Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第五回東京総会、全国代表者幹部会 ″地球仏法″のネットワークは人類の希望

1992.5.12 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

前後
1  すべてを前向きに、そこに信心
 皆さまのお力によって、「五月三日」の祭典を、素晴らしい日本晴れで祝うことができた。心より感謝申し上げたい。
 きょうは東京の総会ということで、どうやら「眠れる獅子」も、やっと立ち上がったかと、私は期待し、喜んでいる。
 全国の各方面も真剣に戦っている。東京は本陣である。いちばん肝心かなめの東京である。東京が立ち上がり、東京が大勝利へ進めば、全学会の勝利に通じる。
 東京の皆さま、きょうから「立ち上がった獅子」として、よろしくお願いします。
2  きょうは何の日か。(会場から「日蓮大聖人の伊豆御流罪の日」との声)
 その通りである。よくご存じで素晴らしい。
 このことについては、後で触れるが、きょうは、また「看護の日」でもある。白樺会、白樺グループ(婦人・女子部の看護者のグループ)の皆さまに、全学会員を代表し、また国民として、謹んで日ごろの労に感謝申し上げたい。
 (五月十二日は、近代看護の開拓者ナイチンゲール<一八二〇〜一九一〇年>の誕生日。国際看護婦協会は「国際看護婦の日」と定めてきたが、日本でも昨年から厚生省が、この日を「看護の日」とし、この日をはさんで一週間を「看護週間」に制定した)
 ちょうどこの「看護の日」にケガをされたご婦人がいて、軽傷ですんだが、私は花束のお見舞いと一緒に、ユーモアを込めて、激励の伝言を贈った。私の古くからよく知っている方である。
 ──頭を、ちょっと打ったとのことですが、きっと驚くほど頭の回転がよくなって、来世はノーベル賞をもらえるかもしれません。おめでとう、と。
 もちろん、病気やケガに油断は禁物である。また、ケガなどないほうがよいことは言うまでもない。
 ただ、それはそれとして、何かあるたびに、すぐにくよくよし、悪い方向へ、悲しい方向へ、グチの方向へと受け止めていたのでは、人生は暗くなる。つまらない。宿命転換の力も出ない。
 何があろうとも、すべて、良い方向へ、元気が出る方向へ、変毒為薬の方向へ、朗らかに強く受け止めていくことである。そうできるのが「信心」である。
 この微妙な心のもち方、一念の方向性によって、幸、不幸は大きく左右されてしまう。どうせ生きるならば、すべてを前向きに、楽しく、とらえて生きたほうが幸せである。その、たくましき、喜びの一念こそが、宿命転換を急速に実現していく。
3  外護の信徒を「世尊の生まれかわりか」と御賛嘆
 さて、ご存じのように、きょうは大聖人の伊豆御流罪の日である。
 伊豆といえば、伊豆七島の御蔵みくら島で、きょうから音声同時中継が始まった。美しい新緑と花々に包まれてのスタート、おめでとう!
 弘長元年(一二六一年)五月十二日、大聖人は伊豆に御流罪になり、船守弥三郎ふなもりやさぶろう夫妻が大聖人をお守りした。夫妻へのお手紙には次のように仰せである。
 「日蓮去る五月十二日流罪の時その津にきて候しに・いまだ名をもきをよびまいらせず候ところに・船よりがりくるしみ候いきところに・ねんごろにあたらせ給い候し事は・いかなる宿習なるらん、過去に法華経の行者にて・わたらせ給へるが今末法にふなもり船守の弥三郎と生れかわりて日蓮をあわれみ給うか
 ──日蓮が去る五月十二日、流罪になって、その津(川奈の海岸の船着き場)に着き、まだ(津の)名も聞き及ばず、船から上がって苦しんでいたのを、あなた方は真心込めてお世話してくださった。これはいかなる宿習(過去からの約束事)でありましょうか。過去に法華経の行者であられた方が、今、末法に船守の弥三郎と生まれ変わって、日蓮をあわれんでくださったのでしょうか──。
4  「たとひ仮令男は・さもあるべきに女房の身として食をあたへ洗足てうづ手水其の外さも事ねんごろなる事・日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし、ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ日蓮を供養し給う事いかなる事のよしなるや
