Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第五十三回本部幹部会、第八回中部総会 われらの″民衆交響楽″が人類をつつむ

1992.4.26 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

前後
1  「5.3」祝賀の集いを晴ればれと
 皆さまの団結によって、幾多の苦難を乗り越え、我が学会の″元朝がんちょう″である「五月三日」の祝賀の集いを晴れ晴れと迎えることができた。心から感謝申し上げたい。また、きょうは、第八回の中部総会。素晴らしい晴天のもとでの開催、本当におめでとう!
 ここへ来る途中、幾人かの壮年部の方々が会場へ向かわれるのをお見かけした。これほど暖かい陽気なのに、皆さん、きちんと背広を着こんで、さっそうと歩いておられた。お顔を拝見すると、表情は実にさまざま。せっかくの休日に、「あなた!きょうは総会よ!」と、早くから起こされ、追い出されるように、やってきた方もいたのではないかと思った。本当に、ご苦労さま。
 壮年部の皆さまが、青年部、婦人部の方々とともに、こうして集われること自体、大変なことだ。壮年部の皆さま、ますます、お元気で!
 これだけの元気がふだんもあれば、婦人部は皆、安心なのだが。ともあれ、全世界の学会員を代表する思いで、壮年部の皆さまに「遠いところ、ようこそ!」「本当にご苦労さま!」と、重ねて申し上げたい。
 先ほどは、素晴らしい演奏と合唱を披露していただいた(音楽隊・鼓笛隊・各合唱団代表によるオリジナル曲「凱旋の道」)。「我が学会」の交響曲、交響詩ともいうべき、見事な調べであった。そこで、まず「音楽の国」「音楽の都」として知られるチェコスロバキアの話から入りたい。
2  チェコの国民的名曲、スメタナの「わが祖国」
 四月が終わり、五月の声を聞くころ、チェコスロバキアに、ヨーロッパ随一とも言われる美しい春が訪れる。野山は色鮮やかな花々に包まれ、小鳥たちは喜びの歌をさえずる。そして、毎年五月十二日、春のよそおいにいろどられたプラハの街では、世界的に有名な「プラハの春の音楽祭」が開かれる。ちょうど、学会の″新春″の「五月三日」の季節と同じである。
 この音楽祭の冒頭に、必ず演奏される曲がある。それは、この日に亡くなった″国民音楽の父″スメタナ(一八二四〜一八八四年)の名曲「わが祖国」。この交響詩のなかでも、第二曲「モルダウ」の美しい旋律は特に有名で、世界的に親しまれている。
 先日、創価大学の記念講堂で行われた「4・2記念合唱祭」でも、川崎(神奈川)の合唱団が、見事にこの「モルダウ」を歌ってくださった。大喝采の名演であった。
3  「モルダウ」は、チェコスロバキアを流れるモルダウ川(ヴルタヴァ川)をたたえた曲である。渓流から大河へと水かさを増しつつ、悠久の時を超えて大地を潤しながら、滔々と流れ続けるモルダウ──。私はいつも、「広宣流布」のイメージを重ね合わせながら、この曲を聴いていた。
 モルダウ川は、チェコスロバキアの西部に源を発する。岩々を洗い、林や草原を軽やかに抜け、昼は太陽の光に美しく輝き、夜は月光をキラキラと映しながら走っていく。やがて広々とした流れとなってプラハを通り、ドイツへと進んでいく。きょうは、そのドイツからも代表が参加されている。
 「わが祖国」──この曲が生まれたころ、スメタナの祖国(ボヘミア=現在のチェコスロバキアの西部)は、二百五十年にもわたる他国支配のもとにあった(最終的には約三百年)。民衆は圧政に苦しんでいた。
 スメタナは音楽を通して、愛する″わが祖国″の歴史と自然をたたえ、苦衷のさなかにある人々の「勇気」を鼓舞し、「希望」を贈ろうとした。
 しかもこの曲は、幻聴げんちょうに悩まされ、耳が聞こえなくなるという、音楽家にとって致命的ともいえる状況のなかで作られたのである。「モルダウ」の曲が完成した時、彼の耳は、完全に音を失っていた。
