Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

4・28「立宗の日」記念勤行会 今、世界は「人間の再生」を希求

1992.4.28 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

前後
1  「万年のため」「全人類のため」に立教開宗
 意義深き「立宗の日」をともに慶祝でき、本当にうれしい。
 また、きょうは「石川の日」「富山の日」である。おめでとう。
 日蓮大聖人は、建長五年(一二五三年)四月二十八日から、全人類のための「大良薬だいろうやく」である妙法をひろめ始められた。
 「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなりあに今者已満足こんじゃいまんぞくに非ずや、已とは建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して已と意得可きなり
 ──今、日蓮が唱えるところの南無妙法蓮華経は、末法一万年の衆生まで成仏させるのである。(法華経方便品には、釈尊が衆生を自分と等しくしようと願った所願が今は已に満足したと説かれているが)これこそ、「今はすでに満足した」ということではないか。「すでに」とは建長五年四月二十八日に初めて唱え出したところの題目を指して「すでに(満足した)」と心得るべきである──と。
 また「終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」──(妙法が)ついには全世界に広宣流布することは、間違いない──と仰せである。
 大聖人は「万年のため」「全人類のため」に、立教開宗されたのである。断じて、一部の堕落した特権的僧侶のためではない。
 日淳上人は、大聖人の仏法は「単なる一宗旨であるばかりでなく一切衆生の宗旨」であると述べられている。
 大聖人も「日蓮は何の宗の元祖にもあらず・又末葉にもあらず」──日蓮は、いかなる宗の元祖でもない。また末葉でもない──と仰せである。
 この御文には、さまざまな深意が拝されるが、大聖人の「立宗」は、いわゆる一宗一派にとらわれた、小さな目的のためではなかった。全民衆の幸福のための「民衆仏法」、全人類の平和のための、いわば「人類仏法」を、敢然と教えられたのである。
2  また立宗の日より、「日蓮」と名乗られたが、「明かなる事・日月にすぎんや浄き事・蓮華にまさるべきや」──明るいことは太陽と月にまさるものがあろうか。清浄なことは(泥にも染まらない)華にまさることがあろうか──と仰せのように、御名前は「太陽」と「華」を表されている。
 「全世界を」「平等に」「明るく照らす」のが太陽である。大聖人の″太陽の仏法″は、それ以上に平等のはずである。「平等を否定すること」は「大聖人を否定すること」である。
 腐敗僧には、また「華」の浄らかさもない。
 「日蓮」と名乗られた、立宗の御心に、現宗門は完全に違背しているのである。
3  謗法の諸僧を責むべし
 大聖人は、諸御抄で、立宗に当たって、深く思惟しゆいされたと述懐しておられる。
 すなわち、正義の法門を説いたならば、御自身はもとより父母、兄弟、門下にも難が打ち続くであろう。しかし、言わなければ御自身が「仏法の中のあだ」になってしまうであろう──と。
 当時は、「此の国に真言・禅宗・浄土宗等の悪法・並に謗法の諸僧満ち満ちて」──この国に真言・禅宗・浄土宗等の悪法、ならびに謗法の僧たちが満ち満ちて──という状況であった。正法破壊の僧が満ち満ちている。今も同じである。
 大聖人は、そうしたなか「法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」の経文のままに、邪僧・悪僧を責め始められたのである。
 大聖人は、その御心境について「をもひ切りて申し始め」、「をもひ切つて申し出しぬ」、「我が身こそ何様にも・ならめと思いて云い出せしかば」、「いかなる大難にも退せぬ心ならば申し出すべしとて申し出して」等と記されている。
 今、大聖人の大白法と、その広宣流布を破壊しようとする魔僧が出現している。これを放置することは、こちらが悪に通じてしまう。