 ──たとえ男(弥三郎)はそうであったとしても、女房の身として(日蓮に)食物を与え、足を洗うこと、手を洗うこと、またその他のことまで、じつに心こまやかにお世話してくださったことは、(その宿縁は)日蓮にはわかりませんが、不思議としか言いようがありません。ことに三十日あまり(このお手紙は六月二十七日付)のうちに内心に法華経を信じ、日蓮を供養なされたことは、いかなる宿縁によるのでしょうか──。
 「不思議な方々である」と──。私は、ただ大聖人を信じ、大聖人の正法を諸難を乗り越えて弘めている学会員の皆さまも、まことに不思議な方々であると思えてならない。
 また「内心に法華経を信じ」と仰せである。大切なのは「心」である。御本尊を信じ、大聖人を信じる「心」に大功徳がある。ともあれ、深い深い感謝のお言葉であられる。
5  さらに、大聖人は「夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか」──あなた方ご夫妻は、教主・大覚世尊(釈尊)が生まれ変わられて、日蓮を助けてくださったのでしょうか──とまで仰せになり、重ねて賛嘆されている。
 大聖人が「恩ある人」「陰の人」をどれほど大切にしておられたか。その「功労」にどれほど感謝され、ほめたたえておられたことか──。
 大聖人の、この御振る舞いを忘れてはならない。我が学会は、この御心を拝し、学会員を「仏」のごとく大切にしてきたゆえに、世界の学会として栄えたのである。
 民衆を見下し、真心の人を見下す「傲慢」ではない。「権力」でも「権威」でもない。平等に、同志の心で「ともに広宣流布を実現しよう!」と進んできた。
 仏子を仏子として心からたたえ、励まし合ってきた。だからこそ、今日がある。
6  大聖人と正反対の″忘恩の宗門″
 戸田先生はかつて言われた。
 「いまは法滅尽ほうめつじんの時である。日蓮正宗の末寺の屋根は落ち、畳は破れはてて、まさに日蓮正宗はつぶれそうになっていたのである。この日蓮正宗をつぶれないようにしたのは、創価学会です。
 堀猊下(日亨上人)がいつか、『戸田さん、あなたがいなかったら日蓮正宗はつぶれたよ』とおっしゃったことがあった。このように、正宗がつぶれそうになったとき、学会が出現したのです」──と。
 これが″事実″である。草創そうそうの方々であれば、皆、こうした″現実″を覚えておられるであろう。
 しかし、つぶれそうな日蓮正宗を守った、学会の外護げごの「大功労」に対し、宗門は「感謝」どころか、「破門」でむくいた。
 人間としても最低の行為である。また赤誠せきせいの信徒をあれほどまでに賛嘆された大聖人の御心を、まっこうから否定し、踏みにじる「師敵対」「大謗法」ではないかと宣言しておきたい。
 十七世紀の、あるフランスの文人ラ・ロシュフコーは、こう書いている。
 「ほとんどすべての人が小さな恩義に喜んで恩返しをする。多くの人が中くらいな恩義を恩に着る。しかし大きな恩義に対して恩知らずでない人はほとんど一人もいない」
 宗門以上に、この言葉が当てはまるところもないであろう。
7  民衆が「金剛不滅の仏身」に
 大聖人は、さらに弥三郎夫妻にこう仰せである。
 「我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが・法華経の行者となりて無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身とならん事あにかの仏にかわるべきや
 ──我ら衆生は無始より(果てしない昔から)、生死の苦しみの海の中にありましたが、このたび法華経の行者となってみると、我らの無始以来の色心(身と心=生命)は、「もとれ理性」すなわち本然ほんねんに仏性をそなえた当体であり、妙法(妙境)とそれを悟る智慧(妙智)をともにそなえているのであって、この身が金剛不滅の仏身となるであろうことは、どうしてかの釈迦仏に異なることがありましょうか──。
