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日蓮大聖人・池田大作

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第十回全国壮年部幹部会、第十三回九州総… 「生命の道」は「進歩の道」

1992.10.10 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

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1  「信心即健康」の遊楽の軌道を
 九州の皆さま、「大勝利」の第十三回総会、本当におめでとう!
 この会場の画面でも、皆さんの顔がよく見えます。秋谷会長をはじめ、そちらの皆さんはお元気ですか! 皆、お元気そうで本当にうれしい。
 (この日、東京・創価国際友好会館と福岡・九州池田講堂を結び、初の衛星二元中継で全国に放映)
 また、壮年部幹部会に集われた全国の皆さま、本当にご苦労さまです。
 きょうは「体育の日」。「体育」といえば、「健康」を連想する。
 私は、大切な壮年部の皆さま、そして全学会員が「長寿」で「健康」であられるよう、毎日毎日、真剣に祈っている。どうか「信心即生活」の聡明な「健康の日々」を送っていただきたい。
 仏法は″道理″であり、正しき″生活法″でもある。不摂生から健康を害し、生活を壊し、自分も周囲も苦しめてしまうのでは、信仰者とはいえない。「信心」は自分を「健康」へと向かわせゆく源泉である。信心の活動は、一切が「健康」につながっていく。
 「勤行」は根本の「生命の健康」「心の健康」を培っている。また、会合に参加する、同志の激励に歩く、御書を研鑽する──こうした学会活動は皆、自身を″リフレッシュ″させる行動となっていく。
 その意味でも、学会員として仏道修行に励めることは、本当にありがたい。その感謝の心が、自身の生命力をさらに増していく。
2  また残念ながら、現在、病気に倒れている人もあろう。
 生老病死は人間の常である。病気になったから、信心に負けたわけではない。永遠の生命から見れば、また一念三千の法理から見れば、すべてに意味がある。たとえ身は病んでも、「信心が健康」であるならば、「幸福」の境涯は揺るがない。これが信心の妙用である。
 戸田先生は、投獄され、極度の栄養失調という最悪の状態の中で「仏の境界」を得られた。牧口先生も同様である。お二人は、いかなる境遇にあっても、ただ「信心」の二字によって「衆生所遊楽」の境涯を開けることを教えてくださった。
 御本尊にいくら御力があっても、「信心」がなければ、意味がない。「信心」ある人は、いかなる状況になろうとも根本的に守られていく。必ず幸福になる。
 ともあれ、「信心即健康」の軌道で、聡明に、賢明に、健康を維持しながら、ご家族のため、自分自身のため、そして広布のため、近しい同志のために、生きて生きて生き抜いていただきたい。
 長寿といえば、青森のかしわ村にある″日本一長寿のリンゴの木″に実ったリンゴを送ってくださった。青森の皆さま、ありがとうございます。
 この″長寿リンゴ″は、年配の参加者に差し上げたい。
3  先ほども中継でご覧になった通り、本日は九州の大総会がはつらつと開催され、全九州の九十七会場に多くの同志が集われている。
 なかでも、対馬圏、福岡の城南区、小倉の門司区、筑後の東久留米圏、長崎の島原圏、鹿児島南圏は、それぞれ「区の日」「圏の日」を記念する集いとうかがった。重ねて祝福申し上げたい。
 また、今月四日に開館した宗像会館では、本日より同時中継がスタートした。新会館に集われた皆さま、おめでとうございます。
 さらに、九州の講堂には離島の代表が参加されているので、ご紹介したい。
