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日蓮大聖人・池田大作

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第六十回本部幹部会、第六回東京総会 世界へ!学会は「開かれた人間」の集い

1992.11.29 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

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1  崇高な行動の諸天の加護
 「晴天」の東京総会、おめでとう!。また全国の皆さま、お休みのところ本当にご苦労さまです。
 今朝は雨模様であった。「やっぱり、東京の集う日は雨だな」と思っていたら、だんだん太陽が照ってきた。
 東京の皆さんが、さぞ喜んでいるだろうなと思った。「いつも東京の信心は厳しく言われているが、きょうの晴天はどうだ!」との、誇らしい顔が目に浮かんだ。
  大東京
   遂に立ちたり
     獅子王の
   連戦連勝
     英雄そろいぬ
 本日の集いを記念し、この和歌を贈りたい。
2  悩める友、病気の友、疲れている友、まだ信心がよくわからないでいる人、退転しかかっている人──。皆さまは、こうした方々のために真剣に悩み、心から心配し、毎日毎日、面倒をみておられる。
 世間であれば、いやになって、見捨ててしまうのが普通かもしれない。皆さまの行動は、崇高である。これほど尊いことはない。法のため、人のため、広宣流布のために、苦労に苦労を重ねている皆さまこそ、真実の「仏の使い」であられる。大聖人の仏法を正しく実践する「行者」であられる。
 利己主義で、打算的な、人の不幸を喜ぶような時代──そのなかにあって、人々に尽くし抜く皆さま方を、大聖人が称賛されないわけがない。諸天善神が守らないわけがない。
 仏を「能忍のうにん」という。堪忍の世界である娑婆世界の現実を、「耐え抜いていける」のが仏の生命の一分である。すぐにグチをこぼしたり、逃げ出したり、批判ばかりするようでは、仏にはなれない。
 「法」のため、「平和」のため、「社会」のために働き抜いている皆さまほど、偉大な方々はいないのである。
 ともあれ、明年もまた、戦いの一年である。どうか、お一人お一人が勝って勝ち抜いていただきたい。
  この世にて
   楽しきことは
     いついつも
   勝利の旗を
     掲げ持つなり
 勝つ人生は「幸福」である。勝たなければ「幸福」はない。その意味を込めて、この和歌を贈りたい。
3  先日(十一月十四日)、東京牧口記念会館(東京・八王子市)の定礎式が、秋谷会長を中心に行われた。大東京を象徴する殿堂として、明年十月にオープンする予定である(大拍手)。
 また連日、聖教新聞で報道されたように、SGI(創価学会インタナショナル)の交流会議が、「文化」「教育」「学術」等、さまざまな角度から次々に発足している。
 私どもの活動は、地球的な「平和のネットワーク」「友情のスクラム」を、堂々と広げている。
 こうした姿を、だれよりも喜んでくださっているのは、「一閻浮提の仏法」を建立された日蓮大聖人、また日興上人であられる。さらに、一閻浮提の御座主・日目上人であられると確信する。
 そして牧口先生、戸田先生が、どれほどお喜びであろうか。
4  牧口初代会長──偏狭な「島国根性」を越えよ
 牧口先生が『人生地理学』を著されたのは、三十二歳のことであった。この青年時代の大著で、先生が一貫して追究されたテーマは何であったか──。
 それは「″開かれた人間″を作りたい」という一点であった。人間主義に徹するべきであるとの信念であられた。
 ゆえに牧口先生は、″閉ざされた人間″を作る日本の悪しき「島国根性」とは、厳しく戦われた。
 ──三、四日ほど前、ブラジルに行っている女子部の方からお手紙をいただいた。こんな意味のことを、つづっておられた。
