Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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青年部幹部会、学生部・未来部総会 人間愛に生きる「魂の英雄」たれ

1992.9.12 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

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1  賢く、聡明に、楽しい家庭を
 全国の青年部の幹部会、学生部(第三十六回)、未来部(第五回)の総会、おめでとう! 本当に、ご苦労さま。
 はじめに、特に未来部の人に語っておきたい。それは、楽しい家庭であるために、自分自身が賢く、聡明であってほしいということである。
 お母さんというのは昔から″子供を叱る生きもの″に決まっている。へたに逆らうと、ますます怒る。だから、何か言われたら、すぐに「はい!」と、返事だけでもきちんとすれば、ひとまず、ほこ先はかわせる。けんかばかりしていては、お互いが損である。
 お母さんが怒り始めたり、お父さん、お母さんが、夫婦げんかを始めたら、「ああ、健康な証拠だな」、「まだ死なない、大丈夫だな」と、良いほうに、良いほうにとっていけばよい。
 「ドラマみたいでおもしろいな」、「どっちも、頑張れ」と、楽しいほう、楽しいほうに受けとめていける人が、賢い人である。
 じつは、お父さん、お母さんも大変なのである。社会でも、いろんな苦労がある。それを、わかってあげ、思いやってあげられる皆さんであってほしい。
 たまには、「父上!」、「肩でも、おもみいたしましょうか」と、うまく″おせじ″を使ってあげれば、たとえ口先だけでも、親はうれしいものである。
2  また、親は、子供を叱ってから、あとになって、心で悩むものである。「叱りすぎたかな」「家出したり、自殺したら、どうしよう」と後悔し、悩む。そうした親の気持ちも知っておいていただきたい。
  古いことわざに「子はかすがい(子供は夫婦の間をつなぎとめる働きをする)」とある。それはそれとして、子供が聡明であれば、それだけで、ずいぶん家庭は明るく、楽しくなっていく。そういう人間の心の機微をわかる皆さんであっていただきたい。
3  内なる大宇宙へ!諸君は″生命の宇宙飛行士″
 日本人宇宙飛行士の乗ったスペースシャトルが今晩、打ち上げられる。
 宇宙へのロマンは素晴らしい。そして、それ以上に偉大なのは、生命の奥底の神秘、″内なる宇宙″への探究と開拓である。
 我が生命の奥底に、「九識心王真如の都」がある。全宇宙と一体である。この限りなき″内宇宙″を開拓し、自在に駆けめぐっていく、いわば″生命の宇宙飛行士″。それが日蓮大聖人の仏法の信仰者であり、諸君なのである。
 また、全国の会場には、多くの「会友」の皆さんが参加されている。「ようこそ」と歓迎申し上げたい。
4  本日は、英知の学生部の諸君も参加されているので少々、スピーチしたい。未来部の皆さんには、少し難しいかもしれないが、あえて語っておきたい。
 二十一世紀の指導者である諸君は、仏法を根本に、幅広く多角的に学んでいってほしい。特に「人間」について深く知った指導者であってほしいからだ。
5  独裁者スターリンの魔性と狂気
 独裁者・スターリン(一八七九〜一九五三年)については、これまでも何度かお話しした。
 スターリンは、一九三六年から三八年のわずか三年間で、七百万から九百万人もの無実の人々を粛清(方針に反する者を抹殺すること)したとされる。犠牲者は、一説に五千万人にのぼるとも言われている。正確な数字がわからないほどであった。
 先日(九月五日)お会いした作家のアイトマートフ氏(駐ルクセンブルク・ロシア大使)のお父さまも、スターリンの犠牲者の一人で、一九三七年に銃殺されている。当時、アイトマートフ氏は九歳であった。
