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日蓮大聖人・池田大作

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関西最高会議 「日興遺誡置文」の実践者は学会

1992.10.24 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

前後
2  日本人は「島国根性」といわれる。
 ある識者も「日本には大人物が現れない。現れたときも、すぐに叩きつぶそうとする」と指摘している。
 この傾向性について、「古生物学」から論じた説がある。
 古い化石などを調べると、地殻の変動などで、大陸から切り離され、「島」に閉じ込められた動物は、体の大きさが平均化しているというのである。
 狭い島のなかで、世代を重ねるにつれて、体のサイズが変わっていく。つまり「大きい動物は小さく、小さい動物は大きくなる」。これを「島の規則」と言う、と。
 たとえば、ゾウは、どんどん小さくなり、ついには高さ一メートル、子牛ほどになってしまった化石が発見されている。
 島では食糧も少ないし、「大きな敵」も少ない。ミニサイズならば、食べ物も少なくてすむし、体に無理がない。そこで、ゾウやカバ、シカ、ナマケモノなどは、小型化していった。
 一方、ネズミは大きくなり、ネコくらいになった。なぜか。島には、ミニサイズの敵しかいなくなり、小さく隠れている必要が減っている。また、小さいと、体に栄養を蓄えられず、しょっちゅう食べてばかりいないといけない。餌が少しの間でも見つからないと、すぐに飢えてしまう。だから「普通の大きさ」へと大きくなる。
 こうして島では「大きい動物は小さく、小さい動物は大きく」平均化してしまう。
 この生物学の法則は、島国・日本で「大人物・大思想が生まれにくく、一方、庶民のレベルは高い」といわれる″平均化現象″に当てはまると、ある学者は言う。
 ともあれ、大聖人は日本の国主をも「わづかの小島のぬしら主等」、「但嶋の長」と仰せである。
 ″狭い″日本の社会には収まりきらないのが、スケールの大きな大聖人の仏法なのである。その正統の教団である創価学会もまた、「世界」が本舞台である。
 今や、全世界が、一つの大陸となりつつある。いよいよ、学会の気宇壮大な持ち味を発揮して、本格的に世界広布に進むべき″時″が来たのである。「人格」もまた世界に通用するものへと成長しなければならない。
3  二十六箇条の一箇条でも侵せば門下ではない
 日蓮大聖人の正統である日興上人門流が守るべき「規範」は何か。
 それは、言うまでもなく、元弘三年(一三三三年)正月十三日、日興上人が記し残された遺誡置文ゆいかいおきもんである。八十八歳、御遷化ごせんげの一カ月前の御訓誡ごくんかいであった。
 では、「何のため」に筆を執られたのか。
 序文には「後学の為に条目を筆端に染むる事、ひとえに広宣流布の金言を仰がんが為なり」──後代の門下のために、二十六箇の条目を書き記したことは、ただひとえに、(大聖人の)「広宣流布」の金言を仰ぐためである──と。
 さらに、結びの文には「万年救護の為に二十六箇条を置く」──万年の未来にわたり、一切衆生を救い護るために、二十六箇条を定めて置く──と示されている。
 日興上人の御胸中には、大聖人の御遺命たる広宣流布を実現して、すべての民衆を救わんとの大願が、御遷化のその時まで、赫々と燃えておられた。ここに日蓮大聖人の仏法の本来の「魂」がある。
 また、結びには「此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず」──この(二十六箇条の)うち一箇条でも犯す者は、日興の門流ではない──と厳誡げんかいされている。
 本来は「僧」に与えられた御遺誡であるが、創価学会は「地涌の菩薩」の自覚から、この御遺誡を厳格に実践してきた。
 戸田先生は、「若き身を 二六にろくおきて 胸にしめ 妙法のみちに 捨てよ命を」とまれ、青年に贈られた。
 「二六の掟」とは、二十六箇条の遺誡のことである。日興上人のいましめのごとく、不惜身命ふしゃくしんみょうで広布へ戦いゆけ、と青年を励まされたのである。
 次に、遺誡の各条目を概略、拝したい。
4  第一条「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事
