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日蓮大聖人・池田大作

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第五十九回本部幹部会、婦人幹、関西・兵… 法と共に「法を弘むる人」が尊い

1992.10.22 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

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1  美しき宝土に「四季の絵巻」
 この関西の秋の美しさ──まさに「金秋」である。「黄金の秋」の輝きに包まれての総会、本当におめでとう。
 皆さまの真心の唱題に支えられて、今回の中国訪問も大成功で終えることができた。全国の同志に、改めて御礼申し上げたい。
 二年ぶりに関西の墓園を訪れ、お元気な皆さまとお会いでき、本当にうれしい。またこの地で、関西の、そして全世界の同志の方々の追善も、ねんごろにさせていただいた。
 「守る会」の方々をはじめ役員の皆さまが真心を込め、すみずみまで手入れをし、この「生死不二の王宮」を荘厳してくださった。心から感謝申し上げたい。
 本日は、福岡研修道場に韓国の壮年部・男子部の代表、沖縄研修道場には台湾の婦人部・女子部の代表が参加されている。本当にご苦労さま!
 ──福岡といえば、中国へ向かう際も、帰国の際も、その上空を通過した。機中からも市街がよく見えた。私は九州の皆さまを思い浮かべながら、ますますのご多幸をご祈念させていただいた。
2  この地は、不思議なる″宝土″である。
 一昨日、雨のなか車で向かう途中の光景も、山水画のような美しさであった。とくに墓園に近い「霧山」は、中国の桂林さながらの、たたずまいであった。
 この地につらなる山々には不思議とけん(とげとげしさ)がない。
 牧口先生は「山は人情を和らげ、人の心を啓発する天師てんし(天なる師匠)」と言われたが、本当に先生は偉大である。ここ丹波の山並みには、そうした何ともいえない優しさがある。
 その山々は、壮麗な屏風のごとく、四季の絵巻を繰り広げてくれる。前回(一九九〇年六月)の、初夏の新緑も鮮やかであったが、秋のこの紅葉もまた見事である。
 「狭い自宅にいるよりも、墓園のほうが、よほど素晴らしい。ずっと幸せだ」と言う人もいた。
 地元の青年部の方が調べてくださったが、丹波の「丹」という字には「赤い」という意味もある。ゆえに丹波とは「紅葉の『赤い波』」を意味するのではないかと。語源については他の説もあるが、「赤い波」と言われるほど紅葉の丹波路は素晴らしい。
3  また、ご存じのとおり日本の標準時を決める東経一三五度の子午線は、この墓園を通っている。御本尊まします、この会場の真ん中が、ちょうど、その子午線と一致する。
 つまり太陽が、この会場の真上に来た時が、日本全体の正午である。今、皆さまは、日本列島の中心線上に、おられるわけである。
 その意味からも、兵庫創価学会の皆さまは、「日本の中心」の誇りも高く、「広宣流布」の模範の「時」を刻みつつ、堂々と進んでいただきたい。
 また、墓園のある、ここ氷上ひかみ町には、日本列島の背骨にあたる「中央分水界」が通っている。
 「分水界」とは、わかりやすくいえば、家の屋根の棟のように、降る雨を日本海側と太平洋(瀬戸内海)側とに分ける境界のことである。
 しかも、日本一低い「分水界」のある地が、ここ氷上なのである。その場所は、その名も「水分みわかれ」と呼ばれている。
 とともに、ここには日本海側に注ぐ由良川と、太平洋(瀬戸内海)側に注ぐ加古川の両方の源流がある。
 また、古代にあっては、大陸文化と大和文化を結ぶ地でもあったとされる。さらに、氷上の「ひ」とは、「日」「太陽」の意味に通じるともいわれる。
 その氷上に広がる関西記念墓園──幾重にも意義深い、まさに太陽きらめく「常楽城」といえよう。
4  妙法は全民衆を幸福の港へ運ぶ
 日蓮大聖人は、法華経薬王品の譬えを、わかりやすく解釈なされて、こう仰せである。