 「本当に日本の国は小さくて、島国根性が根深くて、やりきれません。世界的スケールの池田先生を理解できず、つまらない批判ばかりするのもよくわかります。こうして大陸に住んでみて、日本の小ささ、卑しさを身にしみて感じました」と。
 海外から見て初めて、自国のことがよくわかった──。そういうものかもしれない。
5  『人生地理学』で牧口先生は、「島国根性」の特徴を、わかりやすく論じておられる。
 (1)「度量どりょう狭隘きょうあいなる」こと。心が狭く、他人の意見を受け入れない、と。
 学会の幹部も、他人の意見や不満を、ともかく「よく聞く」ことが大切である。自分ばかりしゃべらないで、じっくり聞いてあげることである。相手の言うことに、じっと耳を傾ける。聞いてあげるだけで、相手がすっきりする場合も多い。
 (2)「自負心に富む」うぬぼれが強いのも島国根性の特徴である。たいしたこともないのに、すぐ、いばりたがる。
 (3)「小成しょうせいに安んずる」小さな成功で満足し、″井の中のかわず″になりがちである。
 (4)「偏僻へんぺき的」──心が偏り、ねじけており、「孤動こどう的」──自分勝手、独りよがりに行動する。
 (5)「驥足きそく緊束きんそく」する。驥足とは駿馬しゅんめ(優れた馬)の足の意味で、転じて才能の優れた人のことをいう。緊束とは縛ることである。つまり、優れた人物の足を引っ張り、おとしめようとすることが島国根性の特徴である。
 (6)「偸安とうあんいやしく」する。偸安とは目先の安楽のことである。一時の安逸を貪る。一時のがれをする。
 二十年、三十年、五十年先のことなど考えない。まして自分の死後のことなど思いも及ばず、ひたすら目先の安逸にふける──。どこかの宗門によく似ている。
 (7)「蝸牛角上かぎゅうかくじょう小争しょうそう」をなす。蝸牛かたつむりの角の上のように、小さい問題のために、つまらない争いをする。大局を見ることができない。
 (8)「外人に対しては、一方に自負し尊大なるかと思えば、内実ひそかに狐疑こぎし、恐怖」する。たしかに、経済大国との意識からか、日本人の尊大な態度は海外でひんしゅくを買うことが多いようである。
 その一方、言葉のカベも手伝って、相手の心がつかめず、内心では外国人との触れ合いを恐れ、ためらっている。また物事の考え方などで相手の次元についていけず、表面では合わせながら、裏ではキツネのように、ずるく不誠実きわまる裏切りをしている場合すらある。
 ──これらの特徴は、驚くほど今の宗門とも一致している。「島国根性」の最悪の例である。
6  こうした点を、牧口先生は九十年も前に指摘されている。まことに鋭い先生であられた。牧口門下の諸先生方、頑張ってください。
 戸田門下生のなかにも、いろいろいた。退転したり、学会に反逆していった人間もいた。彼らは、「俺は戸田先生の弟子だ」と名のりながら、戸田先生がいなくなると、今度は「池田さんの弟子ではない」などと、自分勝手な理屈をつけて広布の戦線から去っていった。
 「戸田先生の弟子」というならば、同志とともに、弟子の精神を全うして、「広宣流布」に命がけで進んでこそ「本当の弟子」であろう。
 自分が「退転する理由」に師匠を利用すること自体、戸田先生への重大な裏切りではないか。
 私は戸田門下生として、広布のため、学会のために、だれよりも戦い、勝ってきた。師弟の道、正義の道を貫いてきた。
7  大聖人は、日本の国を「一闡提いっせんだいの生み広げた国」と仰せである。「一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき彼等がうみひろ生広げて今の世の日本国の一切衆生となれるなり」と。
 また、「此の日本国は大海の中の小島なり」と。
 さらに、当時の日本の最高権力者についても「わづかの小島のぬしら主等」──わずかな小さい島の主ら──、「但嶋の長」──わずかの島の長──と述べられている。
 権力者といえども、世界から見れば微々たる存在である。いわんや梵天・帝釈、宇宙全体から見れば、まったく取るに足らない存在である。日本など小さな島ではないか。世界を見よ、宇宙を見よ──こうした偉大なる御境界で、大聖人は、権力を悠然と見おろしておられた。
