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日蓮大聖人・池田大作

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第五十四回本部幹部会、関西総会 広布の大行進が幸福の道

1992.5.20 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

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2  きょうは、ご存じの方も多いと思うが、「ビロード革命」の話から始めたい。「静かな革命」とも呼ばれるチェコスロバキアの民主化運動である。
 三年前の一九八九年十一月十七日、チェコスロバキアの首都プラハで、かつてナチスの占領に抗議して殺された学生の五十周忌しゅうきを記念し、学生を中心とする大規模な反政府デモが行われた。参加者は約三万人。学生たちは、政府指導部の退陣、そして「自由」と「真の対話」を求めて行進した。
 非暴力のデモ。抗議の集会。それは、いわば権力をもたぬ民衆の″伝家の宝刀″である。この時、彼らは非暴力の″剣″を抜いて戦ったわけである。
3  ビロード革命の一つの発火点ともなる事件が、この時に起こった。
 ちょうど行進がバツラフ広場に向かい始めた時、機動隊が突如、デモの参加者に猛攻撃を加えたのである。悲惨にも、多数の負傷者が出てしまった。
 この広場は、私も訪れたことがあるが、プラハの有名な広場である。
 ″暴力的な抑圧は、断じて許さない!″──整然とデモを行い、「対話」を求めていた市民にとって、政府の野蛮な行為は、絶対に我慢できるものではなかった。
 このニュースは、またたく間に、国内外に広がった。
4  十九日、現大統領のハベル氏を中心とする反体制組織「憲章77」は、政府との対話の道を開くための連合協議会「市民フォーラム」(フォーラムは″広場″の意)を結成。″人民よ立ち上がれ″と、全国民に呼びかけた。
 先日(四月二十六日)もお話ししたが、まず、ストライキの先陣を切ったのがプラハの劇場である。市内の全劇場が休演し、演劇人たちが結束した。そして、劇場が「市民フォーラム」結成の舞台となり、市民の対話集会の場所となったのである。
 一面からいえば、学会の会館もまた、″立ち上がった市民″の集う「対話の広場」であり「精神闘争の広場」であろう。
5  学生によるストライキ、演劇人の抗議などの行動に、音楽家、学者、労働者らも支持を表明。抗議運動は、一気に全国に広がり、プラハでは五十万人の集会が開かれた。この時は、国営テレビも番組を変更し、集会の模様を中継したという。
 民主化と政府指導部の退陣を求める反政府運動は、さらに大きなうねりとなる。共産党は、ハベル氏ら「市民フォーラム」の民主化要求に、次々と屈していかざるをえなかった。
 二十五日、ヤケシュ書記長をはじめとする党執行部が退陣。二十七日には、民衆が″一党独裁拒否″を叫んで数百万人のゼネストを決行した。
 そして二十九日、共産党は、その″指導的役割″を放棄。ついに、民主勢力「市民フォーラム」が、勝利を収めたのである。民衆が立ち上がってから、十日余りで達成された全面勝利であった。
 一人の犠牲者も出さない、ソフトな革命であった。「言論」と「非暴力」で勝ち取った革命であった。ゆえに人々は、これを「ビロード革命」「静かな革命」と呼ぶ。
6  ″草の根″のスクラムは強し!
 二十四年前の「プラハの春」を率いたのは、当時、党第一書記のドプチェク氏であった。一方、「ビロード革命」を成し遂げたのは「市民フォーラム」であり、青年、学生であった。「プラハの春」は、一面、″上からの改革″である。これに対し「ビロード革命」は″草の根からの改革″であった。
 学会の「人間革命」の運動と同じである。学会は、どこまでも「草の根」であり、「人間」が焦点である。ゆえに強い。ゆえに勝った。発展した。
 いかに権威を振りかざそうとも、卑劣な手段で脅そうとも、正義に立ち上がった「市民」には、かなわない。「大衆」には、かなわない。「民衆」には、かなわない。ゆえに、どんな極悪人も「創価学会」には、かなわない。
 ″あんな畜生にも劣るようなやつらに、だれが負けるか!″──この気概で戦ってこそ、″民主″を担う市民であり、民衆である。正義の学会員である。
 先日のハベル大統領との語らい、また「ビロード革命」の勝利のドラマを思い起こすたびに、学会の正しさ、学会員の使命の崇高さを、いよいよ確信する。
7  このように世界には、民衆による「革命のうねり」が広がっている。
 この関西でも、「関西革命」──別名「連戦連勝革命」の運動を、お願いしたい。悪は徹底的にやっつけて、正義は断固、勝って勝ち抜いていく。その″模範″を、全国、全世界に示していただきたい。
 また、広大で労苦の多い北海道は、「北海道革命」──その名も「朗らか革命」を、お願いしたい。力を強める「強力革命」、そして「スクラム革命」としてもよいと思う。
 東京は、「動かざること林のごとし」──(風林火山の)「動かざること山のごとし」ではないけれども──やっぱり革命が必要のようだ。
 「東京革命」は足並みをそろえる「足並み革命」、″真剣″で立ち上がる「真剣革命」では、どうだろうか。「求道革命」「黒潮革命」「暖流革命」という案も考えられるが、ともあれ、フレッシュに、軽快にお願いしたい。
 愛知をはじめとした「中部革命」は、何より「団結革命」、また「希望革命」で、大いに底力を発揮していただきたい。
 九州は、打てば響くような「スピード革命」を、また、それだけだと事故を起こすから「無事故革命」を目指してはどうか。さらに「九州革命」は、和気と包容の「仲良し革命」でもあっていただきたい。
 (会場から「兵庫もぜひ」という声があり)真剣に地元のことを考えていただき、ありがとう!兵庫は、立派だから大丈夫と信じる。あえていうなら、獅子奮迅ししふんじんで立ち上がる「獅子革命」で、どうだろうか。
 全国の皆さま、″新しき表現″と″新しき行動″で、″新しき歴史″を、ともどもにつくりましょう!