  「生死の大海には爾前の経は或は筏或は小船なり、生死の此岸より生死の彼岸には付くと雖も生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとつきがたし、例せば世間の小船等が筑紫より坂東に至り鎌倉よりの嶋なんどへとけども唐土へ至らず唐船は必ず日本国より震旦国に至るに障り無きなり
 ──爾前経(法華経以前の仮の教え)は、生死の苦しみの大海にあって、あるいはいかだ、あるいは小船である。生死の苦しみの此岸(こちらの岸)から、同じような苦しみの彼岸(向こうの岸)には着いても、生死の苦しみの大海を渡って、極楽の彼岸(成仏の大境涯)に、たどり着くことはできない(生死の苦悩を根本的に打開できるのは妙法以外にない)。
 たとえば、世間の小船などが九州から関東方面にいたり、鎌倉から江の島などへ着いても、中国へは着くことができないようなものである。しかし、唐船(中国へも渡ることができるほどの大船)は、必ず日本から中国へ、支障なく到達することができる(法華経はその唐船のように、生死の大海を渡って、一切衆生を成仏の彼岸へと届けることができる)──と。
5  この大法を、一閻浮提に「広宣流布」しゆく大船は創価学会である。学会員の皆さまこそ、最高に価値ある、最高に満足できる人生の大航海を勝ち取る方々なのである。
 特に、壮年部の方々は、現実社会の荒海を乗り越えて、一家、一族、また地域・社会の友を、三世永遠の幸福の港へとリードする「船長」の存在である。その「責任」は大きいし、それだけに「冷静」「慎重」であり、「力」がなくてはならない。
 どうか「あの人がいれば何があっても安心だ」「この人の指導は明快だ。間違いない」と言われるような、名指揮をお願いしたい。
 かりそめにも、いばったり、軽率な言動や、はったりがあったり、包容力もなく、冷静に話し合うこともできないなどといった愚かな指導者であってはならない。
 とともに、大聖人は「唐船」と言われている。大海原を越え、中国大陸を目指す堂々たる大船──ここに大聖人の「東洋への道」への深い御心情が拝されてならない。
 その意味で、皆さまにも将来、中国を訪れていただきたいし、日本と中国の交流の道を、さらに広く、さらに確かなものとしてまいりたい。
6  「天下第一の法華経の奉公」と讃えられた門下
 さて、日蓮大聖人から「天下第一の法華経の奉公なり」と、たたえられた門下がいる。
 「これ以上の『法華経への貢献』はない」との仰せである。一体、その門下が何をしたというのであろうか。
 高僧を集めて、荘厳な儀式を行ったのか。それとも、当時、いわば法華経の″総本山″であった比叡山に、たくさん寄進したというのだろうか。あるいは、法華経を、多くの人の前で、立派に説法してみせたというのか。
 まったく、そういうことではなかった。
 「天下第一の奉公なり」とされたのは義浄房と浄顕房。二人は、大聖人の清澄寺御修行時代の兄弟子であり、のちに大聖人の弟子となった。
 この二人は、大聖人が立宗の宣言をなされた時、権力者である地頭の東条景信の襲撃から大聖人をお助け申し上げた。これは皆さま、よくご存じの史実である。
  「日蓮が景信かげのぶにあだまれて清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず
 ──日蓮(大聖人)が、(東条)景信に憎まれて、清澄山を脱出する折、かくまって、ひそかに連れ出してくださった。これは天下第一の法華経への貢献である。成仏は疑いありません──。
 もしも、この時、二人が大聖人を助けなかったら、立宗され、「広宣流布の第一歩」を踏み出されたばかりで、広布は暗礁に乗り上げてしまったかもしれない。
 「法華経の行者」という「人」を助けることが、この時、「正法」への最大の奉公だったのである。
7  大聖人は仰せである。
 「つらつら世間を見るに法をば貴しと申せども其の人をば万人是をにくむ汝能く能く法の源に迷へりいかにと云うに一切の草木は地より出生せり、是を以て思うに一切の仏法も又人によりて弘まるべし
 ──つくづくと世間を見るのに、「法」は貴いというけれども、法を行ずるその「人」を万人が憎んでいる。そのようなあなたは、よくよく法の源に迷っているのである。なぜかならば、一切の草木は大地から生え出てくる。そのことから思うに、一切の仏法(法)もまた「人」によって弘まるのである──。
