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日蓮大聖人・池田大作

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長野・飯田支部結成三十周年記念の集い ″大聖人直結″の信心で栄冠

1992.8.14 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

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2  「幸福」を決めるのは、内面の「境涯」である。財産でも地位でもない。境涯を広々と開けば、人生の喜びも広々と開けていく。日蓮大聖人は「心こそ大切なれ」と仰せである。信心の「心」が、三世の幸福を決定する。
 「広布」を願う信心の「心」には″金の器″のように、どんどん功徳が積み重なっていく。信心の「心」が固まらなければ、何をしても、福運が漏れていく″穴のあいた器″のようなものである。
 師子吼ししくすべき時に、しないのは臆病である。臆病な信心では、祈りは叶わない。「声仏事を為す」とあるように、仏敵を打ち破る声を発することは、仏の所作に通じる。その叫びを貫く人こそが、成仏の人である。
3  牧口先生は「生来仏の使い」
 今日の記念として、少々、スピーチを残しておきたい。
 昭和十一年(一九三六年)二月、牧口先生は長野を訪れられている。この折、県下の五つの場所で折伏座談会が開かれた。当時、入会者は十七人であった。
 上田市、松本市、長野市、諏訪市そして伊那市──。この南信の広布の偉大なる一歩を、この時、牧口先生が厳としてしるしてくださった。
 以来五十年余、南信の皆さまのこの大発展の姿を牧口先生がどれほど喜ばれていることか。
 牧口先生が松本市に行かれた時、こんなエピソードが残っている。
 旅館の一室で、牧口先生を中心に勤行している時、かなり大きな地震が起こった。同行の青年たちは、思わずとびのく。しかし、牧口先生は少しも動ずることなく、ただ一人、悠然と唱題を続けておられた。まるで″蝶が花から花へと飛び移る″ように先生の声は、いつもと全く変わらなかった。
 先生は青年たちにこう語られた。「大丈夫だよ。信心している者が、これしきのことで平静を失ってはいけない。何のために信心しているのか」と。
 まさに、この言葉の通り、先生は不動の信仰を貫かれた。この七年後、先生は逮捕されるが、獄中にあっても、厳たる″信仰の王者″″人間の王者″であられた。
4  伊那の出身である日淳上人はこう語っておられる。
 「私は、(牧口)先生が、法華によって初めて一変された先生でなく、生来仏の使であられた先生が、法華によって開顕し、その面目を発揚なされたのだと、深く考えさせられるのであります。そうして先生の姿にいいしれぬ尊厳さを感ずるものであります」と。
 さらに日淳上人は「先生には味方もありましたが、敵も多かったのであります。あのいばらの道を厳然と戦いぬかれた気魄、真正なるものへの忠実、私はみずから合掌せざるを得なくなります」と。
 戦時中、牧口先生、戸田先生は正義のために戦い抜かれた。一方、宗門は保身のために、悪に妥協し、大謗法となった。
 牧口先生が長野に行かれた翌年の昭和十二年、宗門は「国民精神総動員の告諭こくゆ」への訓諭をだし、国家権力へ迎合げいごうしていたのである。この崇高なる牧口先生、戸田先生を師と仰ぐ私どもは幸福である。また正義である。最高の誇りをもって、進んでまいりたい。
5  ここ飯田の地は、四条金吾の所領地(殿岡)があった。この地から真心のお米をお送りした四条金吾に対し、大聖人は最大に感謝されながら仰せである。
 「何となくとも殿の事は後生菩提疑なし、何事よりも文永八年の御勘気の時・既に相模の国・竜の口にて頸切られんとせし時にも殿は馬の口に付いて足歩赤足にて泣き悲み給いし事実にならば腹きらんとの気色なりしをば・いつの世にか思い忘るべき