 本来、大聖人の仏法は、「島国根性」とは、まったく正反対なのである。これが私どもの誇りである。
8  気宇壮大な「海国」へ、「開かれた人間」たれ
 ところで牧口先生は、この「島国」に対するものとして、「海国」(海洋国)という言葉を使われた。「海国」とは、はるか広大なる大海を見晴らし、活発に世界と交流しゆく「開かれた国」のことである。
 まさに、今の学会の姿そのものである。″大交流時代″──素晴らしい時代の到来である。
 この「海国」にとって、海とは行動を束縛する障害ではなく、「世界の公道」「人類の道路」である。いわんや無限の大空は、さらに自由な人間交流の航路であろう。
 牧口先生は、日本は今こそ「島国根性」を打ち破り、気宇壮大な「海国」にならねばならないと訴えられた。
 その牧口先生の仰せ通り、私どもは行動している。先生の示された壮大な道を、私はその通り進み、リードしている。
9  牧口先生は、何よりもまず人間の「品性」の向上が大切とされた。どんなに経済力があっても、語学力があっても、それだけでは「世界」には通用しない。一時はいいようでも、やがて相手にされなくなってしまう。
 「人間革命」というか、立派な「品性」「人格」が備わらなければ、本当の信用も、友情も生まれない。
 ここに、日本が国際的な孤立を乗り越え、世界に通ずる国になれるか否かの″カギ″がある。一人一人が「閉ざされた人間」から「開かれた人間」へと、精神革命する以外にない──。牧口先生は、このように主張された。
 一国、そして全世界の「精神革命」へと宣言された大聖人。その御精神に連なる牧口先生。その指針通りの行動を、私は貫いているつもりである。
 皆さまも、国内各地へ、そして世界へと、どんどん出かけていっていただきたい。
 もちろん、牧口先生が志向した道は、単なる海外渡航でもない。武力や経済力による侵略でもなかった。先生は、「人道的な共生」の時代を、いち早く展望されていた。
 「人格の力」「文化の風」「人道の光」で、人類に「納得」と「信頼」の対話を広げること。そこにしか恒久平和はないと、見抜かれていたのである。
 私どもは、「世界平和」「世界広宣流布」への道を、さらに堂々と進んでまいりたい。
10  ところで牧口先生は、「海国」の資質をもった人物として、幕末・明治の開明的知識人であった勝海舟(一八二三〜九九年)を挙げられている。明治維新の際、西郷隆盛と会見し、平穏なうちに江戸開城を実現し、江戸を戦火の危機から救ったことは有名である。
 海舟もまた、日本の「島国根性」を深く憂えていた一人である。当時の一般人とは、次元が合わなかった。彼は日清戦争に大反対するなど、日本の尊大ぶった侵略主義を批判している。
 近代日本の侵略主義の体質については、戸田先生も厳しく糾弾されていた。先生の出版事業でも、勝海舟を描いた本は非常に売れ行きがよかった。海舟は語っている。
 「日本人は五十になると、もうじきに隠居だとか何だとかいって、世の中を逃げ去る考えを起こすが、どうもあれでは仕方がないではないか」
 五十歳の方はいらっしゃいますか。どうか、お元気で、頑張ってください。
 平均寿命の延びから見ても、海舟当時の五十歳は、今でいえば、ずっと高齢となろう。今の五十歳は、まだまだ若い。
 また、海舟は島国の人間について、「とにかくその日のことよりほかは目につかなくって、五年十年さきはまるで暗やみ同様だ。それもひっきょう、度量こころが狭くって、思慮おもいに余裕がないからのことだよ」と。
 そして海舟は、このようなスケールの大きな句を詠んでいる。
 「雲の峰すぐに向こうは揚子江」──この雲のすぐ向こうは、揚子江じゃないか!──と。
 まだまだ「閉ざされた時代」にあって、一人のおおらかな江戸っ子が、「開かれた心」で世界を見つめていた。さっそうと先陣を切ろうと、世界を目指していた。この句は、牧口先生も『人生地理学』で紹介されている。
 大東京の皆さまも、どうか世界へ、未来へと開けゆく″広布の大交流時代″の先陣を切っていただきたい。
11  五百年前、大石寺は売られたことがあった
 日寛上人とともに、宗門の中興の祖と仰がれている日有上人(第九世)の教えは、「化儀抄けぎしょう」の他にも、折々の指南を記録した「聞き書き」が残されている。