 「大地」なくして「草木」はない。「人」なくして「法」は弘まらず、価値を生まない。
 「之に依つて天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす末代いづくんぞ法は貴けれども人は賤しと云はんやとこそ釈して御坐おわし候へ
 ──このことから、天台は「仏の在世ですら、『人』をもって『法』を顕した。いわんや末世において、どうして『法は貴いけれども、人は卑しい』と言うことがあろうか」と釈されている──。
 「法」を尊ぶといいながら、その法を弘める「人」を卑しみ、バカにする。それはじつは「法」をバカにしているのである。見下しているのである。
 御書には、このあと「其の人を毀るは其の法を毀るなり」──(法を弘める)その「人」をそしるのは、その「法」をそしることである──と。
 この点だけでも、日顕宗は釈尊に敵対し、天台に敵対し、伝教に敵対し、大聖人に師敵対している。
8  「法自ら弘まらず」とも大聖人は仰せである。そして「人・法を弘むる故に人法ともに尊し」と。すなわち、「法を弘むる」からこそ、その「人」は、法とともに尊いのである。
 この仰せをも見下して、「法を弘むる」人を尊ばない。尊ばないどころか、迫害に迫害を加えて、切り捨てる──こんな″法主″は、明らかに、真っ向から大聖人に反逆しているのである。大聖人が厳しく裁かれることは絶対に間違いない。
 この仰せのごとく、「法を弘むる故に」人は尊いのである。宗門は、まったく「法を弘むる」ことがない。ゆえに、どんなに偉ぶってみせても、御書に照らして、少しも尊くないのである。法を弘めないどころか、法滅させようと画策した。
9  立場や位というなら、当時、大聖人は一介の無名の青年であられた。当時、三十二歳──。
 「高僧」「名僧」とされる人は、他にいくらでもいた。しかし、事実に照らし、経文に照らして、大聖人だけが、「正法を弘むる人」であられた。ゆえに大聖人をお守りすることが、正法を守ることであった。
 二人(義浄房・浄顕房の)には、そういう自覚はなかったかもしれないが、結果として、「天下第一の法華経の奉公」をなしたのである。
 大聖人は、この時の恩を決して忘れず、二十五年もたったあとでも、繰り返したたえられている。先ほど拝した「報恩抄」、また「本尊問答抄」等に、はっきりと記されている。
 (「本尊問答抄」では、二人が大聖人を守護したことに触れられて「何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして生死をはなれさせ給うべし」と。″他の何がなくとも、この「守護の功徳」を確信して、成仏いたしなさい″と仰せである)
 大聖人の御振る舞いと正反対に、すぐに大恩を忘れて、恩を仇で返したのが日顕である。大聖人が最も喜ばれる「広宣流布」をなしている創価学会を破門し、大聖人をお守りしている一千万の地涌の菩薩を、弾圧した。絶対に許されることはないであろう。
 一方、義浄房らと違って、師の道善房は、この時も、また大聖人の佐渡御流罪の時も、臆病ゆえに、大聖人を守ろうとしなかった。″とても成仏はできないであろう″と、大聖人は厳しく断言なされている。
 大変な時に、ともに戦う人が大功徳を受ける。大難に向かって、一緒に広宣流布へ励む人こそが、成仏の人である。
10  「弘法の人」を守るのが「法」を守ること
 今、聖教新聞の日曜版で、劇画「人間革命」が連載されている。
 ある記者が、「これからは劇画(漫画)の時代だから」と発案したものである。作家の故・有吉佐和子さんも「やがて漫画の時代になるでしょう」と言われて、どっさり漫画を送ってくださった。
 劇画「人間革命」では、現在ちょうど、戸田先生の事業の失敗が描かれている。
 この時、私は「戸田先生を守ることが、広宣流布を守ることだ」と決めた。そして渾身の力で、先生を支えた。ひとり戦い、一切を勝利させた。
 華やかでもない。それどころか、実にいやなことばかりの戦いであった。
 しかし、この時、戸田先生を支えなければ、まだ出発したばかりの創価学会は挫折してしまう。「正法広宣流布」は暗礁に乗り上げてしまう。──そう知っているゆえに、私は厳として決めた。「私は戸田先生を守るんだ!」と。