 「富士の立義すなわち日興上人の門流の宗義は、いささかも先師・日蓮大聖人の御化導に相違していないこと」
 この条目が冒頭に置かれているところに、深き御心が拝される。「日蓮大聖人の御弘通」に「いささかも違わない」ことが、根本中の根本なのである。これこそ「日蓮大聖人直結」の文証である。ここに正宗の根源がある。今や、この御遺誡の実践者は創価学会しかない。
 日顕宗では、「大聖人に相違しない」ことではなく、「日顕に相違しない」ことを教えている。根本が狂っている。「いささかも」どころか、完全に違背している。その具体例は、皆さまがよくご存じの通りである。
5  第二条「五人の立義一一に先師の御弘通に違する事
 「五老僧の立てた宗義は、一つ一つ、すべて大聖人の御化導に相違していること」
 「師敵対」が「五老僧」の本質であり、日顕宗は五老僧の末流である。現代では、三宝義さんぽうぎの改変をはじめ「日顕宗の立義は、一一に宗開両祖の御弘通に違する事」と断ずるべきであろう。
 しかも五老僧は、日興上人の正義を、かえって″法門の異類を立てるもので、道を失っている″と非難した。みずから謗法に堕しながら、学会の正義を誹謗している点も、五老僧とそっくりである。
6  第三条「御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事
 「大聖人の御書を、いずれも偽書であるとして、当門流を誹謗する者があるであろう。もしも、そのような悪侶が出現したら、親しんではならない」
 大聖人が著されたものを「御書」と呼んで尊ばれたのは日興上人である。みずから御書を講義されるとともに、後世のために収集され、多くの写本も残された。
 「御書」を尊び、「御書」を根本にするのが、日興上人門下の基本中の基本である。
 五老僧は、大聖人の御手紙などを「仮名かなまじり」だからと蔑視し、日興上人が「御書」と尊称し、講義されたことを誹謗した。
 御書をしたためられた紙をすき返したり、焼き捨てるという暴挙にまで及んでいる。また自宗に不利な御書は「偽書」と決めつけて否定した。
 日亨上人は「此の御書を軽く見たといふことがたしかに聖祖(大聖人)違背である」と指摘されている。
7  学会は、日亨上人の編纂による『御書全集』を発刊して、「剣豪の修行」のごとき厳格な教学の研鑽に励んできた。
 「御書根本」こそ、日興上人の正統の門下としての学会の誇りである。
 日顕宗は「御書根本というのはわがままである」などという奇説を主張してまで、無理やり「貫首かんず(法主)根本」へと、正道をゆがめようとしている。
 後にみるように、「貫首根本」ということ自体、御遺誡への反逆なのである。そうした悪侶には親しんではならない、従ってはならないという条目である。
8  第四条「偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事
 「偽書を造って御書と称し、(それをタテに)本迹一致の修行をする者は、(仏法という)師子の身中から師子の肉を食べて滅ぼす虫であると思いなさい」
 今度は、都合のよい「偽書」を使って、本迹をわきまえない邪義を実践する悪侶が出る、と。
 戦前・戦中、宗門に「神本仏迹論しんぽんぶっしゃくろん」という邪義を唱える僧侶が出た。戦後もこの邪僧を強く責めるどころか、邪僧の罪をただした学会を処分したのである。
 (今も、日顕が本で、大聖人が迹などという転倒の「顕本仏迹論」に従っている僧俗が多数いる)
 五老僧と、その末流は、本迹の本義を知らず、日蓮大聖人を御本仏と仰ぐことができなかった。日興上人の法統ほうとうを継ぎながら、大聖人よりも日顕を「本」とする日顕宗は、「師子身中の虫」の最も悪質なものであろう。
9  第五条「謗法を呵責せずして遊戲雑談の化儀並に外書歌道を好む可からざる事
 「謗法を責める折伏行に励むこともなく、遊び戯(たわむ)れ、雑談し、また外道の書物や歌道を好んではならない」
 大聖人は「仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり」と仰せである。
 折伏もせず、御本尊への信徒の供養を横領して、酒色にふけり、贅沢三昧の「遊戯雑談」と、卑しい「成金趣味」に堕しているのが日顕宗である。このような僧を、「皮」は法師でも、「身」は畜生だと、大聖人が仰せなのである。