 その中の「有師物語聴聞抄佳跡うしものがたりちょうもんしょうかせき」に、日有上人が全国に弘教されている留守の間に、大石寺が留守居の僧によって売られてしまったという記述がある。そのため六年間、謗法の山となり、日有上人が帰られて買い戻し、大聖人の正義を守られた、と。
 この事件について、日亨上人は、次のように話されている。
 「三人の代官(留守居の僧)がグルになって大石寺を売っちまったということが書いてある。それで日有上人が帰って、三人を追い払って、そして、ほかの代官をおいたなんていうことが書いてある」「自分が帰って、三十何貫文を出して、そして又もとに返してしまった。何でも二十貫文かそこらで売ったと書いてある」「寺にいる人(代官)がですね、自分の勝手な名義にしたのでしょう」──と。
 学会が、世界を舞台に身命を惜しまず折伏・弘教に励んでいる間に、大石寺が謗法の山と化していたのと似たことが、五百年前の日有上人の時代にも起こっていたのである。大石寺の私物化であり、極悪の″仏法の盗人″である。
12  日有上人は、みずから広く諸国を巡って、折伏・弘教し、大聖人・日興上人の正統の正義を宣揚された。
 その留守の間に、法主の代官を務める、阿闍梨号をもっていた高僧たちが、大石寺を私物化して謗法の山にしてしまったのである。しかし、日有上人の手によって悪侶たちは追放され、正法は厳護された。
 折伏・弘教を怠り、信心を失った僧侶が、名聞名利に走って仏法や寺院を私物化し、正法を破壊するのは、いつの時代も同じである。今や、日顕一派も、大石寺を「魔」の手に売り渡したといえよう。
 しかし、大石寺が謗法の魔山になろうとも、大聖人・日興上人に直結した創価学会がある限り、正法の広宣流布が断絶することは絶対にない。そして、日顕をはじめ悪侶たちが地獄へ追放されることは、御金言に照らして間違いない。
13  こうした風潮があったためか、日有上人は門下を厳しく誡められている。
 「高祖の御言には、王臣の御信用なからん程は卒都婆そとばの本・橋の下にても弘通すべし、一日片時も屋などに心安く有るべき事有まじき事なり、然る間・世事の福貴之有るべからず」
 ──大聖人の御言葉によれば、国主と臣下が正法を信じて広宣流布が達成されるまでは、塔婆の下、橋の下ででも弘教するべきである。一日、片時でも、家などでのんびりしているようなことがあっては決してならない。ゆえに、世俗の富や地位などを求めてはならない──と。
 大聖人の御言葉は″ただ広宣流布″と教えておられるではないか。身を惜しまず、折伏し、不幸な人々を救っていきなさい、これこそ大聖人の御遺言ではないか──僧侶に対する日有上人の厳しい誡めである。
 現実に、これを実践してきたのは、僧侶ではなく学会である。その「広宣流布の団体」を切り捨て、自分たちはただ富貴を求め、遊蕩にふける日顕宗。大聖人、日興上人、また日有上人からの厳しい御呵責は間違いない。
14  日有上人は「当宗も末世に成り候」と嘆き、再興
 日有上人は、仰せである。
 「代既に末世に成り候へば法界の機に引かれて当宗も末世に成り候、其の故は古よりも信心弱く成り候、其の上謗法罪の沙汰・事の外に緩く成り行き候、此れ即ち当宗の末世と覚え候、難儀至極なり」
 ──世も既に末世となったので、そうした世界の機根に引かれて我が宗も末世になってしまった。というのは、昔よりも信心が弱くなっている。その上、謗法の罪を責めることが、はなはだ、緩くなってきている。これは、すなわち、我が宗の末世であると思う。これ以上、苦しく大変なことはない──と。
 当時(日興上人滅後約百年)、既に信心が弱くなり、謗法厳誡の精神が緩んできたことを憂えられていたのである。日有上人が、今日の腐敗・堕落しきった宗門をご覧になれば、「まさに宗門の末世も極まれり」と嘆かれることであろう。
15  日有上人は、大聖人の仰せに基づいて、みずから折伏・弘教をし、教学を振興された。また、厳格に信心を指導され、堕落していた宗門を蘇生させ、再興された。
 創価学会も、大聖人直結の信心と実践によって、腐敗・堕落し、謗法にまみれた宗門を救い、未曽有の大興隆をもたらしたのである。