 法のため、民衆のために、「謗法の諸僧」を断じて責むべし──大聖人の「立宗」の御精神を、今こそ深く拝すべき時である。そして「大聖人の昔にかえれ」との恩師の叫びのままに、大聖人の真の門下らしく、堂々と仏敵を責めてまいりたい。
4  「立宗」当時、特に責められたのは、流行していた念仏と禅であった。
 「善無畏三蔵抄ぜんむいさんぞうしょう」には「建長五年の比より今文永七年に至るまで此の十六七年の間・禅宗と念仏宗とを難ずる」──建長五年のころから今年文永七年にいたるまでのこの十六、七年の間は、なかでも禅宗と念仏宗とを非難してきた──とある。
 くわしいことは略させていただくが、念仏は本師・釈尊をさしおいて阿弥陀如来あみだにょらいを重視する″本師否定″の邪義である。この点、大日如来を立てる真言宗も同様である。
 また禅宗は「教外別伝きょうげべつでん」(仏の本意は、経文による教えの外に、別にひそかに伝えられているとする)を説く″経文無視″の邪義である。
 ″本師(大聖人)の否定″″経文(御書)の無視″──まさに、現宗門は、こうした大謗法に染まってしまった。
5  一例として、先日、秋谷会長からも話があったが、学会の「大聖人直結」「御書根本」の信心に対して、中傷を行っている。
 (四月六日、本山で行われた虫払い法要の席上、日顕にっけんは「『日蓮大聖人直結』『御書根本』と言うも、日蓮大聖人の正しい仏法に、そのような自分本位、わがまま勝手な教えは絶対にありません。また、それなら他の新興宗教の言い分と全く同様であり、まさに迷乱の姿であります」などと説法した。
 要するに、「法主ほっす直結」「法主根本」を主張しているのだが、何の文証も裏づけもない、「自分本位、わがまま勝手な」己義こぎである)
 多くは論じないが、このことについて、かつて日達上人は「我々の主師親しゅししんはすなわち師匠は日蓮大聖人様だけである。みなさまは久遠の日蓮大聖人に直結している」と述べられている。
 また日淳上人も、正しい信仰がなければ、「大聖人に直結したてまつることが出来ない」と述べられている。
 また「御書根本」が、日興上人以来の正道であることも言うまでもない。
 このような先師の御指南を、ことごとく否定し、先師に違背して″己義を構え″るのは、師敵対の仏敵である。仏敵に従えば、堕地獄だじごくとなってしまう。
6  そもそも日蓮大聖人御自身が、「総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」──総じて日蓮の弟子といって法華経を修行する人は、日蓮と同じようにしなさい──と、明確に仰せである。
 大聖人御自身の御振る舞いそのままを学ばねばならない、と。まさに「大聖人直結」である。
 また「御義口伝」には「日蓮に共する時は宝処に至る可し不共ならば阿鼻大城に堕つ可し」──日蓮と「とも」に進む時は必ず宝のある所(霊山・仏国土)に至る。「共」に進まないならば阿鼻大城(無間地獄)に堕ちる──と断じられている。
 他のだれと「共」に進むのでもない。大聖人と「共」にと仰せである。
 これらは、ほんの数例であるが、「大聖人直結の信心」こそが「成仏への信心」なのである。
7  「仏の未来記」を学会が証明
 さて、日淳上人は、創価学会第十七回総会(昭和三十二年十一月八日)で、次のように講演されている。
 「日蓮大聖人様は、末法のはじめにおでましになられまして、『釈尊の説かれた経典を真実ならしめたのは日蓮一人なり』と仰せになっております」
 「末法のはじめ一千年がようやく、きようとしている今日、釈尊の仏法は終えんをつげ、日蓮大聖人の仏法、大白法だいびゃくほうが、世界に流布することは、これはただ今申しあげまするように、釈尊の予証よしょうでございます。この予証を真実ならしめるところの、一閻浮提広宣流布を着々と実践されておりまする創価学会のこの活動はまた釈尊の経典を、真実ならしめるものであると私は思うのです。
 今や、歴史の段階は、宗祖大聖の大白法が、世界に流布する段階になっております」と。
 一閻浮提に広宣流布しゆく大法を、現実に世界に弘め、釈尊の予言を証明しているのはだれか──それは創価学会である。学会員である。今、まさに、世界広宣流布の時なのであるとの、日淳上人のご宣言である。