 博多<県>の壱岐、対馬、そして長崎県・五島列島の福江島、中通島、鹿児島県の奄美大島、徳之島、沖永良部島、種子島、こしき島、喜界島の皆さん、お元気ですか! 本当にご苦労さまです。
 離島の友を代表して、今回参加された方々の「島の木」を、明年、ブラジルの地に植樹したい。
 また本日は、この会場に、アメリカ、カナダ、メキシコ、ベリーズ、スペイン、イギリス、フィリピン、シンガポール、ブルネイ、イスラエルの海外十カ国の代表メンバーも参加しておられる。遠いところ、ようこそ!心から歓迎申し上げたい。
4  堂々と日蓮の弟子と名乗れ
 ここで御書を拝したい。大聖人は、妙心尼という一人の婦人門下に、次のような励ましの御手紙を送っておられる。この方は、重病の夫を抱えながら、懸命に信心を貫いていた。御手紙は、この婦人への激励であると同時に、病気の夫への指導ともなっている。
 大聖人は仰せである。
 「中有の道にいかなる事もいできたり候はば・日蓮がでし弟子なりとなのらせ給へ、わずかの日本国なれどもさがみ相模殿のうちのものと申すをば・さう左右なくおそるる事候、日蓮は日本第一のふたう不当の法師ただし法華経を信じ候事は一閻浮提第一の聖人なり、其の名は十方の浄土にきこえぬ、定めて天地もしりぬらん・日蓮が弟子となのらせ給はば・いかなる悪鬼なりともよもしらぬよしは申さじとおぼすべし
 ──中有(臨終から次の誕生までの間)の道にあって、どんなことが起きようとも「私は日蓮(大聖人)の弟子である」と名乗りなさい。
 小さな日本の国でも「相模守殿(鎌倉幕府の最高権力者のこと。当時は北条時宗)の家中の者である」と言えば、無条件に恐れられるという事例があります。
 日蓮(大聖人)は、日本で一番の不当な法師である(一番無理な法師として、憎まれている)。ただし、法華経を信じることは一閻浮提いちえんぶだい(全世界)第一の聖人である。その名は、十方(全宇宙)の浄土(仏の国土)にも聞こえている。必ず天地も知っていることでしょう。
 あなたが「日蓮(大聖人)の弟子である」と名乗られるならば、どのような悪鬼であろうとも、よもや(日蓮大聖人の名を)知らないとは言わないであろう(すなわち、どんな悪鬼も手出しはできない、絶対に安心である)と思いなさい──と。
 大聖人は門下に、死出の旅にあっても、「堂々と、日蓮の弟子であると名乗りなさい」と教えておられる。
 御書に仰せの通り、私どもは、永遠に「大聖人の弟子」である。途中の悪坊主の弟子などではない。
5  この御書と同文の「(日蓮は)一閻浮提第一の聖人なり」などの御金言を、戦時中、宗門は、軍部の弾圧を恐れて削除した。恐るべき師敵対であり、大謗法である。
 (昭和十六年九月の宗門教学部の通達文書によると、宗門は「聖人知三世事」の「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」をはじめ十四カ所もの御聖訓を削除した。さらに、同年八月の宗務院院達では、御書全集そのものを発刊禁止としている)
 この時、師敵対の宗門と正反対に、牧口先生、戸田先生は、真実の「大聖人の弟子」として、殉難の正義の道を進み抜かれた。この歴史の事実こそ、大聖人の「信心の血脈」が学会に流れ通っていることの確かな証左であると確信する。
 また、大聖人の教えは、歴史の中で、国家主義などに狂信的に悪用されてきた。
 それを、本来の「平和の哲理」「人間主義の哲理」として、社会に蘇生させ、全世界に弘めたのは、我が創価学会である。
 大聖人はどれほどお喜びであることか。ゆえに、どれほど学会に功徳があるか──。
 私どもこそ、三世永遠に、「一閻浮提第一の聖人」の「直系の弟子」なのである。
6  この御文に続けて、大聖人は「さては度度の御心ざし申すばかりなし」──それにつけても、たびたびの御供養に、お礼の申し上げようもありません──と。