10  第六条「檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや、返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云
 「檀那(信徒)の神社・仏閣への参詣を禁ずるべきである。まして、僧侶の身でありながら、一見(見物)してみようといって、謗法をしている、悪鬼が乱入している寺や神社に行ってよいはずがない。(そのような僧侶がいることは)返す返すも残念なことである。これは、まったく私が勝手に言っているのではない。経文や御書などに説かれている通りに誡めているのである」
 創価学会が、この誡めの通り、「謗法厳誡げんかい」を貫いてきたことは、万人が知っている事実である。牧口先生は、そのために獄死までなされた。
 一方、宗門の謗法まみれの実態は次々と明らかにされている通りである。また禅寺の墓地に、法主が自家の墓を立て、開眼法要までして、破折もしないで、そのあと酒宴──。それほど、信心が狂っているのである。
 日亨上人が「外面にのみ謗法厳誡を立て内部には謗法認容の非行あらんことは物怪もっけ(ばけもの)なり」と言われているように、まさに妖怪ようかいなのである。
 戦後しばらくたってからも、末寺はもとより、本山にいたるまで、神札などの謗法があり、学会員によって謗法払いがなされた。草創期の方はよくご存じの通りである。
 謗法払いも、学会が僧侶に教えたのである。学会が存在しなければ、大聖人、日興上人の正統は守り伝えられなかったのである。
11  第七条「器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し閣き御抄以下の諸聖教を教学す可き事
 「才能のある弟子においては、師匠に仕えるための諸の用事をしなくてもよいようにし、御書をはじめとして教学を学ばせるべきである」
 「人材育成」「人材抜擢」の御精神である。権威主義の徒弟制度ではない。
 どこまでも、法のため、広布のために、本人の力を存分に発揮させ、活躍させていくことが大切である。
 (日顕宗では、所化しょけに対して、信心の指導はまったくなさず、「題目をあげすぎると弊害がある」などと指導していたのである。教学の真剣な学習の気風も少しもない)
 温かく″人を育てる″どころか、陰惨に絶対服従を強要し、旧軍隊のような暴力によるしごきによって、″人材を殺している″──御遺誡への違背の姿である。
12  第八条「学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事
 「(仏法の)学問がまだ完成していないのに、名聞や名利を考える僧侶は、私の末弟ではない」ろくに修行もせず、ただ尊敬されることを求め、利益を求める。こういう僧侶を、大聖人は「狗犬くけん(いぬ)の僧」とも「食法餓鬼じきほうがき(法を食いものにする餓鬼)」とも仰せである。
 日亨上人は、「寿量品の自我偈じがげの末文には、『何を以てか衆生をして速に仏に成ることを得せしめん』と仰せあるのは三世不休の本仏の大慈大悲である。
 然るに末世の賢僧達は『何を以てか我ふところをして速に成金なりきんたることを得せしめん』と三世不断に念願して居られるとのことを聞くは実か」と嘆かれている。
 日興上人が現宗門を「予が末流に叶う可からず」と、破門されていることは、事実のうえで、あまりにも明白である。
13  第九条「予が後代の徒衆等権実をわきまえざる間は父母師匠の恩を振り捨て出離証道の為に本寺に詣で学文す可き事
 「私(日興上人)の末弟たる者は、仏法の権教と実教の勝劣を知らない間は、(世間の)父母や師匠の恩を振り捨てて、仏法を証得し、生死の苦しみから出で離れるために、本山に登って学問をすべきである」
 本山に登るのは、「生死」を見つめ、「生死」を離れるため、仏道を成ずるためである。仏道修行ひとすじに、世間の絆を断ち切って、「学文」に専心するためである。正しき「信心」を学ぶためである。
 今の本山は、その正反対に、「世間」以上に俗世間である。妻帯もし、厳しき「学文」もない。差別主義と暴力主義で、所化さんの信心をも破壊し、悪侶を養成する場となってしまった。
14  第十条「義道の落居無くして天台の学文す可からざる事
 「大聖人の正法を会得せずして、天台の法門を学んではならない」
 大聖人の「事」の仏法に対して、天台の法門は「理」である。事と理の法門の間に、天地の勝劣があることがわからず、「天台沙門しゃもん」と名乗ったのが五老僧であった。
