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日蓮大聖人・池田大作

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第五十八本部幹部会・全国婦人部幹部会 学会は「功徳聚の世界」

1992.9.25 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

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2  功徳の同志の荘厳な出発
 毎日、全国の多くの同志から、お手紙を頂戴する。拝見するのに、一日がかりになる場合もある。きょうは、その中から、先日、北海道の舘百合子さん(第七北海道婦人部長)からいただいた、お便りの一部をご紹介したい。
 舘さんのお父さまの故・岩崎武雄さん(昭和29年入信、平成2年去、享年86歳)は、故・緒方博愛さん(昭和28年入信、同61年去、享年69歳)らとともに、北海道創価学会の土台を築かれた大功労者であられる。
 お手紙には(「母にも、溢れるような激励の数々、本当に生命を何年ものばしました」と記されたあと)「父も、亡くなる年の春、厚田の雪がとけない春先に、長ぐつを車につんで出かけ、八十六歳の父には足もとが危なそうなのにハラハラしながらも、雪をこいで(かきわけ)、三代の会長先生の墓前にたどりつき、祈っていた姿を思い出しました。そして、この四月一日、戸田先生の法要の日、元気に杖をついて、墓前に参り、″戸田先生、私もそろそろ、おそばに行きます″と、つぶやいていました。その半月後に調子が悪くなり、ひと月後に亡くなりました」とあった。
 岩崎さんは、ご高齢になられてからも、事業を営まれていた。見事な功徳の姿で、学会の広布推進に多大な貢献をされた方である。
 確信といい、実証といい、草創の幹部は、立派だった。今は、すべてに恵まれ過ぎていて、訓練を受けず、かえって信心の偉大さを知らずにいる場合がある。
 岩崎さんは雪をかきわけ、かきわけ、歴代会長の墓前へ進んでいかれた。歴代会長の墓といっても、私はまだ元気で生きているのだが、三代が並んで造られているのである。そして岩崎さんは″そろそろ戸田先生のおそばに″と、安祥として旅立たれた──本当に崇高である。
 熱き師弟の心、学会の心、信心の心がある。素晴らしい成仏の姿だと信ずる。
3  今月十三日に亡くなられた、神奈川・逗子の山縣明子さん(昭和33年入信、支部指導委員)も、忘れ得ぬ同志の一人である。享年六十六歳であられた。
 山縣さんは、元海軍大将・山縣正郷氏の娘さんである。母・愛子さん(昭和36年入信)とともに、立派な信心を貫かれ、学会の発展に、最大に尽くしてこられた。
 山縣さんが亡くなられた日、私も、神奈川の地にいた。次女・ひろみさんの話によると、山縣さんは最後に「先生……」と(二度)呼ばれ、安らかに息をひきとられたそうである。荘厳な出発たびだちであられた。
4  ともあれ、学会を守り、「広布一筋」に尽くしてこられた方々は、皆、立派な姿で亡くなられている。
 ここにおられる和泉先生(最高指導会議議長)の奥さま(ミヨさん、草創の理事等を歴任、昭和15年入信、同59年去)も、そうであった。
 小泉先生(小泉隆・参議会議長、昭和15年入信、同63年去)、牛田寛・初代男子部長(昭和22年入信、同40年去)、馬場勝種さん(草創の築地支部長、昭和23年入信、同34年去)、笹木正信さん(草創の本郷支部長、昭和23年入信、同39年去)も、立派な成仏の姿であった。
 反対に、真剣に広布に励む学会員を見下し、″われ尊し″と傲っていた人間たちが、今、どうなっているか。死を前に、生き地獄としか言いようがない姿で苦しんでいる者もいる。仏法は厳しい。
