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日蓮大聖人・池田大作

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婦人部との語らい 謗法僧の「開眼」は不要

1992.12.23 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

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1  歴史上、釈尊時代に「開眼」なし
 常盤会の第十七回総会おめでとう。女子部の時代から、創価学会の本流で訓練を受け、生き抜いてこられた方々である。一生涯、だれよりも学会を愛し、守り、だれよりも幸福な人生であったという模範を示していただきたい。
 「開眼かいげん」について、質問が寄せられたので、少々、語っておきたい。
 本来、「開眼」とは、文字通り「まなこを開く」という意味であり、俗に「たましいを入れる」ともいう。一般の仏教では「開光かいこう」「開明かいみょう」「開光明かいこうみょう」等と言う場合もある。
 仏・菩薩(ぼさつ)等の像を、新たに彫刻したり、鋳造したり、また描いたり、書写したとき、法をもって供養して″魂″を入れたとし、本尊として礼拝したのである。
2  もちろん釈尊の時代には、こういう儀式はない。釈尊の滅後も長い間なかった。
 初めて仏像が作られたのは、紀元百年ごろのインド北西部、ガンダーラ地方とされる。ギリシャ文明の強い影響のもとで製作が始まった。また、ほぼ同じころ、インドのマトゥラーにおいても仏像が作られていった。
 「開眼」が問題になったのは、当然、それ以後であった。歴史的には、仏教の原点の時代には存在しなかった儀式である。
 仏像を作るのは仏師であり、いわば凡夫の職人である。「開眼」という儀式を通すことによって、凡夫の作った像に、本尊としての権威が加わったのである。
 後世には、日本でも、各宗において「開眼」を言うようになり、「五種の開眼」等、種々に論じられた。なかでも、真言宗において強調され、他宗においても真言をもって開眼を行ったようである。
 「仏像開眼と云ふ事諸宗一同の義歟ぎかことに密家の大事」(「叢林集」)と記されている。
 浄土宗の法然でさえ、仏師が彫刻して後、眼を入れること(点睛)を「の開眼」とし、真言をもって開眼するのを「の開眼」と呼んでいる。
 大聖人御在世当時も、真言家のいん・真言が開眼には不可欠と考えられていた。
 (「撰時抄」には、当時の状況について「仏事の木画もくえの開眼供養は八宗一同に大日仏眼の印真言なり」と仰せである)
3  正法によらない開眼は天魔を招く
 御書には、「開眼」「開眼供養」の語は十七カ所で用いられているが、そのほとんどは、この「真言による開眼」を破折され、「法華経による開眼」でなければならないことを教えられた御文である。
 たとえば「画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし(中略)此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」と。
 ──画像・木像の仏の開眼供養をすることは法華経・天台宗に限るのである(中略)この画像・木像に魂魄といって魂を入れることは、法華経の力である。また天台大師の悟りである。この法門は、衆生についていえば「即身成仏」といわれ、画像・木像についていえば「草木成仏」というのである──。
 木や草を用いた木像・画像が仏としての生命をもつには、「草木成仏」を明かした法華経の一念三千の法門による以外にない。
 大聖人は、真言という邪宗によって開眼した仏像は、仏の働きをするどころか、すべて「無魂無眼」となると。
 ひいては「天魔入り替つて檀那をほろぼす仏像となりぬ」、「鬼入つて人の命をうばふ」、「魔入つて功徳をうばふ」と仰せである。
 「正法」によらない僧の開眼は、かえって悪鬼、天魔を招き寄せると述べられている。
 御書においては、他に一カ所だけ、塔婆の開眼供養について触れられている(「草木成仏口決」)。これも法華経・一念三千の法によらなければ、草木成仏も、真の開眼もないことを教えられた御文である。
4  じつは、仏教で「開眼」について言われだして以来、その仏事は僧侶の重要な「収入源」となった。いくら立派な仏像を作っても、「特別の修行」をした僧の「特別の儀式」によらない限り、何の意味も生じないというのである。
 当然、「開眼」は、僧侶たちが″かせぐ″絶好の機会となり、″権威を高める″良き機会となったのである。
 「報恩抄」には、そういう実態を窺わせる、次のような御文がある。