 戸田先生は訴えられ、逮捕される可能性さえあった。激闘であった。あまりにも激しい連日の闘争で、なかなか表立った活動には出られなかった。そんな私に対して、「出てこない」「退転だ」等と非難した先輩も何人もいた。
 皆、弘法ぐほうの「人」を守ることが「法」を守ることだと知らなかった。「大地(人)」を離れて「草木(法)」を求めるような愚かなことを考えていた。御書を知らず、仏法を知らなかった。今も同じ姿がある。
 私は、この″急所″を知り、実践したゆえに、現代において「妙法への第一の奉公」ができたと確信している。私の永遠の誇りである。
11  今、だれの目にも、「正法」「法華経」は、もはや創価学会にしかない。
 「法を弘むる」人とは学会であり、学会員である。この学会・学会員を大切にする人こそ、正法を大切にする人である。
 正法を大切にする人は、今度は大聖人から大切にされる。御本尊から大切にされる。十方の諸仏から大切にされる。
 この一事を知れば、人生は盤石である。仏法の真髄の実践が、ここにある。
 ゆえに私は学会員の皆さまを尊敬する。徹底して大切にしている。だからこそ、いつも悠然と大福運に包まれてきたし、何も恐れない。
 広宣流布に尽くし、学会に尽くしている人を見下したり、礼儀と報恩を忘れたら、必ず罪を得る。日顕宗は言うまでもない。学会の幹部や、議員も同様である。
12  「強言(強い言葉)なれども人をたすくれば輭語(柔らかい言葉)」
 私は、すべて大聖人の御書を根本に語り、実践してきた。さらに御書を拝し、語っておきたい。
 大聖人は、仏敵に対して、率直な「強い言葉」をもって破折された。悪に対しては、徹底して厳しくあられた。ゆえに、大聖人は、つねに人々から批判されておられた。もっと、「柔らかい言葉」「優しい言葉」で語るべきではないか──と。
 こうした疑難に対し、大聖人は明快に答えておられる。「善無畏三蔵抄」に、こう仰せである。
 「仮令たとい強言なれども人をたすくれば実語・輭語なんごなるべし、設ひ輭語なれども人を損ずるは妄語・強言なり
 ──たとえ、強言(強い言葉)であっても、人を救えば実語(真実の言葉)であり輭語(軟語)である。たとえ、柔らかい言葉であっても、人を害すれば、妄語(偽りの言葉、ウソ)であり強言である──。
 たとえ耳あたりがよくても、聞く人を悪道に堕とす言葉は、「妄語」であり「強言」である、と。
 「当世・学匠等の法門は輭語・実語と人人は思食したれども皆強言妄語なり、仏の本意たる法華経に背く故なるべし、日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つべし禅宗・真言宗も又あやまりの宗なりなんど申し候は強言とは思食すとも実語・輭語なるべし
 ──今の世の学僧といわれる人々らの法門は、「柔らかい言葉」「真実の言葉」であると人々は思っておられるが、すべて強言であり妄語である。それは、仏の本意である法華経に背いているからである。
  日蓮(大聖人)が「念仏を称える者は必ず無間地獄に堕ちる」「禅宗・真言宗もまた邪宗である」などというのは、強言のように思われたとしても、(仏の本意にしたがい、人々を救うゆえに)「真実の言葉」であり「柔らかい言葉」なのである──。
 「強く荒々しい言葉」(強言)か「穏やかな言葉」(軟語)かの基準は、結果として、人を救うかどうかである。「人をたすくる」言論か、「人を損ずる(害する)」ウソか、である。
 民衆を救うために、正法の敵に対しては、「強く荒々しい言葉」(強言)で破折してよい、それでこそ人を救えるのだ──との仰せである。私どもは、いよいよ堂々たる言論戦を繰り広げてまいりたい。
13  ところで「下山しもやま御消息」には、「無量無辺の虹の虚空に立ちたらんが如し」──数えきれないほどの虹が大空に立っているようだ──という描写がある。
 釈尊が法華経を説いた時、十方の諸仏が集って宝樹の下に座り、広く長い舌(広長舌)を出して、梵天につけた。「皆、これ真実なり」と説法の正しさを証明する意味である。古代インドでは「舌を出す」ことで「ウソ、いつわりがない」ことを示した。(舌が長いほど、言葉が真実である証明とされた)
 全宇宙の仏が集まって「すべて真実なり」と舌を天に向かって出す。その様子を、″無量無辺の虹が天空に立っているようだ″と、大聖人は表現されたのである。
