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日蓮大聖人・池田大作

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第五十六回本部幹部会、諸精霊追善勤行会… 日々、愉快に「生命の王者」の旅を

1992.7.15 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

前後
2  苦労もなく、挑戦もなく、漫然と生きても一生である。同じ一生ならば、「よーし、自分は立派に『歴史』をつくってみせる。この一生で、立派に何かを創造し、残してみせる」と戦ったほうが偉大である。幸福である。
 自分がどこまで行けるか、どこまで戦えるか、どこまで限界を伸ばせるか、やるだけやってみる。ともかく戦い抜いていく。その人の信心こそ、大闘争の連続であられた日蓮大聖人の御生命に感応しゆくと信ずる。大功徳の人である。
 「学会は、最も近代的な、社会に開かれた宗教運動の模範である」と評価する学者もいる。
 今、私どもが、社会のあらゆる分野で、日本の未来を動かす人材を輩出している姿を、「立正安国」の法理を示された日蓮大聖人がどれほど御称賛くださっていることか。学会こそが、御本仏の大精神を正しく実践していると確信する。
3  ″真心の唱題″こそ最高の追善
 きょうは「お盆」(盂蘭盆)にあたる。その意味から、この後、全国の同志とともに追善の勤行・唱題をし、尊き広布の功労者や、今は亡き親族の方々の回向を行っていきたい。
 仏典には、白馬のいななきを聞くことによって威光勢力をグングンと増した輪陀りんだ王の話が説かれている。大聖人は、この故事を引かれながら、父を亡くした一婦人の内房うつぶさ女房を、次のように励ましておられる。
 「南無妙法蓮華経は白馬の鳴くが如し、大王の聞食して色も盛んに力も強きは、過去の慈父が氏女の南無妙法蓮華経の御音を聞食して仏にならせ給ふが如し
 ──南無妙法蓮華経は白馬がいななくようなものです。そして大王(輪陀王)が、白馬のいななきを聞かれて色つやも盛んになり力も強くなられたのは、亡くなられた慈父が、そのうじを継ぐ娘のあなた(内房女房)が唱える南無妙法蓮華経の題目のお声を聞かれて、仏になられるようなものです──と。
 あなたの題目に包まれて、お父さんは王のごとく、汲めども尽きぬ福徳の大境涯を楽しんでいける生命に変わりますよ──との、まことにありがたい仰せである。
 日蓮大聖人の仰せだけは、絶対に間違いない。皆さま方の唱題の音声こそが、亡くなった家族・先祖、親族、友人、知人、すべての人々への最高の追善なのである。
4  また、大聖人は、このお父さんについて、「過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経と唱へしかば即身成仏の人なり」──亡くなられた慈父尊霊は、ご存命中に南無妙法蓮華経と唱えられたのですから即身成仏の人です──とも仰せになっている。
 大聖人は、「慈父尊霊」──慈愛あふれるお父さまの尊いれい──と。この御言葉に、凡夫である一信徒を、御本仏がどれほど尊ばれ、大切にされたかが拝される。
 この一点だけでも、信徒を見くだす傲慢な僧侶が、大聖人に真っ向から師敵対していることは明白である。
 そして、大聖人は、故人が生前に題目を唱えていたのだから成仏の人であると、断言されている。成仏は、どこまでも自身の正しき信心、正しき仏道修行によって決まるのである。もちろん、追善供養の意義からいえば、みずからが強盛に信心に励むことによって、亡くなった方をも仏界に導くことができる。
 しかし、それすら「信心」が根本である。まして″僧侶に拝んでもらわなければ成仏できない″などという教えは、「御書」にも「六巻抄」にも一切ない。大聖人、日興上人等の教えに反した葬式仏教の邪義である。
 自分自身の題目、また家族の題目、そして、我が同志の無量の題目に包まれながら、三世永遠に赫々かっかくと威光勢力を増していく──。これが大聖人の仏法の正道を歩む者の軌道である。
 私どもは、この福徳輝く軌道に乗って、ともどもに最高に愉快な「生命の王者の旅」を続けていきたい。
5  鄧穎超とうえいちょう女史「命あるかぎり、私は戦う」
 ご存じのように、先日(七月十一日)、私の大切な友人の一人である鄧穎超とうえいちょう女史(故・周恩来総理夫人)が亡くなられた。享年八十八歳であられた。ただちに、私は追善を行うとともに、弔電を送らせていただいた。
 女史との五度にわたる忘れ得ぬ出会い、語らいが懐かしく思い起こされる。