 ──なにはともあれ、あなた(四条金吾)の後生菩提ごしょうぼだい(未来世の幸福境涯)は間違いありません。文永八年のあの御勘気の時、相模の国の竜の口で私(大聖人)のくびが切られようとした時に、あなたは馬の口にとりすがり、はだしで供をし、泣き悲しまれました。そして、私が頸を切られることが現実となってしまったならば、自分も腹を切ろうとの様子であったことを、いかなる世に思い忘れることができましょうか──。
6  「それのみならず佐渡の島に放たれ北海の雪の下に埋もれ北山の嶺の山下風に命助かるべしともをぼへず、年来の同朋にも捨てられ故郷へ帰らん事は大海の底のちびきの石の思ひしてさすがに凡夫なれば古郷の人人も恋しきに在俗の官仕隙なき身に此の経を信ずる事こそ稀有なるに山河を凌ぎ蒼海を経てはるかに尋ね来り給いし志・香城に骨を砕き雪嶺に身を投げし人人にも争でか劣り給うべき
 ──そればかりではありません。佐渡の島に流され、北海の孤島の雪の下に埋もれ、北山の嶺の山颪やまおろしに命が助かるとも思いませんでした。
 かねてからの同朋にも捨てられ、あたかも大海の底にある千引ちびきの大石(千人で引きあげるような大きな石)が海面に浮かばないように、とうてい故郷へ帰ることはできそうになく、さすがに凡夫ですから、故郷の人々が恋しくてたまらない心境でした。
 そのときに、あなたは、在家であり宮づかえをするひまのない身で、法華経を信じることさえまれであるのに、山河の険難をしのぎ、蒼き大海をへて、はるばるたずねてこられました。その志は、香城で我が骨を砕いて供養し、雪山で身を投げて「法」を求めた人々にも、どうして劣るでしょうか(少しも劣りません)──。
 いつもいつも変わらざる真心で、揺るぎなき信心で、大聖人とご一緒に苦楽をともにしようと生きた四条金吾。その″大聖人直結″の信心を賛嘆された御文である。悪侶の圧迫のなか、敢然と戦い続けてこられた飯田の皆さまこそ、この御文を深く拝せる方々と私は確信する。
7  また悪侶らの策謀と戦う四条金吾を守るため、大聖人が金吾に代わってしたためられた「頼基陳状」には、「依法不依人えほうふえにん(法に依って人に依らざれ)」の経文を引かれて、″人師のあやまり″をただすべきことを教えられている。
 私どもはこの大聖人の仰せ通り、どこまでも「御書」に依り、「経文」に依り、悪侶の過りを容赦なくただしてまいりたい。
8  さらに大聖人は金吾に対して言われている。
 「大木の下の小木・大河の辺の草は正しく其の雨にあたらず其の水をえずといへども露をつたへ・いきをえて・さかうる事に候
 ──大樹の下の小さな木や大河のほとりの草は、直接雨にあたることがなく、直接水を得ることがなくても、自然に露を伝え、水気を得て栄えるのである──。
 自分のいる所の発展は、自分一人の成長が根本である。自分自身が大樹と育ち、大河の存在となっていけば、そこに連なるすべての人々を栄えさせていくことができる。
 「大樹」のごとく年輪を刻み、「大河」のごとく水かさを増しゆく、周囲の″柱″の人生であっていただきたい。
9  ″民衆が主人″に時代の開幕を
 幕末に近い安政六年(一八五九年)、有名な南山一揆が起こった。南山郷は、ここ飯田市と泰阜やすおか村にまたがり、天竜川の東、伊山脈の西に広がる山間地である。
 南山郷は、長い間幕府領であったが、天保十四年(一八四三年)に飯田藩領になったあと、白河藩領に組み入れられている。以来、人々は、厳しい年貢の増収に苦しむようになった。役人は、手をかえ品をかえ、少しでも多くの年貢をしぼり取ろうとする。
 たまりかねた人々は、負担の軽減を求めて、何度も藩に願い出る。ところが、役人は、人々の訴えを聞き入れるどころか、ますます年貢の負担をふやし、人々は困窮を極めた。
 安政六年十二月二十七日、藩との最後の交渉の失敗を知った人々は、ついに決起する。この時、一家から十五歳以上の男子一人という動員の基準をはるかに超える千六百十六人が結集したと言われている。死罪を覚悟のうえでの総決起であった。
 人々の固い結束と決死の覚悟に権力者はたじろいだ。そして決起してから三日目の朝、一揆勢は、奉行からの大きな譲歩を勝ち取ることに成功した。
 翌年、民衆抑圧の奉行は罷免され、三月には一揆の時の要求をほとんど完全に認められることとなった。当時としては、大きな勝利であった。