 「法華経の行者」とは当然、「大難」のまっただ中におられる大聖人御自身のことであるが、総じていえば、法華経を行ずる民衆が、釈尊と同じ「金剛不滅の仏身」になれるとの仰せと拝される。大変に重要な文証もんしょうである。
 「当体義抄文段」には「我等、妙法の力用りきゆうってそく蓮祖れんそ大聖人とあらわるるなり」とも述べられている。
8  大聖人は続けて「過去久遠五百塵点のそのかみ当初唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」と。
 ──限りない過去、久遠五百塵点劫の当初そのかみに仏となり、「ただ我一人のみ救護くごす」(ただわれ一人のみ一切衆生を救うことができる)と仰せになられた教主釈尊とは、我ら衆生のことなのです──。
 一切衆生の救済を宣言なされた「教主釈尊」とは、ほかならぬ「民衆」「凡夫」なのだとの御断言である。「一往いちおう再往さいおう」「総・別」の意義を踏まえることは当然であるが、まことに甚深の法義が説かれている。
 末法において、民衆を救い、世界に正法を弘め、広宣流布していく──その仏とは日蓮大聖人であり、大聖人直結の「民衆」自身である。
 「民衆こそ仏」なのである。大聖人の仏法を口にしながら、その本義と正反対の「民衆抑圧」を繰り返す人間には、大聖人の仏法の根本がわからない。根本が狂っている。
 それに対し、大聖人の仰せ通りに進む私ども学会員は、必ずや「金剛不滅の仏身」となるのであり、私どもの広布への行動は、そのまま尊貴なる仏の振る舞いに通じている。
9  地球的諸問題に警鐘をならすローマクラブ
 さて、きょうから三日間にわたり、「ローマクラブ」の福岡会議が開催されている。ご承知の通り、私が対談した故ペッチェイ博士は同クラブの創設者であられる。
 福岡会議のテーマは「地球環境と地域行動」。ローマクラブのアジア地域での会議は、これが初めてである。六月の「地球サミット」を前にした意義ある会議として注目されている。
 (一九八九年にアメリカ・デンバーで行われた第一回地方会議に続くもの。「地球的諸問題への対応」「アジアにおける持続可能な開発」「地域行動──環境にソフトな経済システムとライフスタイルについて」「地球にやさしい社会の創造」などの角度から、地球環境問題について討議した)
 この会議には、同クラブのホフライトネル会長も出席されている。
 ホフライトネル会長は、私と同じ年で、今年六十四歳。スペインのご出身であり、同国の教育科学相やユネスコ(国連教育科学文化機関)の理事を務められるなど、「教育」に熱意を注ぎ、世界的な活躍をしてこられた。
 会長とは、私も昨年(一九九一年)六月、フランスでの「ヴィクトル・ユゴー文学記念館」のオープンの日にお会いした。その日、会長は開館式に出席のため、ご多忙のなかを、わざわざスペインから駆(か)けつけてくださった。
 会長は、「SGI(創価学会インタナショナル)会長への敬意を表するために、やってまいりました」「ペッチェイ元会長のSGI会長への深い尊敬と友情の気持ちを、私も受け継いでいるつもりです。ぜひ、これまで以上の協力関係を築きたいと切願しております」と語っておられた。
 まことに謙虚な方であられる。ペッチェイ博士も、やはり謙虚な方であられた。「謙虚さ」は、その人の″偉さ″の表れである。
10  会談では、ペッチェイ博士との対談集『二十一世紀への警鐘』──現在、十三カ国語で出版されている──に続いて、ホフライトネル会長とも、新たに対談集を準備していくことを約束しあった。
 また、昨年の湾岸戦争にさいし、私は作家のアイトマートフ氏ら世界の五人の識者とともに、戦争回避のための「緊急アピール」をイラクのフセイン大統領あてに送った。五人のうちの一人がホフライトネル会長であった。
 SGIは世界の知性とともに、超一流の次元で、現代における人間の王道を歩んでいる。
 (アピールに参加したのは、ほかに物理学者のバーナード・ベンソン氏、ユネスコのフェデリコ・マヨール事務局長、ノーベル賞作家のウォレ・ショインカ氏。国連安保理事会が決議したイラク軍のクウェート撤退期限を目前に、フセイン大統領に勇気ある戦争回避の道を望むとともに、中東問題全体に関する「国際首脳会議」の開催を提唱した)
11  ″「地球市民」の意識変革、「人間革命」以外にない″