 (交響詩「わが祖国」は、六つの曲で構成され、一八七四年から七九年(五十〜五十五歳)にかけて完成した。聴覚ちょうかく異常の兆候ちょうこうは四十歳のころから現れていたといわれる。第一曲を書き上げると間もなく、両耳の聴覚が完全になくなり、残りの五曲は、超人的な精神力をもって書き上げられた)
 彼は、自分が生み出した調べを、聴くことができなかった。しかし、なんとしても人々を励ましたいという信念の炎は、断じて消えなかった。
 その魂を込めた名曲「わが祖国」は、今なお、チェコスロバキアはもとより、世界中の人々の心をいやし、励まし、感動と喜びで包み続けている。
4  スメタナは″どん底″ともいえる境遇のなかから、″最高峰″の作品をつくった。ベートーヴェンも同じように、耳が聞こえないという不遇のなかから、世界的な業績を残した。
 彼らの境遇に比べれば、皆さまには、はるかに幸せかもしれない。大きな可能性の道が開かれている。何があろうと、私どもには妙法がある。信心がある。使命がある。情熱がある。同志がいる。無限の力を引き出しながら、強く、また強く、楽しく、また楽しく堂々と生き抜いていける。広布の指揮をとっていける。
 人類のため、地域のため、自身と一家一族のために、自分の最高の可能性を発揮しながら広宣流布に歩み抜いていく。それが学会精神であり、大聖人の仏法の正道である。地涌じゆ菩薩ぼさつの人生である。
 スメタナが示したように、芸術家は、ある意味で、一番苦しい時にこそ、一番深い、充実した作品を生み出せる。振り返れば、その時が、最も幸せな時だとさえ、いえるかもしれない。
 学会も弾圧のたびに発展し、偉大な価値を生んできた。「民衆の勝利」の歴史を見事に築いてきた。それは今も、またこれからも同じである。
 「我が学会!」「我が精神の祖国!」──学会歌を高らかに歌いながら、私どもが日々、かなでている喜びの″交響曲″は、あらゆる苦難を突き抜けて、後継の友に、全世界の人々に、永遠に「勇気」を贈りゆくことを確信していただきたい。
5  「民衆」が立つとき「ドラマ」が生まれる
 長い他国の支配のもとで、人々の心は固く閉ざされていた。
 歴史上には残虐ざんぎゃくな民衆弾圧の史実が無数にある。それらに比べれば、現在の学会の難は、嵐というよりも″一滴″の雨粒のようなものかもしれない。こんなものに負けてはならない。
 人々の心を温かく照らしたのは、スメタナをはじめ愛国の芸術家たちが贈った「勇気」の光であった。人々は、だれからともなく、こう呼びかけるようになった。「自分たちの手で、自分たちの劇場をつくろう!」──と。
 踏まれても踏まれても生えてくる雑草のごとき逞しさ──これが民衆の力である。どんなに抑圧しようとも、民衆の「心」までは支配できない。
 人々は、建築費用を、すべて自分たちの募金でまかないながら、建設を進めていった。私どもが会館をつくる精神にも似ている。
 また、祖国の各地から石を集めて、劇場の礎石をつくり上げた。そして、十三年の歳月をかけて一八八一年、有名な国民劇場が、モルダウ川のほとりに完成した。
 そのこけら落とし(オープニング)の日、すでにスメタナの耳は聞こえなくなっていたが、彼は、この日のような″民族の記念すべき祝祭″の作品として、九年前にオペラ(『リブシェ』)を完成させていた。そして、この日、華々はなばなしく上演されたのである。
6  しかし、残念なことに、この劇場は完成のわずか二カ月後に焼失してしまう。あれほどの苦労をし、あれほど楽しみにしていた建物が──。人々を襲った悲しみは、あまりにも大きかった。
 普通ならば、そのままあきらめてしまうところかもしれない。しかし、ひとたび民衆の心に燃えさかった炎は、いかなることをもっても消すことはできなかった。不幸をたきぎに、一段と燃え上がった。
 「もう一度、自分たちの手でつくり上げよう!」──人々は立ち上がった。
 学会も何があろうと、断じて前へ、また前へと進んできた。不屈ふくつの「前進」のなかに「希望」がある。「発展」がある。「勝利」がある。「幸福」がある。不可能を可能にするエネルギーが生まれる。
 スメタナも、聴覚を失いながら、タクト(指揮棒)をとり、演奏会を行って、再建に奔走した。そして、わずか二年後、皆の力で劇場は完成。再びスメタナのオペラで、勝利の開演の時を迎えたのである。