 日亨上人は、戸田先生に向かって「戸田さん、あんたがいなかったら、宗門はつぶれていたよ」と言われていた。
16  大聖人は天台座主の謗法を呵責
 正宗は学会によって正宗になったのである。現宗門は、学会を破門にしたことによって、再びもとの大謗法に転落した。学会を切ったと同時に、正宗としての命脈は断絶した。
 それは、ちょうど、伝教大師によって開創された「天台法華宗」が、座主ざす慈覚じかくが立てた「真言第一・法華第二」の邪義によって事実上、断絶し、それ以後は「天台真言宗」(天台密教)という邪宗になっていった姿に通じる。
 戸田先生も、こう指導されていた。
 「天台山において天台智者が立てられた仏法では法華経第一です。それを伝教大師が日本に伝えた。それを途中から、三代目の慈覚から真言宗を入れて、天台の教義を忘れたのです。だから、それをつらつら考えれば、身延などというのは、もともと何もないから忘れっこないけれども、日蓮正宗で忘れたら大変です。御開山上人、日目上人の流れをくみながら、その教えを間違ったら大変です」と。
 戸田先生が危惧されていた通りに、法主である日顕みずから、大聖人の正義を忘れて正法に背き、広布の断絶を図って、宗門を邪宗に転落させたのである。
17  大聖人は、六十編を超える御書のなかで、天台宗を堕落させた慈覚を厳しく呵責しておられる。その名を挙げられた個所は二百以上にのぼる。
 「師子の身の中の三虫」(慈覚に安然、慧心を加えて三虫)、「先師にそむく人」、「諸仏の讎敵しゅうてき」、「悪の導師」、「入阿鼻獄疑い無きなり」、「法の盗人」、「暗師なり愚人なり」、「謗法第一の人人」、「日本亡国の起り」──など。
 徹底した御呵責、また御呵責。この大聖人の御精神を拝して、私どももこれまで以上に日顕宗の邪悪を呵責し、責め抜いてまいりたい。
18  日淳上人「これからは学会による流通広布の時代」
 昭和三十一年(一九五六年)の年頭。日淳上人は、立宗七百年(昭和二十七年)以前を「宗門の護持の時代」とされ、それ以後を「流通広布の時代」と定義されている。そして「開宗七百年を転期として一大流布に入ったということは正法流布の上に深い約束があるのではないかと感ぜられる。これを思うにつけても創価学会の出現によって、もって起った仏縁に唯ならないものがあると思います」と述べられている。
 すなわち、宗門による「護持の時代」は終わりを告げ、仏縁深き学会による「広布の時代」に入った、とされているのである。
 また、日淳上人は「今や創価学会によって他門流はその誤りと邪悪を指摘されて大恐怖を来たしておるのでありまして、何んとか此れを防止して城を守ろうと躍起になっておる様であります」「大聖人の教を敝履へいり(破れたはきもの)の如く捨てて唯々その衣食の道を求むるは此れ全く畜生道であります。日興上人の御苦心今更ながらいよいよ胸を打つのを覚えます」と。
 当時の身延派などを破折された言葉だが、現在の日顕宗の姿に、なんと重なりあうことか。
 さらに「学会の聖業を讃して益々その功徳の厚からんことを祈念致します」と結ばれている。
 「学会の聖業」──このお言葉を深く拝したい。学会は、牧口先生、戸田先生以来、いささかも変わることなく、広布の「聖業」に進んできた。これからもまた同じである。「広布の時代」を全世界に開いている私どもが、ますますの功徳と福運に包まれゆくことは、間違いない。
19  戸田会長「仏様の弟子ならば仏様」
 日達上人は述べておられる。
 「我々は凡夫であるが、この凡夫が、南無妙法蓮華経を唱えることによって、即座に仏であると大聖人がお説きになった」「大聖人様は御本尊様です。今の末法の時代は、この御本尊に向って南無妙法蓮華経と我々が唱えるところに、すなわち御本尊即我々凡夫、凡夫即本尊、御本尊のご当体に一致するところに、即身成仏の境涯をみなければならないのであります」と。
 必ず、この身のままで仏となるのである。
 また、戸田先生は言われた。