8  ここでSGI(創価学会インタナショナル)の新任人事を紹介したい。
 このほど、SGIの最高参与に秋谷会長が就くことになった。これはSGI会長と同格の立場である。また、これまでの秋谷SGI理事長のあとをうけ、第二代の理事長に、和田栄一関西総合長が就任する。「世界の関西」の象徴と思う。おめでとう!
 さらに、SGI副会長やまたSGI常任理事も強化された。
 私どもの舞台は、「全世界」である。小さな日本だけの仏法ではない。世界が待っている。宇宙が待っている。広々と限りなき戦野で、思う存分、使命の法戦に走りたい。
9  身延離山から七百年──日興上人の護法の精神
 本日は意義ある関西総会であり、日興上人の「原殿御返事」を拝しておきたい。
 正応元年(一二八八年<大聖人御入滅後六年、身延離山の前年にあたる>)十二月十六日付の書状であり、日興上人が身延離山を決意されるに至った経緯と御心境が、くわしく述べられている。
 原殿については、波木井はきり実長さねながの一族でありながら正信を貫いた人物で、南部弥六郎か、実長の息子・清長きよながであろうと考えられているが、明確ではない。
 本抄の中で、日興上人は、学頭がくとう日向にこうが、地頭の波木井実長に数々の謗法を犯させた罪を厳しく指摘しておられる。なかんずく、日向が大聖人の教えに背いて神社への参詣を許したことを、「天魔てんま所為そい」であり、「師敵対七逆罪に候はずや」(編年体御書1732㌻)と断じられ、このような「不法の学頭」は追放すべきであると糾弾されている。
 現宗門のような「謗法容認」の日向であった。
 現在、私どもの前には、日向以上の「大聖人否定」の邪僧が出現している。釈尊に師敵対した提婆達多の「化身けしん」のような極悪の法主であり、″提婆の宗″──「提婆宗」となってしまった。
 日興上人のお心を継ぐ私どもは、断じて戦わねばならない。悪人を追放せねばならない。
10  日向の本性を、日興上人は以前から見破っておられた。
 「民部みんぶ阿闍梨あじゃり、世間の欲心よくしん深くしてへつらひ諂曲てんごくしたる僧、聖人の御法門を立つるまでは思いも寄らず大いに破らんずるひとよと、の二三年見つめそうらいて、さりながら折折は法門説法のまがりける事をいわれ無きよしを申し候いつれども、えて用いずそうろう」(同㌻)
 ──彼の民部阿闍梨日向は、世間の欲が深くて、強い者にへつらい、弱い者にはおごりたかぶる、心の曲がった僧であり、大聖人の御法門を立てることまでは思いもよらず、それどころか大いに破る者であろうと、この二、三年見つめてきた。それでも、折々には、(彼の)法門や説法が(大聖人の御真意を外れて)曲がったことについて、誤りである理由を指摘してきたけれども、(彼は)あえて用いようとしなかった──。
 仏法破壊の魔僧まそうの醜い本性は、いつの時代も共通性がある。強欲で臆病。権威主義で「わがまま勝手」。正しい忠告を決して用いようとはしない傲慢などである。
11  日興上人は、さらにこう述べられている。
 「日興はかく申し候こそ聖人の御弟子みでしとしてあと帰依きえまいらせて候甲斐かいに、重んじ進らせたる高名こうみょうと存じ候は、聖人や入替いりかわらせたまいて候いけん。いやしくも諂曲てんごくせず、ただ経文のごとく聖人のおおせのよういさめ進らせぬる者かなと自讃じさんしてこそ存じ候へ」(同1733㌻)
 ──日興が、このように言うことこそ、大聖人のお弟子として、その御事跡に帰依申し上げてきた真価であり、(弟子として大聖人の教えを)重んじてきたほまれだと心得ているのは、大聖人の魂が(私に)入り替わられたからであろうか。万が一にも自分の意志を曲げて、こびへつらうことなく、ただ経文にある通りに、大聖人の仰せの通りに諌めることができたものだ、と自らをほめてやりたいと思っている──。
 日興上人が、日向の邪義を破折されたのは、ただ正法を守る責任からであり、大聖人が入り替わられたかのごとき実践である、と仰せである。
 「正法を惜む心」ゆえに。「大聖人の教えを守る」ために──。私どもの思いも、同じである。
12  日興上人「大聖人の御義を相継ぎ世に立てん事こそ」
 日興上人は、身延離山を決意された断腸(だんちょう)の御心境について、こう述べられている。
 「身延沢みのぶのさわまかで候事、面目なさ、本意ほいなさ申し尽しがたく候へども、打還うちかえあんじ候へば、いづくにても聖人の御義を相継あいつまいらせて、世に立て候はん事こそせんにて候へ。さりともと思いたてまつるに、御弟子ことごとく師敵対せられ候いぬ。日興一人本師ほんしの正義を存じて本懐をげ奉り候べきひと相当あいあたって覚え候へば、本意忘るること無く候」(編年体御書1733㌻)
 ──この身延の沢を立ち退(の)くことは、面目なく、決して自分の本意ではない。その胸中は言葉では言い尽くせないが、よくよく考えてみれば、いずこであれ、大聖人の法門を正しく継承し、世に流布することこそ肝要なのである。よもやと思ったが、大聖人のお弟子(五老僧等)はことごとく師敵対してしまった。日興一人が本師(大聖人)の正義を守り抜いて(広宣流布の)本懐を遂げるべき者であると自覚しているので、大聖人の御本意を忘れることはない──と。