 民衆が力を合わせた時、″奇跡きせき″ともいうべきドラマが生まれる。この中部で、そして全国で、私どもはまた新たなる「勝利のドラマ」を生み出してまいりたい。
7  チェコの民衆革命──それは劇場から始まった
 チェコの民族の戦いは、劇場から始まった。
 学会の会館も、広宣流布のドラマを演じる劇場である。私たちの会館を、私たちの幸福の城を、そして私たちの栄光のとりでを、私たちの手で守ろう!──こうした思いで、皆さまは、日々、尊い汗を流しておられる。
 私どもの会館は、御本尊を根本とした「行学の道場」であり、「人間の広場」「幸福の広場」である。「世界市民の交流の舞台」「人間学の大学」である。これこそが、大聖人の御精神にかなった真実の「正法広宣の寺院」の姿ではないだろうか。
 「劇場」といえば、先日、お会いしたチェコスロバキアのハベル大統領も著名な劇作家である。(四月二十四日、国賓として初来日したハベル大統領と会談し、「民主主義の魂」などをめぐり語り合った)
 共産党の窮屈な支配のため、ハベル大統領は、若き日に理不尽な差別を受け、自由に大学で学ぶことを阻まれた。働きながら苦学したハベル青年は、十八歳の時に、大学入学資格を取得。のちにプラハの小さな劇場に道具係として就職する。
 やがて彼は、劇作家の道に進み、「劇場」を舞台に、演劇によって悪らつな権力と戦うことを決意する。
 ″権力には魔性がある。ほうっておいてはならない″──こう見抜き、戦うのが真の青年である。
8  三年前の「ビロード革命」も、「劇場」を舞台に進んだ。ハベル大統領ら民主主義の支持者たちは、「劇場」に集い、市民との対話集会を何回も重ねていった。多くの人々に正義と真実を訴えていった。まさに「劇場」が、「対話の広場」となったのである。
 「対話の広場」──それは学会の「座談会」にあたろう。学会の運動は、当初から″民主の時代″の先端をいっている。
 大統領らの民主革命は、わずか十日あまりで、一人の死者もなく見事に成功を収める。まことに偉大なる民衆の勝利の革命劇であった。その壮挙に世界が喝采かっさいを送った。
 学会の会館は「正法の道場」であり、「人間革命の劇場」である。日々、民衆仏法の永遠のドラマが演じられ、繰り広げられている。会館には、希望があり、向上があり、喜びがある。勝利と歴史が生まれ続けている。
 反対に、日顕宗の寺院は天魔の住処すみか魔窟まくつになってしまった。私どもの供養した寺院である。天魔は追放せねばならない。
9  魂の歌声が人々を動かし、万波となった
 また、八九年のチェコスロバキアの民主革命においては、多くの音楽家たちが立ち上がった。その意味から、この革命は「歌う革命」とも呼ばれる。すなわち、人間の「魂の歌」が、人々の心を揺り動かし、目覚めさせていったのである。
 革命の半ば、民衆の声を力で抑えようとする権力に抗議して、数十万の市民が広場に集った。
 権力は抑圧する。その心根は、自分の地位を脅かされることへの恐怖であり、優れた者、正しき者への嫉妬である。ゆえに、抑圧する者は、そのこと自体、自分の弱さを、さらけだしているのである。
 抗議集会の中に、二十一年前の「プラハの春」以来の弾圧にも、毅然と抗議の歌を歌った歌手がいた。彼は二十年もの間、何度となく公演禁止処分を受けてきた。繰り返される弾圧のなかで、街から街へ、道から道へ、あらゆる地域を回りながら、″真実″を訴え続けてきた。
 回ることである。動くことである。自分が動かずして、状況は動かない。変わらない。
 そして彼は、広場での抗議集会で、実に二十年ぶりに、″革命の歌″を声高らかに歌い上げた。その歌声に合わせ、たちまち広場には、大合唱が巻き起こった。
 また、広場には、同じように二十年もの間、弾圧されてきた女性歌手もいた。彼女は歌うことを許されず、十年以上も道路の清掃作業員として働いてきた。しかし、民主化運動が起こるや、彼女は立ち上がる。女性の強さは、万国共通である。