 大聖人の仏法を深く学ばないうちに天台の法門に入ると、そちらに引きずられ、正しい信心を失ってしまう危険がある。
 こうした遺誡にもかかわらず、本山では御書を徹底して学びもせずに、天台の教学を中途半端に教えたりしている。
 (例年、本山で行われる教師講習会の教材は、天台の三大部。しかも「講義を聞いていても、さっぱりわからない」と、不評であった。御書を真剣に学ぼうとせず、天台の法門にとらわれていること自体、日興上人の御遺誡に違背している)
15  第十一条「当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事
 「当門流においては、御書を心肝に染め、極理を師から受け伝えて、そのうえで、もし暇があるならば、天台の法門を学ぶべきである」
 日淳上人は、この条目について、当時、天台の教学を中心として大聖人の教学に臨む風潮があったことへの誡めであるとされ、「聖人(大聖人)の教義は徹頭徹尾聖人の御書によって決定されねばならない」と仰せである。
 (しかし「御書根本」どころか、ある青年僧侶によると、所化時代に御書を学んだのは、一年間で八時間程度、一カ月にすると一時間もなかったという。
 そのため、僧侶の教学力はお粗末そのものであり、学会の任用試験を受けても、住職クラスの大半は合格できないだろう、とさえ言われている。御書をまともに拝読できない住職が多いという、婦人部からの指摘も多い。
 そのうえ、日顕の御書講義は、いたずらに難解さを気どるばかりで、大聖人の御精神をまったく伝えていないことで有名である。要するに、法主という「権威」の誇示のために御書を利用しているにすぎない)
16  日興上人は、御書を「心肝に染めよ」「極理を師伝せよ」と仰せである。
 日顕宗では、御書の一文一句たりとも「心肝に染めて」はいない。
 また大聖人、日興上人への「師弟の道」、宗門の先師への「師弟の道」も完全に踏みにじっている。「師敵対」そのものである。
17  第十二条「論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事
 「(仏法についての)論議や、(正法の)講義、説法を好むべきであり、それ以外のものは慎まねばならない」
 つねに仏道を求め、行学に励み、広宣流布にまい進せよとの誡めと拝される。
 しかし、日顕宗のだれが、正法についての、まじめな論議や講説を「好んで」いるであろうか。
 (離脱した僧侶の証言によると、宗門の僧侶同士の会話といえば、″金儲け″と″遊び″の情報交換でしかなく、果ては″信徒いじめ″″信徒利用″を陰で謀議しているのが実態である)
 弘教もせず、仏法を語り合うこともない、醜い「食法餓鬼じきほうがき」の集団。それが現宗門であり、日興上人の御遺誡に、完全に違背している。
18  第十三条「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事
 「広宣流布が成就しない間は、身命を捨て、力の限り妙法を弘めるべきである」
 日亨上人が、この条目を「万代法則」「重要永遠的の第一法則」とされたように、この御遺誡こそ、二十六箇条のなかで、最も重要な、中心となる″永遠の規範″である。
 また、日達上人は「令法久住のために死身弘法をもって、仏法を守護し、戒壇の大御本尊様を護持し、そして折伏をしておるのは学会であります。また、あらゆる謗法の難を破折し、六難九易を身をもって行ない、末法の広宣流布を実現しておるのも学会であります」と述べられた。
 この条目を実践しているのは学会なのである。創価学会の歴史は、この御遺誡を文字通りに実践してきた、″黄金の軌跡″である。
 学会は「広宣流布第一」。日顕宗はつねに「保身第一」であり、広布の前進の足を引っ張ってきた。
 どこに「不惜身命」の弘教があるだろうか。
 それどころか遊蕩三昧にふけり、あまつさえ学会を破壊し、広宣流布を断絶させようとしている。正法の敵である。日興上人の敵である。
 この仏敵を倒さずして正法の「広宣流布」はない。ゆえに御遺誡通り、身命を捨てて責め続けねばならない。その人に大功徳がある。
19  第十四条「身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事