 日亨にちこう上人は、この御文こそ「砕骨流血さいこつりゅうけつ(骨を砕き血を流した)の大文字」であると、次のように述懐されている。
 「いまがいままで幾度拝読しても、胸は痛む、涙はかわくまがない」「いまこの文を拝して平然たるものは宗徒(門下)でないと愚僧ぐそうはいおう」──と。
13  大切なのは「正法」である。大聖人の「御本意」である。現実に、「正法」を広宣流布して、悩める人々を救うことである。
 この″根本″を曲げる敵は、放置してはならない。権威を恐れ、義理や人情にとらわれて、正法の敵、広布の敵を責めなければ、自分が仏敵に味方する与同罪よどうざいになってしまう。なによりも「正法」が滅んでしまう。
 ゆえに、日興上人は、「正法をおしむ」大感情で戦われた。不法の学頭・日向を呵責かしゃくされ、決然と謗法の地となった身延を捨てられた。
 日興上人の身延離山から、ちょうど七百年──。今、私どもも日興上人の護法ごほうの精神の通り、勇敢に極悪の″不法の法主″と戦っている。「正義」の学会が、七百年後の″時″に、濁ってしまった本山から離れることになったのも、痛恨つうこんのことではあるが、仏法の眼から見て、深い意味があると確信する。
 また、現宗門がことごとく大聖人に師敵対した以上、御本仏の御遺命ごゆいめいたる世界広布は、私ども創価学会が、全責任をもって推進する以外にはないことが、いよいよ明確になった。
14  日向は、諸岡もろおか入道という人物の家で、絵師に絵漫荼羅えまんだらを描かせ、その開眼供養かいげんくように説法をした。しかも、供養を貪り、酒に酔ったうえ、下品な歌まで歌って、人々から嘲笑された。
 日興上人はこの謗法と乱行を挙げられ、「所従しょじゅう眷属けんぞく嘲哢ちょうろう口惜くちおしとも申すばかりなし。日蓮の御恥おんはじ何事かこれに過ぎんや」(編年体御書1734㌻)──(日向が諸岡入道の)家来や家族から、あざけられ笑いものにされたことの口惜しさは、言いようがない。師の日蓮大聖人の恥で、これ以上のものはないであろう──と嘆かれている。
 日亨上人は、この御文について、「『日蓮の御恥ぢ何事か之れに過ぎんや』と仰せられたのは、現代の吾等われら僧俗も深く味戒みかい(味わい戒める)すべき金言として、必ずしも六百有余年の過去の空言そらごと看過かんか(見過ごす)してはなるまいと思う」と注意を促されている。
 法主を筆頭に一宗あげて悪行乱行の限りを尽くす日顕宗──これほど法を下げ、大聖人をはずかしめているやからはいない。
15  日興上人は、続けて仰せである。
 「くの如き等の事の出来しゅったい候へば、の阿闍梨の大聖人の御法門継ぎ候まじき子細しさい顕然けんねんの事に候へば、日興彼の阿闍梨を捨て候事を知らせ進らせんために申し候なり。同行にはばかりていかでか聖人の御義をば隠し候べき」(編年体御書1734㌻)
 ──このようなことをしでかすようでは、この日向が大聖人の法門を継ぐことができない事情は明らかなので、日興が民部日向を捨てなければならないことを(あなたに)お知らせするために述べたのである。親しい同門だからと遠慮して、どうして大聖人の正しい教えを隠したままにしておけるであろうか──。
 これが、日向の醜態しゅうたいを書き留められた理由であられた。
 私どもも、日顕宗の極悪を永遠に許さない。忘れてもならない。歴史の上に、「真実」を残さねばならない。だからこそ、庶民の怒りを込めて、悪行をおおやけにし、すべてを記録しておくのである。後世の教訓のために、民衆が二度とたぶらかされないために。
16  最後に、日興上人は述べられている。「もとより日蓮聖人にそむき進らするどもをば捨てぬがかえってとがにて候と申す法門なりと御存知ごぞんちわたらせ給うべきか」(同㌻)
 ──元来、日蓮大聖人に背いた場合には、たとえ自分の師匠などであっても、それを捨てないならば、かえって大罪になるというのが大聖人の法門であると、ご承知になるべきであろう──と。
 この日興上人のお心を我が心と拝するゆえに、私どもは何ものも恐れない。極悪の″不法の法主″を呵責かしゃくし、「破門」されても微動だにしない。学会の絶対の正しさを、日興上人が証明され、見守ってくださっていると信ずる。
17  大聖人は、立正安国論をはじめ諸御書に、次の涅槃経ねはんぎょうの文を引かれている。
 「若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子・真の声聞なり
 ──もし、善比丘がいて、仏法を破壊する者を見ても、そのまま見過ごして責めもせず、追放もせず、処分もしないならば、まさにその人は仏法の中の怨敵おんてきである、と知るべきである。もし、よく追放し、責め、処分するならば、これこそ我が弟子であり、真の声聞である──。
 「仏法の敵」を責めてこそ真の「仏法者」である。大聖人は、まさに経文通りの御生涯であられた。そして、日興上人も同じ道を歩まれた。
 私どもは、この偉大な「師子の道」に、永遠に連なっていく。「極悪」と戦い、「正法」を広げ、「正法」とともに栄えながら。
18  日淳上人は戸田先生の偉大なる偉業を讃嘆
 歴代の正師は、学会の正しさを、きちんと証言してくださっている。
 たとえば、日淳上人は、戸田先生が逝去された翌昭和三十四年、聖教新聞に寄せられた「年頭の辞」において、こう述べられている。