 氏は「当時のことは鮮烈に脳裏に刻まれています。それ以来、私は不条理な社会を変革するために断じて戦うことを決心したのです」と心情を述べておられた。
 戦い。父の仇討ち──決意した氏が手に取ったのは銃ではなく、ペンであった。作家となって、みずからの文を″銃弾″として、悪を倒すことを、心に期したのである。
 民衆を冷酷に虐殺した権力者。宗門では多くの僧侶が「日顕は、まさにスターリンだ」と、陰で話しているという。
6  (1)心をゆがめた「生い立ち」
 スターリンの、異常な人格については、さまざまに伝えられている。まず彼には、複雑な生い立ちから培われた″憎悪の心″が強かったという。
 彼は田舎の、極貧の靴屋の息子として生まれたが、家庭には安らぎも楽しさも、まったくなかった。
 父親は、短気で粗暴な男であった。スターリンは、父のひどい暴力に、いつも怯えていなければならなかった。幼い日の彼は、つねに体のどこかが打ち身のあとで腫れていた。父の暴力がもとで、身体に障害も残ってしまった。
 彼は幼年にして、「憎む」ということを覚えた。環境を憎み、父親を憎み、やがては人間という人間を憎みさえした。
 また、学校に入ると、友人たちが皆、自分より経済的に恵まれている、と悩んだ。みずからの″境遇″に対する劣等感は、他人への妬みとなって表れた。人が苦しむのを見て喜び、少しでも気に入らないと徹底的に暴力をふるった。
 彼にとって、人の不幸は″善″であり、人の幸福は″悪″であった。あわれにも、そのような見方が、染みついてしまったといわれる。
 みずからの″育ち″に異常なまでの嫌悪を抱いていたせいであろうか。彼は、のちに権力を握ると、自分の幼少のころを知る人々を、次々に処刑している。人は自分の環境を克服して立派な人間になることもできる。しかし、彼は、環境に負けてしまったのである。
7  (2)「自分さえよければ」の卑劣さ
 また彼は、「自分さえよければいい」という卑怯な人間であった。
 彼の行動の基準は、″自分のため″という一点にしかなかった。自分がより大きな権力を得るためには、あらゆる人を利用し、多くの人々を平気で犠牲にした。
 若いころから革命運動に身を投じたが、つねに「前進せよ、恐れるな」と、かけ声をかけるだけで、自分は決して危険な所へは現れなかった。事態が危うくなると、同志を見殺しにして、いち早く逃げ出した。
 三百人のデモ行進を指揮していたとき、全員が逮捕されたが、リーダーの彼だけ逃げおおせたということもあった。
 また、「進め!」という彼の号令で突撃した同志の多くが銃殺されたときも、彼はうまく隠れて、まったくの無傷であった。この卑劣な生き方は、生涯、変わることがなかった。
8  宗門も骨の髄から「自己中心」である。自分のことしか考えず、信徒がどれほど悩もうと、他の人々が、どれほど苦しもうと関係ないとする。人のことなど、まったく考えない。まして広宣流布や社会、世界の未来など、どうなろうと、一片の関心もない。まさに畜生の心である。また、人に命令ばかりして、何か事件が起きると、自分はすぐに行方をくらましてしまう、この狡猾さ。
 ──「独裁者」の本性は、いずこの世界でも共通である。
 (ちなみに日顕は教学部長時代、当時の妙信講の攻撃から″敵前逃亡″し、約一カ月間、温泉に雲隠れした。破折の先頭に立つべき当事者であったにもかかわらず。この行動を日達上人は深く憤っておられた)
9  (3)肥大した異常な「嫉妬心」
 さてスターリンは、自分よりも優れ、恵まれている人に対しては、悪魔的ともいえる「嫉妬心」を抱いた。他人が勲章をもらうのを見れば、自分もそれを手にしなければ気がすまなかった。とにかく自分が一番にならなければ、おさまらないという性格であった。
 同時代のロシアの政治家であるブハーリン(のちにスターリンによって処刑された)は、こう語っている。
