Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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中部での語らい 「檀家制度」に宗門堕落の淵源

1992.12.17 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

前後
2  徳川幕府は、キリスト教を禁止し、民衆を支配するために、「檀家制度」を設けた。
 人々は、必ずどこかの寺院に所属し、寺に人別にんべつ(戸籍)を登録するという制度である。「寺請てらうけ制度」ともいい、寺院が発行する寺請証文(檀徒であることの証明書、戸籍謄本にあたる)がなければ、就職も、旅行もできず、生活できなかった。
 証文の発行を拒否されると「帳外ちょうはずれ」(宗門人別帳に記載されないこと)と差別され、それは、社会的な抹殺を意味した。″村八分″、ひいては「邪宗門」の疑いをかけられ、時には死に至るような過酷な追及が待っていた。
 このため、住職の権限は絶大となり、檀徒はひたすら僧侶に従属するしかなかった。檀家総代であっても、寺の行事に参詣しないときには、戸籍を抹消し、厳しく追及せよ、と定められていた。
 要するに檀家制度の本質は「寺院が権力の出先機関」になったことである。寺院そのものが権力化し、僧侶は「民衆の支配者」となった。民衆のために権力者と戦い抜かれた大聖人の御精神の対極が、この制度であった。
3  「僧侶による葬儀」が普及
 僧侶には、檀徒の死後、死相を見届け、檀徒に間違いないことを確認して、戒名を授け、引導を渡すことが義務づけられた。
 民衆からいえば、葬儀の際、所属する寺院の指図を受け、必ず僧侶を呼ばねばならなくなったということである。
 僧侶を呼ばなければ、キリシタンの疑いをかけられ、極刑に処される恐れすらあった。いまだに、一般に、葬儀には僧侶を呼び、引導を渡してもらうことが慣習化しているのは、江戸時代の檀家制度の名残なのである。
 こうした誤った旧習を打ち破って、仏法の本義にかなった友人葬・同志葬を、社会に定着させていくことが、現代の「宗教改革」となる。多くの識者も賛同の声を寄せている。
 葬儀そのものが、本来、仏法とも、成仏とも、無関係なのである。釈尊も、大聖人も、葬儀については、何も特別に説かれていない。
4  大聖人は、成仏についてこう仰せである。
 「いかにしても此の度此の経を能く信じて命終の時・千仏の迎いに預り霊山浄土に走りまいり自受法楽すべし、信心弱くして成仏ののびん時・某をうらみさせ給ふな
 ──なんとしても、このたびの人生では、この経をよく信じて、臨終の時は千仏の迎えを受け、霊山浄土へすみやかに参り、みずから法楽を受けるべきである。信心が弱くて成仏が延びた時に、私(大聖人)を恨んではなりません──と。
 「成仏」を決めるのは、あくまでも自分の「信心」である。僧侶によって、葬儀で成仏するのではない。
 葬儀は、「告別式」ともいうように、故人との別れの儀式である。広布の同志が真心から営む、友人葬・同志葬こそ、故人への最高の追善供養となろう。
 日顕宗が、葬儀に僧侶を呼ぶのが「伝統の化儀」であり、そうでなければ成仏できない、などと言っているのは、御書に照らして、全くのデタラメなのである。
 権力をかさに、民衆を威嚇し、供養を巻き上げた、江戸時代の悪僧たちと同じ手口である。民衆が賢明になって、二度とだまされてはならない。謗法の僧侶が回向すれば、故人は苦しみを増し、謗法に供養した家族は罰を受けるだけである。
5  布教なく、信行なく、供養貪る葬式仏教化