 彼女は、一日二十時間も地方を歩きに歩き回って、プラハで起こっていることを、小さな町や村の人々に次々と伝えていった。″一緒に立ち上がろう″と呼びかけていった。
 今こそ、時代が変わる時だ。今こそ、人生をかけて戦う時だ──この確信と使命感が、彼女の足を人々の方向に向かわせたにちがいない。
 疲れないように、ほどほどにやっておこう、格好だけ、よく見せておこう──こんな要領主義が少しでもあったなら、どんな戦いも勝利できない。「成長」もないし、「歴史」の創造もない。「真剣」こそが、人を動かし、歴史を動かしていく。
 また、広場には、十三年前に国外追放された歌手もいた。彼は、ギターを掲げ、人々に語りかけるように、歌った。
   何が一番、美しい? それは若者たちの笑顔。
   何が一番、大切?  それは人間の心。
   何が一番、欲しい? それは人間の自由──と。
10  こうした魂の歌声が人々の心を動かし、勇気を起こし、万波ばんぱと伝わって歴史的な大革命を可能にしていったのである。それは決して、一方的な押しつけではなかった。高所から見下ろしたような説教では、人の心は動かない。
 語りかけるように──ここには民主の心が脈打っている。人間尊重の温もりが伝わってくる。「民主」とは一人の人を大切にする心である。その心が、周囲にも共感を広げ、時代の波をつくっていく。
11  永遠に「仏法は勝負」の行動を
 中部の皆さまは、二十二年前の言論問題でも、一番いやな思いをし、苦しまれた。また、前回の宗門問題においても、全寺院が仏子ぶっしを裏切った三重県をはじめ、筆舌ひつぜつに尽くせぬ悔しい思いをしてこられた。
 私は、皆さまの心痛を思うと、苦しくてならなかった。中部の同志の「勝利の凱歌がいか」を、「晴れやかな笑顔」を願い、祈りに祈ってきた。そして皆さまは健気けなげに、また勇敢に立ち上がられた。
 特に、宗門問題のさなかの昭和五十三年四月二十三日、三重で大合唱祭が行われた。毅然と立って、堂々と歌いに歌った民衆の祭典──本当に見事であった。なかんずく、婦人部の皆さまが歌ってくださった「今日も元気で」の歌声を、私は一生涯、忘れることはできない。
 また、昨年十月の素晴らしい中部文化友好祭も、今なお鮮やかに胸に焼き付いている。
 歌は民衆の心意気である。歌を歌うと勇気がわく。希望がはずむ。創価学会の力強い前進も、常に、この「民衆の歌声」「希望の歌声」とともにあった。
 その意味で、中部は、き日を選んで、再び「文化祭」を行ってはどうだろうか。
 かつての中部といえば、名古屋城だけが立派で、学会にも小さな会館しかない。今の「大中部」の隆盛など思いもよらなかった。それがきょうは、いったい、どこの会館かと思うような、この素晴らしい大講堂での快晴の総会──私は「中部は勝った」と称賛したい。
 ともあれ、真の勝負は長い目で見なければわからない。人生の勝負も、団体、一国の勝負もそうである。
 先日(四月二十一日)、再会したゴルバチョフ元ソ連大統領も、その地位を退かれても、なお健在であり、未来への意欲に満ちておられた。決して負けてはいない。心は勝っておられた。
 いわんや、御本仏の仰せ通りに進む学会は、「仏法は勝負」の一念と戦いある限り、一切を変毒為薬へんどくいやくしながら、永遠に勝利していくことができる。
12  世界に友情の大樹を
 アフリカのガーナといえば、大勢の我が愛するSGI(創価学会インタナショナル)のメンバーがおられる。そのガーナに、次のようなことわざがある。
   われ神の名を呼ぶ、
   神は答えず。
   われぬのの名を呼ぶ、
   布は答えず。
   人間なのである、
   大切なのは
 大事なのは、どこまでも「人間」である。「人間」が一切の原点である。「人間」なくして、「宗教」もない。ゆえに、学会は絶対に「人間」を大切にし、尊敬してきた。深き人間主義の軌道を守り抜いてきた。
 「誠実」には「誠実」で、「真心」には「真心」で応える──皆さまのような、人間の「真の友」がいる限り、大聖人直結の「創価の王国」は不滅であり、「幸福城」は栄光さんと輝いていく。私はそれを断言しておきたい。