 「会長(戸田)先生の逝去は一度は必ずくることでありまして、それを乗り切って学会を確立するとき、そこに学会の永遠性が招来しょうらいされるのであります。それが、今こそ成就され、具体化されたのであります。
 今の事実を見るとき、特にしのばれることは戸田会長先生の指導の正しかったことであります。先生は大御本尊を信ずることきわめて強く、しかも厳格に守護したてまつるという念慮ねんりょてっせられ、むしろきびし過ぎるとまで感ぜしめる程でありました。
 従って聖祖の教えにおいては寸毫すんごうも違わないことを心掛けられ、常に教義の研鑚に励まれ、しかも自らこれを実践し、また会員にもすぐ実践せしめることに努められたのであります。
 これは、要するに正しい御本尊によって、正しく信仰せしめ、正しく助言をする。このことを常に目標として指導されたものであります。まことにその言行は地涌千界じゆせんがい眷属けんぞくの出現ならではなし得ないところでありました。
 一般世間の人は信仰の何たるかを知らず、勿論宗教に正邪のあるを知らず、痴小ちしょうなる考えをもってとかくの批評をしておったのであります。しかし、この偉大なる遺業を見て漸次ぜんじ声をひそめつつあるやに見えますのは当然のこととは申せ、これひとえに会長先生の正しさを示すものであります」と。
 地涌の菩薩でなくては、到底なし得ない、偉大な広布の大業を、戸田先生が遺された、と明言されている。
19  日淳上人の、深い学識、透徹した信心、慈愛あふれる清らかなお人柄を、戸田先生は深くご尊敬申し上げていた。上人も、戸田先生を信頼され、つねに先生の正しさを宣揚し、称賛してくださった。
 私どもは、先生の示された正しき信心と広布の軌道を、すこしも違わずに走ってきた。ゆえに、世界へと未曽有の正法流布を実現することができた。それ自体、戸田先生の偉大さの証明であり、創価学会の正しさのあかしである。
 学会の精神は微塵も変わっていない。変節したのは宗門である。
 一番大切なのは広宣流布である。その広布を推進する学会を信頼し、たたえられた日淳上人。反対に学会の壊滅を狙い、広布の前進を阻む日顕。「正師と邪師」「善師と悪師」「大善と極悪」──まったく対極たいきょくの存在である。
20  「僣聖増上慢」の本性は経文に明白
 日蓮大聖人は、極楽寺良観の僣聖増上慢せんしょうぞうじょうまんの本性について、「下山御消息」にしたためられている。
 良観は、大聖人との祈雨きうの勝負に、雨を降らせることができなかった。その理由は、″良観の正体が醜い″ゆえである──大聖人は、経文を引かれて、そう断じておられる。
 「等の経文の亀鏡をもて両火房が身に指し当て見よ少もくもりなからん、一には名は持戒ときこゆれども実には放逸なるか・二には慳貪なるか・三には嫉妬なるか・四には邪見なるか・五には婬乱なるか・此の五にはすぐべからず、又此の経は両火房一人には限るべからず昔をかがみ今をもしれ、
 ──これらの経文の所説を鏡として、両火房(良観)の身に当てはめて見よ。少しの曇りもなく符合するではないか。一つには、名は持戒の僧とされているけれども、実際は放逸ほういつ(勝手気ままで、だらしがない)であるか。二つには、慳貪(=欲が深い)であるか。三つには、嫉妬心であるか。四つには、邪見であるか。五つには、婬乱であるか。(良観の実態は)この五事のうちに必ず入るであろう。またこの経文は、両火房(良観)一人に限らない。昔を映し出し、今をも知りなさい──。
 ″良観一人に限らない″と仰せのように、この経文は「現代の僣聖増上慢」の本性をも、鮮やかに映し、えぐり出している。
 大聖人が、法華経に説く第三の強敵ごうてき(僣聖増上慢)を呼び起こされたように、いよいよ学会も極悪を打ち破る″時″が来た。
21  日淳上人は、その「年頭の辞」でさらに述べられている。
 「民主主義の社会においては、一切の人が迷妄めいもうを払って正しくなくてはなりません。そのためには理智が尊ばれ、理性によって正邪の判別がなされねばなりません。
 現在、世間では全面的に正否が活発に論議され、否なるものは是正されつつありますが、独り宗教の面においては、旧態依然たるものであります」
 「これを思うとき、宗教においても盛んに邪正が論議され、邪曲じゃきょくなる宗教が排除されねばなりません。以上のことを考えますとき、私共がなすべきことは明らかでありまして、『正法の広布』ただこれに帰するのであります」と。
 今日まで、日淳上人の御指南のごとく、折伏・弘教を、日夜を分かたず進めたのは、創価学会である。他には絶対にない。
 そして、今また、「邪曲なる宗教」と化した日顕宗を「排除」するために、正邪を糺す戦いをしているのも学会である。これも、すべて、正法を守り、流布して、民衆を幸福にするためである。大聖人、日興上人、そして日淳上人の仰せ通りの実践なのである。
22  日淳上人は、同じ年の「大白蓮華」に寄せられた迎春の辞」で次のように述べられている。
 「『正邪の分別ふんべつ』これは最も大切なることでありまして、これによってのみ正法の信仰が確立せられるのであります」
 「大聖人の御書を拝しますと、此のところが如何いかに大切であるかを、いたるところで御教訓遊ばされてあります。もっとも、此のことについては、身を以て実践せられつつある学会の各位に対しては、云わずもがなのことであります」と。