 ローマクラブは一九七〇年、ペッチェイ博士を中心に、世界的な知的民間組織として創設された。″地球的問題群″の解決のため、世界の英知を結集することが目的であった。
 以来、「地球的な視野で考え、足元から行動する」とのスローガンのもと、人類が直面する重大な課題に対し、一貫して警告を発し続けてきた。その活躍は「人類の知恵」とも呼ばれ、評価されている。とりわけ二十年前、世界に衝撃を与えた『成長の限界』という報告書は、大変に有名である。
 そのローマクラブが、昨年秋、『ザ・ファースト・グローバル・レボリューション』(第一次地球革命)という新しい報告書を発表し、大きな波紋を広げている。
 これについては今年の「SGIの日」(一月二十六日)記念提言でも触れたが、地球規模で発生している、さまざまな問題を取り上げ、その解決への道筋を明確にしようとした労作である。
 同報告書では、結論として″一人一人の人間の内面の変革に基づく「連帯」″を呼びかけている。
 地球市民の意識革命、そして「人間革命」こそ不可欠である──これが、創設者であり初代会長であったペッチェイ博士以来のローマクラブの主張である。その志向性は、学会の主張と完全に合致している。
 「人間性革命」か、「人間革命」か──この点についても、ペッチェイ博士と私は白熱した語らいを重ねた。私は「人間革命」こそ人類の未来への要諦であると申し上げた。(ペッチェイ博士と名誉会長の初の会見は一九七五年五月。それまで博士は「人間性革命」<ヒューマニスティック・レボリューション。人道上の革命の意も含むか>の用語を用いていたが、名誉会長との会見の後、「人間革命」<ヒューマン・レボリューション>という表現に変えている)
 私どもの理念と運動は、時代の先端を進んでいる。
12  今回の報告書の序文の中で、ホフライトネル会長は次のように述べておられる。
 「今回もまた、ローマクラブはやたらに地球の終わりを予言したがる、という批判を浴びるかもしれない。しかし、あえて必要な警告を発することこそ、我々の役割であり、誇りである。それはむしろ、『地球の終わり』を回避するために必要な第一歩と言うべきものである」と──。
 すなわち、″地球を愛するがゆえに、私たちは、あえて必要な厳しいことを言い切っていく。そこに私たちの使命がある。誇りがある″というのである。
 まことに、全人類的な立場に立った責任ある言葉と思う。だれもが共感できる誠実さがある。
 私どもも、宗門の悪に対して、「正義の叫び」を重ねてきた。それらはすべて「あえて必要な」主張であり、正法を惜しむがゆえの声である。
 「正法の終わり」「法滅」を断じて避けるために、悪とは徹して戦い抜く──。これこそ私たちの「役割」であり「誇り」であると申し上げたい。
13  新しい世界の新しいリーダーの要件
 さて「新しい世界の新しいリーダーの要件とは何か」。これについてローマクラブの最新報告書は、九項目にわたって考察している。一応、政治の指導者を念頭に置いたものだが、普遍的な内容であり、広宣流布のリーダー像を確認し学ぶ意味から、少し、わかりやすくして、ご紹介したい。
 まず一点目は「地球的な視野から物事をとらえ、行動していける」ということである。
 我がSGIも、人類の幸福のために、一貫して「平和」「教育」「文化」の世界的な運動を展開してきた。そのネットワークは、今や地球的な規模にまで広がっている。
 一宗一派ではない。世界を視野に、全人類を包みゆくのが、大聖人の一閻浮提の仏法である。いわば「地球仏法」「人類仏法」──その真価を発揮すべき時代である。今″新しい出発″を迎えた学会こそ、″新しい世界″へと人類をリードできる存在なのである。
14  第二点は「変化に適応し、変革を起こす力がある」ということである。
 時代は変化している。すべては、刻々と移り変わる。変化を前に戸惑ったり、傍観しているだけでは、大きく取り残されてしまう。未来は開けない。″敗北″である。「現状維持」の心は、すでに「後退」の心である。
 ″きのうの自分から、きょうの自分へ″″きょうの自分よりも、あすの自分へ″と、常に成長していく。それでこそ皆に、勇気を与え、希望を与え、勝利へと導いていける。