 大聖人は、門下からのつつましい御供養に対しても、最大の礼と感謝を尽くしておられる。
 反対に、宗門は、仏法史上かつてない御供養の誠を尽くした学会を、取るだけ取ったら、冷酷に切り捨てた。しかも、はじめからその計画であった。この一事を見ても、日顕宗は完全に大聖人に違背している。
7  「信心の仏法」ゆえに「信心で成仏」
 また、難にあった上野殿(南条時光)に、大聖人は仰せである。
 「いよいよ強盛なるべし、さるほどならば聖霊・仏になり給うべし、成り給うならば来りてまほり給うべし
 ──(人々に信仰を反対されたり、大きな難が来るであろう。その時こそ、諸天の加護が必ずあると信じて)いよいよ強盛に信心していきなさい。そうすれば(父上の)聖霊は仏になられるであろう。(父上が仏に)なられたならば、来られて、(あなたを必ず)守られるであろう──。
 ″難が起きた時″こそ″成仏の時″である。波のない日常ではなく、大信力を出して大難と戦うところに、「難即成仏」となる。
 大聖人は、子供の時光が強盛な信心を実践すれば、亡くなったお父さんが成仏される。そして今度は、仏に成られたお父さんが、あなたを守るでありましょうと、励ましておられる。「父子一体の成仏」の法理である。
 「其の時一切は心にまかせんずるなり、かへす・がへす人のせいし制止あらば心にうれしくおぼすべし
 ──その時、一切は心のままになるでありましょう。(ゆえに)返すがえす、だれかが信仰の邪魔をしたら、心の中で「うれしい」と思いなさい──。
 その時こそ、自在の境涯を開くことができる。「衆生所遊楽」の自分になれる。だから、難を嘆くのではなく、むしろチャンスととらえて、喜び勇んで信心に励み、父子ともに成仏していきなさいとの御指導である。
8  大聖人の仏法は、「葬式仏教」「儀式仏教」では絶対にない。「貴族仏教」でも、「権威仏教」でも「僧侶仏教」でもない。在家が自分自身の「信心」で成仏し、親をも成仏させられる「信心の仏法」である。
 御本尊も、「観心の本尊」「信心の本尊」であられる。その功徳は、私どもの「信心」によって決まる。
 自分の「いよいよ強盛の信心」によって、先祖も成仏し、成仏した先祖が、今度は生きて身近にいるかのように自分を守護してくれる。
 その合致した力によって、「一切は心にまかせる」──心のままの「自在の境涯」となれる。これが「生死不二」「一念三千」の大聖人の仏法の力用である。
 この偉大な仏法を、ゆがんだ「儀式仏教」「権威仏教」の枠に押し込め、その″命脈″を殺そうとしているのが日顕宗である。大石寺の開創に尽くされた上野殿も、さぞかし嘆かれていることであろう。
 「信心根本」に進む我が学会の歩みこそ、「御聖訓通り」の前進であると、断言しておきたい。
9  「九州」から盗用へ、世界へ
 次に九州について、ひとこと、お話ししておきたい。
 九州は中国や韓・朝鮮半島からの文化が一番、早く入ってきた「先進国」である。日本の天気も、おおむね西から変わる。いろいろな意味で、「先駆」の九州である。
 私が贈った「先駆の九州」の指針は、そうした九州の風土や文化を踏まえての期待である。
 じつは、この「九州」とは、中国では「天下」を意味する。
 中国の古代では、全土を分けて九つの州とした。伝説では天・地・人の天皇・地皇ちのう・人皇に九人兄弟がおり、中国を九つの州に分けて治めたという。
 そこから「九州」イコール「中国」、「中国」イコール「天下」を意味した。「九州長」という役職もあった。%今、学会の九州長は丸岡副会長であるが、長い歴史のある役職なのである(笑い、拍手)。
 また、「九」には「最大限」「究極」の意味もある。「『九』は『きゅう』なり」とされている。