 大聖人の「正しき仏法」を「正しき信心」で持ち、「正しき行学」を貫いているのは創価学会だけである。ゆえに学会員だけが、御本仏に見守られながら、生死ともに幸福の大道を進んでいる。
5  健康長寿への知恵は学会活動に
 さて、ある調査によると、「夫人に先立たれた男性」は「夫人が健在の男性」に比べて、死亡率が四〇%も上昇するという。亡くなる人が通常の一・五倍近くにもなるわけである。急速に老け込み、数年以内に亡くなる男性も多いという統計がある。厳しい現実である。
 一方、「夫に先立たれた女性」のほうは、関係なく長生きされている。
 いかに女性がたくましく、また陰で男性を支えておられるかというデータである。
 やはり女性は、ご家族の「太陽」なのである。太陽は沈んではならない。自分のため、皆のために、どうか全員が「健康で長寿」であっていただきたい。その事実のなかに「信心」の証があり、「広宣流布」の輝きもある。
 「太陽」といえば、(東京の)豊島区の太陽支部の皆さま、ご活躍はよくうかがっています。昔は、巣鴨拘置所も近くにあった。今は、太陽支部の名の通り、明るく活動を進めておられ、地域に「太陽」が昇り始めた。
6  「長生き」の秘けつは何か。個人差もあり、さまざまな考え方がある。私どもでいえば、唱題行が根本であることも当然である。
 そのうえで、一般的に、心のもち方が大きく関係しているといわれる。
 たとえば、(1)「くよくよしない」ことが大切とされる。
 釈尊も、ある仏典で言われている。
 「過去を追うことなかれ。未来を思いわずらうことなかれ。過去は過ぎ去ったものである。未来はいまだ来ていないものである。ならば現在することをおのおの心得て、揺るがず、動ぜず、それを正しく実践せよ。ただ、きょう、まさに作すべきことを熱心になせ」
 過去にいつまでもとらわれて苦しんだりどうなるかわからない未来のことで、思いわずらうのは愚かである。それよりも、ただ「きょう、なすべきこと」を、立派に果たせ。「きょう」という一日を一生懸命、ていねいに生きることだ。こう説くのである。
 長生きされている方は、だいたい楽天的な方が多いようである。いい意味での楽観主義で、楽しく毎日を送っていただきたい。
7  また、(2)「目標をもって生きる」ことである。
 フランスのド・ゴール元大統領(一八九〇〜一九七〇年)は、個人にとって「希望の終わりは、死の始まり」と語っている。
 「希望」が「生命」なのである。希望を失うことは、人間としての生命を失うことである。そして信仰とは、永遠に「希望に生きる」ことである。みずから希望を生み出し、希望を実現し、さらに、より大きな希望に向かって、いよいよ元気に進み続ける。その原動力が「信心」なのである。
8  (3)「ユーモア、笑いを忘れない」ことも大切である。
 ヨーロッパには、「愉快な心はお医者さん」という古い言葉もある。
 哲学者のカントも、「大声の笑いは、肉体にとって医師の働きをする」と論じている。
 日本人の中年以上の男性は、あまりユーモアがないといわれる。ユーモアとは、ふざけではない。伸び伸びと「開かれた」心であり、心の「ゆとり」である。
 「愉快な心」をもって生きたい。そのためには日々、人生に″勝つ″ことである。堂々たる生命力をもって、前へ前へと進むことである。
9  さらに(4)「何らかの仕事、使命に励む」ことである。
 ノーベル平和賞も受けたシュヴァイツァー博士は、「私は、仕事ができるうちは死ぬつもりはないんだ。そして、仕事をしているかぎり、何も死ぬ必要はない。だから私は長生きするよ」と言っていたそうである。事実、九十歳を超えて生き抜いた。
 ″自分には、なすべき使命があるんだ。使命があるかぎり、死ぬ必要はない。死ぬはずがない″──この「確信」が長寿への「生命力」のもとであったと考えられる。
10  ほかにもあるかもしれないが、こうした諸点も、すべて仏法のなかに、学会活動のなかに含まれている。