13  今、私は連続して世界の指導的立場の方々とお会いしている。私どもの「5・3」をともに祝福してくださっているかのようである。だれもがSGIの運動を絶賛されている。
 先日(四月十七日)は、ナイジェリアのオバサンジョ元国家元首とお会いした。アフリカ全体の中心的人物の一人であられる。大変に優秀な、聡明な方であった。
 日本にはまだアフリカへの偏見があると思う。実は、氏の、さまざまな発言をみても、世界的課題に最先端の英知の光を当てておられる。
 氏は、こう語っておられる。「私たちの抱える問題を、本当に、そして真実に解決できるのは、私たちしかいないのです」と。
 他人ではない。自分である。自分が「力」をもたねばならない。自分が本気にならねばならない。これは、まさに真理である。勝利のカギでもある。
 ともあれ、昨日(四月二十五日)もアフリカ三カ国(ナイジェリア、ガボン、ザンビア)の外交団が大分平和会館を訪問し、話題になった。私どもはアフリカとの「友情」の大樹を、大きく育ててまいりたい。
14  モスクワ大学創立者ロモノーソフの闘争
 また、モスクワ大学のログノフ前総長とも再会した(四月十六日)。
 このモスクワ大学の創立者はロモノーソフ(一七一一〜一七六五年)。以前にもお話ししたが、「教育」という大事業に一生をかけ、「教育の大道」を閉ざそうとする悪の勢力と壮絶に戦い抜いた偉人である。
 彼は、青春時代にも、勇気ある戦いの歴史を刻んでいる。「歴史」をつくることが大事である。自らが開いた「歴史」のない人生は寂しい。
 私は十九歳で信心して以来、いつ倒れても構わないという決心で、自身の「歴史」をつくってきた。たとえ、きょう死んでも、今死んでも悔いはない。戸田先生の真の弟子として生き抜き、戦い、死んでいく。その覚悟で、走り続けてきた。
15  若きロモノーソフが生きた時代、ロシア科学アカデミーは外国人に牛耳ぎゅうじられていた。ロシア人は皆、軽んじられていた。しかも、一人の外国人がアカデミーを食いものにし、私腹を肥やしていた。並外れた金銭感覚の持ち主で、自分の道楽のために、大切な教育資金を湯水のように浪費した。
 今の悪侶も、学会員を見くだしながら、私どもの御本仏への御供養を私物化し、贅沢三昧ぜいたくざんまい乱費らんぴしている。
 ロモノーソフ青年は、この悪に対し、どうしたか。彼は、敢然と「正義の声」を上げた。戦い始めた。青春は「戦い」の異名である。悪と戦わずして、青年とはいえない。
 彼は、学問・教育の発展を真剣に願っていた。その真心が踏みにじられた悔しさでいっぱいであった。この戦いのため、彼は、さまざまな圧迫を受ける。学術会議への出席を禁止され、さらにアカデミーからも追放される。あげくの果てには、陰謀によって捕らえられ、拷問にもあっている。
16  しかし、彼は微動だにしない。「自分は何も悪いことはしていない。絶対に正しい」──この確信はまったく揺るがなかった。
 私も同じである。
 彼は打ち続く悪戦苦闘のなかで、いつも自分にこう言い聞かせたという。
 「私には、祖国が必要とする科学がある。私には、現在の不幸など取るに足らぬこととして忘れられるほど、豊かな未来がある」と。
 権力が何だ。こんな不当な迫害が何だ。自分は、必ず勝ってみせる。必ず正義を証明してみせる。いつまでも、悪人にすきなようにさせてはおかない。これが本当の「人間」の決心であると私は思う。
 御書には「難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せである。「難即安楽」の不屈の境涯こそ、仏法の真髄であり、人生の極致である。
 ロモノーソフは深く心に期す。科学アカデミーは腐敗している。それならば自分が、それ以上の″真のアカデミー″″真の人材の城″を、自らの手でつくってみせると。その一念は、のちにモスクワ大学の創立として、ついに実を結ぶのである。
 「人間」をつくる「教育」──これほど崇高(すうこう)な事業はない。
17  ロモノーソフはまた、有名な詩人でもあった。彼は高らかにうたい上げた。
   希望こそがわれらのために、
   とこやみのとばりをひらいてくれる!