 日々、変化し、日々、成長する。これが「人間革命」である。真の信仰者の人生である。いつもいつも同じ話、惰性の姿ではいけない。「変革の波」を、まず自分の心の中から起こしていただきたい。
15  第三点は「功利主義に譲歩しない倫理観の強さ」である。
 功利主義とは利益を第一とする考え方で、それに譲歩しないとは、「目先の利益にとらわれない、惑わされない」ということであろう。
 目先の利益を追い求める生き方は、初めは良いように見える場合もある。しかし長い目で見たとき、人生を最後の勝利で飾ることは難しい。信心の世界においては、なおさらである。
 大聖人は、信心は「水のごとく」と仰せである。私は、これまで四十年以上、信心し、さまざまな人生模様を見てきたが、水のごとく清らかに、たゆみなく進んだ人が勝利している。大聖人の仰せは絶対である。
 大切なことは、自らの信念のままに、進むべき道を毅然と進むことだ。″自分は今、どうあるべきか″と常に自分を見つめ、日々、使命の道に出発していく──「倫理観の強さ」とは、このことであろう。
 幹部になったとか、ならなかったとか、厳しく言われたとか、ほめられたとか──いちいち、そうしたことで心が揺れたり、役職や立場に安住して堕落したり、それでは「信心」とはいえない。
16  指導者とは、みずからが動き、学び、対話する人
 四点目は「皆で十分に話し合い、さまざまな人の意見を聞いたうえで、きっぱりと決断し、行動する」ということ。
 「話し合い」と「行動」。この二つを同時にしていくことが大切である。
 話し合いながら動き、動きながら話し合う。ここに、学会伝統の強さがあった。
 皆の意見を十分に聞いたうえで、公平に判断し、決断する。そして決めた以上は、迷いなく″さあ、動こう!″と駆けていく。
 そうした″打てば響くような″団結の行動を、お願いしたい。
17  五点目は「自ら学び、人にも学ぶ気を起こさせる能力」である。
 リーダーは、まずみずからが、あらゆることを学んでいくことだ。勉強しない人は指導者ではない。″進まざるは退転″である。きのうの自分と、きょうの自分が同じでは、信仰した意味がない。
 自分が学ばず、自分が動かないで、人にだけ、やらせようとするのは組織悪である。厳しく言えば、いわゆる″組織人間″″組織バカ″にさえなってしまう。私は、今、もう一回、本当の「人間」をつくろうとしている。自分が学ぶ人間、自分が動く人間である。指導者がそうであれば、周囲はおのずと学び、動きはじめるものだ。
18  六番目は「状況が変化した時、問題が悪化した時、それに応じて、すばやく決定を変える勇気」である。
 広宣流布とは、一面、変化との戦いである。思いもよらぬ事態に直面することも当然である。それまでのやり方が通用しなくなる場合も多々あろう。ある意味では、その連続だと言ってよい。急な変化にも、速やかに対応できる「勇気」と「決断力」と「新鮮な発想」。そこに指導者の真価がある。
 どのような状況になっても、厳然と受けて立ち、本質を見極め、希望への道を明快にする。そして″あの人の言うことは正しい″″納得できるし、やる気が出る″″よしわかった。やろうじゃないか!″と、皆の力を引き出し、結集していけるリーダーであってほしい。
19  七点目は「方針を皆にわかりやすく伝える力」があること。
 たとえ「方針」が素晴らしくても、皆がよくわかり、よく理解しなければ、現実の「力」とはならない。
 いかなる活動も、一人ではできない。独り善がりのリーダーには、だれもついていかないのは当然である。
 今、「何を」すればよいのか。「どのように」するのか。「何のために」するのか──それらを、「わかりやすく」伝えることが大事であり、「皆が納得できる」ための努力が必要である。
20  八点目は「手段と目的をはっきり分ける能力」があること。
 多くの運動も組織も、この点を間違えて敗退していく。「何のために」という目的を忘れて、自分のエゴが目的となってしまう。崇高な目的をも自分の欲望の手段にしてしまう。
 現宗門は、その典型である。大聖人の仏法も、広宣流布も、自分たちの″手段″にしてしまった。完全な転倒である。
 私どもの″目的″は、どこまでも「広宣流布」である。「世界の平和」であり、「人間の幸福」である。