 また、徳川幕府は、法論は「自讃毀他じさんきた(自分の宗旨を褒め、他宗をけなすこと)」であると、禁止した。そのため、布教しなくなった仏教各派は、信徒をつなぎとめ、寺院を維持するために、葬儀の執行、年忌法要と塔婆供養の奨励、盆と彼岸の墓参りの徹底などを行った。
 僧侶は、法要のたびに信徒から供養を受け、裕福になっていった。民衆は、たび重なる僧侶への供養や、寺院の修復・増築のための布施などの負担に苦しんだ。
 今も残る、僧侶批判のことわざには、民衆の強い不満がこめられている。
 「坊主丸もうけ」「憎い坊主の布施好み」「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」「布施の分だけ経を読む」「経も読まずに布施を取る」「地獄の沙汰も金次第」などである。
 民衆は、僧侶から利用され、搾取される対象でしかなくなった。個人の信仰心は失われ、仏教各派とも、葬式と法事が専門の「葬式仏教」となり、葬式坊主となっていった。檀家制度の内実は仏教を利用した「経済的収奪」にあった。
6  宗門も、寛永十八年(一六四一年)に、三代将軍・徳川家光から朱印状を受けて、大石寺が本山として認められ、信徒の寺請(檀徒であることを証明すること)を実施している。大石寺門流は、それ以後、広宣流布への不惜の歩みを止め、葬儀や法事を行うのみの「葬式仏教」への道をたどっていった。
 檀信徒の多くも、信心を失った。自分で仏道修行するのではなく、何かあったら寺院へ行き、僧侶に頼んで拝んでもらうという、いわば″おすがり信仰″に堕落していった。
 現在でも、宗門の「教師必携」(住職クラスのテキスト)の中に、「病気平癒」「安産」「命名」「厄払い」「進学(合格)」「就職」「自動車(交通安全)」「旅行(安全)」「航海(安全)」等の祈念を受け付ける、と定めているのも、当時の名残である。
 「祈りとして叶わざるなし」の御本尊に、自分自身が祈念し、解決していくのが、大聖人の仏法の実践である。祈祷師に頼むように、僧侶に拝んでもらう信仰など、邪道でしかない。
 日顕宗の僧侶の、封建的な思考と体質が、江戸時代と少しも変わっていないところに、今回の、「宗門の問題」の大きな淵源があるといえよう。
 近世仏教研究の第一人者である圭室たまむろ文雄・明治大学教授は「聖教新聞」に次のような声を寄せておられる。
 「今回の(宗門の)問題は、日本宗教界の抱える問題が図らずも出てきたものと位置付けられよう。宗祖の教えを正しく継承し活性化させる中で、檀家制度の古い枠組みを打ち破って新しいシステムを生み出すための改革が、今回の問題の重要な側面であると考える」
7  中部の天地に刻まれた弘教の民衆史
 檀家制度が確立するにしたがって、僧侶は、不惜身命の折伏・弘教を、ますますやらなくなった。
 その一方で、信徒の勇敢な折伏によって、一時は、地域広布が大きく進んだケースが、いくつかあった。加賀(石川県)の金沢と、尾張(愛知県)も代表的な例である。いずれも″大中部″の地域である。
 金沢については、加賀・百万石の大名・前田家の江戸藩邸が、当時、江戸の下谷したやにあった常在院(今は常在寺)に近かった縁で、藩士が入信した。それが北陸への弘教の始まりであった。
 すなわち、江戸時代の初期、寛文三年(一六六三年)ごろに入信した福原次郎左衛門らが、金沢に帰って折伏に励み、主に下級武士の間に入信者が続出した。
 しかし当時、前田家の領内には、大石寺の末寺がなかった。そのため、入信者は、正式に改宗はできず、内得信仰に励んだのである。
 やがて、次々と「講」が結成された。自発的な信徒のみの組織である。僧侶がいなくても、折伏が進み、信心指導がなされた。
 六十四年後には、「御領国に於て数十年来累代信受数千人」(領国内において数十年来の代々の信者が数千人)と記されているように、信徒は数千人に達している。
