Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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イタリア文化会館での懇談会 君よ!自身の「永遠の都」を

1992.7.1 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

前後
2  政府への弾劾演説。コロシアム(古代ローマからの巨大円形競技場)での国民大会。軍隊の出動、弾圧。ロッシは亡命する。彼の「永遠の同志」ブルーノ・ロッコは、捕らえられ、拷問また拷問が続いた。それでもブルーノは屈しない。
 「ロッシが、お前を裏切っているぞ」との、偽手紙を使った陰険な策謀にも、ブルーノは負けない。同志を信じ切っていた。「永遠の友」であった。
 「デイビッド・ロッシ万歳!」──彼の最後の叫びを、小説のヒロイン、ドンナ・ローマはこう書いている。
 「きょうというこの日まで、人間性が神性になり得るものとはついぞ知りませんでした。それは、ほんとうに神聖なものですわ」「彼が最後に叫んだときの声は、いまなおわたくしの耳もとに鳴り響いています。それは勝利の声──欺瞞に打ち勝った勝利、誘惑に打ち勝った勝利、嫉妬に打ち勝った勝利、なかでも自分に打ち勝った勝利の声だったのですわ」と。
 ″自分に勝った勝利″こそ根本の勝利であり、永遠の勝利である。
3  明後日は「七月三日」。戸田先生が出獄され(一九四五年)、私が入獄した(一九五七年)──師弟の不思議、師弟の不二の歴史を刻んだ日である。
 戸田先生の入獄中、同志は退転した。学会は崩壊した。戸田先生だけが牧口先生を裏切らなかった。
 出獄され、一人、荒野に立たれた戸田先生の血涙の思いを、私は痛いほどよくわかる。そして後を継ぐ私に、この書を「読め」と言われたお心も。
 私は十四人の同志を選んで、回し読みし、戸田先生を囲んで、感想発表会をもった。後に「水滸すいこ会」へと発展しゆく、青年の鍛錬の集いであった。
 「永遠の妙法」を根本に、民衆が「永遠の幸福」を楽しみきっていける「永遠の都」。その建設に同志は走った。裏切りもあった。反逆もあった。最も民衆を守るべき僧侶の大背信も続いている。しかし私は屈しない。
 恩師はつねに「裏切り者は出るものだ。そんな敗北者のしかばねを、君たちは堂々と乗り越えて前に進め」と叱咤された。小説「永遠の都」にも、卑しい裏切り者の数は多い。
 私はどこまでも戸田先生に誓った「広宣流布」という革命の道を行く。まっすぐに進む。一身に難を受けていく。これが「七・三」の心である。
4  日達上人「謗法の僧侶に頭を下げず、立派に大王の戦いを」
 私が第三代会長に就任した、一九六〇年(昭和三十五年)五月三日。日達上人は述べられた。
 「宗祖大聖人様は開目抄に『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』とおおせられております。このことばこそ、今日、推戴式を行なわれた創価学会三代会長池田大作先生におくるものであります。
 今日、学会の発展にともなって、ますます諸難がくるのでありまして、この諸難を打ち破っていかなければならないのが学会の使命であります。いな、学会は向こうからくる諸難を待っておるのではなく、むしろこちらから諸難をつくっていって、その諸難を打破していかなければならないのであります」と。
 そして「どうぞこんご、いろいろな謗法の寺、謗法の僧侶に、頭を下げることをなさず、りっぱに大王の戦争をなし、新会長のもとに堂々と折伏を現じていただきたいと思います」と結ばれた。
 この日達上人のお言葉の通り、学会は諸難を呼び起こし、打ち破り続けてきた。その一方で宗門は、大聖人と先師に反逆し、「謗法の寺」「謗法の僧侶」が充満する邪教の姿と、なり果ててしまった。ゆえに、断じて「頭を下げ」てはならない。下げる必要もない。私どもは、諸難と謗法との「大王の戦争」を、見事に戦い抜き、「広宣流布」への大道を、堂々と進みゆくのみである。
5  SGIは「四菩薩の跡を継ぐ」教団
 日達上人はまた、一九六四年(昭和三十九年)一月、「四菩薩の跡を継ぎ」と題された「新年の言葉」で述べられている。
 「観心本尊抄にのたまわく『当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す』と。
 末法においては折伏も摂受も共に大折伏の上においてなされ、一仏の境涯の内に帰するのであります。
 今や池田会長は四菩薩の跡を継ぎ、折伏の大将として広宣流布に進軍しております。
 私は僧として薄墨の衣と白五条の袈裟に身を托し、折伏の上の摂受によって、一切の宗教儀式の執行を主宰いたしております。
 共に、将に来たらんとする広宣流布を迎えるための準備は、一時もゆるがせにしてはなりません。
 宗祖日蓮大聖人の弟子檀那である者は、よろしくこの心を持って信心に励み、折伏に邁進して下さい」──。
 地涌の菩薩の上首である「四菩薩」の代表は、別しては大聖人であられる。また、「賢王」とは、総じて、力ある在家を指すと拝される。末法の大折伏の時には、「四菩薩」は力ある在家と現れて正法を弘めると示されているのである。
 広宣流布の時における在家が、いかに使命ある存在であることか。また、高貴な存在であることか。日達上人も「四菩薩の跡を継ぎ」とお述べのように、私どもは、御本仏直系の「賢王」の教団なのである。
 その「四菩薩の後継」を、迫害し、弾圧する。しかも、「折伏の上の摂受」として、本来、在家を守り、支え抜くべき出家の僧侶が、「破和合僧はわごうそう」の策謀をめぐらし、″切り捨てる″──まさに、御本仏への大反逆であり、大謗法である。仏法上、これ以上の極重罪はない。
 法華経に「閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉やしゃ鳩槃荼くはんだ等に、其の便を得せしむること無かれ」(開結六〇六㌻)と。
 「世界広宣流布」を阻もうとするのは「悪魔、魔民」等の類いであると。絶対に彼らに、「便を得せしむる(つけいるスキを与える)」ことがあってはならない。許してはならない。
6  ともあれ、幸福になるための人生である。幸福になるための信仰である。皆さまは一人残らず、幸福になっていただきたい。
 幸福の「永遠の都」は、どこにあるか。せんじつめれば、大聖人は、妙法を持つ我らが胸中にありと仰せである。私どもの生命の中に、輝く「幸福の宮殿」はある。その宝の宮殿を開きに開いていくことである。
 幸福は、形ではない。格好ではない。外見や立場、富だけで決まるものではない。「心」の奥底で何を感じているか、「生命」の奥に何が生き、何が支配しているか──そこに実質がある。
 最高の「幸福の都」を開く原動力は「信心」であり、「唱題」である。「唱題の人」「自分に勝つ人」こそが、人生を、三世を、楽しみきっていける人である。
 どうか一生涯、何があろうとも「広宣流布、万歳!」「SGI、万歳!」と叫びながら、世界一の団結で前進していただきたい。
 最後に、「イタリアに栄えあれ! イタリアの友に勝利あれ!」と、お祈りして終わります。本当に、ありがとう! グラッチェ!

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