 そのために、「学会の万代の発展」が絶対に必要となる。学会こそ、私たちが広布へ、平和へ、幸福へと進むための基盤であるからだ。
 学会を離れて、絶対に世界広宣流布はありえない。ゆえに学会を守り発展させねばならない。役職や機構などは、すべて、この″目的″への″手段″である。この根本原則を銘記すれば、多くのことが、はっきりと明快に見えてくる。
21  九番目、最後の項目では「皆の意見、要望、提案を聞く、対話の場やシステムをつくりだす」大切さが指摘されている。
 指導者には、つねに一人一人の意見を聞く「努力」と「心の余裕」がなければならない。他人の言うことに謙虚に耳を傾けられる人が「賢い人」である。
 よき指導者は「対話の力」を知っている。いかに「対話の場」「対話の時間」をつくるかに努力する。
 反対に、「平等の対話」を恐れ、避ける指導者は、時代に逆行し、民衆に敵対する独善者、独裁者であろう。
22  以上、世界の知性が志向する「新しい世界の新しいリーダー」の要件は、いずれも、私たちが目指し、すでに実践してきたことと合致する。
 新時代のリーダー像について、これまでスピーチ等で何度も申し上げてきたが、ローマクラブの示す九項目に照らしてみても、学会の志向性は「世界の最先端」であると確信する。
23  求道と誠の人ペッチェイ博士
 ペッチェイ博士もまた、こうした″指導者の資質″を備えておられた。高潔な人格であられた。二十歳近くも年下の私に対し、温かい「友情」で接してくださった。幾度もの忘れ得ぬ出会いがあった。多くを学ばせていただいた──。
 博士との最後の語らいは、一九八三年(昭和五十八年)六月、博士が亡くなる九カ月前であった。旅先のアメリカから、わざわざ私の滞在するパリまで駆け付けてくださった。
 じつはこの時、博士は、空港で、荷物をすべて盗まれていることに気づかれた。にもかかわらず、盗難の届けを出すよりも、私との約束の時間に間に合うことが大事と、着のみ着のままで私の宿舎へ直行されたという。私は感動した。
 また、イタリアのフィレンツェでお会いした際(一九八一年六月)には、自宅のあるローマから遠路、ご自身で車を駆ってこられた。女子部の皆さんが地域の活動に走っておられるような、小さな車であった。
 パリでの最初の出会いの日(一九七五年五月十六日)は、奥さまの誕生日であった。しかし博士は会見の日程を私に合わせて、その日にしてくださった。
 これらの真心を、私は生涯忘れない。博士が亡くなられた後、ご子息にもお会いし、心からお礼申し上げた。(一九八九年五月、子息のR・ペッチェイ博士とイギリスのタプロー・コートで語らい、五度にわたる故ペッチェイ博士との会談の思い出を紹介している)
 博士は七十五歳で逝去されるまで、人類のため、未来のために、たゆむことなく戦い続けておられた。亡くなる十二時間前にも、今日の人類的課題を警告し、「政治の改善の必要性」「倫理観の重要性」などを含めた論文の口述を続けられている。(この口述は後日、『ローマクラブ:今世紀の終わりへ向けての備忘録』としてまとめられた)
 後世のために、「真実」を叫び、残したい。「真実の人」と語り合い、学びたい──こうした烈々たる求道の心、深き人格の方であった。私も今、多くの対談をはじめ、「後世のために」との同じ心境で戦っている。
24  信仰は自身の開花、莫大な富がわが胸中に
 ペッチェイ博士は、私との対談集の中で、「莫大な富がわれわれ自身の内部にある」と述べられ、それを引き出していくための「人間革命」「人間精神のルネサンス」を強く訴えられた。
 私どもの「創価ルネサンス」は、仏法を根本に、人間の限りなき″内面の宝″を引き出し、輝かせていく運動である。この運動を「世界の知性」が称賛し、見守っている。そして「世界の民衆」が待っている。
 「本当の宮殿は、我が胸中にある」──これが仏法の真髄である。どうか一人一人が、信心、生命という″黄金の器″をさらに輝かせ、さらに不動のものとしながら、自分自身の「ルネサンスの大道」を晴れやかに、また朗らかに歩んでいただきたい。
 そして、「ともどもに『大勝利の歴史』を築きましょう!」と念願し、本日のスピーチとしたい。きょうは本当におめでとう。ありがとう!

1
1