 「スターリンは誰か他の人がもっているものは、自分も持たないと生きて行けないのだ」と──。
10  (4)わがままな「幼児性」と「残忍さ」
 またスターリンは、極端な「幼児性」の持ち主であった。大変に″気まぐれ″で、何か気に入らないことがあれば、何日も会議に出席しないこともしばしばあったという。自分の思い通りにならないことに対しては、すぐさま″怒り″と″恨み″を抱いた。
 それゆえ彼は、他人と対話することができなかった。納得させるのではなく、自分の考えに反対する者には、すべて残忍な暴力を行使したのである。
11  「対話拒否」「問答無用」──これもまた独裁の特徴である。今も、宗門はまったくこの通りである。
 学会に対する一連の″処分″も、対話など一切ない。すべて一方的な通告だけであった。
 「広宣流布」のため、「正法」のための、道理に基づいた「外護」の言葉でさえ、″自分に反対した″と逆うらみするだけ。ただ、やみくもに自分のわがままを通したいだけ──そして、何の対話もなく、一方的な処分に出たのである。
 また、過去の悪事を、あまりにも知り尽くされているので、恐れ、抑え込もうとしたのである。それは完全に失敗した。かえって、みずから数々の悪行・乱行を暴かれる結果になってしまった。
 学会と社会の指導者となる皆さんである。こうした歴史の真実も深く知っていただきたい。単なる″お人よし″であったり、いわんや″愚か″であっては絶対にならない。
 一切法は仏法に通ずる。人生と社会の万般に通じた聡明なリーダーとならなければ、「広宣流布」の戦いに勝つことはできない。「民衆」を守ることはできない。
 その意味で、私は、皆さんにありのままを明快に語り残しておきたいのである。
12  (5)平気で「ウソ」をつく天才
 スターリンが競争相手を失脚させる常套手段は、″ウソ″を言いふらすことであった。
 たくみにウソをつき、「あいつは反レーニン主義者だ」などとレッテルを張り付け、攻撃したのである。また、自分を守り、飾り立てるためにも、多くのウソを作り出した。
 師ともいうべき立場のレーニンが死んだ時のことである。彼は、″スターリンは後継者として、ふさわしくない″としたレーニンの遺言を、にぎりつぶした。
 その一方、レーニンと自分が仲良く並んで座っている写真を、目につくさまざまな場所に掲げさせた。自分こそがレーニンの″正統の後継ぎ″であると思わせるためであった。その写真は、合成や修正を加えて作った偽物であったという。
 自分の欲望のために、″師匠″をも利用したのである。多くの人が「おかしい」と思ったが、全部、封殺されてしまった。
 ──皆は知らないだろう、とウソをつく。事実をねじまげ、さも本当らしく、言いつくろう。だが、その場は、うまくごまかしたつもりでいても、真実は隠せない。隠せたところで、ウソはウソである。なかんずく仏法の世界においては、ウソは必ず、いつか自分への刃となって返ってくる。
13  スターリンは、民衆に対して、レーニンの死を深く悲しんでいるかのように見せかけた。しかし、実際は狂喜していた。「彼の執務室に勤めていた職員は、レーニンの死後の数日ほど、彼が幸せそうに見えたことはなかったと、のちに語っている」
 彼は、権力の「座」にのぼりつめても、ウソをつき続けた。「スターリンはレーニンの仕事の立派な後継者」「スターリンは今日のレーニンである」とみずから宣伝した。自分に都合のいいように、歴史さえも改竄かいざんしていった。
14  (6)「絶対服従」を強いる権力欲
 権力を手にしたスターリンは、自分の言うことは、すべて真実であるとした。あたかも神のごとく振る舞い、国民に「絶対的服従」を強いた。自分の思い通りになる人間しか認めず、人々の自由を奪い取ることで、絶対者として君臨したのである。
 思想統制にも力を入れた。出版物も厳しく制限。情報や表現の仕方まで、徹底して取り締まった。