 通常、日本の「九州」は、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の九つの国のこととするが、別説では、中国古代の「九州」=「天下」の言い方が古くに入ってきて、残ったものといわれる。
 「州」──。ご存じのようにアメリカ合衆国も、「州」からなっている。「県」とか「区」しかない他の地域に比べて、欧米的な、おおらかで広々としたイメージがあり、素晴らしいのではないだろうか。
 ともあれ中国では、「九州で一番」といえば「世界で一番」のことである。「九州美味」とは、「天下一のおいしいもの」のことをいう。
 戸田先生が「東洋広布」を託された九州男児である。「東洋へ」「世界へ」という気概で、新しい時代を開いていただきたい。
 もちろん、″気概は大きいが非常識だ″などと言われないように、着実な「信心即生活」をお願いしたい。
10  宗門の体質──御書を信ぜず、現証を軽んず
 かつて初代会長・牧口先生は言われた。同じ大聖人の仏法を持っていても、″学会は行者であり、法華講は信者である″と──。
 牧口先生は、まことに偉大な方であられた。学問的にも、世界的な大学者であられた。
 私は、牧口先生に直接、お会いすることはできなかった。しかし、あの戸田先生が、心から尊敬し、仕え、命を賭けて守られた師匠である。どれほど素晴らしい方であられたか。残された記録を見ても、深く実感できる。
 昭和十七年(一九四二年)十一月、創価教育学会の第五回総会で、牧口先生は「法華経の信者と行者と学者及びその研究法」と題し、講演されている。
 その中で牧口先生は、同じ正宗の門下にも「信者」と「行者」と「学者」の区別があるとされた。
 「信者」とは、「自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義(利己主義)」の信心をいい、旧信徒ら(法華講など)がこれにあたると。
 そして「個人主義の仏はないはずである。菩薩行をせねば仏にはなられぬのである」と強く主張されている。
11  さらに、御書を拝して次のように述べられている。
 すなわち「兄弟抄」の「今日本国に我も止観を得たり我も止観を得たりと云う人人誰か三障四魔競へる人あるや(中略)天台宗の人人の中にも法華経を信ずるやうにて人を爾前へやるは悪道に人をつかはす獄卒なり」──今、日本国において、われも止観(『摩訶止観』)を体得した、われも止観を体得したという人々のうち、だれに三障四魔が競い起こっているであろうか。(中略)天台宗の中にも法華経を信ずるようでいて、実際は人を爾善の教えへ向かわせる者は、悪道に人を行かせる獄卒である──等の文を引かれて、「さらば従来の日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問はねばなるまい」──宗門のだれも、障魔を呼び起こしていないではないか、と。
 「魔が起らないで、人を指導しているのは『悪道に人をつかはす獄卒』ではないか。然らば魔が起るか起らないかで信者と行者の区別がわかるではないか」
 僧侶も含めて、自分が本当の「行者」でもないのに、人を指導しているのは、(難の起こっていない)大聖人当時の天台宗のごとく、人を悪道に追いやる「獄卒」──地獄の番人である、と。
 御書に基づいての明快な指摘である。
 日淳上人は、牧口先生を″仏の使い″と賛嘆されているが、まことに、その不思議なご境涯がしのばれてならない。
 (昭和二十二年の創価学会第二回総会の席上、日淳上人は、牧口会長について「生来仏の使であられた先生」とたたえた。また前年の三回忌法要では「牧口先生は、価値というものを研究されて、南無妙法蓮華経を体得された、稀有のかたであります」と、遺徳をしのんだ)
12  護法の精神にあふれた牧口先生の批判は、当時の正宗僧侶に、さらに鋭く向けられている。罰論をいう学会を、「旧式信者」と一緒になって批判する僧侶がいるが、「これは実に容易ならぬ謗法の行ひである」と断じられている。