 この″時″に立ち上がられたのが戸田先生である。東洋へ、世界への妙法流布──私は御本仏の御金言を仰ぎ、恩師の構想を胸にいだいて、会長就任以来、世界をけに駆けめぐってきた。
 そして海外の地涌じゆの友は数百万の連帯となり、未曾有みぞうの正法流布の前進を達成した。私は、今も戸田先生と一緒に、世界を旅している。
 この一閻浮提広布の姿を、大聖人は、釈尊は、また日淳上人は、どれほどお喜びくださっていることだろうか。学会の行動こそが、釈尊の予証を真実ならしめ、大聖人の御遺命を実現していることを、最大に御称賛くださっていると、強く確信する。
 大聖人は「道理証文よりも現証にはすぎず」と仰せである。
 反対に、ここまで伸展した世界広布を断絶させようとする者は、釈尊の経典を虚妄こもうにし、大聖人に敵対する「仏の怨敵おんてき」である。
 「顕仏未来記」には、法華経の行者である大聖人を、大慢であると批判する者に対し、「汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にすあに大悪人に非ずや」──あなたは、日蓮を誹謗ひぼうしようとして、(実は)仏の未来記(予言)を虚妄にしている。それこそ、まさに大悪人ではないか──と厳しく破折はしゃくされている。
 同じ原理で、御書と法華経の予証を実現してきた学会を誹謗・攻撃し、広布を破壊しようとする者は、大聖人の御書を虚妄にし、釈尊の法華経をウソにする「大悪人」なのである。
8  「正しい信仰」「正しい指導」
 また、学会の北海道第二回総会(昭和三十三年七月六日)で講演された日淳上人は、妙法の功徳を受けきっていくことが、正法の証明であり、その事実の姿を通してこそ、人々の幸福への道が開かれていくことを述べられた。そして「正しき御本尊、正しき信仰、正しき指導、この三つによって大利益を生ずることは、ここにお集まりの方々は既に身をもって体験されていることと思う」と語られている。
 日淳上人は、学会にこそ「正しい御本尊」「正しい信仰」「正しい指導」がそろっており、だからこそ大功徳を受けることができる、と明確に示されている。
 たとえ、正しい御本尊をたもっていても、「正しい信仰」と「正しい指導」が欠けていれば、功徳はない。そればかりか、信仰の堕落と退廃たいはいを招き、謗法に転落していくことは、現宗門の姿が、何よりの証明である。
 御本尊だけであれば、いわゆる日蓮宗にも、大聖人の御真筆の御本尊もまします。
 戸田先生は常に「寺信心になってはいけない」と厳しく指導されていた。そして学会は独自に「信心即生活」の指導を貫いてきた。戸田先生は、″寺信心″では、真の「正しい指導」「正しい信仰」がないゆえに、真の功徳もないことを、だれよりも深くご存じだったのである。
 日達上人も、社会生活の苦悩を経験していない僧侶には、信徒の生活指導はできえないとされ、「それを口先だけでもって指導しようという根性は今後やめてもらいたい」「ああだこうだと自分勝手なことを言って、しかもその人を自分のものに手なづけておるということは、もっとも危険な考えと思う」「十分に指導しておるのを横取りして、つまらない人情にかられて自分の子分にしようという根性がもしあるならば、今日以後止めていただきたい」等と、厳しく戒められている。
 この先師の戒めを破り捨てて、広布破壊の悪行に狂奔きょうほんする者は、魔の眷属けんぞくである。
9  大聖人は「現在に眼前の証拠あらんずる人・此の経を説かん時は信ずる人もありやせん」──現在、眼の前に証拠のある人が法華経を説いた時には、信ずる人も出ることであろう──と仰せである。
 妙法をたもち、人生の苦悩を乗り越えながら、はつらつと社会に貢献している学会員の姿が、声が、行動が、どれほど多くの人々に、生き抜く勇気と希望を与えてきたことか。だからこそ「正法」が広まったのである。
 今、日本中、世界中に、「会友」の輪が広がっている。また、あらゆる分野にわたる″世界の知性″が、学会に共鳴し、期待し、称賛のエールを送っている。そのこと自体、側面からの、仏法の偉大さの証言であり、学会の正しさの証明なのである。
 「治病抄」には「結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」──結局は、勝負を決する以外に、この災難を止めることはできない──と仰せである。