 権力欲を満たすために、作家も利用した。自分の思いのままになる人間を作るために自分を礼賛する作品を書かせた。反対に、「絶対服従」しない者には、作品の出版を禁じ、すでに出版されていた作品も葬り去った。
15  (7)「恐怖」による支配
 スターリンは、人々の心から「安心」を取り除き、「恐怖」を植え付けることによって国民を支配した。秋谷会長が、現宗門を「恐怖政治」と呼んでいたが、まったく共通している。
 「安心」があれば、人々は信頼で結ばれる。反対に「恐怖」は、人々の間を不信で引き裂いていく。独裁者にとって団結した民衆は脅威であるが、分離された人間は望ましい。
 そのため彼は、そうした恐怖を与えるために、「密告制」を用いた。政府が一般市民の中から密告者を選ぶのである。町のいたるところに密告者がいた。家族や親友でさえ、疑わしかった。「五人集まれば、そのうち一人は密告者だと言われるほどであった」という。
 また、密告すれば、その人の財産の分け前をもらえた。だから、ますます密告に拍車がかかった。
 人々の欲望、嫉妬、憎悪をかきたてることで支配する。人間の最も醜い心を利用してのやり方である。──まさに、「魔性」であった。
 こうした社会にあっては、自分以外だれも信じられなくなるのも当然である。人々はわが身の安泰をはかるため、心を固く閉ざし、たがいに敵視さえしたのである。
16  当時の、あまりに愚かしい悲劇は枚挙にいとまがない。
 ある男性は空気銃で新聞を撃ったところ、運悪くその裏にスターリンの写真が載っていた。彼は、密告され懲役十年の刑に。
 また、ある集会で、スターリンの名が出ると、人々は一斉に拍手を始めた。三分、五分……拍手は、いっこうに鳴りやまない。やがて十分が過ぎたとき、一人の人が拍手の手を止めた。その人は、翌日、逮捕された──。まさに″恐怖の世界″であった。
17  (8)つねに不安──「臆病な本質」
 絶対者として振る舞う陰で、じつはスターリンは驚くほど「臆病者」であった。つねに暗殺の恐怖におびえていた。いかなる人間──家族さえも信用することができなかった。
 たとえば、何千人という護衛兵がいただけでなく、その一人一人に対しても、幾度も取り調べを行っていた。食事は、必ず検査室で調べさせ、そのうえで毒味をさせた。
 ちねに防弾チョッキを離さず、車は装甲車だった。屋敷の警備は、それは厳重をきわめ、多くの錠や門、警備員、番犬はては庭には地雷と、幾重にも守られていた。しかも家の中にはいくつもの、同じ家具の寝室があり、毎夜、部屋を変えて休んだという──。
18  スターリンは「自分を取り巻く、すべての人間が敵である」という妄想にとりつかれていた。それは「精神病の域にまで達した」といわれる。
 たった「一人」の狂気が、歴史に類を見ない大量の粛清をもたらしたのである。
 「狂った独裁者」を放置していてはならない。現代の″魂の大量虐殺者″も、断じて追放せねばならない。
 スターリンは、多くの無実の人々を捕らえては、拷問で″自白″させ、次々と処刑していった。
 彼は、こう語っていたといわれる。
 「一人の死は悲しいことであるが、それが百万人の死となると、単なる統計にすぎない」
 「自分の犠牲者を選び、自分の計画を詳しく練り、執念深く復讐をやって、それからベッドに入る……世の中にこれほど楽しいことはない」と。
 彼は、やがて、長年、自分に忠誠を尽くしてきた腹心の部下をも殺していった。だが、どんなことをしようと、本当の安らぎを得ることは、決してなかった。最期は恐ろしい形相で、もだえ死んだという。
19  「人間愛の魂」は権力に負けない
 アイトマートフ氏は、愛するお父さんを殺し、何千万もの民衆を犠牲にした「独裁者の悪」「権力の横暴」に対して敢然と立ち上がり、正義のペンを手に戦い続けておられる。まさに偉大なる「敵討ち」であり、人間の「魂の勝利」の姿である。
 また氏が、私との対談集『大いなる魂の詩』(読売新聞社刊)の中で、次のように語っておられたのが忘れられない。