 先ほど紹介されたが、″きょうも天空に美しい虹がかかっている″と、関西の各地の方々から報告を寄せてくださっている。まるで、私たちを祝福しているかのようだ、と。
 最近は、″虹の便り″が、ますます多くなっているようだ。きりがないので、きょうで報告は終わりにしたい。
 この御聖訓の心を拝しながら、虹は、″学会は正しい″″皆、これ真実なり″と、天が私たちに語りかけ見せてくれている、と受けとめてはどうだろうか。ともあれ、学会は、諸仏・諸天に包まれている。いよいよ大確信をもって、楽しく前進してまいりたい。
14  「自分は特別だ」の慢心から転落した提婆
 話は変わる。反逆者らの「狂い」の根には、必ず「自分は特別だ」という思いがある。学歴や、肩書、人脈、なかんずく「生まれ」にとらわれると、その執着と傲りが、いつか、ゆがんだかたちで噴出する。
 大聖人は「開目抄」の中で、こうした退転者の心理を提婆達多の姿を通して示しておられる。
 「我は斛飯王こくぼんのうの嫡子・阿難尊者が兄・瞿曇くどんが一類なり、いかにあしき事ありとも内内・教訓すべし
 ──私は、斛飯王(釈尊の父の兄弟)の王子であり、阿難尊者の兄で、釈尊の親類である。どんなに悪いことがあったとしても、こっそりと注意してくれるべきである──。
 彼は、釈尊を妬み、釈尊にとって代わろうと野望を燃やしていたといわれる。そうしたある日、とうとう、釈尊に大衆の面前で厳しく叱られたのである。
 そのとき彼は、思った。″自分は王の子供だ。名家の出身だ。阿難尊者の兄でもある。釈尊の親族ではないか。他の人はともかく、私は特別のはずだ。それなのに、内密に注意してくれればよいところを、皆の前で恥をかかせた″──と。
 釈尊に感謝するどころか、逆恨みし、反逆を心に誓ったのである。結局、「自分は特別のはずだ」という増上慢であった。
 これまで学会に大恩がありながら、反逆していった人間も、肩書や出身、学歴、立場等にとらわれる慢心が必ずあった。
 ゆえに、叱られたり、自分のわがままが通用せず、自分の思い通りにいかないと、それを「自分のせいだ」と自覚できないで、「人が悪い」「学会が悪い」と逆恨みしてしまった。
 そこには、謙虚に法を求める姿勢も、師弟の精神もまったくない。
 反対に、注意を″自分のことを思ってくれているからこそ、言ってくれるのだ″と前向きにとらえる人は、大きく伸びていく。
15  ところで、なぜ釈尊は大勢の前で叱責したのか。
 それは内密に注意すれば、皆が知らないことをいいことに提婆達多があとで嘘を言うだろう、と釈尊は見抜いていたからではないだろうか。ゆえに、だれもがわかるように大勢の前で叱った、と考えられる。
 要するに、「自分は皆と違うのだ」という特権意識が、理性を狂わせ、退転・反逆の悪道へと走らせる。
 ″衣を着ている俺たちは特別だ。何をしても許される″と傲りに傲り、大聖人に反逆した日顕宗の悪侶たちについて、婦人部の方が述べておられた。
 「彼らは、弘教ぐきょうもせず、勤行さえしない。妻帯し、酒を飲み、信徒の赤誠の御供養で遊興と美食に明け暮れ、まさに『法師の皮を着た畜生』です。そして悪事が見つかるや、そんなことはしていないと、まっかなウソをつく。まったく最低人間としかいいようがない」と。
 民衆が真実を知ってしまった。もう、だれもだまされない。
16  現宗門は提婆の眷属、仏の敵
 「自分は一個の『人間』だ」──そうした″裸一貫″の自己自身から出発するのが、仏法の根本精神である。
 釈尊が、カースト(インドの四姓<司祭者、王族、平民、隷民>階級制度)を否定して、″仏門に入れば、万人は平等なり″と叫んだ真意も、ここにあろう。
 大聖人は、御自身を「旃陀羅が子なり」とあえて強調された。差別されている民衆の最底辺に、あえてみずからを置かれて、堂々と「われ旃陀羅なり!」と叫ばれたのである。
 (大聖人は「仏界所具の人界」の御立場であられ、門下は「人界所具の仏界」の立場である。そのうえで、大聖人は一切衆生のために示同凡夫の御姿であられた)
 立場でもない、地位でもない、生まれでもない、一切の虚飾をかなぐり捨てた、赤裸々な「人間」として生き抜く。ありのままの凡夫がそのまま仏となるという真実を、一切衆生に示しきっていく
 そういう、いわば「大聖人の人間宣言」の深き御心を拝したい。
