身命を捨てて戦い抜かれたのが、牧口先生、戸田先生であられた。
 「不肖、私も大聖人の弟子であります。師子の子は師子の子らしく、そんな迫害や怨嫉に驚いてはならない。いかに学会を憎もうとして、いかに学会を陥れようとして誰人が騒ごうとも、彼らは犬、野干のごときものだ。われわれは師子王です。師子王の子供が犬、野干のごときものに恐れてなんとしましょうか」
 この戸田先生の叫びのなかに、学会の燃えるがごとき大確信が脈打っている。
23  大聖人は仰せである。
 「牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師子王となる・いまだ人王・天王等とならず、今法華経の行者は其中衆生悉是吾子と申して教主釈尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とならん事・難かるべからず、但し不孝の者は父母の跡をつがず」──牛王の子は必ず牛王となり、師子王となったことはない。師子王の子は師子王となる。人界の王、天界の王となったことはない。今、法華経の行者は、(法華経譬喩品に)「(今此の三界は 皆是れわが有なり)其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり」とあるように、教主釈尊の御子である。教主釈尊のように、法の王(仏)となることは、難しいことではない(やさしいことである)。ただし不孝の者は父母の後を継ぐことはできない──。
 師子王の子は師子王となる。法王の御子は法王となる。私たちは「御本仏の仏子」である。「仏」となることは約束されている。それは三世永遠にわたって、無量の福徳に包まれゆく「王者」である。
 ゆえに私たちは、まっすぐに大聖人との「父子の誓い」「師弟の道」に生き抜けばよいのである。
24  一方、あさましい嫉妬と瞋恚に支配され、大聖人の御遺命たる広宣流布を断絶させようとした日顕は、これ以上はない″大不孝の者″である。
 「師子を吠る犬は腸くさる」──師子に向かって吠える犬は、はらわたが腐ってしまう──と、大聖人は仰せである。
 「師子」の学会を誹謗し、破壊しようとすれば、みずからが地獄の苦しみを受けていく。
 本来、「猊座」とは「師子(猊)」の座のことであるが、日顕宗は師子どころか、まさに、「腸の腐った犬」となっている。
 仏法を破壊するのは、外敵ではない。内部である。御書には仏法を内から壊す「悪僧」を「師子身中の虫」として厳しく破折されている。
 蓮華面経、仁王経、梵網経等にも、彼ら、師子の体内の「虫」が、師子の肉を食み、死に至らしめることを説いている。
 私たちはその「虫」を追い払ったのである。退治しているのである。
25  日淳上人「学会の師弟の道に妙法の道が」
 「師子」の本義について、大聖人は「師子とは師は師匠子は弟子なり」──「師子」とは「師」は師匠、「子」は弟子である──と仰せである。
 大聖人の教えを誤りなく実践し、師匠と弟子が一体となって妙法広布に進んでいく。これが「師子」の道である。
 また、日淳上人は「今日この創価学会の方々が、戸田会長先生が師匠として教えられて来られました所を、一歩も踏み外さずに遵奉をして益々その道に邁進せられようとせられること、このことが真の妙法蓮華経の道を実践躬行することであるのでございまする」(昭和三十三年十一月九日)と、学会の「師弟の道」に「妙法の道」の実践があると明言されている。
 仏法の根本は「師弟」である。「師弟の道」を貫くことである。「根源の師」であられる大聖人に直結しながら、これからも戸田先生との「師弟の道」を生き抜くのが、私の一生である。
26  「全勝」のためには、油断があってはならない。
 御書には「師子王は前三後一と申して・ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきをひを出す事は・ただをなじき事なり」──師子王は、前三後一(三つの足を前に、一つの足を後ろにという、最も慎重な身構えをすること)といって、蟻の子を取ろうとする時も、また、力の強きものを倒そうとする時にも、全勢力をこめてかかるのは同じである──と。
 小事が大事である。広布の活動のうえでも、仕事のうえでも、家庭も人生も、すべて油断なく、知恵をしぼり、努力を重ねて、堂々たる栄光の一年を勝ち取っていただきたい。

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