 広宣流布という「大目的」に向かって、「希望」と「愉快な心」と「使命感」をもって、朗らかに進む創価学会。その学会とともに進む皆さまが、だれよりも充実した、素晴らしい人生となることは当然である。
 大聖人は、四条金吾の夫人に「年は・わかうなり福はかさなり候べし」──年は若くなり、福運は重なりますよ──と約束しておられる。
 この「妙法の大功力」を実感できる皆さまであっていただきたい。
11  仏教はもともと″在家による葬儀″
 ところで仏教における葬儀といえば、いつしか″僧侶が行う″ことが当たり前のように思われてきた。
 しかしじつは、仏教の原点である釈尊の時代、僧侶は葬儀などするべきではないと考えられていた。釈尊自身の葬儀も、在家が行った。これは歴史的事実である。
 釈尊が入滅する直前の様子を述べた経典にも次のようにある。
 一番そばについていた侍者の阿難が聞いた。
 「尊い方(釈尊)よ。修行完成者(釈尊)のご遺体に対して、われわれ(僧侶)はどうしたらよいのでしょうか」当然の心配であったろう。
 釈尊は明快に答えた。「阿難よ。お前たち(僧侶)は修行完成者(私=釈尊)の遺骨の供養にかかわる必要はない。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力しなさい。正しい目的を実行しなさい。正しい目的に向かって怠らず、勤めなさい。(修行に)専念しなさい」
 これが、側近の僧侶に対する死の直前の釈尊の遺言であった。
 僧侶の勤めは、第一に「自分の修行」であり「自分の人間完成」である。この「正しい目的」に向かって、ただひたすらに努力しなさい。怠ってはならない。葬儀などの儀式にかかわっているひまがあるなら、その分、修行に専念しなさい、と。
 このように釈尊は、自身の葬儀の一切を「在家の人々にまかせよ」と命じた。
 そこで、釈尊が亡くなると、クシナーラーの在家の住民マッラ族によって葬儀が執行された。
12  日蓮大聖人も、御自身が「信徒の葬儀」を執行された例は、御書には一つもない。日興上人はじめ弟子の方々も、同様に信徒の葬儀を行われていたという記述はない。
 いわゆる「戒名」も、大聖人は認めておられない。あったのは、死後につける戒名ではなく、生前につける法名である。(たとえば大聖人は御父母には妙日、妙蓮の法名を与えられている)
 現在のような「位牌」も、「過去帳」も用いられていなかった。(多くの宗派が″葬式仏教″になったのは室町時代から江戸時代である)
 今や宗門では大聖人、日興上人の御精神は、まったく失われ、金もうけのための″宗教屋″になり下がってしまった。宗門は完全に「法滅」の姿である。
13  こうした歴史を見るとき、学会の「友人葬」「同志葬」、また同志による「追善勤行会」等は、不思議にも、釈尊と大聖人の時代と同じあり方になっている。
 しかも仏法の「追善」の本義は、「自分の仏道修行の功徳」を回向するところにある。自分の成仏が根本である。
 御書には「父母の成仏即ち子の成仏なり、子の成仏・即ち父母の成仏なり」──父母の成仏はそのまま子の成仏であり、子の成仏はそのまま父母の成仏なのである──と。
 私どもが広宣流布に戦い、成仏の功徳を得ていってこそ、父母をも成仏させることができる。また、父母が一生懸命、広布に尽力して亡くなった場合には、子供に福運がいく。守られていく。その意味で、正しき「広宣流布の団体」創価学会にしか、真の「追善」はないのである。
 要するに、「儀式」によって成仏するのではない。「信心」によって成仏するのである。それが真の追善である。これこそ大聖人の御結論であり、私どもは今、名実ともに、御書の仰せ通りの実践を行っているのである。
14  日韓を結ぶ「美の至宝」
 先ほども紹介したように、本日は、韓国の婦人部・女子部の代表の方々も、衛星同時中継を通じて、この会合に参加されている。重ねて、ご苦労さまと申し上げるとともに、ここで、韓国の話をさせていただきたい。
