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日蓮大聖人・池田大作

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第五回北海道総会 「金剛の確信」輝く「金剛の北海道」を

1992.8.29 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

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2  ″現実″に″勝つ″のが信仰
 昭和二十九年(一九五四年)八月、戸田先生は、この札幌で開催された北海道大会に出席された。ちょうど夏季地方折伏の最中である。そこで、戸田先生は参加者に力強く宣言された。
 「この一年間、真剣に信心を貫いてみなさい。願いはすべてかないます。約束しましょう。あなたがたの願いがかなわなければ私の命をあげよう」──と。
 強盛な信心を貫き、広宣流布に励む学会員が、幸せになれないはずはない。絶対に願いはかなう。だれよりも幸福になるに決まっている。これが戸田先生の大確信であった。
 もちろん、人それぞれに宿命も違う。三障四魔や三類の強敵という障害もあり、人生行路はさまざまであろう。しかし、最後は、正しい信心をし抜いた人が必ず勝つ。必ず幸福になる。これが御本仏の絶対のお約束であられる。
 信仰は、「観念」ではない。「現実」である。「信心即生活」「仏法即社会」という現実の場で、勝ったのか、負けたのか。幸福になったのか、不幸になったのか──。その厳しき結果主義の世界、現実の審判の世界で、勝ち抜いていくのが信心である。
 そして、一切を勝利に導く根本は「確信」である。ほんのわずか疑っても、その一念の揺れが、そのまま結果に表れる。仏法は、それほど厳しい因果の理法である。勇気ある「確信の人」が、勝利に輝く「幸福の人」なのである。
3  広布闘争の歴史が人生を飾る
 この翌年の夏季地方折伏(昭和三十年八月)の折には、私が札幌への派遣メンバーの責任者として、この地で法戦の指揮をとった。そして、十日間で約四百世帯の弘教を達成し、全国四十五の派遣地域の中で第一位となった。
 これも、私の生涯に残る″広布の金字塔″の一つである。入信以来四十五年、私は「広宣流布一筋」に一直線に生き抜いてきた。あらゆる障魔の怒濤を乗り越え、世界に妙法を弘めた。本来、とうの昔に死んでいるような病身を抱えての闘争であった。
 しかし、大聖人直結の「正しき信心」が負けるわけがない。御書の仰せ通りにならないわけがないとの、不動の一念で勝ち抜いてきた。この「金剛(ダイヤモンド)の大確信」が、誉れある「創価学会の信心」なのである。
 今、私は、すべての闘争が″広布の金字塔″となり、″黄金の思い出″となっている。ゆえに私は幸福である。
 皆さまもまた、大勝利の金字塔を打ち立てられた。良き信心の思い出は、自分自身を福徳で飾る。反対に、後悔の歴史は、これまでの福徳まで消してしまう。
 どうか、これからも一年また一年と、年ごとに勝利を積み重ね、福運を積み重ね続ける人生であっていただきたい。
 本年の″黄金の年″を土台として、一段と荘厳な″金剛の北海道″の構築をお願いします。
 私も北海道を全力で応援します。そしてこの一年を見事に勝利し、明年、再び北海道で、皆さまとともに楽しい多くの思い出を、つづらせていただきたいと思っている。
4  トインビー博士「大衆運動なき宗教は、真の宗教ではない」
 私には、幸福なことに、世界中に多くの友人がいる。
 そのなかでも、イギリスのトインビー博士は、最も深い友情で結ばれたお一人である。世界的な歴史学者である博士は、四十歳近くも年下の私を、″親友″として″同志″として、また時には″息子″のように、親愛の心で迎えてくださった。
 ご高齢の博士のお体を考え、私のほうからロンドンの博士を訪れての語らいとなった。(一九七二年五月と翌七三年五月、約十日間にわたって行われ、その一部が対談集『二十一世紀への対話』(英語版表題『生への選択』)に結実した)
 トインビー博士といえば、欧米でもアジア・アフリカでも、また今回(六月)訪れた中東でも、不世出の歴史学者として知られている。
 その博士は、最後に、将来へのアドバイスを求める私に対して、「私は机上の学者です。しかし、あなたは仏法の実践者として『行動』されている。『行動の人』に対して、机上の学者がアドバイスするなど、おこがましいと思います」と、語られた。胸を打たれる謙虚な博士であられた。
5  トインビー博士の宗教観のひとつの焦点は、「大衆運動なき宗教は、真の宗教ではない」ということである。