 「人がさげすまれ、侮辱されているのを見ると、血が逆流します」真実の勇者の言葉として、私は永遠に残しておきたい。
 氏は、こうも述べられている。
 「人間は愛するときにのみ真の英雄になります。なぜならば、人間はその大いなる感情のためならば、不自然な規制を押し付けてくるいかなる圧政に対しても、戦いを挑むからです。過去においても、現在においても、未来においてもそれは変わりません。それは法則です」と──。
 その通りであると思う。そして氏は、そうした真実の人間が敗れることは断じてない、と高らかに宣言しておられる。
 氏の作品「母なる大地」の中に、一人の母親がこう叫ぶ場面がある。
 「戦争よ、たとえお前が四十年間も軍靴で人々を蹂躙し、殺し、略奪し、焼き、破壊しようとも、お前には、人間を屈服させ、卑下させ、征服することは決してできはしないのだ」
 真の「人間」は「権力」や「暴力」に屈服しない。屈服してはならない。我々は「人間」である。正しき信仰という「魂」がある。だれびとが、いかなる卑劣な手段で圧迫し、″処分″してこようとも、我々の「魂」を打ちのめすことは絶対にできない。真の「人間」である私どもは絶対に負けない。いよいよ毅然と、いよいよ激しく戦っていく。
20  ゴーゴリ「魂の内にこそ普遍的法則はある」
 アイトマートフ氏は、十九世紀のロシアの文豪・ニコライ・ゴーゴリ(一八〇九〜五二年)のことを高く評価されている。
 私が「第三文明」誌で連載している「続・若き日の読書」でも、十月号にはゴーゴリの大作「隊長ブーリバ」を取り上げた。戸田先生のもとで学んだ懐(なつ)かしい小説である。
 ゴーゴリは、晩年の大作「死せる魂」を執筆するにあたって、こう語っている。私の大変好きな言葉である。
 「一歩毎、一行毎にもっと賢くならねばならぬ」ことを痛感させられた、と。そして「わたしが前進すれば作品も進む。わたしが止まれば作品も止まる」と。
 ゴーゴリは、自分に惰性を許さなかった。一日一日、一瞬一瞬、学び続け、前進し続けた。つねに「新しい目」で世界をとらえようとした。
 真の仏法者も日々、新たな自分に向上していく。成長し続ける人、前進し続ける人、それが信仰者である。
 またゴーゴリは、「魂の内にこそ普遍的法則はある」として、「何よりも先ず、みずからの魂への鍵を見出だすことだ。ひとたびこの鍵が見出だされれば、それは万人の魂を開くだろう」と述べている。
 魂の「宝の蔵」を開くカギ──それをゴーゴリは求めた。多くの先人は求めた。その解答、そのカギを私たちはもっている。そして、妙法の信仰という「魂のカギ」を、現実に万人に弘めているのである。
21  釈尊も仏敵nいは容赦なき攻撃
 さて、現在、青年部は機関紙の「創価新報」等で、正義のための言論戦を展開している。それについて「あまりにも激越すぎるのではないか」という意見もあるが、仏法においては、仏敵に対しては容赦なく手厳しく追及していくのが、根本精神なのである。大聖人もそうであられた。釈尊もそうであった。
 たとえば、釈尊と極悪の仏法破壊者・提婆達多との戦い──。それは、絶対に妥協が許されない仏と魔との戦いであった。釈尊は、提婆達多の「嫉妬」と「陰謀」のドス黒い心を鋭く見破り、断固として戦った。
 御書には、その様子を、「世尊・提婆達多を汝愚人・人のつばきを食うと罵詈せさせ給しかば」──釈尊が、提婆達多を「お前は愚か者だ。人のつばきを食べるような(下劣な)人間だ」と、ののしられると──と記されている。
 釈尊の言葉は厳しかった。激しかった。容赦なかった。多くの仏弟子たちの面前で、遠慮なく、提婆達多を叱責した。
 プライドを傷つけられた提婆達多は、凶暴な本性を明らかにし、釈尊殺害を画策する。
 しかし、釈尊の破折も勢いを増す。「提婆達多が、その身において、またその語においてなすところは、もはや仏法僧の事ではない。ただ提婆達多の所作なのである」