 あれは一九七九年(昭和五十四年)、女史が来日された際の迎賓館(東京・元赤坂)──私の会長勇退の十日ほど前であった。その意向を伝えると、女史は「まだまだ若すぎます。そして何よりもあなたは人民から多くの支持を得ています。人民の支持のある限り、決して退いてはいけません」と、真剣な面持ちで言われた。
 また、来日を記念して、創価大学に″周夫婦めおと桜″を植樹するとともに、会見の際、真心として八重桜をお贈りした。迎賓館で女史が、時間が許せば、むしろ私の家を訪問したかったと言われていたことが忘れられない。
 最後の出会いとなった一昨年五月、女史のご自宅を訪問した際、周総理の貴重な遺品(象のペーパーナイフ)を頂戴した。
 中国が一番大変な時に、一番真剣に行動してくださった、と感謝していただいていた。お会いするたびにいつも、深く温かい女史の心が伝わってきた。「信義」と「友誼ゆうぎ」の思いが通う交流であった。
 女史は亡くなる二週間前、遺言ともいうべき文章を残されているが、その中に次のような一文がある。
 「生き抜き、学び抜き、革命をやり遂げる。命ある限り、戦いをやめない。これが私の一貫した思想です」──と。
 この″人民の母″の偉大なる魂魄こんぱくは、周恩来総理と一体となって、中国の万年の未来を照らしゆくものと確信する。とともに、この信念、「不退」の決意は、我が「創価精神」にも通じる。世界一、崇高な「創価王」の生き方そのものである。
 「命ある限り、戦いをやめない」──私どももまた、この決心、これ以上の一念で、戦い抜いてまいりたい。
6  天魔の「正法の破壊」は「自分の破壊」
 「大悲経だいひきょう」(大悲経は大悲華経だいひけきょうともいう。仏滅後の正法の護持者について説く)という経典に、第六天の魔王にまつわる、次のような話が記されている。
 ──第六天の魔王も、天界の王である以上、息子の王子がいた。彼は父の魔王と反対に、釈尊を深く信仰していた。そして父の魔王が釈尊を嫉妬するあまり、つねに釈尊が死ぬことだけを願い待っていることを嘆いて言った。
 「父は、つねに他を害そうと、ただ破壊をもっぱらにして、少しも人々を利益りやくしようとはしません。そのうえ、私を悪事にひきいれようとします」
 魔のすることは、いつの時代も同じのようである。
 「そして世尊の大光明と大知恵をねたみ、なんとかして滅亡させたいと願っているのです」と。
 清らかで光にあふれた仏の世界、正法流布の世界とは一緒にいられない。どうしても壊したくてならない。憎くてならない──これが天魔の心である。
 釈尊は王子をなだめ、諭した。″私には、そんなことは、よくわかっているんだよ″と。
 「よく聞きなさい。魔王の悪の心は、結局、自分を滅ぼしていくのだ。というのは、彼の願い通り、かりに正法が滅びたならば、大喜びしたその瞬間に、彼は魔宮から地獄へ、まっさかさまに堕ちるからである。
 たとえば、ある人が大樹に登って、美しい花や実を、存分に取って楽しんだ。ところが、なお欲を出して、自分がつかまっている木の枝まで折ってしまったら、どうなるであろう。その人は転落するに決まっているではないか。また、その行為は、知恵があるといえるであろうか。
7  それと同じく、如来と正法が世にあればこそ、魔王も魔宮に住していられるのである。それを知らず、魔王はつねに如来の死と法滅を願うばかりか、その時にあたって大喜悦する。そのみずからの悪心の報いによって、魔宮から地獄へと転落し、大苦悩を受けるのである」──。
 まことに道理にかなった教えである。
 取るだけ取り、利用するだけ利用し、遊ぶだけ遊んで、そのうえ、自分に恩恵を与えてくれたものを切り、破壊しようとする──それは「大悪」であると同時に、まっさかさまに自滅していく「大愚たいぐ」の行いなのである。天魔は嫉妬に狂っているゆえに、その愚かさが自覚できない。
 「魔」は「仏」に対抗しているようにみえて、じつは「仏」の大樹に寄生して生きているにすぎない。大樹の花や実を取っただけで満足できず、枝を折ろうとすれば、自分が転落していくのである。「仏」の世界を傷つけようとするほど、自分が傷つき、追い込まれていく。今も、まったくその通りの姿が現出している。
 創価学会という「御本仏根本」の「仏勅ぶっちょくの大樹」に寄生し、花と実を取るだけ取った天魔は、愚かにも、その枝を攻撃し、折ろうとして自分が転落した。この事実そのものが、仏典に照らして、彼らの正体をはっきりと証明している。
 魔は寄生虫なのである。寄生虫が本体の木を壊そうとすれば、自分が居場所を失って堕ちていくのは当然である。寄生虫が、自分のほうから出ていったのだから、こんなにめでたいことはない。木はいよいよ栄えていく。