 民衆から離れた宗教、社会での真摯な運動なき宗教──それは結局、単なる「観念」か、「商売」にすぎない。
 大聖人は「民衆」のなかで、「社会」に向かって、革命の波を起こされた。その御心と行動を受け継いでいるのは創価学会である。断じて宗門ではない。
 宗門は「民衆」をだまして、十分な富を得るや、「民衆」を切り捨てた。完全な「商売」である。「社会」から孤立し、「社会」への何の真面目な働きかけもない。
 そして、自分たちが「にせもの」であることを、よく知っているゆえに、大聖人の正しき後継者である創価学会を嫉妬し、弾圧を加えてきたのである。にせものに妬まれ、迫害されるのは、本物の証拠である。
6  転倒の″宗教の牢獄″から民衆を解放
 博士の宗教観のもうひとつの焦点は、「高等宗教は個人を、部族(などの共同体)から解放した。しかし、その宗教が、今度は『新たな牢獄』となる」という洞察である。
 周囲の人々──部族や家族、都市、国家など──の言いなりであった個人が、自分の信念をもち、時には、周囲の弾圧にも負けない「独立した人間」になる。集団という牢獄から自由になる。この意味で高等宗教は、たしかに人間を「解放」した。
 しかし、この宗教が、やがて制度化されるにしたがって、人々を閉じ込め、圧迫する「新たな牢獄」となる、と言うのである。
 かつての教会も、寺院も、初期の理想を裏切り、硬直化した制度によって、民衆抑圧の″牢獄″と化してしまった。高等宗教ではないが、ソ連等の共産主義崩壊も、″解放″のためのはずの思想が、反対に″牢獄″となった結果であろう。
 日顕宗もまた、「生命の解放」「個人の解放」「人類の解放」を教えられた大聖人の仏法を、ただ保身と贅沢のために利用し、正しき信徒を弾圧するだけの″牢獄″と化してしまった。″牢獄″から出られて、本当におめでとう。
7  トインビー博士は、こうした人類の悲劇をどう克服するか、そこに二十世紀から二十一世紀にかけての重大な課題を見ておられた。
 精神の荒廃をもたらす″無宗教″でもなく、″宗教の牢獄″でもない、人間を生かす宗教運動は、一体、どこにあるのか──。
 私が入信してからでも四十五年。この半世紀の学会の歩みは、まさに、こうした「二十世紀の課題」に、真っ向から応え、「二十一世紀の人間の勝利」をも先取りする運動であった。
 トインビー博士も、この点を鋭く見抜かれていた。
 ″高等宗教の最高峰は大乗仏教である。その精髄を現代で実践しているのは学会しかない″──博士の期待のお心は、私の胸に痛いほど伝わってきた。
 「歴史」を見つめ、「人間」を見つめ、「二十一世紀」を見つめている人には、学会の先見が、ありありとわかってくるようである。今日、世界の多くの識者が、私どもの運動に熱い期待を寄せてくださっている。
8  エマーソン「真の人間の出現が革命を起こす」
 ある人が語ってくれた。「池田SGI(創価学会インタナショナル)会長の歩みを見ていると、エマーソンの名言を思い出す」と。
 エマーソンは言う。「(真の)人間が現わるところには、必ず革命がおこる。古いものは、奴隷のためにある。人間が現れると、すべての書物はよくわかるものとなり、すべてのものは見ぬかれ、すべての宗教は形式となる」と。
 「真の人間」は、腐敗した「古きもの」の「奴隷」のままではいない。偽りを打ち破って、必ず「革命」を起こすことになる。
 「すべての書物はよくわかるものとなり」──御書も経典も、学会によって、人生の現実に根ざした教えとして民衆に開かれた。難解な″説法″をすれば、人々がありがたがると思うのは聖職者の思い上がりであり、錯覚である。
 また「すべてのものは見ぬかれ」とある通り、大聖人直結の学会による太陽の光によって、大聖人利用の宗門の闇は破られ、闇の中で、卑しい欲望を貪っていた「法師の皮を著たる畜生」の正体が、白日のもとにさらされたのである。
 「形式」ではない。「制度」でもない。「真の宗教」は「真の人間」の魂の中に、その中にのみ生きている。
 ともあれ、民衆一人一人が賢明に、聡明になる以外にない。世界に広がりゆく「真の人間」の集い──これこそ我が創価学会である。
9  聖人ぶった高僧のところに一切の悪人
 ここで御書を拝したい。法華経の敵人・僣聖増上慢について、大聖人は、釈(中国・唐代の『法華文句東春』)を引いておられる。
 いわく「出家の処に一切の悪人を摂す」──(聖人ぶった仏敵の高僧らの)出家のところに、「一切の悪人」を含んでいる──と。
 そして、「今、それは、日本国のどういうところなのか、よく見極めよ」と仰せである。(「当世・日本国には何れの処ぞや」(中略)よくよく・たづぬべし
 「出家」のところに、「一切の悪人」が含まれている。そこを見極めよ、そこを責めよ──出家・高僧という存在が、どれほど悪いか、大聖人は強く教えられたのである。