 その意味で、現宗門が門閥もんばつ(家柄)・閨閥けいばつ(妻方の血筋)にとらわれ、特権を追い求めている醜い姿は、まさに「大聖人の敵」「釈尊の敵」の姿である。「生まれ」にこだわった提婆達多の眷属けんぞくであり、「提婆の一類」の証明なのである。
 ゆえに、その悪は、断固、広く社会に公にされ、徹底的に追及しなければならない。
17  今を大切に、そこに幸福の鍵
 今年も、「主婦と生活」「主婦の友」の二誌から、明年の新年号の原稿依頼があり、どうしてもということなので、寄稿させていただいた。
 このうち「主婦と生活」のほうのタイトルは「『いま』を輝かせる人が幸福──人生の『第二の舞台セカンド・ステージ』を生きるあなたに」とした。
 主婦の立場にある女性にとって、夫を支え、子供を立派な成人として社会へ送り出すまでが″第一の舞台″、それ以後が″第二の舞台″とされる。
 ″第一の舞台″も″第二の舞台″も、ともに最大に充実させていく──そこに人生の幸福があり、勝利がある。
 そうなるには、どうすればよいか。結論すれば、それは、つねに自分らしく、「今」を輝かせていくことであろう。
 アルゼンチン・タンゴの巨匠マリアーノ・モーレス氏が、私に贈ってくださった二番目の曲も、「アオーラ」すなわち「今」という題名である。
 モーレス氏が来日され、一昨日、初演された。
 (埼玉・川口市で開幕した民音公演「エル・タンゴ’92」の初日のステージ。モーレス氏は次のように語り、ピアノに向かった。「私は四年前、最愛の息子ニトを亡くしました。その時、私が最も尊敬する日本の友人(池田名誉会長)が、私を励ましてくれました。本物の友情への感謝の思いを、この曲に託しました。ニトの息子である孫のガブリエルが歌います」と)
 漠然とした「未来」ではない。過ぎ去った「過去」でもない。大切なのは「今」である。「今」こそが人生の現実である。
18  75歳から描き始めた「モーゼスおばさん」
 寄稿では、二人の女性にスポットを当てた。一人は、アメリカの著名な画家モーゼス。多くの人々から「モーゼスおばあさん」と呼ばれ愛されていた。彼女は百一歳で亡くなるまで、実に千五百点もの美しい絵を描き残している。
 ところが、彼女が絵を描き始めたのは何と七十五歳。それまでは、絵の勉強などしたことがない、平凡な一農村婦人であった。
 彼女は小学校しか出ていない。それでも世界的な画家となった。人生に偉大な業績を残すかどうかは、学歴とは関係がない。
 いわんや信心の世界においては、謙虚さを失わせるだけの学歴ならば、かえって邪魔となろう。
 さて、彼女は、二十七歳で結婚する。そして十人の子供の母となった。
 大家族を切り回す多忙な日々。それでも彼女は、どんなに忙しくても、仕事や家事の一つ一つに心を込め、工夫をこらした。一生懸命、丁寧に取り組んだ。
 婦人部の皆さまの中には、これ以上に忙しく動いているという方もおられるであろう。
 そうした皆さまのご苦労を、私はよく知っているつもりである。また、心から応援したい気持ちでいっぱいである。
19  モーゼス夫人が、熱心に取り組んだ家事の一つは、バターづくり。それが村の評判になり、とうとう店で売られ、大きな商売にまでなったというエピソードも残っている。
 彼女の人生にも、困難や苦しみはたくさんあった。
 十人の子供のうち五人を、幼いうちに失った。そして六十六歳の時に、愛する夫を亡くしている。
 モーゼスおばあさんは、どんな苦しみにも胸を張って、一日一日を、「今」の一瞬一瞬を、精いっぱいの笑顔で輝かせようとした。
 だから子供が独立し、夫に先立たれても、寂しさに負けなかった。人生を″引退″することもなかった。
 そして絵画への挑戦という″七十五歳からの出発″。まことに、美しい夕焼けのごとき、人生の晩年である。
 彼女は書き残している。
 「思い返してみると、私の生涯というのは、一生懸命に働いた一日のようなものでした。仕事は遂行され、私は充足を感じます。私は幸福で、満足でした。(中略)そして人生とは、私たち自身が創るものなのです。つねにそうであったし、これからも、そうあり続けることでしょう」
 「一生」も「三世永遠」から見れば「一日」であり、「一瞬」である。充実した価値創造の一日(一生)こそ、次の素晴らしい一日(一生)への出発となる。