   規律もおきても見られぬところに
   高き英知が神殿をうちたてる。
   無知はそのまえに色あせる。
   隊を組む船の波路(なみじ)がそこに白み、
   海ははげんで道をゆずる。
   ロシアのコロンブスは海原うなばらこえ、
   つきぬみめぐみつげ知らそうと、
   見知らぬ国々へいそぎゆく
 この詩に「ロシアのコロンブス」と。ある意味で、皆さまは、新たな「人間大交流時代」における、「広宣流布のコロンブス」ともいうべき″使命の人″である。どんどん海外にも行っていただきたい。
 また、本年はコロンブスの新大陸到着五百周年。彼にゆかりの深いドミニカ・サントドミンゴ市から、このほど初の「特別賓客ひんきゃく」の証書を頂戴した。
 バラゲール大統領も、私に対して「人類の連帯と世界平和の偉大なる働き手である」と言われ、SGIの発展に心からの期待を寄せてくださっている。
18  権力は「自由な対話」を恐れる
 ドイツのバルト博士との語らいも忘れられない(四月十五日、十六日)。バルト博士はアデナウアー(西ドイツ)初代首相のもとで、官房長官、国家書記等の要職を務められた。戦後ドイツの″柱″ともいうべき方である。
 博士は、我が創価大学で講演(演題は「歴史の中の真実」)もしてくださった。その中で、「真実を尊重して生き、行動する者のみ希望をもつことができる」とされ、鋭い論理を展開しておられる。大切なので、要旨を紹介しておきたい。
 すなわち──権力や暴力と結び付いた宗教を含め、あらゆる権威的システムは、自由な対話を恐れる。そして、「真実」への尊敬をもたないという点で、必ず破綻をきたす。それらの権力者は、かりに、うわべでは、栄光を勝ち取るように見えたとしても、自分の平和と世界の平和を、ともに失う。
 「真実」を尊重して生き、行動する者のみ、平和をつくり出すことができる。そして、その人は相手に対して「心を開いた対話」をしていく。この自由な対話による「真実」の探求こそ、平和な未来をつくりゆく最も重要な課題なのである──と。
 「自由な対話」を恐れ、「真実」を軽視する権力者。彼らは、自分自身を破壊し、のみならず多くの人々をも破滅させていく。断じて許してはならない。「真実」を武器に、戦わねばならない。
19  「大難の人」「弘法の人」が法華経の行者
 最後に、御書を拝したい。
 「南無妙法蓮華経と我が口にも唱へ候故に罵られ打ちはられ流され命に及びしかども、勧め申せば法華経の行者ならずや
 ──(私<日蓮大聖人>は)南無妙法蓮華経と自分の口にも唱えるゆえに、罵られ、打たれ、流罪され、命にも及ぶ難にあったけれども、(それでも妙法を人々に)勧めているのであるから、法華経の行者でないことがあるだろうか。(法華経の行者であることは、間違いない)──。
 妙法を自らも唱え、難を受け、それでも人々に正法をひろめていく──その人こそが「法華経の行者」である。日蓮大聖人こそ、その人であるとの仰せである。
 私ども創価学会は、真っすぐに、この御振る舞いに連なっている。これほどの難を受けながら、なお前へ進み、世界へと弘法ぐほうしている。私どもこそ、現代における「妙法の行動者」「法華経の実践者」である。
 「法華経には行者を怨む者は阿鼻地獄の人と定む、四の巻には仏を一中劫・罵るよりも末代の法華経の行者を悪む罪・深しと説かれたり、七の巻には行者を軽しめし人人・千劫阿鼻地獄に入ると説き給へり
 ──法華経には、(法華経の)行者に敵対する者は、阿鼻地獄(無間地獄)にちる人であると定めている。第四の巻には、仏を一中劫というきわめて長い間、罵り続ける罪よりも、末法の法華経の行者を憎み、悪をなす罪のほうが深いと説かれている。第七の巻には、(法華経の)行者を軽んじた人々は、千劫という長い間、阿鼻地獄に入ると(仏は)説かれている──。
 御本仏の仰せは、絶対である。広布妨害の人は″阿鼻地獄の人″なのである。