 「我が身は軽く法は重しとする仏法実践者に対しては、たとえ下劣の法師であっても、まさに仏を敬うごとくにすべきであるとの道理にのっとって、その人を信じ敬うべきである」
 ここから三箇条は、信(第十四条)・行(第十五条)・学(第十六条)に配される。
 この三箇条を通して、日興上人は、信心は「実力主義」「実践主義」であり、外面的な地位や立場ではなく、現実に法を弘め、広布にまい進する人をこそ尊敬すべきであると教えられたのである。
 この第十四条は、身命を惜しまず弘教に励む人を、仏のごとく尊敬せよとの誡めである。
 かつて学会の、ある婦人が折伏している姿を映し出し、冷笑の的にしているテレビ番組があった。
 これをご覧になった日達上人は、感激して涙を流し、頭を下げたと述べられ、それは″まずしきこの一婦人が即ち立派な衆生救済の仏であることを認めたからであります″と称賛された。
 また日達上人は「提婆達多が、身口意の三業そろって大悪心をもって長い間仏を苦しめたよりも、末法の法華経の行者、すなわち大聖人の仏法を信心する我々に対して、悪口を言い、そして又、妨害する人の罪は実に大きなもの」と述べられている。
 「身軽法重の行者」とは、学会員である。学会員以外にだれがあるであろうか。その尊き学会員を蔑視し、陥れようとする悪侶の罪は、提婆達多よりも、はるかに重いのである。
20  第十五条「弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事
 「妙法を弘める法師は、身分の低い者であっても、(修行を積んだ)老僧のごとく思って敬うべきである」
 離脱した僧侶の証言からも明らかなように、宗門は、異常なほどに上下の差別が厳しい。地位が下であったり、後輩であっても、信心、実践に優れた人を尊敬せよという御遺誡とは、最もかけ離れた世界である。
 学会では、入信の新しい人であっても、逞しく実践に励む人を大切にし、その成長を願って、指導、育成を図ってきた。だからこそ、陸続と広布の人材、後継の青年が育っているのである。
 また、「弘通の人」とは学会である。日顕宗は、その学会を見下しきって破門したのである。
21  第十六条「下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事
 「位の低い者であっても、自分より智慧がすぐれている人を、師匠と仰いで仏法を学ぶべきである」
 雪山童子は卑しき鬼神を師として法を学んだ。ここに仏法の「求法」の心がある。
 これも、権威と差別に支配された日顕宗には、まったくない。
 学会は、社会的な立場や職業、年齢に関係なく、互いに学び合い、支え合う求道、求法の″創価家族″の世界である。
 そのうえで先輩は後輩を、自分以上の人材に育てようと責任感に燃えて、育成にあたっている。平等であり、実力主義であり、「法」が根本である。
22  第十七条「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事
 「たとえ、時の貫首(法主)であっても、仏法の正義に背いて、勝手な自説を立てた場合には、これを用いてはならない」
 日興上人は、仏法を破壊する破法の法主には、絶対に従ってはならないと誡められている。
 この条目が二十六箇条の中に入れられていること自体、日興上人は「法主は無謬むびゅう(誤りがない)」などと思っておられなかったという明らかな証拠である。それどころか日興上人は、従ってはならない法主が出現することを危惧されていたと拝される。
 ゆえに私どもが「己義」を構える日顕に従わず、厳しくその謗法を呵責していることこそ、日興上人の御遺誡を厳守している実践なのである。
 戸田先生はこう述べている。
 「昭和十八年六月に学会の幹部は登山を命ぜられ、『神札かみふだ』を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうかと、二上人立ち会いのうえ渡辺慈海じかい師より申しわたされた。
 御開山上人の御遺文にいわく、
 『時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事』
 この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった」
 牧口先生が、権威に従わず、正義を貫き、日興上人の御遺誡を守り抜いたからこそ、広宣流布の道は断絶することがなかったのである。