 そして、大聖人の仰せが、どれほど正しいか──私どもが今、目にしている通りである。
10  悪侶との戦いに、妥協は許されない。正法流布のためには、だれが何を言おうと、どこまでも責めに責め抜いていくほかはない。それが仏意であり仏勅だからである。
 「聖人」と「愚人」の対話形式で著された「聖愚問答抄」の中で「愚人」は、次のように述べる。
 「誠に一人として謗法ならざる人はなし、然りと雖も人の上沙汰してなにかせん只我が心中に深く信受して人の誤りをば余所よその事にせんと思ふ
 ──本当に、謗法を犯していない人は、一人としていません(そのことは、よくわかりました)。しかし、他人のことを、あれこれ責めても、仕方ありません。ただ自分の心のなかで深く(正法を)信受して、他人の誤りには、かかわらないことにしようと思います──と。
 あの人々が間違っていることは、よくわかっている。だが、自分さえ正しければ、それでよいではないか、他人に、あれこれ干渉することはない──確かに、その方が楽に思えるかもしれない。処世術として「利口」に見えるかもしれない。特に日本人には、そうした傾向が強いことも事実である。
11  これに対して「聖人」──じつは大聖人は、こう仰せである。
 「汝言う所実にしかなり我も其の義を存ぜし処に経文には或は不惜身命とも或は寧喪ねいそう身命とも説く、何故にかやうには説かるるやと存ずるに只人をはばからず経文のままに法理を弘通せば謗法の者多からん世には必ず三類の敵人有つて命にも及ぶべしと見えたり、其の仏法の違目いもくを見ながら我もせめず国主にも訴へずば教へに背いて仏弟子にはあらずと説かれたり
 ──あなた(愚人)の言うことは、実にもっともです。私も、そう思っておりました。しかし経文には、「身命を惜しまず」とも、「寧ろ身命を喪うとも」とも説かれております。
 なぜ、このように説かれているかと考えるのに、「ただ他人を恐れることなく、経文のままに法理を弘通していけば、謗法の者が多い世には、必ず三類の敵人が現れ、そのために命にも及ぶ難にあう」と経文に記されているのです。
 また、仏法上の誤りを見ながら、みずからも責めず、また国主にも訴えて悪をたださなければ、仏の教えに背くことになり、もはや仏弟子ではないと説かれております──と。
 大聖人は、一旦は人情に合わせて、″あなたの気持ちは、よくわかりますよ″と仰せのうえで、″しかし経文にはこうある″と、仏意に従っていくべきことを教えておられる。
 私どもも、単なる人情論ではなく、ただ末法の経典・御書の仰せのままに戦っているのである。
12  「仏敵」との戦いなど、ほかのだれかにやらせておけば、気楽であろう。自分も傷つかず、疲れず、「いい子」でいられるかもしれない。だが、それでは、まことの仏弟子とはいえない、と仰せなのである。本当の「功徳」も得られない。「歓喜」もわかない。「成仏」もない。
 「悪とは徹底して戦え」と、御本仏が仰せなのである。ゆえに私どもは、誇りをもって、断じて戦う以外にない。同じ戦うのであれば、「楽しく」「痛快に」「悠々と」戦いたい。
 戦うごとに、胸に勇気と確信の青空が広がっていく。歓喜と希望の虹が幾重にも、かかっていく──そうした朗らかさ、凛々しさ、爽快さで、大聖人に賛嘆していただける「仏敵との闘争」を行ってまいりたい。
13  悪侶を責めぬ人は自信が仏法の怨に
 さらに大聖人は涅槃経を引かれ、その文の意味について、こう仰せである。
 「仏の正法を弘めん者・経教の義を悪く説かんを聞き見ながら我もせめず我が身及ばずば国主に申し上げても是を対治たいじせずば仏法の中の敵なり、若し経文の如くに人をも・はばからず我もせめ国主にも申さん人は仏弟子にして真の僧なりと説かれて候
 ──仏の正法を弘めようとする者は、経典の教えの意義を誤って説く者(悪侶)を聞いたり見たりしたならば、みずからこれを責めなさい。もし自身の力が足りなければ、国主に訴えてでも、対治しなさい。そうしない人は仏法の中の敵である。もし経文のとおりに、他人をも恐れず、みずからも(悪侶らを)責め、国主にも訴える人は、仏弟子であり、真の僧であると(涅槃経には)説かれているのです──。
 悪侶に対しては、みずから責め、それでも足りなければ国主に訴えてでも責めよ、との厳然たる御命令である。
 今、民主主義の社会にあっては、国主とは民衆であり、広く民衆に訴え、おおやけの社会問題として糾弾しゆくことを指すともいえよう。一人一人の鋭い破折と社会的な告発と、その「両面」から責めていくのが、経文に合致した戦い方と信ずる。