 牧口先生はじめ学会は、権力に対しても堂々と、御書に仰せの「仏法の因果の理法」を説いた。迫害を恐れる宗門は、その学会を批判し、切り捨てた。やがて学会は弾圧をうけるが、いわば宗門は、保身のために、学会を権力に売ったようなものである。
 牧口先生は大聖人の御聖訓に照らして、「御書通りにやっている学会を批判する僧侶は大謗法である」と、堂々と弾劾されているのである。正法を守るための、堕落した宗門との戦いは、この当時から始まっていた。
 さらに牧口先生は、僧侶は口ばかりで「現証によって証明して下さらないのを遺憾とする」と。大聖人が「現証にはすぎず」と仰せられた現証を軽視し、観念論にふけっていた僧侶たちを厳しく追及されている。
 いわば牧口先生は、日蓮大聖人と当時の天台宗を比べて、大聖人は「法華経の行者」、天台宗は「法華経の信者」である。それと同様に、学会は大聖人の仏法の「行者」、日蓮正宗は大聖人の仏法の「信者」にすぎないと、喝破されたのである。
 この講演の翌年、牧口先生は戸田先生とともに入獄され、正法の「行者」の証明をされた。大聖人に連なる、この殉難の歴史こそ、我が学会の誉れである。
 現在の宗門問題の″根″は、すでに当時からあった、この「行者」と「信者」の天地の差にある。今の悪侶たちに、この学会の深い確信と境涯が理解できるはずもない。
 これまでは学会は宗門を守りに守り抜いてきた。しかし、宗門が、もはや「信者」ですらない大謗法になった以上、私どもは永久に許してはならない。徹底して破折しぬく決心で戦っていきたい。そしてともどもに、「世界一の創価学会」を築いてまいりたい。もはや学会にしか、大聖人の仏法はないからだ。
13  日興上人は″わが寺″の悪院主を訴えられた
 さらに、史実に照らし、お話ししたい。
 日興上人が、御自身の修学された実相寺を、幕府に訴えられた訴状がある。
 富士・岩本の実相寺といえば、日蓮大聖人が「立正安国論」を著されるため、「一切経」を閲覧された由緒ある寺院である。若き日興上人(十三歳)と大聖人との出会いも、この実相寺であった。日興上人は、大聖人に弟子入りされてからも、実相寺で修行を続けられている。
 実相寺は比叡山系の天台寺で、いわば当時の「正統」とされていた寺院である。しかも、わざわざ大聖人が足を運ばれたように、関東方面では珍しく「一切経」がそろっていた。これは、実相寺の「開山上人」とされる智印が、苦労してそろえた貴重なものであった。
 この「開山上人」は後世のために、遺誡四十四カ条を残した。この遺誡が守られているうちは、実相寺も栄えていたという。
 しかし──。文永五年(一二六八年)、日興上人は、他の僧とともに、実相寺を幕府へ訴えられた。時の院主いんす(貫首に当たる)である慈遍じへんの乱行が、あまりにも度を超していたからである。日興上人、二十三歳の御時である。ちなみに今回、宗門を離山した青年僧侶も、二十代、三十代である。
 訴状で挙げられた罪状は五十一カ条。日興上人の直筆の御草稿が、今も北山本門寺に残っている。日興上人が糾弾された、院主らの主な乱行は、次のような内容である。
14  仏事のたびに酒宴
 日興上人は「僧侶の酒宴は経文にも誡められ、開山上人(智印)も、してはならぬとされている。諸仏の現当二世の利益を絶対に受けられない」と、厳しく裁かれている。
 この日興上人の御言葉を今の日顕宗では、どう読むのであろうか。
15  遊女を呼び放蕩
 院主の慈遍は、「高僧」という触れ込みであったが、その無道心はひどいものであった。
 宿坊に遊女を引き入れて酒を飲み、楽器を鳴らし、遊蕩三昧。僧には禁じられていた肉食をし、遊女ばかりでなく、近隣の女性まで引き込んで酒の相手をさせ、その女性たちに蚕を飼わせて、金を手に入れた。また、法務のための「馬」──今なら「車」──を遊女の送り迎えに使い、世間の人々に笑われた。