23  また戸田先生は、第二代会長に就任した直後(昭和二十六年八月)、こう述べられた。
 「立宗七百年に際し、日蓮正宗教団が、全国わずかに一、二万軒を数えるにすぎない現状は、われわれが宗開両祖に対したてまつり、申しわけない次第である。もし、いま宗開両祖がご出現あらば、いかばかりか、お嘆きあり、かつおしかりあるかを思うとき、おそれ多く、もったいなく、かつは申しわけなく、身も心も、いたむものである」
 「かかるとき、教団の一部に、意味なき嫉妬による折伏行進の邪魔をなすものがいるのは、まことに残念な次第である」と。
 戸田先生は、広宣流布への責任を一身に感じられていた。そして、ただ一人立ち上がって、折伏の陣頭指揮をとられた。
 しかし、当時の宗門は、学会に協力するどころか、全く無理解だった。そのうえ、一部の僧は「意味なき嫉妬」にかられて、折伏の妨害までしたのである。
 牧口初代会長も、宗門の無理解や妨害につねに苦しめられた。最後も宗門の裏切りによって、獄死されたのである。
 戸田先生は、また、「この教団(日蓮正宗)の七百年の古い伝統は、一面には尊く、かつ清く、ありがたく、かつ一面は猫もねずみも出るであろう。かかる猫やねずみの類は、必ず一掃されるから、心配することはない」と。
 悲しいことに、日顕宗は「猫やねずみばかり」になってしまった。
 大聖人の仏法を食い物にし、供養を貪り、うごめいている、ノラ猫や飢えたねずみのごとき醜侶しゅうりょは、広布へ進む信心の世界から、一掃せねばならない。また現実に、清らかな「広布の世界」には、いられなくなって、みずから去っていったのである。
24  第十八条「衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事
 「たとえ宗内の多数で議決したことであっても、(大聖人の)仏法と相違があるならば、貫首はこれを打ち砕くべきであること」
 これは、第十七条と対になっている。いずれも″仏法に相違すれば″とある。
 すなわち、正邪の判定は、権威(貫首)によるのでもなく、多数(衆議)に従うのでもない。どこまでも、仏法の「正義」にかなうか、否かによるのである、と。そのための基準は、大聖人の「御金言」であることは言うまでもない。
 御書根本の正しい多数意見をも「貫首」の権威で砕こうとしている日顕は、この御遺誡に完全に違背している。
25  第十九条「衣の墨・黒くすべからざる事
 「衣の色を黒くしてはならない」
 大聖人以来、富士門流では、薄墨うすずみ(淡いネズミ色)の衣を用いることを化儀としてきた。
 これは、まず、正義を守るためのものであった。
 御書にも経の文として″黒衣は謗法であり、必ず地獄に堕ちる″と記されている。(「黒衣の謗法なる必ず地獄に堕す」)
 また、他宗派と異なる衣を着することで、つねに大聖人門下として恥ずかしくない″行躰ぎょうたい″を教えられたとも拝される。すぐに富士門下とわかるから、おのずと身を正さねばならないわけである。
 要するに、この条目の心は、大聖人門下にふさわしい、清浄な振る舞い、信心であるよう、身を正していくということであろう。
 ところが、日顕宗の悪侶たちは、法衣を脱いでは悪事を働き、偽名まで使って遊ぶ者さえいる始末である。
 また、あまりの行躰の悪さに″薄墨の衣″は、″最低の堕落僧″のシンボルとさえ言われるにいたった。日興上人がどれほど、お嘆きであろうか。
26  第二十条「直綴を着す可からざる事
 「直綴を着てはならないこと」
 「直綴」とは、他宗派の僧侶が一般に着用している、腰から下にひだのあるぜいたくな法衣のこと。″ぜいたくな服はいけない。質素であれ″との誡めである。
 したがって、形のうえでは直綴を着ていなくても、日顕のような″ぜいたくな衣″(一着、数百万円かそれ以上のものといわれる)を着ることは、この御遺誡の精神に真っ向から違背している。
27  第二十一条「謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事
 「謗法と同座してはならない。与同罪になることを恐れるべきである」
 大正十一年(一九二二年)十月、日蓮宗(身延派)、顕本法華宗など日蓮宗各派の管長らと同座したうえ、身延の管長の導師で寿量品の読経、唱題をした法主がいた(日正法主)。しかも、それは、他宗派とともに、大聖人に「大師号」を宣下するよう政府に請願し、「立正大師」号を受けたことの記念行事であった。宗祖と正反対の″権力迎合″の姿である。