 ご存じの通り、今月五日から、十一月八日までの予定で、東京富士美術館において、「高麗朝鮮陶磁名品展」が開催されている。
 すでにご覧になった方もおられるかもしれないが、これは、国宝・宝物十三点を含む、韓国陶磁の名宝百五十二点を一挙に展示するもので、国外初公開のものばかりである。
 私も、一点一点を鑑賞して、「美の至宝」の放つ光に感動した。オープニングに出席された来賓の方々も、「日韓友好に大きな足跡をしるす画期的な内容です」と、口々に賛嘆されていた。
15  さて、今からちょうど四百年前の一五九二年、豊臣秀吉は、朝鮮(李氏朝鮮)に十五万もの大軍を送り込み、侵略した。以来、七年にわたる戦乱となり、朝鮮の国土に筆舌に尽くせぬ損害を与えた。
 野蛮きわまりない略奪、暴行、破壊──。罪もない多くの人々が殺され、都市も農村も荒れ果てた。また多くの国宝級の文化財も壊されたり、持ち出された。
 これまで何度も申し上げてきたが、韓国・朝鮮は、日本にとって、「文化の大恩の国」である。古代以来、韓・朝鮮半島からさまざまな文化が日本に伝えられてきた。仏教もそうである。この一点をもってしても、日本は言い尽くせぬ恩恵を受けている。
 にもかかわらず、日本は、その大恩を踏みにじり、隣国の人々を苦しめてきた。中国に対しても同様である。あまりにも非道な、人間の道を外れた日本であった。
 大聖人は、「一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき彼等がうみひろ生広げて今の世の日本国の一切衆生となれるなり」──一闡提人(正法を信ずる心がなく成仏できない衆生)といって謗法の者だけは、地獄の獄卒に留められた。彼ら一闡提人が(子孫を)産み広げて、今の世の日本国の一切衆生となったのである──と仰せであるが、大聖人を迫害した日本人の罪業の深さを、よくよく考えなければならない。
 また、隣国に対する日本人の侵略は、永久に消えない悪業の歴史を刻んだ。
 小人物は、地位が上がったり、大金を持つと、それだけで自分が偉くなったように錯覚し、傲慢になる。平気で相手を見くだすようになる。恩も忘れ、恩人をも踏みにじって、自分の卑しい野望の犠牲にしようとする。かつての日本がそうであった。今の日顕宗も同じである。
 こうした過ちを二度と繰り返してはならない──これが、私の心底からの願いである。日本の宿命転換をなさねばならない。
 これからも、私どもの立場で、文化交流、教育交流を通じ、日本と韓国、そして中国との間に、万代にわたる「平和」と「友好」の道をつくってまいりたい。
16  韓国の救国の英雄を支えた母の心
 ところで、豊臣秀吉の侵略に対し、断固、戦い抜いた偉大なる勇者がいた。英雄の名は、李舜臣イ・スンシン(一五四五〜九八年)。水軍(海軍)の名将軍である。
 きょうは、なぜか″将軍″の話題が多く出るが、皆さまは、お一人お一人が広宣流布の″将軍″であり、英雄であられる。
 さて、国王が都を逃れ、多くの官僚たちが逃亡するなか、彼は一人、毅然と立ち上がった。四十八歳の壮年であった。
 李舜臣の先頭に立っての指揮のもと、ありとあらゆる困難を乗り越えて、水軍は連戦連勝。豊臣軍を徹底的に打ち破った。痛快な勝利であった。
 一人立った彼の獅子奮迅の戦いが、やがて祖国を最後の勝利に導く。
 また、彼は高潔な人格の人でもあった。清廉潔白を信条とした彼は、出世のために権勢に迎合したり、権力者の前でみずからの信念を曲げたことはなかった。そのため、権力者から煙たがられ、役職を解任されたり、冤罪におとしいれられたりした。
 祖国の危機を救った彼は、今も歴史の英雄として人々の尊敬を集めている。その功績をたたえ、韓国(ソウル市とプサン市)には銅像が建てられている。
17  彼を英雄たらしめたものは、一体、何であったか──。
 さまざまに論議されるところであるが、ひとつの大きな要素として、″母親の賢さ″が挙げられている。