 さらに、寛政三年(一七九一年)ごろには、「此時代には富士派信仰が各方面に亘りて一万二千人も在りしとか」といわれるほどであった。
 当時、金沢を中心に、一万人を超える信徒がいた、というのである。しかも、ほとんどの信徒は内得信仰だった。
8  金沢法難を見殺しにした宗門
 これだけ折伏が進むと、怨嫉が起こり、難が競わないはずがなかった。まして檀家制度のなかである。
 享保十一年(一七二六年)、前田藩は、″領内に末寺がない大石寺の信仰は、禁制の邪宗とまぎらわしく、宗門あらために不都合である″との理由で、信仰を禁止する触れを出している。
 その背後には、身延派の寺による策謀もあったようだ。すなわち″表向きは大石寺派を名乗りながら、幕府禁制の邪宗が信仰されている″といった悪意の中傷が、前田藩の役人に対してなされたのである。禁令に違反するものは、閉門へいもん(自宅に監禁する刑)や、入牢などの罪とされた。
 それ以後、投獄された者が五人、閉門にあった者が十四人にのぼり、取り調べを受け、信仰を圧迫された者も多かった。天明六年(一七八六年)には、竹内八右衛門が獄死している。
 当時の金沢の信徒たちは、僧侶が半ば放棄してしまった「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」との日興上人の御遺誡を、そのまま実践したのである。難にあいながらも、折伏の勢いは衰えず、その後、さらに多くの「講」が結成されている。
9  そのため、ようやく、宗門は、前田藩に、領内に末寺を設けることの許可を願い出たが、却下されている。幕府の寺社奉行に訴えることもできたが、願い出なかった。
 その理由について、日亨上人は、「自山(大石寺)の危険を案ずる」ためと、「金沢の多数の信徒の重刑に処せられん事」を心配したためであろう、と指摘されている。
 さまざまな事情があったにせよ、結局、大聖人、日興上人が権力と戦われた烈々たる御精神はそこにはなかった。
 孤立無援に陥った北陸信徒──熱烈な信仰も、次第に衰えていった。
 明治十二年(一八七九年)に、金沢に念願の寺院が設立された時には、わずかに「信徒八十余戸」に減少しており、開院式の供養に参加したのは百五十人たらずだった。
10  在家が悪侶清十郎の折伏行
 信徒による折伏は、尾張(愛知県)の名古屋と、その近在でも展開された。
 幕末に近い、文政五年(一八二二年)ごろ、江戸・目黒に住む信徒・永瀬清十郎が、尾張に布教したことが、その発端である。
 清十郎は、在家の信徒ながら、他宗との法論にも巧みであった。東北から尾張にいたる各地へ行って折伏に励んだ。そして有名な「砂村問答」では、日蓮宗一致派を打ち破っている。
 これについては、戸田先生も「砂村問答──清十郎の折伏記」として、「大白華」誌上で四回にわたって紹介された。
 当時の宗門には、清十郎のように、各地へ行って折伏・弘教に励み、正義を宣揚する、勇気ある僧侶はいなかったようである。
 清十郎の奮闘によって誕生した名古屋の″一粒種″は「高崎たよ」という婦人だった。婦人が婦人を折伏して、間もなく、女性だけで信徒の組織、すなわち「講」を結成する。尾張徳川家に仕えていた息子の高崎勝次、のちに折伏に立ち上がって「講」を組織し、名古屋の中心者となっている。
11  清十郎は、さらに名古屋の北在(現在の小牧市、犬山市、春日井市等)の各地で弘教し、舟橋儀左衛門、平松増右衛門、木全きまた右京、岩田利蔵などが、有力な信徒になった。
 彼らは、農民や町民だったが、学識があり、もと日蓮宗の信者だったので、仏法に関する素養もあった。正義に目覚めた彼らは折伏に励み、数多くの同志が、この地に誕生する。