20  メニューイン夫人──空気を一変させた「勇気」の一言
 「今」を輝かせて生きる、もう一人の女性として、私は、今世紀屈指のヴァイオリン奏者・メニューイン氏の奥さまであるダイアナ夫人を挙げた。
 夫人はご一緒ではなかったが、メニューイン氏とは今年四月、東京・信濃町の聖教新聞社でゆっくりと語り合った。
 お二人は、結婚されて四十五年。美しい「夫婦愛の交響曲」を奏でるように、深い信頼で結び合われている。
 氏はダイアナ夫人のことを、こうたたえる。
 「その存在は私の世界の調和である」「この地上を歩む私の天使」と。
 また「彼女は私に″自信″を与えてくれる」と語られている。
 やはり、男性が存分に力を発揮できるかいなかは、夫人の力で大きく決まると言えよう。その姿は弓と矢の関係に譬えられる。「弓」である夫人の賢明さで、「矢」である夫は、堂々と力強く、目標へ飛んでいける。
21  メニューイン氏の世界的な演奏活動を陰で支える、ダイアナ夫人のエピソードも数多い。
 戦後まもなく、ベルリンのユダヤ難民収容所のコンサートに赴いたときのこと。メニューイン氏は、誤解から聴衆に冷たく迎えられる。演奏会場の入り口で、夫妻はにこりともしない群衆に囲まれた。張りつめた、険悪な空気──。
 その時、ダイアナ夫人は、どうしたか。彼女は車から降り立つやいなや、そばにいた一人の男性に手を差し出し、「おはようございます!」と明るくあいさつしたのである。
 その男性は、目を丸くしてためらっていたが、彼女が手を差し出したままだったので、彼も握手しないわけにはいかなくなった。雰囲気が一変した。
 その日のコンサートは極限の苦にさらされた人々を生き返らせた。誤解は解け、友好の気分にあふれ、大成功であったという。
 それは夫人の「勇気」の勝利であった。夫人の聡明な一念が、固く閉ざされた人の心を開いたのである。それはまた、敵をも味方に変え、環境を変えていく。
 一人の妻として、一人の母として、また一人の人間として、家族や周囲の人々に限りない希望と勇気を与えゆく女性。女性は何と偉大な存在であることか。
 男性の皆さまは、婦人部を心から尊敬できる紳士であっていただきたい。誠意と行動で、守り支えてあげていただきたい。
22  「人格」こそ子に贈る最高の財産
 また「主婦の友」への寄稿は、「『人格』こそ子に贈る最高の財産──太陽に向いて生きる『成長家族』として」というタイトルである。
 先日の学園祭(十月三日、東京・創価学園)の折、私は中国の周恩来総理の少年時代について語った。周総理の勝利──その基礎は、若き日の「人格」の鍛錬にあった、と。
 「人格」である。人生の最後の勝負を決するのは、頭の良さでも、策略でもない。
 長い目で見たとき、その人の「人格」こそが、勝利のカギであり、一生涯通用する「宝」である。また、親が子に残してあげられる最高の財産でもあろう──こうした観点から、つづらせていただいた。
 副題は「太陽を向いて生きる『成長家族』として」とした。
 太陽を向いて──今年のイタリア訪問の際、車中から黄金の「ヒマワリ畑」を見た。
 ″花の都″フィレンツェに向かう途中、あたり一面に広がる鮮やかな黄色のヒマワリ、またヒマワリ。光あふれる光景であった。ヒマワリは太陽に向かって咲く。大地からまっすぐ背を伸ばし、美しい笑顔そのもののような花を咲かせる。私は思った。その姿は、「母」のようだと。
 「母の笑顔」は、太陽に向かう「ヒマワリの笑顔」である。その母のたくましき笑顔が、子供たちの夢を伸び伸びとふくらませていく。
 そして、親も子も、家族の一人一人が、ヒマワリの一本一本のように「夢」という太陽に顔を向けて生きる。天空に向かって伸び続ける──そんなヒマワリ畑のような「成長家族」こそ、子供の可能性をはぐくむ大地となるにちがいない。こう結論した。
23  サーツ女史をよみがえらせた母の慈愛
 この一文では、ヒマワリのような「お母さん」の代表として、何人かを紹介した。
 まず、ロシアの「国立モスクワ児童音楽劇場」の総裁、ナターリア・サーツ女史と、そのお母さんである。女史は″ナターシャおばさん″として世界中の子供たちに親しまれている。
 同児童劇場には、私も訪れた(一九八一年五月十日)。その日のことは、決して忘れない。