 豊臣軍の侵略が始まった時、彼の母は、八十歳にとどこうという高齢であった。病気がちでもあった。
 しかし心は燃えていた。母は、祖国の危機を憂え、手紙で息子を厳しく叱咤した。広布の戦いに消極的な子供を叱咤、激励する婦人部の皆さまの姿にも似ている。
 母はつづっている。「舜臣よ、これはいったい、どうしたことなのです。凶悪きわまる倭賊わぞく(日本人)の侵入をうけ、世の人々が怒りで眠ることさえできないというのに、国の臣下である者がどうして戦わず、その戦いに命を惜しむことがありましょうか! この老いた私がおまえに頼みたいことは、海上での戦いで命を惜しむなということです。ただ祖国と民族のために、勝利の太鼓が響きわたるよう願うのみです。たとえおまえが倒れても、この私は涙を流しながらでも、おまえの勝利をたたえます。それをこの上ない喜びとします」と。
 勝って勝利の太鼓を、民衆の歓呼の叫びを、祖国に響きわたらせてもらいたい──母の切なる願いであった。
  
 母の毅然たる一言が、息子の心に火をつけた。この瞬間、救国の勇者が生まれた。
 母が本当に「真剣」ならば、子供の生命の奥底を揺さぶらないはずがない。見栄や気がねをかなぐり捨てて、本気になったとき、必ずその一念は通じていく。
 英雄は、このときの母の言葉を生涯、忘れることがなかったにちがいない。母の一言を思い起こすたびに、勇気百倍となったであろう。
 母親で決まる。母の一念の深さが、すべてを変えていく。
 今回の宗門問題においても、決然として、いささかも動じなかったのは婦人部の皆さまである。先頭に立って正義の叫びをあげたのも婦人部の皆さまである。正法を守り、学会を守る不動の一念が、「正義の勝利」へ突破口を開いたと、私は確信している。
18  女性の一念が歴史を変える
 豊臣軍との戦いには、多くの庶民も立ち上がった。
 そのリーダーとして活躍した人物の一人に、郭再祐カク・ジェウ(一五五二〜一六一七年)がいる。
 戦乱が迫り緊迫した世情にあって、はじめ彼は三十代の働き盛りにもかかわらず、のんびりと暮らしていた。最初の妻を病気で亡くし再婚したが、悠々たる暮らしぶりは相変わらずであったという。
 そんな彼を、何が″英雄″にしたのか──。それは夫人の力であった。
 再婚してまもなくのことである。新妻は、ろくに家事もせず、自分の部屋でゴロゴロと昼寝ばかりするようになった。それが数カ月も続くと、当然、村の評判にまでなってしまった。もちろん、家族も快く思うはずがない。
 たまりかねた彼は、ついにある日、昼寝していた妻をたたき起こし、大声で怒鳴った。
 「いったい今、どういうご時世だと思っているのか!」
 夫の言葉を聞くと、夫人は、すっと起き上がった。そして悠然と髪をなで、襟を正しながら言った。
 「よくぞ、おっしゃって下さいました。それならばお聞きしますが、もし外敵がわが国に侵入してくれば、あなたは酒の杯と文読む机で相手をなさるおつもりですか」「この国に生を享けた益良雄ますらおならば、当然、友人や若者たちと馬術に励み、武術をみがいて敵に備えるべきではありませんか」と。
 あまりにも落ち着いた、しかし毅然とした態度である。
 妻の一言で、彼は目が覚めた。自分の恥ずかしい姿を思い知らせるために、妻は、わざと、だらしない生活をしてみせたのか。
 ″そうだったか! 俺を奮起させようと思って……。ようし、やるぞ!″
 それ以来、彼は人が変わったように働き、武術の練習や同志との作戦の相談に、真剣に取り組んでいった。あらゆる行動が、輝き始めた。
19  「真剣の人」ほど強いものはない。光るものはない。美しいものはない。
 いわんや「真剣」の二字で信心に励む人は、三世十方の諸仏、諸天も、真剣に、その人を守っていく。御本仏・日蓮大聖人の大慈悲に厳然と包まれていくことは間違いない。また周囲の人も、心打たれ、動かされていく。ふざけがあったり、中途半端であれば、本当の大功徳は出ない。