14  続いて、こうも仰せである。「されば仏法中怨の責を免れんとて・かやうに諸人に悪まるれども命を釈尊と法華経に奉り慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ眼をいからす、汝実に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ
 ──それゆえ、″仏法の中の敵″とならないように、このように人々に憎まれても、我が命を釈尊と法華経に捧げたてまつり、慈悲を一切衆生に与えて、謗法を責めるのである。それがわからない人は悪口を言い、眼をいからせる。(しかし)あなたも本当に来世を恐れるならば、我が身を軽んじて法を重んじなさい。(すなわち、身を惜しまず、正法を明らかにし、悪侶らを責めなさい)──。
 真実を知らない人のなかには、「何でそんなに″お坊さん″や、″お上人様″を責めるのか」と思う人がいるかもしれない。──女性に″お上人様″と呼ばせて遊んでいた高僧もいると報道されていた。
 しかし、御書も経文も、悪侶を容赦なく懲らしめてこそ真の仏弟子であり、妥協すれば仏敵となると断じているのである。
 責めるといっても、むやみに騒ぎたてたり、どこかにデモ行進する必要はない。
 ヨーロッパのことわざにも「臆病な犬ほど、はげしく吠える」「浅い川ほど音をたてる」とある。
 王者の学会は、獅子のごとく、大河のごとく、堂々と御書と道理のうえから魔僧を責め、追放してまいりたい。「魔」に打ち勝ってこそ成仏はある。
15  「御書」「経文」に学会の正義は明らか
 ところであすは、青年部の教学試験三級が行われる。ここ北海道でも約一万人の青年が受験する予定とうかがっている。
 研鑽は大変であろうが、大聖人は、「行学の二道をはげみ候べし」と仰せである。
 苦労は多くても、若くして仏法の哲理を学ぶことは、何ものにもかえがたい財産である。
 先ほど紹介したトインビー博士をはじめ、世界の一流の知性が仏法を求めている。私のもとには、海外の最高峰の学術機関から、次々と講演の要請も届いている。
 人生において、何が素晴らしいか。最高の哲学を知ること以上の素晴らしさはない。強さはない。そして勉強はやはり、若い時にしておいたほうが得である。
 私も青年時代から地道に研鑽した。主な御書は暗記するぐらい真剣であった。
 全部、自分のためである。教学を怠ると、将来、必ず後悔する。自分も根底で自信がもてないし、人にも尊敬されない。
 若き今、学びに学んで「御書の利剣」で、仏敵の一切の詭弁やウソを論破する、″教学の勇者″になっていただきたい。
16  今回の試験では、「聖人御難事」など御書四編、「教学の基礎要語」、そして「阿部日顕 法主退座要求書」が出題範囲である。
 大聖人は、「聖愚問答抄」で、「経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよ」──経文に明らかであるものを用いよ。文証のないものは捨てよ──と仰せである。
 経文は「仏の金言」であり、仏法の世界では「天子の一言」の重みをもつ。その裏づけのないものは、どんなに巧みに繕っても、結局、自分勝手な「己義」──いわゆる我見である。
 宗門の一連の画策には、何の文証の裏づけもない。過日の「信徒除名通知」にしても、昨年の「破門通告書」にしても、何一つ御書の文証が引かれていない。宗門の策動は、″大聖人とは全く無関係″なのである。
 ゆえに、大聖人の仰せ通り、断固として捨て去らねばならない。
 とともに、我が学会の行動、学会の主張が、いかに御書にのっとり、経文の通りであるか──教学を研さんすればするほど「金剛の確信」が深まっていく。
 その意味からも、青年部の諸君の「信心の教学」「戦う教学」に期待したい。
 今後とも私は、二十一世紀の聡明なる指導者をつくるために、創価学会の永遠の勝利と栄光のために、そして万年にわたる広宣流布のために、「教学の振興」に一段と力を入れていく決心である。
 特に北海道の皆さまは、教学に関しても、「北海道革命」で全国の模範となっていただきたい。
17  「先駆の北海道」万歳!
 ここで提案だが、インドのニューデリー近郊に設置が計画されている″創価記念菩提樹園″と、カナダの良き地に、北海道の大勝利を祝い、記念の植樹を行っては、どうだろうか。
 また、新しい千歳空港も誕生したことであるし、明年からハワイ、ロサンゼルス、シカゴなどアメリカ各地へ、交流団を派遣することも検討していただきたい。
 皆さま方のご健康とご長寿をお祈り申し上げ、「『二十一世紀の北海道』『創価学会の先駆の北海道』万歳!」と申し上げて、スピーチを終わります。ありがとう!

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