 「われわれも聖人でもない仏でもない。しかし大聖人様の仰せどおり折伏しているのですから、大聖人様の弟子なのです。仏様の弟子なら仏様です」「かじ屋の弟子であるからかじ屋でしょう。魚屋の弟子だから魚屋でしょう。同じように仏様の弟子は仏様でしょう。うまくいってます」
 大聖人の仰せ通り、御本尊を信じ、唱題し、身命を惜しまず折伏・弘教に励む──その私どもは必ず「仏」となる。その大確信で進んでいただきたい。そして、悠々と、「御本仏の弟子」としての偉大なる力を発揮していただきたい。
20  そのうえで「生老病死」の悩みは当然、起きる。仏すら少病少悩は避けられない。時代の流れも激しい。時には体調を崩したり、思わぬケガをしたりする場合があるにちがいない。
 その時に大切なのは、「励まし」である。温かい「励まし」が、何よりの「薬」である。安心と勇気、希望と自信を与えていくことである。その「声」は「仏事」をなしている。
 何かあったとき、「そら見たことか」、「やっぱり」などと言わないで、むしろ、「あなたほどの信心強盛な人でも、病気になることがあるなんて。かえって私は安心したわ」というくらいの余裕の心で、心温まる同志愛の激励をお願いしたい。
21  学会は久遠の日蓮大聖人の直結
 大聖人は「曾谷殿御返事」におっしゃている。
 「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし
 ──法華経の大海の智の水を受けた根源の師を忘れ、よそへ心を移すならば、必ず生死に輪廻するわざわいとなるのである──。
 「根源の師」とは言うまでもなく、御本仏・日蓮大聖人であられる。大聖人以外に成仏の師を求める罪の大きさは、計り知れない。
 また、日達上人は、「我々の主師親はすなわち師匠は日蓮大聖人様だけである。みなさまは久遠の日蓮大聖人に直結している」と。
 大聖人の門下は「久遠の日蓮大聖人に直結」と、宗門の先師である日達上人が明確に述べられている。
 (日顕宗は″『大聖人と直結』と言うこと自体が誤り″と主張し、日顕に直結することを教えている)
 御本仏・日蓮大聖人を「根源の師」と仰ぎ、大聖人と「直結」している学会。先師(日達上人)の仰せを否定し、自分を「現代の大聖人様」「大御本尊と一体不二の尊体」と仰がせて悦に入る日顕。また、その日顕を「根源の師」と仰ぐ法華講。正邪は、あまりにも明らかである。
22  熱原法難──賞罰は明白、歴史は厳然
 ここで、弘安二年十月十七日、大聖人が熱原の法難の渦中、日興上人等に与えられた御書を拝したい。
 弘安二年十月十七日とは、いうまでもなく旧暦である。
 現在の新暦(太陽暦)と対照すると、一二七九年の、ちょうど十一月二十九日にあたる。すなわち、七百十三年前のきょうである。
 この日の夕方、急遽、大聖人のもとに、二日前(旧暦十月十五日)、熱原の農民門下が、幕府の権力者・平左衛門尉によって処刑されたという知らせが届いた。(神四郎以下三人が首を切られ、他の十七人が所を追われた)
 報告を受けられると、大聖人は即座に筆をとられた。それが、この「聖人等御返事」である。
 学会が、宗門から「破門通告書」を送りつけられたのも、一年前のきょうである。私どもは、この御書の深い意義を拝し、この日が、大聖人の真の弟子としての誉れの日であることを永遠に胸に刻んでいきたい。
23  大聖人は、このように仰せである。
 「今月十五日酉時御文同じき十七日酉時到来す、彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云、ひとえに只事に非ず定めて平金吾の身に十羅刹入り易りて法華経の行者を試みたもうか、例せば雪山童子・尸毘王等の如し将た又悪鬼其の身に入る者か
 ──今月十五日の酉時とりのとき(午後六時ごろ)に出されたお手紙は、十七日の同じ酉時に(大聖人のもとへ)到着した。彼ら(熱原の門下)が処罰を受けた時、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えたとのこと、これは、まったくただごとではない。
 きっと平左衛門尉の身に十羅刹女じゅうらせつにょが入り代わって、法華経の行者を試したのであろうか。(大鬼となった帝釈に求道心を試された)雪山童子や(鷹となった帝釈に求道心を試された)尸毘王しびおうの例と同じである。あるいはまた、(平左衛門尉は)悪鬼がその身に入った者であろうか──と。