 形は僧侶であっても、その言動は仏法者のものではない。ただ提婆達多という、衣の下の″個人″が勝手に言い、動いているだけだ──と。
 また「提婆達多は地獄に堕して、一劫(測りがたいきわめて長い時間)の間、もだえ苦しむであろう」と、厳しく提婆達多を責めた。
 それは、ある意味で、仏が発したとは思えないほど痛烈な言葉であった。
 弱き民衆に対しては、一人一人を抱きかかえるように守っている慈悲深き釈尊。その釈尊が、提婆達多に対しては、辛辣をきわめた。一体、なぜ、そこまでするのか──。
22  そのことをめぐって、一つの逸話が残されている。
 あるとき、提婆達多が結託していた阿闍世王の弟・阿婆耶(無畏)王子が釈尊をやりこめようと、釈尊を食事に招いて、問答を挑んだ。
 「仏は、人が快く思わない言葉を語ることがあるでしょうか」──つまり、仏ならば″ない″はずである。もし、そんな言葉を発したとするならば、仏と凡夫との区別はないではないか、と。
 そう問いつめれば、提婆達多を厳しく責めた釈尊は、返答に困るであろうという思惑であった。しかし釈尊は、その手にのらない。相手が喜ばない言葉を仏が発しないかどうかは「いちがいに言えない」として、王子を諄々と、諭した。
 「王子よ、もしも、あなたの子供が誤って小石を口に入れたとすれば、あなたはどうしますか」
 王子は、ちょうど、子供を自分の膝に乗せていたのである。
 「もちろん、子供のために、それを取り出します。簡単に取れなければ、指を口の奥深く入れて、たとえ血が出るようなことがあっても絶対に取り出します。それが、我が子に対する親の慈悲でしょう」
 それを聞いて釈尊は、きっぱりと言った。
 「仏が、人が快く思わない不快な言葉を発するのも、それと同じことです。その言葉が真実であり、価値を生み、また多くの人をも救うのであれば、仏は時を見定めたうえで言い切っていくのです。それは、すべて慈悲の心から生じるのです」と。
23  今、私どもが、堕落し腐敗しきった宗門に対して厳しい糾弾の声をあげるのも、同じ方程式にのっとっているのである。決して世間的な単なる悪口などではない。法にかなった行動なのである。
 彼らは、師である大聖人に違背した仏敵である。言うべきことを言わなければ、大聖人の仏法が破壊されてしまう。皆が不幸になる。
 正法を守るため、民衆を守るために、激烈なまでに叫び、断固として言い切っていく──それが仏法者の精神である。「大聖人の信徒」としての当然の務めである。
 魔は、言い切った分だけ切れる。中途半端であったり、妥協した分だけ、魔の毒気が広がっていく。この道理のうえから、諸君も真の仏法者、真のリーダーとして、ご健闘をお願いしたい。
24  ナポレオン──″何か″を残す心意気で生きよ
 最後にナポレオンの言葉を紹介したい。
 「若くして死ぬなら死んでもいい。しかし栄光もなく、祖国に尽くすこともなく、生きた跡形を残すこともなく生きているのだったら、若くして死んではいけない。そんな生き方は酔生夢死すいせいむし(酔ったごとく生き、夢のごとく死に、いたずらに一生を終えること)も同然だからだ」
 一八〇二年八月六日、ナポレオンが三十二歳の時に、末弟のジェロームにあてた手紙である。何かを残せ、何かをつくれ、何かを成し遂げずして何のための一生か、何のための青春か──この意気で若きナポレオンは戦ったのである。
 現在、東京富士美術館では、「ナポレオンとその時代」展を開催しているが、将来、さらに大規模で多角的な展示として「大ナポレオン展」の開催も考えている。
 諸君も、″妙法のナポレオン″″妙法の英雄″の気概で、堂々と、颯爽と進んでいただきたい。
 それでは長時間、ご苦労さま。未来部の皆さん、聡明な親孝行をお願いします。ありがとう!

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