 日興上人は、昔は「清浄の寺」であったのが、今は「汚穢おわいの郷」となってしまった、「一寺の滅亡只此の時に在るか」と、深く嘆かれている。そして、幕府に即刻、院主を追放するよう訴えられたのである。言ってもわからないのであるから、もはや公の場で決着をつける以外にない──との御心であったと拝される。
16  供養を遊興に私用
 院主は、寺の本堂や蔵、その他の建物が破損していても、集めた供養を、その修復にあてようとはしなかった。もっぱら自分の「遊び」と「蓄財」にあてた。日興上人は、特にこのことを重大視されている。
 ( 「仏物ぶつもつ私用のあやまちは、婆羅夷はらい罪のもといなり」──「仏のもの」である供養を、自分のために使用する罪は、戒律違反の罪でも最も重い婆(波)羅夷罪、すなわち「教団追放の罪」の根本である──と指摘されている)
 供養は「仏のため」「法のため」に行うのである。それを「私用」するのは「横領」である。(日興上人は「押領」「押領」と繰り返されている)
 この悪院主にかかっては、金銭等を供養しても、それがどこに消えたか、だれにもわからない。また寺の「宿坊」を勝手に人に貸してもうけたり、僧の任官のたびに引き出物を強要した。金を盗んだことも、僧や住民の馬を勝手に売りとばしたこともある。
 気に入らない者がいると、何の落ち度もないのに追放してしまう。罪のない者に、無理やり罪を着せて、欲しい物を取ってしまう。少しでも抵抗すると、暴力を振るったり、在家の信者に筆舌に尽くせぬ残虐な仕打ちをした。
 寺の由緒ある桜は切り倒し、庭はイモ畑に。ともかく「横領」また「横領」であった。
 ホイットマンいわく「教会は魂の横領者である」と。
 日興上人もまた、憤りをもって、″仏法の横領者は追放するのが、仏の定められた掟である″と叫ばれたのである。
17  遊ぶ金はあっても信徒から搾取
 日顕宗も、どれほど「仏物私用」の大罪を重ねてきたか。今、表面に出てきているのは、ほんの一部である。
 遊ぶ金が、ありあまるほどありながら、寺院の建立をはじめ、自分たちは何の努力もせず、すべて学会から搾り取ってきたのが、宗門である。
 ちなみに、最近の中世史研究によれば、鎌倉時代など中世には「三宝物互用ごようの罪」があった。すなわち「仏物」「法物」「僧物」と分けて、僧侶が「仏のため」「法のため」にある資財を、自分のために使うと罪とされたという。
 僧は、生きるための必要最小限のもの以外は使ってはならないと定められていた。当然、大聖人も、日興上人も、そうされていた。
 いわんや″在家より贅沢な出家″など、絶対に大聖人、日興上人の門下ではない。根本の「信心の血脈」が完全に切れている。
18  児童・信徒に暴力
 日興上人は続けて「十五歳以下の子供は、たとえ罪があっても、法律に従って寛大に扱うよう決められているのに、十歳の少年に縄を付け、大きな筒をかけて、数日、拷問した。その後も、少年は病気となり、父母は嘆き悲しんでいる」と。
 中世でさえ、児童は大切にすべきだとされていた。いわんや現代においては当然である。子供(所化たち)に暴力を振るっていること自体、日興上人の御精神に背いているのである。
19  諸悪の根源は「貫首」にあり
 このほか、二十三歳の青年僧、日興上人は、「我が寺」である実相寺の腐敗を一つ一つ、えぐり出し、″諸悪の根源″の院主を追放しようと戦われた。
 「上の好む所、下必ず之に従ふ」と。
 すなわち「上」の院主が遊びを好み、金と暴力を好むために、「下」の僧らが、これに従って、学問と行を怠り、行学がすたれようとしている。ゆえに「上」をかえるしかないと喝破されている。
 ″悪の主″のために、実相寺は「虎狼ころう(トラとオオカミ。あるいは残忍で欲深い者)のすみかとなり」「荊棘けいきょく(人の嫌ういばら)の地と変ず」と。