 夫人もまた、周りの人が驚くほど、てきぱきと夫の仕事を助けた。夫婦二人して、敵との戦いに周到に備えた。やがて決戦の時を迎える。彼の率いる軍は連戦連勝を続け、侵略軍に大きな打撃を与えたのである。
 大聖人は、夫を「矢」、夫人を「弓」に譬えておられるが、このとき、夫の力を最大限に引き出したのも、夫人の毅然とした「一念」と「聡明さ」であった。
 まことに、夫人の聡明な知恵は、家庭を変え、一家を繁栄へと導く。さらには社会、そして一国の未来をも開いていく。この逸話は、「婦人の力」の偉大さを示す貴重な教訓と思う。
20  学会の「信心」に宇宙の「功徳」が雲集
 最後に御書を拝したい。
 大聖人は、「法華経の行者」である御自身のおられる場所には、霊山の釈尊も多宝如来も、十方分身の諸仏も、地涌の菩薩も迹化の菩薩も、梵天・帝釈も、竜神・十羅刹女も集まっておられると述べられている。
 (「我が身法華経の行者ならば霊山の教主・釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大士・迹化の大菩薩・梵・釈・竜神・十羅刹女も定めて此のみぎりにおはしますらん」と)
 大聖人のおられる場所とは、今でいえば御本尊のあられる場所であろう。この御文は、御本尊の相貌を述べられているとも拝される。
 そして大聖人は、「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」と仰せである。「信心」のあるところが「霊山」なのである。
21  大聖人は、御自身のおられるところは「功徳聚の砌なり」──功徳の集まっている場所である──とも仰せである。
 すなわち、「水あれば魚すむ林あれば鳥来る蓬莱山には玉多く摩黎山には栴檀生ず麗水の山には金あり、今此の所も此くの如し仏菩薩の住み給う功徳聚の砌なり」と。
 ──水があれば魚がすむ。林があれば鳥が来る。蓬莱山ほうらいさん(中国の伝説の山)には玉(宝の石)が多く、摩黎山(南インドの山)には、栴檀(香木)が生ずる。中国の麗水という川が流れる山には金がある。今この所も、同様である。仏菩薩の住まわれる「功徳の集まっている場所」である──。
 大聖人の御生命が脈打つところ、そこは全宇宙の功徳が充満する仏土なのである。
 今、大聖人の正法を正しく行じ、全世界に広宣流布しているのは、ただ創価学会だけである。学会以上に「法の供養」「財の供養」を重ねきってきたところはない。その功徳は永遠である。御本仏直結、御本仏直系の学会は、世界一、いな宇宙一の「功徳聚の世界」なのである。
 この学会に連なり、学会を守る功徳もまた、計り知れない。どうか、これからも、この強い確信で、「最高に楽しい人生」を、仲良く生き抜いていただきたい。
22  終わりに一言、ご紹介しておきたい。
 スペースシャトル「エンデバー」に日本人として初めて乗り込んだ毛利まもるさんが、宇宙空間で、さまざまな実験を行ったことは、ご存じの通りであるが、そこには実験(″宇宙酔い″の)のためにコイが持ち込まれた。
 このスペースシャトルに乗り込んだ「宇宙ゴイ」と一緒に生まれ、同じ池で育った「兄弟ゴイ」二十一尾が、先日、届けられた。(愛知・弥富やとみ金魚漁業協同組合で養殖されたコイで、尾張の海部あま圏の友から届けられた)
 コイは現在、渋谷区内の池で飼われている。きのう私も″対面″したが、大変に元気で、″皆さんにくれぐれもよろしく″とのことであった。
 このコイを、創価大学の「文学の池」、東京・創価学園の「友情の池」に、数尾ずつ放つよう提案したい。
 このコイを贈ってくださった方々に、心から御礼を申し上げたい。
 それでは、きょうは本当にありがとう。ご苦労さま! どうか、お元気で!

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