 その後、身延に大聖人の廟所びょうしょ(墓所)があるとしたためた「念書」を、政府に提出した高僧さえいた(日開法主、日顕の父親)。
 日興上人の「身延離山」の崇高な御精神を踏みにじり、身延と「謗法同座」したのである。身延と「与同罪」であり、大謗法である。
28  第二十二条「謗法の供養を請く可からざる事
 「謗法の者から供養を受けてはならない」
 謗法者の供養を受けることは、謗法を容認することに等しい。前条と同じく、与同罪に当たる。
 ゆえに、謗法を祀っている檀家の破折もせず、しかも供養を受けている僧侶は、この遺誡に背いているのである。
 さらに、宗門は戦後、疲弊した本山の収入増加を狙い、他の謗法の諸寺と同じような″観光地化″を計画したことがあった。それをやめさせたのが戸田先生であった。宗門が謗法の供養を受けるところを学会が救ったのである。
 また、この御遺誡に照らせば、学会を″謗法よばわり″しながら、平気で学会の供養を受け、学会寄進の寺に住むことは、明らかに矛盾である。
 要するに、仏法の聖者など、どうでもよく、″遺誡よりもお金″が本音なのである。
 ある人は「今や、宗門は『金が本尊(「根本尊敬」の対象)』となってしまった」と嘆いていた。
29  第二十三条「刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す。但し出仕の時節は帯す可からざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許す可きかの事
 「刀や杖等の武器を持つことは、仏法を守るためであれば許される。ただし、仏前に出る時には、身に帯びるべきではない。しかし、一般の衆僧等の場合は、(自衛・護衛のために)許すべきか」
 この条目について、日亨上人は「ある一時的のもので、戦国時代物情騒然たる時の自衛のための武器である」と示されている。
 私どもは「仏法守護の為」と記された日興上人の厳たる御心を拝さねばならない。いかなる危険な状況のなかでも、「仏法を守る」ためには命を惜しんではならないのである。
 その意味で、社会の荒波に身をさらし、広布開拓の最前線で、大難を受けながら、仏法を守り抜いてきた学会こそ、この御遺誡の心の実践者なのである。
 反対に、宗門は、学会の「仏法守護」「外護の実践」に甘えに甘えて、腐敗した。「仏法守護」の心など、かけらもない。
 日顕宗にあるのは醜い「保身」だけである。
30  第二十四条「若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事
 「たとえ若輩の僧侶であっても、高位の檀那より下の座にいてはならない」
 たとえ社会的に地位が高い檀那であっても、信心なき人に対して媚びて法を下げてはならない──そういう僧侶の信念のあり方を誡められた御心が拝される。
 日亨上人は、「戦国時代、武士万能で、宗教家でも凡庸なる者は生活に難儀で、自然豪族を大事に扱ったから、武人をいばらせた傾向となった」と指摘されている。
 また「僧侶の反省・努力・自尊心を高めるためには、開山上人のこの法度を生かすべきである」と、″尊敬を受けるに足る僧侶″になるべきことを強調している。
 わかりやすくいえば、僧侶は貧しくとも、お金にへつらってはならない。「生活」よりも「仏法」を大切にし、信徒から尊敬される威儀を持たねばならない、権力者など「地位の人」ではなく「信心の人」を尊敬せねばならないとの御精神であろう。
 ところが、日顕宗は、最低の″金の亡者″になり下がっただけでなく、学会が僧侶を敬い、尊敬してきたのをいいことに、信徒を差別し、見くだした。そればかりか、「民衆の団体」である学会を蔑視し、最も尊貴なる「信心の団体」たる学会を迫害している。
 ″高位″に媚びず″仏法″を基準に生きよとの御遺誡と正反対の姿である。
31  第二十五条「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯ようはん有りと雖も衆いたずらに差置く可き事
 「先師・大聖人のように、私(日興上人)の(門下の)化儀も聖僧であるべきである。ただし、(将来において)時の貫首、あるいは習学中の僧などが、一時的に女犯にょぼんをしたとしても、(破門せずに)衆徒(下位の僧、平僧)にしてとどめておくべきである」
 この御遺誡は、大聖人・日興上人が、僧侶の「妻帯」を絶対に許されていない、という明確な文証である。