 もはや、遠慮することは、仏法破壊に手を貸すことになる。そこで訴訟を起こされたのである。
20  この訴訟は、決着までに数年以上かかったようである。
 (日興上人は、翌文永六年にも「実相寺住僧等申状」を幕府に提出され、院主による寺内の不正義を訴えられている)
 堀日亨上人は「院主が数年後に、やめさせられたのではないか」と推定されている。「青年僧」の勝利であった。
 「自分の寺」、しかも当時の「正統」とされていた天台宗の寺である。訴えることが「不忠」に見える人もいたかもしれない。しかし日興上人は、反対に、訴えないほうが、正義にもとるのであり、罪になるとされた。これが仏法の精神である。
 (「愁状」の中で、日興上人は「君のため世の為非法ひほうの次第を申さずんば現と云ひ当と云ひ同罪の譴責けんせきをのがれ難きか。より恐怖くふを忘れ屡々しばしば訴訟に及ぶ」──主君のため、世のために、この寺の非法の実態を言わなければ、現世といい、来世といい、同罪の責めをまぬかれがたいであろう。よって、恐れを忘れて、たびたび訴訟するのである──と述べられている)
21  腐敗寺は元に戻らず
 この文永五年といえば、正月に蒙古の牒状が着き、大聖人の「立正安国論」の御予言が、的中した年である。
 大聖人門下の弘教は、いよいよ激しくなっていた。大闘争である。そうした「広宣流布」への大前進のなかで、日興上人は御出身の「悪の寺」と戦われた。当然、大聖人のアドバイスを受けておられたと拝される。
 院主が先頭になって、みだらな遊興にふけり、供養を横領し、罪のない者に罪を着せて追放し、暴力を振りかざす実相寺。その姿に、今の日顕宗の実態は、重なり過ぎるほど重なっている。いな、その乱れは実相寺以上である。「一閻浮提第一の悪党」と呼ぶ人もいる。
 日興上人は、破仏法の「虎狼」たちに対し、厳然と戦われた。いわば御自身の″本山″ともいうべき寺の″貫首″を相手に、徹底して悪行を暴かれたのである。
 この日興上人の御振る舞いこそ、大聖人門下の鑑である。私どもの模範である。
 今の私どもの戦いを、大聖人、日興上人が、必ず御称嘆くださっているにちがいないと、私は、声を大にして、言い残しておきたい。
22  大聖人の身延御入山の後、「熱原の法難」に至る法戦のなかで、この「実相寺」は「四十九院」と並んで、日興上人を迫害している。
 正法の「行者」は、正法を失った「本寺」「本山」から迫害される──ここに歴史の真実がある。今も変わらない「方程式」がある。
 「熱原の法難」当時、実相寺は代がかわり、別の院主になっていたようである。しかし、一度、腐ったものは、もとには戻らない。同じように、「腐りきった」寺は、もはや、もとに戻ることはないであろう。
 私どもは、私どもの正しき信心の道を生き抜く。これまで貫いてきた「大聖人直結」の道を、ただひたすら、前へ進むのみである。
 日興上人は「実相寺の開山上人の御遺誡を守れ」と迫られた。
 今、日興上人の御遺誡二十六カ条の御精神を高く掲げ、「大石寺の開山上人の御遺誡を守れ」と訴え、戦うことが、日興上人への御報恩なのである。
23  学会員の「一日」は「永遠」に通ず
 さて、大聖人は「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」──一日の命は、三千世界(宇宙)の全財宝よりも尊いものである──と仰せである。
 「一日、生きる」、その生命は、あらゆる財宝を集めたよりも尊貴であると。
 きょうの「一日」が大切である。私も、一日一日を大切に、会員の方々のために尽くして生きようと決めている。これが私の信条である。
 さらに「法華経にあわせ給いぬ一日もきてをはせば功徳つもるべし、あらしの命や・をしの命や」──法華経に巡りあわれたのだから、一日生きておられればその分、功徳が積もるのである。なんと大事な命であろう。大事な命であろう──と。