20  「五の巻には我が末世末法に入つて法華経の行者有るべし、其の時其の国に持戒・破戒等の無量無辺の僧等・集りて国主に讒言して流し失ふべしと説かれたり
 ──(法華経の)第五の巻には、私(釈尊)の末世、末法に入ってから、必ず「法華経の行者」がある。その時、その国に、あるいは戒をたもった僧・あるいは戒を破っている僧など、無量無辺の僧らが集まって、国主(権力者)に、デタラメを告げ口し、(法華経の行者を)流罪し、なきものにしようとすると説かれている──。
 法華経の実践者を迫害し、追放し、なきものにしようとするのは、特に「僧侶」であるとの仰せである。しかも、今回も権力を利用し、権力を動かして圧迫してきた。まさに、ぴったり経文と一致している。
 「しかるにかかる経文かたがた符合し候おわんぬ未来に仏に成り候はん事疑いなく覚え候
 ──そうしたところが、(日蓮大聖人の御身は)このような経文が、ことごとく符合しきっている。未来に仏に成るであろうことは、疑いないと確信しています──。
 経文符合は別しては大聖人、総じては私どものことである。ゆえに「創価学会」は、仏法上、大変な存在なのである。皆さまも、素晴らしき「仏果」を確信していただきたい。大聖人が学会員を最大に賛嘆され、最大に守ってくださることは、絶対に間違いないのである。
21  「大聖人根本」から逸脱した五老僧
 大聖人は、「生死一大事血脈抄」に、こう仰せである。
 「日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し
 ──日蓮の弟子の中に異体異心の者があれば、それはたとえば城に住む者が城を破るようなものである──と。
 「城者として城を破る」──その先例として、大聖人御在世の三位房さんみぼうや、滅後の五老僧が挙げられるであろう。
 このうち五老僧とは、日昭にっしょう日朗にちろう日向にこう日頂にっちょう日持にちじの五人をいう。大聖人が御入滅直前の弘安五年(一二八二年)十月八日、日興上人とともに、「本弟子六人」に定められている。
 日亨にちこう上人が、「十月八日に本弟子六人を定め各地に散在せる門下の部将として弘通に励み、広布の大願を達成せしむべく命ぜらる」とお述べのように、いずれも大聖人が、各地の広布の指揮をとるべく任ぜられた、門下の中心的存在であった。
 そのうえで、大聖人は日興上人を、「本門弘通の大導師」「身延山久遠寺の別当」とされ、一切の後事を託された。
 一方、その他の門下に対しては、「背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり」と戒められた。それにもかかわらず、五老僧は、大聖人御入滅の直後、日興上人に背いていった。
22  その理由について日亨上人は、立正安国論の主張や神社参詣の禁止を厳格に守られた日興上人を、五老僧が快く思わなかったことなどによると指摘されている。加えてその根底には、日興上人に対する強い「妬み」の心があったと考えられる。
 日昭・日朗は、日興上人の先輩であった。また他の三人は日興上人の後輩であったが、「同じ本弟子ではないか」という意識が強くあったのかもしれない。
 戸田先生は、「男のやきもちの代表が提婆達多だいばだっただ」と言われたが、強い「妬み」の感情は、正常な思考をも狂わせる。乱れた心に「魔」が入り、邪悪な破壊の心を生む。提婆達多も、釈尊に対する妬みゆえにその殺害を企み、教団を分裂させている。
 五老僧もまた、日興上人への妬みゆえに正法に敵対し、門下を分裂させていった──みにくい「嫉妬しっと」の心による、この広布破壊の方程式は、今も変わらない。
 涅槃経ねはんきょうには、末世の悪比丘の姿を、「外には賢善を現し内には貪嫉とんしついだく」──外面は、賢人、善人のごとく装っているが、内面は、むさぼりと嫉妬の心を強く懐いている──と説かれている。
 外には立派そうな姿を見せながら、内面では醜い欲望と、嫉妬に支配された悪侶によって、正法が破壊されるというのである。