 「事勝の印と真言とにつひて天台宗の人人・画像・木像の開眼の仏事を・ねらはんがために日本・一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり
 ──(法華経と理は同じでも)事において勝っているとする印と真言についてしまい、天台宗の人々は、画像・木像の開眼の仏事を(担当しようと)ねらうために、日本一同に真言宗に堕ちて、真の天台宗は一人もいなくなってしまった──。
 当時の法華経の総本山・比叡山が謗法と化してしまった歴史にも、「開眼」の仏事が、深く関わっていたのである。
5  開眼の本義は御本尊の開示
 大聖人は「眼を開く(開眼)」の「眼」とは、「法華経」「南無妙法蓮華経」のことだと仰せである。(「法華経の題目は一切経の神・一切経の眼目なり」)
 法華経にこそ「仏眼」をはじめ五眼(仏眼・法眼・慧眼・天眼・肉眼)が具足している。
 また「仏」も「法華経」から生まれるのであり、「法華経」こそ仏の「魂」である。ゆえに、仏の根源である「法華経」をこそ本尊とすべきであると仰せである。
 (「本尊問答抄」には、「日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり(中略)仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり」と)
 大聖人がお認(したた)めの御本尊は、「末法の法華経」であられ、諸仏の「眼目」そのものであられる。大聖人が「開眼」を述べられるのは、この「眼目」すなわち「御本尊」を開示されるところに本義がある。
 「眼の一字は一念三千の法門なり、六万九千三百八十四字を此の眼の一字に納めたり(中略)今末法に入つて、眼とは所謂未曾有の大曼荼羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり
 ──(開眼の)「眼」の一字は「一念三千の法門」である。法華経の六万九千三百八十四字を、この「眼」の一字に納めたのである。(中略)今、末法に入って、「眼」とは、(正法時代・像法時代には)いまだかつてなかった大曼荼羅である。この御本尊よりほかには「眼目」はないのである──。
6  大聖人がお認めの御本尊は仏の「眼目」そのものであられる。ゆえに、あとから改めて「眼を開く」必要も、「魂を入れる」必要もない。
 「日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ
 「一念三千の法門をすすぎたてたるは大曼荼羅なり
 このように仰せの御本尊であられ、御本仏・日蓮大聖人の御生命の当体であられる。無限の「仏力」「法力」を具えておられる。
 ゆえに、残る大切なことは、形式ではなく、拝する者の「信力」「行力」である。強く、正しき「信」と「行」の力によって、御本尊の仏力・法力が発揮されるのである。
 「信力」も「行力」もない、謗法の僧侶が、どんなに荘厳めかした儀式をしたとしても、何の意味もない。そうした儀式は、まったく必要ないのである。
 むしろ、正法広宣流布に生きる私どもが朝晩、端座して、御本尊を拝することが、大聖人が教えられた「開眼」の本義に適う実践となっている。
7  墓地や、墓苑の三師塔、納骨堂、また数珠の「開眼」なども、信心なき宗門の僧は、ただ「金もうけ」と「権威づけ」のために行ってきたのである。絶対に、だまされてはならない。
 広布への不惜身命なき僧は、御書に照らし、日興上人の「遺誡置文」に照らして、謗法の僧である。謗法の僧による開眼など、有害なだけである。
 ともあれ、大切なことは、御本尊への「無二の信心」であり、広布への異体同心の「行」である。
 大聖人が教えられた「開眼」の本義からみるとき、創価学会の実践こそが、正義中の正義なのである。このことを、一段と深く確信していただきたい。
8  ジャンボ機のエンジンを止めた火山灰
 「無事故」こそ「幸福」の条件である。火災や交通事故などには、くれぐれも気を付けていただきたい。事故をなくすには、一人一人の「意識革命」が大切である。
 十年前の一九八二年(昭和五十七年)六月のある夜のこと。一機のジャンボ機(英国航空)が、インドネシアのジャワ島上空を、高度一万一千メートルで順調に飛行していた。
 その時、思いもかけない事故が起こった。突然、ジャンボ機の四つのエンジンがすべて止まってしまったのである。
 原因は全くわからなかった。エンジンの音はピタリと止まり、静まりかえった夜の闇の中を、飛行機は急降下していった。
 二百数十人の乗客は、死と隣り合わせの恐怖に直面する。生と死の狭間の時が流れた──。
 エンジンは飛行機にとって心臓である。それゆえ精巧に作られ、かなりの量の水や氷、また鳥などを吸い込んだとしても、トラブルが起こらないように設計されている。すべてのエンジンが同時に止まってしまうということは、ほとんどありえない。
9  その″ありえないこと″が起こったのは、なぜか──。