 女史は今年、八十九歳──。(女史とは、これまで六回会見している)
 若き日、サーツ女史は独裁者・スターリンによって、夫を投獄され、のちに銃殺されたことを知る。
 彼女自身も、牢に入った。極寒のシベリアの収容所に送られた。身も心も打ちひしがれていた。ただ絶望の日々だった。
 そんなある日、お母さんが訪ねてきてくれた。大きな荷物をかかえ、たった一人、大雪原を歩いてきた。思いもかけないことであった。
 この母との再会、母の慈愛が、女史に「生きる力」を不死鳥のようによみがえらせた。
 「自分の力を信じるんだ!」「困難は克服するためにあるんだ!」と。
 五年余の収容所生活を終えるや、サーツ女史は再び活動を始める。以前よりも活力に満ちあふれて──。
 すでに、その時、母は亡くなっていた(ナチスの爆撃による傷のため)。しかし、サーツ女史は、夢の中で、お母さんが笑顔で語りかけてくれるのを聞いた。
 「歌うのよ! ナターシャ、何があっても歌うのよ! 人生って、それは楽しいものなんですから」と。
 その母の笑顔に励まされ、女史は「モスクワ児童音楽劇場」を誕生させ、若き日から持ち続けてきた「我が夢」を実現したのである。
24  黒人差別撤廃に戦ったムチャーリ氏と母
 次に紹介するのは、南アフリカの黒人詩人・ムチャーリ氏のお母さん。
 氏とは、昨年五月にお会いした。南アの黒人解放の夜明けをもたらした詩人であり、忘れられぬ方である。
 ムチャーリ氏のお母さんは、自分の意見をはっきりと主張する女性であったようだ。つねに人間としての「誇り」を失わなかった。それが、かの国で、どれほど勇気のいることであったか──。
 ムチャーリ氏の生まれた南アフリカは、今でこそ差別撤廃へと改革の″時″を迎えている。しかし、長い間、黒人を奴隷状態に置いてきた人種隔離政策(アパルトヘイト)の国であった。
 こんなエピソードがある。ある肉屋が、よい肉は白人にだけ売り、黒人には腐りかけの肉を売りつけていた。お母さんは、それに激怒し、売られた肉を床にたたきつけた。
 「こんな肉は人間の食べるものではない!」と。
 その気迫に驚いたのか、肉屋は以後、肉の差別をしなくなったという。
 「悪」に対しては「強気」で責めねばならない。戦わねばならない。弱気であったり、臆病であっては、つけ込まれてしまう。それでは、「改革」はできない。
25  ムチャーリ氏が十八歳の時、お母さんはガンで倒れた。その悲しみはいかばかりであったか。
 しかし、氏の胸中に、お母さんは″生きて″いた。やがて氏は知る。「私のもっている力は母がくれたものだ。母は私の中に生きている」と。
 「私が母から教わった最大の教訓は」とムチャーリ氏は言う。「それは、たとえ肌の色や信条、人種、文化背景が違っていても、みんな同じ人間である。同じように尊敬されねばならないということでした」
 人間は人間をバカにし、差別してはならない。される必要もない。している人を許してもならない。
 「ムチャーリ」とは、ズールー語で「種をまく人」の意味という。その名の通り、氏は差別なき社会への「人権闘争」に、希望の「火種」をまき続けてこられた。
 この″ペンの戦士″ムチャーリ氏の出発点である「人間としての土台」も、最も身近な「母のふところ」からはぐくまれたのである。
 まさに、母自身の生き方──「人格」こそ、子に贈る最高の「宝」だと私は思う。
26  その他、トルコ・国立アンカラ大学のセリーン博士との語らい、また平和学の創始者・ガルトゥング博士のお母さんについても触れている。
 ともあれ、「母の力」は偉大である。
 我が婦人部の皆さまは、どうか、平凡にして偉大なる「学会の母」「広布の母」として、「一家の母」「地域の母」として、また全世界を照らす「太陽の母」として、生きて生き抜いていただきたい。
 長時間、ご苦労さま。ありがとう。晴れの総会、おめでとう! きょうは、アメリカ、ドイツ、ベルギーの代表も参加しておられる。
 また中部、北海道、東北、四国、九州、中国、東京、東海道、関東、沖縄、信越、北陸の全国各方面の皆さんも、本当にご苦労さまです。私は、これからも全国を回ります。皆さん、どうかお元気で!

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