 正邪を絶対にあいまいにしてはならない。それが大聖人の仏法であり、学会こそ、その実践者であると仰せである。
23  大聖人は、「守護国家論」で述べられている。
 「道俗法の邪正を分別して其の後正法に就て後生を願え今度人身を失い三悪道さんあくどうに堕して後に後悔すとも何ぞ及ばん
 ──出家も在家も、法の正邪を分別した上で、正法に従い、後生の安穏を願うべきである。このたび(今世で邪法を信じたため、来世で)人に生まれることができず、三悪道に堕ちてしまえば、後で後悔しても、取り返しがつかないであろう──と。
 邪師を信じれば、今世のみならず、未来世にわたって大苦悩を受ける。後悔しきれない大不幸である。″僧も俗も邪正を、はっきり見極めよ″と御本仏は強く仰せである。
24  在世の門下も「大聖人直結」ゆえに大功徳
 さて「大聖人直結」の信心について、一側面から述べておきたい。
 大聖人御在世当時、門下の人々は、大聖人から直接、御指導を拝し、正しい信心の在り方を学んだ。大聖人の仰せのままに実践することによって、信心の確信を深めていったのである。
 文永十二年(一二七五年)三月、大聖人は、鎌倉の四条金吾へ次のようなお手紙を送られている。
 「此経難持の事、そもそも弁阿闍梨が申し候は貴辺のかたらせ給ふ様に持つらん者は現世安穏・後生善処と承つて・すでに去年より今日まで・かたの如く信心をいたし申し候処にさにては無くして大難雨の如く来り候と云云、真にてや候らん又弁公がいつはりにて候やらん
 ──「此の経はたもがたし」ということについてですが、弁阿闍梨(日昭)が言うには、「私(四条金吾)はあなた(日昭)が言われる通りに、法華経(御本尊)を持つ者は『現世は安穏にして、後生は善処に生まれる』とお聞きして、すでに去年から今日まで、きちんと型通りに信心をしてきましたが、現世安穏ではなくて、かえって大難が雨のように、やってきました」と言われたと。はたして、本当であろうか。それとも、弁阿闍梨のいつわりであろうか──。
 金吾が、雨のように降りそそぐ難に、思わずグチをこぼしたという報告が、日昭から大聖人になされていたのである。
 前年の九月、金吾は主君の江間氏を折伏した。それを機に、同僚たちが金吾を怨嫉おんしつして、いやがらせをしたり、主君に讒言ざんげんするなど、さまざまな迫害を加え始めていた。
 そのため金吾は、鎌倉の門下の中心的存在であった日昭に、「あなたの現世安穏・後生善処という指導とは違うじゃありませんか」と不安をのぞかせたのであろう。日昭の指導では、金吾の心の霧を晴らせなかったのか、日昭は、大聖人に御報告して指導をお願いしたのだと推測される。
25  そうした四条金吾の疑問に対して、大聖人は次に答えられている。
 「いかさま・よきついでに不審をはらし奉らん、法華経の文に難信難解と説き給ふは是なり、此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり
 ──どちらにしても、よい機会なので、その不審を晴らしてさしあげましょう。法華経の法師品の文に「法華経は信じがたく理解し難い」と説かれているのは、このことをいうのである。法華経を聞いて受持じゅじする人は多い。しかし、本当に聞いて信受し、どんな大難が来ても、法華経を常におもたもって、忘れない人はまれである。受けることはやさしいが、持つことはむずかしい。しかるに成仏は持ちつづけることにある。この法華経を持つ人は、必ず難にあうのだと心得て持つべきである──と。
 難を乗り越えてこそ成仏がある。すなわち、難はチャンスなのである。喜び勇んで立ち向かう時、信心によって打ち勝てない難などない。越えられない山などない。要は″必ず勝つ″一念である。勝つための″行動の持続″である。
 金吾の苦難は、その後、四年にわたって続くが、常に大聖人より御指導を受けて、見事に乗り越えていった。そして、主君の重病を治療して救ったことから、信頼を回復し、弘安元年(一二七八年)十月には、所領も増加するという大勝利の実証を示している。
 金吾は、「大聖人に直結」していたからこそ、信心を貫き、勝利することができた。
 苦難のたびに、いただいた御書を拝しては、勇気と確信を新たにしたであろう。そして仰せの通りに実践することによって、自身の大難をも乗り越えた。他の門下も同様であろう。
26  門下を「助け給へ」との大慈悲
 大聖人は、佐渡から、四条金吾はじめ門下に次のようなお手紙を送られている。
 「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり
 ──どのような世の乱れにも、あなた方のことを、法華経・十羅刹女よ助けたまえと、湿っている木から火を出し、乾いた土から水を得るように、強盛に祈っている──。
 遠く佐渡の地にあって、御自身が明日の命もしれない大難のさなかにあられながら、門下の仏子を守らんと、不可能をも可能にしようとの、強き祈りを送られる大聖人。この深き慈愛に門下は奮い立ったであろう。人間の振る舞いを離れて、断じて仏法はない。
27  この御文について、総本山第五十九世日亨上人はお述べである。