 同じような事故は、八九年、アメリカのアラスカ上空を飛んでいた最新のジャンボ機などにも起きている。
 このことについて、今年の夏、NHKが特集を組んでいた。また専門誌の論文などでも取り上げられている。(以下、本年八月九日放映のNHKスペシャル「謎のエンジン停止・ジェット機と巨大噴火」、長峯正義『ゼロの確率を求めて──原因別航空事故史』ぺりかん社)
 それらによると、こうした事故は、火山灰の雲に飛行機が突入したために起こった。頑丈なエンジンを止めたのは、じつは火山灰だったのである。
 火山灰は、ミクロン(一〇〇〇分の一ミリ)単位の、しかも鋭く硬い粒子の集まりである。そのため、レーダーでもとらえることができない。コックピット(操縦席)から肉眼で見ても、普通の雲と見分けがつきにくい。
 しかも、火山の噴火によって、ものすごいスピードで遠くまで広がっていく。火山灰をあらかじめ識別したり、上空での動きを迅速に察知するのは、容易なことではないという。この厄介な火山灰が大量にエンジンに入り込み、その機能を狂わせてしまったのである。
 現在、その被害を防ぐための対策が、さまざまに研究されている。目に見えない細かい粒子が、航空機の飛行にどれだけ大きな打撃を与えるか──。常識では考えられない事故が起きて初めて、その脅威が注目されたわけである。
10  小事が大事──絶対無事故へ意識革命を
 何ごとも、「小事」が「大事」である。私どもの日々の行動にあっても、小さなことを軽く考えてはならない。多くの事故も油断から起こっている。
 大聖人は、「しっかりした田のあぜであっても、蟻の大きさほどの小さな穴があったならば、たまっている水も必ずそこからもれて、ついにはなくなってしまう」と、道理を示してくださっている。(「なはて堅固なれども蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し」)
 また、大聖人は、「敵と申す者はわすれさせてねらふものなり」──敵というものは、(その存在を)忘れさせてねらうものである──と仰せである。
 ″小事″をおろそかにし、″危険″を忘れるところに、思わぬ事故が起きる。
11  ところで、エンジンが停止したジャンボ機は、一体、どうなったか。
 エンジンが止まると同時に、またたく間に高度はどんどん下がっていく。機長をはじめパイロットは、懸命に何度も何度も操作を試みた。
 ″なんとかエンジンが動き始めないか″──しかし、どうしても動かない。
 機長は、海に不時着することも覚悟しつつ、必死の挑戦を続けた。それは文字通り、全生命力を凝結させての真剣勝負であったにちがいない。
 その努力が実って、エンジン停止から十三分後、約七千メートルも落下して地上から四千メートル弱のところで、ついにエンジンの再スタートに成功。間一髪で危機を脱し、ジャカルタの空港に緊急着陸できたのである。
 エンジンが再び動き出した時の感動を、機長は、こう振り返っていた。
 「それは、生涯忘れることができない素晴らしいエンジン音でした。力強いパワーの炸裂でした」(前掲NHKスペシャル)
 多くの乗客の生命を預かる責任。大事故を避けられた安堵──。機長の心中は、いかばかりであったろうか。
12  人間も、本来の生命の「パワー」を妨げているのは、「一念」に入り込んだ小さな、目に見えない″灰″かもしれない。
 「信心」を侵す″見えざる雲″に入ってしまっては、幸福への本当の「パワー」は発揮できない。
 どこまでも妙法とともに進む、潔く、みずみずしい「信心」こそが、生命の「力強いパワー」を「炸裂」させるのである。
 ともあれ私どもは、絶対に無事故で進んでまいりたい。そのためにも一つ一つの活動、日々の行動に、責任をもって真剣に取り組んでいくことである。
 リーダーの皆さまの明快な指導・激励、そして真心の「祈り」が、会員の事故を未然に防いでいく。どうか、自他ともの「意識革命」に挑戦していただきたい。
13  最後に、再び御書を拝したい。
 「此れより後も・いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし、設ひ命に及ぶともすこしも・ひるむ事なかれ
 ──これから後も、いかなることがあろうとも、少しも(信心が)たゆんではならない。いよいよ強く(謗法を)責めていきなさい。たとえ命に及ぶことがあっても、少しもひるんではならない──。
 「いよいよ」の心に、大聖人の本因妙の仏法の魂がある。明年も、この「いよいよ」の心意気で、「無上の幸福」の大道を真っすぐに進んでいっていただきたい。
 年末年始、婦人部の方々は忙しい日が続くかと思うが、風邪などひかれませぬように、素晴らしいお正月をお迎えください。

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