 「釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝等・五五百歳の法華経の行者を守護す可きの御誓は是なり、大論に云く能く毒を変じて薬と為す、天台云く毒を変じて薬と為す云云、妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞罰有らんか
 ──(いずれにせよ)釈仏、多宝仏、十方の諸仏、梵天、帝釈等が、(末法のはじめの)「第五の五百年」の法華経の行者を守護するとの御誓いは、このことである。大論(『大智度論』。竜樹の著とされ)には、「よく毒を変じて薬とする」とある。また天台大師は「毒を変じて薬とする」等と。妙の法門がうそでなければ、必ずすぐに賞罰がはっきりするであろう──と。
24  大聖人は、身命を賭して不退転を貫いた熱原の人々を心からたたえられ、大難をも、その信心を試す仏天の御計らいと仰せである。
 表面の姿だけを見れば、三烈士は″切られ″て敗北したように見えるかもしれない。しかし、仏の眼から見れば、正法ゆえに迫害を受けた人こそが、永遠の勝利者なのである。
 悪鬼入其身の宗門から破門されて一年──。
 学会は、悠々たる「信心」で、この御書の通りに、すべてを大きく「変毒為薬」し、最高に充実した年輪を刻んだ。すべては皆さまのお力である。本当に、ありがとう!
 反対に皆さま方をいじめ苦しめた「魂の虐殺者」である日顕らに、どのような現証が現れているか。この一年だけでも、すでに凶瑞が現れている。妙法の厳粛なる賞罰は、これから一段と明白になるであろう。
 (永仁元年<一二九三年>、平左衛門尉頼綱は、長男・宗綱の讒言ざんげんにより、三烈士を処刑した自邸で、次男・資宗すけむねとともに誅殺ちゅうさつされ、密告した宗綱も、その後、佐渡に流罪された。日興上人は、熱原法難から十四年後に、頼綱・資宗父子が、謀反の罪で滅びたことを「法華の現罰を蒙れり」(『本尊分与帳』)と厳然と記録されている。
 また日寛上人は、頼綱滅亡の原因を「遠くは蓮師れんし<大聖人>打擲ちょうちゃく大科たいかり、近くは熱原の殺害に由るなり」<『撰時抄文段』>と明かされている)
25  ″裁判に訴えよ″と大聖人が仰せ
 続けて、大聖人は、こう仰せである。
 「伯耆房等深く此の旨を存じて問注を遂ぐ可し、平金吾に申す可き様は文永の御勘気の時聖人の仰せ忘れ給うか、其のわざわい未だ畢らず重ねて十羅刹の罰を招き取るか、最後に申し付けよ
 ──伯耆房(日興上人)等は、深くこの趣旨を心得て、裁判に訴えなさい。そして、平左衛門尉に次のように言いなさい。
 「文永(八年)の御勘気(竜の口の法難)の時の日蓮大聖人の仰せ(大聖人を理不尽な罪に陥れるならば、必ずや自界逆難や他国侵難が起こるとの諫言)を忘れられたのか。(謗法の罪を犯して)その報いがまだ終わっていないのに、重ねて十羅刹の罰を招き寄せられるのか」と最後に言い渡しなさい──と。
 「我が弟子よ、公の場で堂々と悪を呵責せよ!」「追撃の手をゆるめるな!」との仰せである。私どもの闘争は、どこまでも大聖人の仰せ通りに進めている。ゆえに、勝利に次ぐ勝利は間違いないことを確信していただきたい。
26  最後に、この御手紙の追伸で、大聖人は、こう仰せである。
 「各にはおづる事なかれ、つよりもてゆかば定めて子細いできぬとおぼふるなり
 ──あなた方は恐れてはならない。いよいよ強く進んでいくならば、必ず何らかの現証が現れると思われる──と。
 大聖人の御言葉を確信し、来年も一緒に「信心の英雄」、また「広宣流布の英雄」として仲良く前進しましょう! 闘争しましょう!
 本当に東京が元気でうれしい。私も東京の一員です。
 きょうは休日のところ、本当にご苦労さま。全国の皆さんも、カゼをひかれませんように。来月、また元気でお会いしましょう。ありがとう!

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