 これは、大聖人御在世当時の三災七難についてであるが、民衆を苦しめる災難を止めるためには、法華経の行者を迫害し正法に敵対する悪侶らに敢然と挑み、打ち破っていくしかない、と。また、私どもにとっては眼前の戦いに勝つことが、大聖人の「立宗」の御精神に通じていくと確信する。現在と、そして未来の民衆のため、国土の平和のために、断じて「大聖人の正義」の勝利を示しきってまいりたい。
10  コックス教授「二十一世紀の課題は人類に″心の飢餓″」
 先日(四月二十五日)、学術部主催のヒューマンクラブ講演会で、アメリカの名門ハーバード大学のハービー・コックス教授が講演してくださった。また、創価大学でも記念講演をされる予定とうかがっている。
 コックス教授は、世界的に著名な宗教学者である。昨年(一九九一年)九月、私がハーバード大学で行った講演(「ソフト・パワーの時代と哲学」)を聴かれ、光栄にも高く評価してくださった。また現在、私どもが推進する「創価ルネサンス」の運動にも、深い理解と共鳴の声を寄せておられる。
 コックス教授の演題は「二十一世紀の宗教の役割」。大切なテーマであり、ここで少々、その要旨を紹介しておきたい。
 教授は、講演をチェコスロバキアのハベル大統領の言葉で始めておられる。その言葉は、共産主義が崩壊した後の時代──二十一世紀(ポスト・モダン)の人類的課題に触れたものである。
 「共産主義体制は、非人間的抑圧によって人間に『物理的な死』を課した。しかし、その体制から解放された今、今度は、人々は消費文化や欲望のとりこになり、『精神的な死』という新たな危機に直面している」(要旨)と。
 こうした「精神の危機」の伝染力の前では、共産主義も資本主義も区別はない。「今やポスト・モダンの時代であり、この時こそ″精神のルネサンス″が必要である」との指摘であり、現代の″危機の本質″を突いていると私は思う。
 コックス教授は、ハーバード大学での私の講演に触れられ、「ハベル大統領と池田先生が訴えられたことは、まさに共通している」と述べておられる。
 (教授は、ハベル大統領と名誉会長のメッセージをこう要約している。
 「精神の牢獄から解き放たれた人々は、今、物質のおりの中に閉じ込められている。その解放のためには、精神の絶えざるルネサンスが必要である」(ハベル大統領)
 「そうした精神の飢餓、物質の虜にならないために、『精神の核』をつくる必要がある。内面的力の開花が待望されている」(名誉会長)
11  コックス教授は、さらに「今日の世界は、あまりにも(華やかな)外観、イメージ、見かけに満ちあふれている。人々もそのような傾向に流されて、本質的なものを見失い、表面的なものに愛着を持つようになっている」とも指摘しておられる。
 デパートの商品さながらに氾濫する「表面的なもの」の幻影にとらわれ、「本質的なもの」が見えなくなった時代──。教授の憂慮は、私もよくわかる。
 また、現代の消費社会においては、どんなに物を買っても、精神的には満たされることがなくなり、人間はあたかも″消費の機械″と化してしまうと。「貪欲どんよく奴隷どれい」になってしまえば、もはや真の「人間」ではないのである。その好例が日顕宗の僧である。
 ともあれ、大変な「精神の危機」である。教授は訴えておられる。
 「今、世界の人々は、政治や経済という表層的な問題だけではなく、精神の問題に耳を傾けるべきである」「売られている物には、精神的飢餓を満たすことはできない。精神の力の復興こそが必要である」
 全く同感である。
 そして、精神の復興のために、「宗教の力」──なかんずく「人々の内発的な力をき起こす仏教の役割に期待する」と。これが教授の講演での結論である。
 ″世界の良識″は、私どもの「精神闘争」に熱い期待を寄せている。
 ともあれ、「朗らかに」生き抜いていただきたい。「楽しい」毎日を、自分でつくり出していく人が賢者である。
 何があっても、前向きの方向に、愉快な方向に、信心を深める方向に、ものごとをとらえていける強さ、賢さ──その人が「幸福者」である。
 今回、中部でお会いできなかった方々に、くれぐれもよろしくお伝え願いたい。
 またお会いしましょう!

1
1