 「各方おのおのがたは法華経の命をぐ人である。長夜ちょうやの闇を照らすべき法華経の燈火とうかを盛んにする、油となるべき人である。一天広布のためには必ず、無くてはならぬ人達である。一人も現在の災難に会われては相成あいならぬ」
 「百人や千人の信者では、広宣流布の本懐は遂げられぬが、一人でも減少すれば、退却の形である。そこで天下国家の為、神のため、仏のため、民のため、君のために、各方おのおのがたの安泰を祈るのである」
 「木と木と磨擦こすり合わせて、火を出すさえ容易でないが、これは通り一遍の祈りの心である。自分は湿った濡れた木を擦り合わせて火を出すような、烈しき祈りを各方のためにはせにゃならぬ。
 土を掘りて水を出すのは、容易でないけれども、これは普通の祈願の意である。自分はカチカチと乾ける、焼けるような大地を掘っても、水を得ようとするような、無理な祈願を、各方のためならせにゃならぬ。
 それが即ち、法華経の一心欲見仏いっしんよっけんぶつ不自惜身命ふじしゃくしんみょうである、と云うのが、今所引しょいんの御文の大意である」と。
 広布のために、一人一人の安穏を強盛に祈られる御本仏のお心に、私どもは感動する。
 門下の人々は、こうした大聖人の励ましを通し、信心を学んでいった。直接お会いできない時も、大聖人の御書を拝し、大聖人のお姿を思い浮かべ、大聖人の御指導のままにと戦ったのである。
28  戸田先生は、「信心は大聖人の時代にかえれ」と叫ばれた。
 その言葉通り、学会は、御在世の門下のごとく、御書を拝し、御書の仰せのままに戦ってきた。「御本尊根本」「御書根本」で進んできた。
 信心の在り方も、折伏・弘教の実践も、広布の大願も、大聖人の御書によって学んだのである。いわば、大聖人から直接、御指導を受け、実践してきたのと同じといえよう。
 「大聖人に直結」していたからこそ、広布の大前進もなされ、大功徳を受けることができた。この正道こそ、日興上人、そして歴代の御正師が教えられた正しき信心である。
29  「大聖人直結」の証は難また難の歴史
 「大聖人直結」かどうかの、一つの証明は、正しいにもかかわらず、世間や権力による大難を繰り返し受けることである。
 大聖人は仰せである。
 「法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりは・よめども心はよまず・心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ
 ──法華経を、他の人が読むのは、口でばかり、言葉ばかりでは読むけれども、心では読まない。心では読んでも、身では読まない。(あなたはこのように難にあって)身と心と共に読まれたことは、貴いことである──と。
 文永八年(一二七一年)の大難の際、鎌倉の土牢つちろうに捕らわれていた、弟子の日朗に与えられた御書の一節である。身読しんどく色読しきどくとは、現実に法難にあうことを意味している。
 日亨上人は、この御文を拝されて、「色心二法の読誦どくじゅが即ち、色読でありて、大聖人御門下のたっとむべき読誦の本義である。信仰の体験は別してここにあるので、如何いかに博学多才であっても能弁巧説のうべんこうせつであっても、品行方正ひんこうほうせいであっても、宗門事業に大功ある人であっても、この色読(法難)の体験なき人は、不幸不徳の人で、仏祖ぶっそ(大聖人)の賞鑑しょうかん(おほめ)に預り、未来世に大徳を持って行く人ではありませぬ」と述べられている。
30  要するに、広布の実践によって、難を受けた体験がなければ、御書を正しく読んだとはいえない。まして、大聖人のおほめにもあずかれず、未来世にわたる大福運など積めるはずがないと仰せなのである。
 創価学会の歴史は、数限りない「難また難の連続」の歴史である。そのことは、だれびとも否定できない「事実」である。これこそ、御書を、正しく身読、色読してきたあかしである。「大聖人直結」の紛れもない証明なのである。
 一方、宗門は、折伏もせず、広布の実践もなく、当然、大難など受けなかった。
 むしろ難を受けないために、大聖人の仏法を歪め、背いて、権力に迎合するという、大謗法を犯してきた。その歴史の一部は、今、次々と明らかにされている通りである。
 (その一つが、昭和十八年六月に、学会員に神札を受けさせようとしたことであり、また宗内の僧俗に伊勢神宮を遙拝ようはいさせるなどの、謗法を強要した行為である。
 また、昭和十六年九月には、大聖人の御遺文の字句を、十四カ所にわたって削除するように通達している。そこには、「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」と仰せの一節も含まれており、大聖人が末法の御本仏であることの否定に通じる、大謗法といえよう。
 同年八月に出された、宗務院の院達では、御書全集の刊行を禁止し、今後は本地垂迹すいじゃく説を用いないよう宗内に通達している)
 まさに宗門の歴史は、″迎合の歴史″となってしまっていた。
 大聖人の滅後、迫害にあい、住坊を破壊されようとした五老僧──。彼らは、大聖人の正義に背き、「天台沙門しゃもん」と名乗り、謗法である幕府の権力者のために祈祷して、難を逃れた。宗門は、この五老僧の末流の姿を現じていたのである。
