Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第四回第二東京総会 学会の勝利は「諸仏加護」の証明

1992.11.2 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

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2  人生の目的は何か。それは幸福である。仏法の目的は何か。それも幸福である。信心の目的も、教育の目的も、すべて「幸福」にある。
 そして幸福には「相対的幸福」と「絶対的幸福」がある。お金があるから、健康であるから、地位があるから幸福──というだけでは、それらがなくなれば不幸を感ずる。
 絶対的幸福は、何がなかろうと、また何があろうとも、「生きていること自体が楽しい」という自分自身の境涯にある。この不動の自分自身を確立するための信心である。「絶対的幸福」は、広宣流布へと進みゆく大闘争の中に厳然と築かれていく。
3  撰時抄「正法の強敵は持戒有智の大僧」
 創価学会はすべて「御書根本」に「日蓮大聖人直結」で進んでいる。大切な総会でもあり、幾つかの御書を拝しておきたい。
 ″時にかなった修行″を教えられた「撰時抄」。その結論は何であられたか──。それは、「僣聖増上慢」との戦いであった。″高僧のふりをした仏敵″との大闘争である。
 彼らについて大聖人は仰せである。
 「正法の強敵と申すは悪王悪臣よりも外道魔王よりも破戒の僧侶よりも、持戒有智の大僧の中に大謗法の人あるべし
 ──「正法の強敵」というのは、悪い王や悪い臣下よりも、外道や魔王よりも、破戒の僧よりも、持戒・有智の大僧(高位の僧)の中に、大謗法の人がいるのである──。
 「持戒の僧」とは、今の状況でいえば、末法の唯一の戒である「御本尊受持」という戒を形の上で持った僧──すなわち、形式的にせよ御本尊を持った僧のことであり、その僧に「大謗法の人」がいると。しかも「智者」と思われている高僧のなかにいるとの御断言である。まったく現在の日顕宗の姿に合致している。この「大謗法の僧」と戦う──それが「撰時抄」の結論であられた。
4  また同抄の末文で、大聖人は述べられている。
 「本国にして此の法門を立てんは大事なるべし云云。霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等・梵釈ぼんしゃく・日月・四天等・冥に加し顕に助け給はずば一時一日も安穏なるべしや。
 ──日本の国で、この法門を広宣流布しゆくのは、大変な難事である。
 霊山浄土の教主釈尊、宝浄世界の多宝仏、十方分身の諸仏、地涌千界の菩薩等、梵天・帝釈・日天・月天・四天王等が、陰から(目に見えないかたちで)加護され、また表に立って(はっきりとわかるように)、(法華経の行者を)助けられなかったならば、(行者は)一時一日も安穏であろうか、(否、安穏のはずがない)──と。
 これほどの「大謗法の僧」と戦っていくのだから、諸仏・諸天の加護がなければ、「一時」も「一日」も安穏であるはずがない、との仰せである。
 学会は、大聖人の正法正義を、いちばん正しく実践している「広布の行者」の集いである。その学会を破門した日顕宗は、御書に照らして、明らかな「広布の敵」「大聖人の敵」である。
 ただでさえ難事である広宣流布。しかし、破門されてからでさえも、「一時」「一日」どころか、一年間、学会は全く微動だにしていない。
 学会が勝利につぐ勝利を重ねている姿は、この御書に照らして、諸仏・諸菩薩・諸天が、そして大聖人、日興上人が、厳として加護してくださっている証拠である。
5  謗法を対治してこそ祈りは叶う
 さらに、大聖人は仰せである。
 「速に謗法の者を治す可し若し爾らずんば無尽の祈請きしょう有りと雖も災難を留む可からざるなり
 ──すみやかに謗法の者を対治たいじしなさい。もし、そうしなければ無量の祈りがあっても、災難はとまらない(祈りはかなわない)──と。
 どんなに祈っても、謗法を対治しなければ、不幸は克服できず、祈りはかなわない。これが御書の仰せである。ゆえに、私どもは、謗法の日顕宗を対治するまで、断じて戦いぬいてまいりたい。
6  このあと大聖人は、「謗法の僧を厳しく対治することは罪になるか」との問いを設けられ、「当に苦治すべし尚罪有ること無けん」──(在家の者等は悪侶を)必ず厳しく対治しなさい。まったく罪などない──と経文(涅槃経)を引いて明快に断言されている。
 「苦治」すなわち仏敵が苦しむほど厳しく対治してこそ、祈りはかなう。泥を捨ててこそ、清水が飲める。雲を払ってこそ、太陽の光を浴びられる。ガンは切除してこそ、薬も効き、健康体になる。
 極悪は、徹底して″強く″責めねばならない。この御文に照らして″責めすぎる″などということはない。大聖人は、邪悪の僧を由比ケ浜に並べて斬首せよ、とまで仰せである。(「彼等が頸をゆひ由比はまにて切らずば日本国必ずほろぶべし」)
 当時の武家社会に即して厳しい表現になっているが、いわんとするところはその烈々たる謗法呵責の御精神をにある。それを深く拝するがゆえに、今、学会も、日顕宗を責めぬいている。
 ゆえに、功徳もいやまして大きく、早く出ている。これが仏法の不思議なる力用なのである。
7  「狗犬の僧」──″こっそり供養を貪る僧″のことを大聖人はこう仰せである。
 「供養」を、法のため、大聖人のため、「広宣流布」のため以外に使う僧侶は、「犬」であり畜生であると。
 さらに「是は未来には牛頭と云う鬼となるべし」──これは未来に牛の頭をした牛頭という鬼となる──と。人間ではなく卑しい餓鬼道に生まれる、というのである。
 また「こっそり」でなくとも、″堂々と″供養を受けながら、それを横領する僧は、どうなるか。
 「是は未来には馬頭と云う鬼となり候」──この僧は未来、馬の頭をした馬頭という鬼となる──と。
 未来に「鬼」となるということは、現在、かたちは「人」でも、生命は「鬼」ということである。
 どんなに偉そうに振る舞って、聖人ぶっても、正法破壊の彼らの本質は、「餓鬼」なのであり、さらには「地獄」の命なのである。
 反対に、ひとすじに「広宣流布」に生きゆく学会員は三世永遠に大功徳の人である。
 大聖人は、正しき信心の人は「釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」と仰せである。
8  「仏敵」と戦えば「仏の味方」
 また四条金吾へのお手紙には、こう仰せである。
 「法華経の御かたきをば大慈大悲の菩薩も供養すれば必ず無間地獄に堕つ、五逆の罪人も彼を怨とすれば必ず人天に生を受く
 ──法華経の敵に供養すれば、どんな大慈大悲の菩薩であっても、必ず無間地獄に堕ちる。反対に、五逆罪の罪人であっても、その仏敵と戦えば、必ず人界・天界に生を受ける──と。
 「大慈大悲の菩薩」であっても、地獄に堕ちる罪──これが「仏敵を供養する」罪である。反対に仏敵と戦えば、大罪の人でも「幸福」になる。
 仏法はどこまでも仏と魔との「戦い」であり「勝負」である。感情論ではない。仏敵と戦わなければ、その人は仏敵であり、戦えば仏の味方である。中間はない。これが御本仏の仰せである。
 毎日、皆さまのご多幸、ご長寿、ご健康、そして無事故を祈っています。特に、交通事故には気をつけて、車を運転する方は、狭い路地など、くれぐれも安全運転を心がけてください。
 以上で、祝福のスピーチを終わります。総会、本当におめでとう。お会いできなかった方に、くれぐれもよろしくお伝えください。

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