 皆さま方は、使命ある大事な生命である。外見は世間の人と同じように見えたとしても、広布に生きる学会員の「一日」は、その″生命時間″から見れば、「永遠」に通じる尊い一日なのである。
 どうか「きょうも楽しかった、勝った」「きょうも悔いがなかった」「充実の歴史をつくった」と言える一日一日を、丁寧に積み重ねていただきたい。
24  魯迅「我、死すとも敵を許さず」
 最後に、「創価の父」である皆さま方に敬意を表して、中国の一人の「父」の話をしたい。「中国近代文学の父」といわれる魯迅(一八八一〜一九三六年)。その晩年の話である。
 ご存じの通り、彼は時代の暗闇に明かりをかざそうと、ペンを手に立ち上がった革命家であった。私も何度も論じてきた。
 亡くなる一九三六年には、彼の体は病に侵され、病床に伏せる日が多かった。
 体重も三十七キロにまで減り、肺は五分の四が腐っていたという。しかし、彼の″闘争のペン″は、勢いを止めなかった。
 「わたしは(中略)決して休戦しません。最低五、六万字の文章を書いて、これまでに溜まった鬱陶しい気持を全部吐き出してしまいたいと思っています。それはじつは将来へ残すすこしばかりの遺産です」
 こう言って彼は戦い続けたのである。
 病に倒れようと、戦いはできる。恩師・戸田先生も、最後の最後まで、身は病床にありながらも、毅然と広布の指揮を執られた。
25  魯迅は言う。「光明を戦い取らねばならない。よしんば自身がそれに遇うことができなくとも、後に続く者に残すことができる」──と。
 総じて、偉い人の仕事は、「自分のため」の次元ではない。「人のため」「社会のため」である。堕落し反逆していく人間は、いろいろな理屈をつけようとも、結局、「自分のため」の卑しい心が根本である。
 後輩のため、そして後継の友のために戦い、道を残していく──ここに偉大な「父」の心がある。
26  魯迅は、″裏切り者″や″人間をいじめる者″と容赦なく戦った。ゆえに敵が多かった。
 亡くなる一カ月前、彼は「遺言」ともいうべき文章の中で書いている。
 「ヨーロッパ人は死に臨んで、他人の許しを請い、自分も他人を許すという儀式をよくやる……(中略)わたしの敵はかなり多いほうだ」
 それでは自分は、臨終の際に何を言おうか──。「わたしはしばらく考えてから、こう決めた。勝手に恨ませておけ、わたしのほうも一人たりとも許しはしない」
 ″たとえ死に至っても、敵は一人たりとも許さない″″断じて最後の最後まで戦う″──これが魯迅の″遺言″であった。
 この言葉を聞いて″敵″の人間たちは、魯迅は「本当に″死んでも直らない″!」と歯ぎしりして悔しがり、また恐れたという。
27  大聖人も「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」──愚人にほめられることは、最も恥ずかしいことである──と仰せである。たとえ一人であっても、何があろうともビクともしない、巌のごとき信念の勇者がいれば、敵を震えあがらせることができる。
 「創価の父」である壮年部は、正法の敵を恐れさせ、同志には安心を与える「柱」の存在であっていただきたい。その「厳たる一人」の頭上には、「永遠の勝利の冠」が輝いていく。
28  魯迅は「生命の道は、進歩の道である」と語った。
 「進まざるは退転」ともいう。つねに前へ、そして前へ──それが″生きる″ということである。
 私どもは、いつも新鮮な心で、「戦い」から「戦い」へ、「勝利」から「勝利」へと、偉大なる「王者の道」をともどもに歩んでまいりましょう。九州万歳! 壮年部万歳!

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