 反対に学会は、謗法厳誡げんかいの精神を貫いたために、弾圧を受け、牧口先生は獄死。戸田先生も二年の間、獄中で呻吟しんぎんされた。
 どちらが正義であり、御本仏の御称賛を受けたかは、言うまでもないであろう。
31  現宗門にいたっては、戦時中以上の悪である。自らの嫉妬と卑しい欲望に溺れて、仏意仏勅の「広宣流布の団体」の破壊をたくらみ、破門するという、御本仏の御遺命を真っ向から否定する大謗法を犯したのである。
 大聖人は、「謗法不信の者は「即断一切世間仏種」とて仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり」──謗法不信の者は、法華経の譬喩品ひゆほんに『すなわち一切世間の仏種を断ぜん』と説かれているように、成仏する種子を断ち切ってしまうので、生死一大事の血脈はないのである──と明確にお示しである。
 謗法の現宗門には、大聖人からの成仏の血脈は完全に切れている。堕地獄の宗門となってしまった。これに従う人々も、御書に照らし、同罪である。
 反対に私どもは謗法の世界から離れて、晴れ晴れと、五月さつき晴れのような、さわやかな心で、「一生成仏」と「世界広布」に進んでいる。
32  詩を愛するインドの伝統
 ともあれ、今や名実ともに「世界の大関西」である。関西ばかりほめると、「中部は違うのか」とか、「中国はどうなんだ」との声があがるかもしれないが、もちろん、全体が「世界の創価学会」である。その前進の一大原動力が関西であると申し上げたい。
 本年二月に訪れたインドでも、関西出身の方々が、現地メンバーと一緒になって、諸行事の成功のため一生懸命に働いてくださった。
 ところで、インドの人々は、こよなく「詩」を愛する。その伝統は、まことに奥深い。
 そもそも仏教の「経典」も、一次元から言えば「生命の詩」といってよい。自我偈じがげなどの「偈」も、詩の形式の経典である。口唱くしょうしやすく、覚えやすかった。
 そのインドで、光栄なことに、私の詩が高い評価をいただいているようだ。
 (一例として、インドの「世界詩歌協会」のスリニバス会長は、「詩人・池田氏は世界の詩壇に不滅の地位を確立した。それは最も印象的な革命の歌によってである。詩人はこれらの傑作の詩歌の中で、ミルトン(十七世紀イギリスの世界的大詩人)的な高みにまで到達している」と)
 深き「詩心」と「哲学」の伝統──。インドの方々とお会いするたびに、たいへん話がはずむ。すぐに″呼吸″が合う。″心″が通じ合い、″魂″が共鳴する。
 私はこれからも、今まで以上に世界の各界のリーダーと「対話」を重ねていく。
 「人類」のため、「平和」のために、働き抜いていく。皆さまも、それぞれの使命の舞台で、よろしくお願い申し上げたい。
33  インドの民衆詩人の「自由」への闘争
 さて、インドの民衆詩人にバーラティー(一八八二〜一九二一年)という人がいる。
 今世紀の幕開けに、彼はインドの独立闘争に身を投じた。「自由」と「平等」のために戦い、動き、そして歌った。約十年に及ぶ亡命生活にも屈せず、「大闘争の言論」を貫いた。迫害にも毅然と立ち上がり、民衆を味方にした。傲慢な権力に立ち向かった。
 偉大な人間は、常に「民衆」の側に立つ。″民衆の味方″である。権力に取り入る″権力の味方″は、どんなに偉ぶっても偽善者である。民衆の敵である。
 彼は、故郷タミルの天地に深い愛情を抱いていた。
 バーラティーは、愛するタミルの″民衆の言葉″で詩をつくり、歌い続けた。それを自身の誇りとした。それまでの伝統的形式を踏まえつつ、それに甘んずることなく、″新しい言葉″と″新しい行動″で、愛する故郷に″新しい栄光の歴史″を開いていった。
 新しき感覚、新鮮な発想が、新しき未来を開く。朝のさわやかな空気を胸いっぱいに吸い込むように、常にみずみずしく、自分を磨き輝かせていく。これが指導者の要件である。傲慢の人、虚飾の人は、必ず行き詰まる。
 また彼は、もともとは教師であった。若き日から、「教育」について論ずれば、だれにも負けなかったと言われる。
 もちろん、彼は口先だけの人間ではなかった。口先だけでは、長い目で見れば、決して人の心はつかめない。賢明な民衆に見破られてしまう。「口がうまい」というなら、サギ師が一番である。要は、「行動」の裏付けのある雄弁かどうかである。私どもは、もはや、だれにも、だまされない。
34  さらに、バーラティーは、″宗教による差別″とも、断固戦った。
 彼は「自由の歌」という詩の中で、声高らかに歌い上げる。
   今こそ
   歌と踊りのとき、
   よろこばしき自由が
   ついにわれらのものとなったがために。
  
   生来の階級カーストを誇る傲慢の時代は過ぎ去った、
   外国人よそびとの権力は過ぎ去った、
   飼いらされた服従は過ぎ去った、
   詐欺師さぎしの統治は過ぎ去った。
  
   自由はわれら人類の共通語、
   平等は体験にもとづく事実──
   われらは勝利のほら貝を吹き鳴らし
   万人に真理を告げ知らせよう。
  
   われらは知っている──人みなは生まれながらにして平等であることを、
   いまは虚偽きょぎ欺瞞ぎまんも息たえたことを。
   善良なる者だけが偉大だ、
   邪悪よこしまなる者は滅び去るのだ。
  
   農夫や労働者に栄えあれ!