 そのため、たちまち他宗から怨嫉され、訴えられ、迫害は前後四回、五十年にもわたった。その間、投獄され、拷問を受け、廃人のようにされた者も出たが、屈しなかった。
 反対に、彼らを教化しようとした日蓮宗の僧侶を破折し、正義を宣揚したのである。
 増右衛門と利蔵は、身延派の大光寺の老僧が、御書の講釈に名を借りて二人を教訓しようとしたのに対し、痛烈に反撃した。老僧は、二人の鋭い質問に返答できなくなり、ついに、を閉めて奥の間に逃げ込んでしまった。
12  その時の滑稽な様子を詠んだ狂歌が残っている。
  「ものしらぬ 大光寺まへ(大光寺の隠居) からかみを
  立るより外 立る義は無し」
 つねにいばっている傲慢な悪侶が、正義の信徒から筋道を立てて鋭く反論されると、返答できずに黙り込む──こうした醜態は、今の日顕宗が繰り返している姿である。(日顕宗を呵責した学会からの質問書等も、今まで一度として、まともに返答されたことはない)
 悪侶を描いた涅槃経の文に「唖法を受けたる婆羅門等の如し」──(悪侶は)無言の行をする婆羅門のように、誤りを責められると黙り込んでしまう──とある通りの姿である。
13  嘉永元年(一八四八年)には、日蓮宗各派の役寺七カ寺の高僧たちが、役人の立ち会いのもとで、増右衛門、利蔵、右京の三人を、教化・改宗させるための会合が、三回にわたって開かれた。
 利蔵を中心に三人は、高僧たちの邪義を、一つ一つ、明快に打ち破った。教化するはずの僧侶が、信徒の側から誤りを指摘され、しばしば詰まって閉口し、他の僧が信徒側の正義を認めるという、珍妙なものとなってしまった。
 大聖人から日興上人への二箇相承を肯定させ、波木井の謗法を認めさせるなど、信徒側の大勝利で終わったのである。
 日亨上人は「問答は富士信徒の勝利にして役寺側の悲惨の敗北で能化所化(教化する側とされる側)全く位置を転動(逆転)したること三人は面目を公場に施し七寺は恥辱を不朽に晒らすのみならず富士信仰は少しも邪義にあらず却つて日蓮宗中の正統正義なることを公吏(役人)に聞かしむるに帰した」(『尾張法難史』)と称賛されている。
 邪智・傲慢な高僧たちが、純真・賢明な正法の信徒に、惨めに打ち破られ、みずから、天下に恥を晒し、真実を証明する結果となったのである。
14  江戸時代を通じて各地で、合わせて百人近くの信徒が、権力による難にあっている。僧侶が折伏をして難にあったケースは、仙台法難の二人ぐらいしか見当たらない。権力に迎合して、保身を図っていた証左である。
 「信徒のための寺院・宗門」ではなく、「寺院・宗門のための信徒」という体質は、このようにして固まっていった。
15  「宗教革命」は日本人の「精神革命」
 日本人から「生きた宗教」を奪い、「精神的自立」を失わせたとされる檀家制度。「大石寺には、この遺物が″化石″としてではなく″生きた標本″として残っている」と驚く人もいる。
 ゆえに、この″権力化した宗教″の殻を打ち破る「宗教革命」こそ、日本の封建的な精神風土をも変革し、真実の「人間のための仏法」を広宣流布していく戦いである。
 広布破壊の日顕宗を倒すことが、大聖人の正義の「広宣流布」となる。
 日顕宗の「伝統」といっても、それは大聖人、日興上人と関係のない、むしろ正反対の、江戸時代以来の「伝統」であり、せいぜい三百五十年の「伝統」である。
 これに対し、私どもは、七百年前の大聖人に直結し、また日々、久遠の御本仏に直結して生きているのである。
 「仏法は勝負」である。私どもは、御本仏に包まれ、十方の諸仏・諸天に包まれて、いよいよ広布のため、世界の民衆のために、明年も楽しく、連続勝利の前進をしてまいりたい。

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