 なお、この一揆に先立つこと約七十五年、この地には有名な「伊那法難」が起こっている。他宗の悪侶の謀略により、正宗の信徒が投獄され、拷問を受けたが屈しなかった。
 このように、近代の正宗史上、いつも矢面に立って苦しめられてきたのは信徒である。この構図を断じて変えねばならない。″民衆が主人″の時代を開幕せねばならない。
 この飯田は明治の自由民権運動の拠点でもあった。この地に偉大なる民衆勝利、宗教革命の歴史を刻んでいただきたい。
10  日有上人にも日顕宗は完全に違背
 日淳上人は、先ほどふれたように、ここ長野県の伊那の御出身であられた。また第六十六世日達上人も、若き日、同じく伊那の信盛寺に在勤しておられた。お二人は、正法の「広宣流布」を願い、学会に理解を寄せてくださっていた。
 ここで、歴代の正師の遺徳をしのびつつ、日有上人の「化儀抄」等と、それを注解された日亨上人の言葉を、少々、紹介したい。
 日有上人の教えに従うべきことは、日蓮正宗の「宗綱」に明記されている(御書等とともに、正宗の「正依」とされている)。一つでも背くならば、もはや「正宗」ではない。
 大聖人の仰せに基づいて、日有上人は指南されている。
 「仏法は平等なり、法は何事も平等なるべし、仏の御跡を継ぎ申したる出家は何事にも一切の人に偏頗へんぱ之有るべからず、若し偏頗有らば必ず餓鬼道に堕べきなり」
 仏法は「平等」であり、「偏頗」すなわち人を差別する僧侶は餓鬼道に堕ちるとの教えである。
 今は「偏頗」ばかりである。僧俗の間の差別。僧の中での差別──すべて「平等の大法」である妙法と正反対であり、「邪法」の証拠である。
 いわんや″如来の使い″である広布の戦士を見下し差別するとは、その一点だけでも、仏敵である。御書にも、日有上人の教えにも背き、完全に「正宗」ではないのである。
11  また日有上人は、「行体」(実践)について、こうも示されている。
 「行体行儀の所は信心なり、妙法蓮華経なり、爾るに高祖(大聖人)開山(日興上人)の内証も妙法蓮華経なり、爾れば行体の人をば崇敬すべき事なり」
 日亨上人は、この教えを次のように注解されている。
 「信心の帰着は妙法蓮華経なり、妙法蓮華経の体現は行体に於いて此を認むる事を得、宗祖開山の御内証は・妙法蓮華経にして吾人の帰着する所も・亦妙法なれば・妙法体現の行体の人には如何なる人も敬意を払はざるべからず」と。
 「妙法蓮華経」という大聖人・日興上人の御内証には、「実践」によってこそ近づくことができる。「信心」と「実践」なく「形式」だけでは、絶対に妙法を体現することはできない。ゆえに、「実践の人」をこそ、心から尊敬していくべきである。
 みずからは実践もせず、かえって「行体の人」を軽蔑し、その実践を邪魔するような悪侶は、妙法を破壊するために出現した魔僧なのである。
12  また日有上人は、僧侶が社会の中で率先して弘教すべきことを述べられている。
 「当宗は折伏の宗なる故に山居閑居は宗旨に背く」──正宗は「折伏の宗」であるから、弘教もせず、山にこもっていたり、ぼんやり暮らしているのは、宗旨に背くことになると。
 ただし、自分が弘教し抜いた後、同じく弘教しゆく弟子をつくったならば、老後の「山居」等も基本的には許されるとも言われている。本来、正宗の宗風は、かくも厳格であった。
 この御文について日亨上人は、こうお述べである。
 「身心壮健にして閑遊安逸を貪るは大に宗旨に背くの罪人なり」と。
 そして、日有上人の御一生は、この折伏精神を発揮されたもので、そこに宗門の中興の祖と呼ばれるゆえんがあると述べられている。
 死身弘法もなく、「閑遊安逸」「放蕩三昧」にふける日顕宗が、どれほど正宗の宗旨に違背しているか、明々白々であろう。大いなる「罪人」であるとの御断罪である。
13  ともあれ、皆さまは、最も″正しき人生″を送っておられる。ゆえに、だれよりも″楽しき人生″であっていただきたい。
 「ああ、わが人生は、本当に痛快な楽しい人生だった。私は勝った。何の悔いもない」と、晴れやかな笑顔で最期を飾れるような人生であっていただきたい。それでは、お元気で! また来ます!

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