 「聖僧」とは、「清僧(清い僧)」とも書き、妻帯・肉食をしない僧をいう。
 大聖人御自身が、妻子も持たれず、肉食もされなかったことは、「日蓮はせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず」との御文にも明らかである。
 また、門下の最蓮房に対して、″僧となったからには、権宗ごんしゅうの者であっても、妻帯、肉食をしてはならない。いわんや、正法の修行者においては、なおさらである″と仰せである(祈経送状)。
 日亨上人は、この御遺誡に触れられ、妻帯を含む「現今の在家同然の僧行(僧の振る舞い)」は、「一時の変体(異常な状態)」であり、「宗祖開山時代の常態(正常な状態)に帰るべきを祈るものである」と述べられている。そして「全分の生活まったく在家同然で、心意またこれに相応し、たんに袈裟衣を着てるだけの違いを、かえって偽らざる正直の僧侶と自負する者があるやに聞く。このていの放埒ぶりを標準とせば、この条項はいまは死んでおる」と断言されている。「条目の死」は「日興上人の御心の死」である。
 また、日興上人は″女犯するようなことがあれば、本来は破門して還俗げんぞくさせるべきである″ということが前提だが、″時の法主″の場合についても、一時の過ちであれば、衆徒に降格させるべきであると定められている。
 日亨上人も、この御遺誡について「貫主の高位をおとして下位に沈まするということと解釈する外はない」と。
 「一旦の犯」どころか、妻帯したうえに、破廉恥な行動で宗風を汚し、猊座を穢し続ける法主──日興上人が明確に、そういう人間は「退座」せよ、「降格」せしめよと命ぜられているのである。それに逆らう者は、日興上人への反逆者である。
32  第二十六条「巧於難問答ぎょうおなんもんどうの行者に於ては先師の如く賞翫す可き事
 「難問答に巧みな行者に対しては、先師・大聖人がなされたように、ほめたたえるべきである」
 「巧於難問答」とは、法華経の涌出品の文で、「難問答に巧みにして」と読む。地涌の菩薩を賛嘆した言葉である。
 大聖人は、この経文のごとき優れた人材の育成に心を砕いておられた。たとえば、叡山の学匠との法論に、若き日目上人を起用、日目上人は、見事に相手を破折され、人々を驚かせたというエピソードもある。
 我が学会にも、難問答に巧みな「折伏の名人」が、たくさんおられる。邪法邪義を破り、御本尊の偉大さを教え、正法を弘通する「広宣流布の勇者」を、最大にたたえ、尊敬し、宣揚してきたのが学会の伝統である。ゆえに、正法を世界に弘め、正法とともに栄えることができた。
 広宣流布といっても、実際に「法を弘める人」がいなければ永遠に夢物語である。ゆえに、日興上人は、御遺誡の最後に″弘法の人を大切にせよ″と重ねて誡められたと拝される。
 ところが、日顕宗は、「折伏の実践者」の尊い仏使の団体たる学会を、見下し、利用し、切り捨てたのである。
33  日顕宗は二十六箇条の悉くに違背
 以上、遺誡の一つ一つを拝していくと、日顕宗が、二十六箇条の「ことごとく」に違背し、その御心を踏みにじっていることは明白である。
 日興上人は「このうち一箇条でも犯す者は、日興門下ではない」と、最後に明確に記されている。
 これが師弟の厳しさである。「一箇条」どころか、「全条目」に違背した宗門は、正法の命脈を虐殺している「反日蓮大聖人」「反日興上人」の邪教である。邪宗「日顕宗」と呼ぶほかない。
 もはや、大聖人・日興上人に直結し、その正義と実践を継承した「正統の教団」は、私ども創価学会以外にない。御遺誡に照らし、また御書に照らし、そして「世界広宣流布」の事実に照らし、だれびとも否定できないであろう。
 学会あればこそ、宗門は「正宗」たりえた。学会が正宗を正宗としたのである。
 (日亨上人は「現在の宗門で、学会以外に、とるべきものがあるか」と言われた)
 学会と離れれば、邪教である。宗門は学会を″切った″つもりで、みずからを正しき信心の世界から、完全に″切り離した″のである。
 学会は「御本仏の教団」である。その学会とともに進めば、必ず成仏の軌道に入れる。三世にわたって大福徳に包まれる。
 この道理を確信し、いよいよ朗らかに、名実ともに″世界の関西″へと出発していただきたい。きょうは、ありがとう。

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