 寄生虫が、本体のほうを「破門」したり「除名」したりするのは、笑い話のような転倒である。寄生虫ではないと怒るなら、破壊に狂奔するだけでなく、自分たちで一から広宣流布をやればよい。
8  私どもは皆、″御本仏日蓮大聖人の信者″である。宗門の法主、高僧といえども、同じく″大聖人の信者″のはずである。ならば、大聖人の仰せ通りに実践するのが正しいではないか。御書の仰せ通りに進むのが当然の姿ではないだろうか。
 それを、自分だけは特別で、大聖人の仰せに従う必要はないなどと考えるとすれば、根本が狂っていると言わざるを得ない。問題の本質は決して難しいことでも何でもないのである。
 こんな法主の信徒ではなく、私たち全学会員は日蓮大聖人の信徒でありたいと思うが、どうだろうか。
 現在、聖教新聞の地方版に次々と、各地の僧侶の悪行が掲載されている。人間とは思えぬ非道の数々は、目を覆うばかりである。
 多くの人が、「こんな悪侶の行状を罰そうともせず、それどころか反対に、正法広布の発展と総本山興隆の大功労者を罰するなんて、まったくさかさまである」「だれが見ても、狂っているとしか言いようがない」と憤っている。
9  全宇宙の諸天、仏・菩薩を味方に
 地涌の菩薩が広宣流布の行動をしていくと、この第六天の魔王自身が天界から降りてくる。そして必ず、その前進を邪魔しようとする──御書には、繰り返し、こう示されている。大聖人御在世においては、良観をはじめとする僣聖増上慢の僧が天魔として働いた。(良観は、律宗の高僧。大聖人を讒言して死罪にしようと画策し、竜の口の法難、佐渡流罪を引き起こしたほか、宗教的権威と権力をもって大聖人門下に種々の迫害を加えた)
 しかし、大聖人は、この魔王を厳然と打ち破られた。その勝利の要因は何か。大聖人は、次のように仰せである。
 「然りと雖も諸天善神等は日蓮に力を合せ給う故に竜口までもかちぬ、其の外の大難をも脱れたり、今は魔王もこりてや候うらん
 ──(第六天の魔王自身が邪魔をしてきても)諸天善神等は日蓮に力を合わせてくださったゆえに、竜の口の法難さえも勝つことができた。そのほかの大難をも切り抜けることができた。今は魔王も、こりていることであろう──。
 だれが守らなくとも、諸天善神等が力を合わせて守ってくれた。だから、すべてを乗り切れた。勝利することができたと、大聖人は仰せである。全宇宙の諸天善神、仏菩薩──これ以上の強き味方はない。
10  今、事実のうえで、正法を守り、同志を守り、大聖人の御遺命である広宣流布の道を開いているのは、だれか。まぎれもなく学会員である。学会員こそ、真の大聖人の信者である。
 ゆえに具体的には、その方々こそが、最も身近に、諸天善神の働きをなしている。また、″如来の使い″として、諸仏・諸菩薩の働きをもなしている。これほど大切な、尊い方々はいない。
 ゆえに、学会員を大事にする人は、福徳を積む。見下し、利用し、裏切れば堕地獄である。
 幹部も、広布に働く学会員に奉仕するのが責務である。学会員を心から大切にし、守り合っていくところに、加速度的に、仏天の加護は勢いを増していく。
 学会は、この方程式の通りに進んできた。ゆえに、「勝利」できた。
 ともかく、一にも二にも「一番大事なのは仏子であり、学会員である」──これを一念の根本に置くかいなか。その違いは、ほとんど″タッチの差″である。しかし、その結果としての振る舞い、福運、境涯には天地の差ができてくる。指導者としての根本的な自覚の問題である。
11  「古い友人と仲良く、新しい友人をつくれ」
 皆さまのお題目のおかげで、中東・ヨーロッパの旅を有意義に終えることができた。全会員の皆さまに心から感謝を申し上げたい。
 トルコの最高学府・国立アンカラ大学での講演でもふれたが、″トルコ建国の父″ケマル初代大統領は「古い友人と仲良くし、新しい友人をつくれ」を、モットーとしていた。
 今回の旅でも、私は古くからの友情をさらに深めるとともに、新しい友情を大きく広げることができた。これまでも、一貫して、その姿勢を貫いてきたつもりである。ここに限りなく広がりゆく広宣流布の大切な軌道がある。
 「古い友人と仲良くし、新しい友人をつくれ」──学会も、これを一つの合言葉としてはどうだろうか。
 広布の闘争を一歩また一歩と勝ち進みながら、どうか皆さまも、日本の各地、また将来は世界の各国へ、友情のえにしを広げていっていただきたい。
 日々、「朗らかに」生きていただきたい。自分自身の決めた課題を、自分自身のためにやり切っていただきたい。その人が、人生の勝利者となるからだ。
 皆さまの、ご健康、ご活躍を心からお祈りして、私のスピーチを終わります。ありがとう!

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