   大食漢yあ放蕩者に呪いあれ!
   われらは砂漠に水をまかないし
   怠け者の利益のために汗を流しはしない。
 私どもは、今こそ「魂の自由」を謳歌すべき時である。
 ──もはや「傲慢」と「差別」の時代は終わった。「詐欺師」よ立ち去れ! と。
 今、私どもも、まったく同じ心境である。
 学会も、今、この詩の通り、「自由の喜び」あふれる時代を迎えた。
 ″砂漠に水をまく″ように、「怠け者」の悪侶のために″汗を流す″必要もない。広宣流布と自分自身のため、自由に、伸び伸びと活躍できる時代が訪れたのである。
35  今回の訪印でお会いした(二月十四日)ベンカタラマン大統領も、就任演説などで、バーラティーの詩を引用し、「自由」の尊さを訴えられている。
 大統領も、ご夫人も、まことに心の温かな方であった。一民間人である私を丁重に迎えてくださった。
 会見の中で大統領は、師と仰いだマハトマ・ガンジーのもとで戦った青年時代を振り返りながら、言われた。
 「″自由のための闘争″に参加した当時の青年は、実は、だれ一人として自分の生涯のうちに独立を達成できるとは考えていませんでした。だれ一人です。
 しかし、当時の青年は、自分たちの命を犠牲にする用意ができていた。報いなど全く求めていませんでした」と──。
 わが学会精神も、同じである。
 だれが見ていようが見ていまいが、「報い」があろうがなかろうが、ひたすら「法」のため、「民衆」のため、「後世」のために戦い抜く。ここに仏法の真髄がある。学会の魂がある。なかんずく、学会青年部の誇りある伝統がある。
 私どもは、永遠に、この崇高な心で進む。
36  大法戦の″時″に巡りあった幸福
 戸田先生は、昭和三十年(一九五五年)の四月、大阪の堺支部幹部会の席上、こう語られた。
 「日本の国大惨敗の、この時に生まれあわせたのは、いかなる身の不幸でありましょうか。さりながら、仏勅によって与えられた、広宣流布のこの日にめぐりあっているわれらの喜び、誇りは、これ以上のものはないのであります」と。
 また戸田先生は、この折、ご自身の誇りとして、三つ挙げられた。
 一つは、青年時代に物理・化学・数学などの研究に励まれていたころ、来日した大物理学者・アインシュタインの講演を、牧口先生とご一緒に直接、聞くことができたこと。
 次に、「師弟の誇り」。すなわち、牧口先生に、牢獄に入るその日までお仕えし、教えを受けたことである、と。
 さらに、先生のもう一つの誇りは「殉難じゅんなんの誇り」である。戦時中、国家神道と戦い、二年間、獄中にあったことである。
 ご存じのように、この折、日蓮正宗は軍部権力に迎合し、数々の大謗法を犯した。
 以上の三つを、戸田先生は最大の誇りであると話された。大阪・堺での歴史の一コマである。
37  この講演の最後に、先生は叫ばれた。
 「いまここに、広宣流布という大業に、われわれはぶつかったのであります。いま、この広宣流布の大行進に脱落するならば、私とともに時を得て、同じく法難を受けながら、その時に生きることができなかった過去の同志と同じく、皆さまには生涯の幸福というものをみることができないでありましょう」
 今、広布の大行進に遅れてしまえば、戦時中、先生を裏切り退転した者と同じように、もはや幸福はない、と。
 「もしも、この広宣流布の大行進に、こころざしを同じうして立つならば、幸福をつかみうること、火を見るよりも明らかであります。もし、広宣流布の大願成就の暁に、その大行進に連なりえなかった後の信者は、どれほどわが身の不幸を嘆くでありましょうか。断じて、断じて、広宣流布の大行進には、遅れてはなりません」
 戸田先生は、御書と経文のうえから、そして、ご自身の生命をかけた体験のうえから、強く訴えられたのである。私どもは、戸田先生のこの叫び通り、永遠に″広宣流布一筋″に、″学会精神一筋″に、勇猛果敢なる前進をしてまいりたい。
 最後に、「大関西」の皆さまが、広布の一切の原動力となっていただきたいと心から念願し、記念のスピーチとしたい。きょうは本当にありがとう! ご苦労さま!

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