23  大聖人の滅後、墓所輪番の制度が定められた。身延の大聖人の墓所を、主な弟子十八人が、毎月、交代で守護する制度であった。しかし、五老僧たちは守らない。
 しかも、大聖人が墓所に安置せよ、と遺言された、大聖人御所持の「釈尊の立像」を日朗が、「註法華経」を日昭が奪い取り、持ち去っている。
 日興上人から離反し、分立した形となった五老僧は、その後、幕府の弾圧にあった。すると、いとも簡単に「大聖人門下」の誉れを捨てて、「天台の弟子」と名乗った。退転である。
 日興上人は、その経緯を、こう記録されている。
 「聖人の御弟子六人の中に五人は一同に聖人の御姓名を改め天台の弟子と号してここに住坊を破却はきゃくせられんとするのとき天台宗を行じて御祈祷ごきとうを致すのよし各々おのおの申状もうしじょうささぐるによって破却の難をまぬかおわんぬ」
 ──大聖人の本弟子六人のうち、五人は一同に、大聖人の御名乗りを改めて、天台の弟子と名乗った。そして住坊を破壊されようとした時、天台宗を行じて、幕府のために祈祷する旨を、それぞれが申し状にしたためて提出したことで、住坊を破壊される難を免れたのである──。
24  大聖人は、退転者の共通点として「をくびやう臆病物をぼへず・よくふか欲深く・うたがい多き者ども」──臆病で、教えたことをすぐ忘れ、欲が深く、疑いが多い者たち──と仰せである。
 五老僧も、そうした卑しい本性が、難にあうことによって、はっきりと現れたといえよう。
 戦時中の宗門の権力迎合げいごう、そして現在の堕落のきわみの姿は、大聖人の「不自惜身命ふじしゃくしんみょう」の崇高なお姿と、まさに正反対である。
 また五老僧たちは、釈尊を本尊に立て、大聖人の御図顕ごずけんされた御本尊を軽視し、死者とともにほうむるなど、粗末に扱っていた。
 さらに「かな文字で書かれたから」と御書を蔑視べっしして、き返したり、焼却するなどして消失してしまうという、大謗法を犯したのである。
 「御本尊」を自分たちのエゴの道具としか見ない無信心。「御書」を根本とせず、我見をもって大聖人の御金言を軽視し、ゆがめる大慢心。今まさに五老僧の末流が出現している。
25  邪僧と戦ってこそ正法は万年に伝わる
 こうした五老僧の破仏法の事実を、私どもは、現在、日興上人と門下が著された、「富士一跡門徒存知いっせきもんとぞんちの事」や「五人所破抄」によって、つぶさに知ることができる。
 その意味で、私どももまた、今、眼前の仏法破壊の事実と、私どもの正義を、あますところなく記録し、語り残しておかなければならない。後世のために。真実の「護法」のために。
 日興上人は、「富士一跡門徒存知の事」の序文に、こう記されている。
 「先ず日蓮聖人の本意は法華本門に於ては曾つて異義有るべからざるの処、其の整足の弟子等忽に異趣を起して法門改変すいわんや末学等に於ては面面異轍を生ぜり
 ──まず、日蓮聖人の本意は、法華本門にあることは、かつて異義の無いところであったにもかかわらず、その整足の弟子(五老僧)などが、たちまちに異義を立てて、法門を改変してしまった。まして末流の弟子などは、各自が異なる法義を勝手に言い始めている──。
 五老僧たちは、「法門を改変」して、大聖人の仏法をゆがめ濁らせてしまった。しかも、日興上人が主張された正義に対し、「法門の異類を立てるもので、道を失っており、だれが信じようか」などと、かえって激しく非難した。
 牧口先生は、「悪人の仲間では悪が正で、善が邪であり、曲がった根性の人には正直がかえって邪悪として嫌われている」と指摘されている。その通りの転倒てんとうであった。
 また、牧口先生は、「物事に間違っていなければ頭を下げてはいけない。悪に対して負けてはいけない」とも教えられている。
 悪に寛大であってはならない。悪の攻撃以上の正義の叫びで問い詰め、戦い、追撃に追撃を加えるならば、やがて、その正体は満天下に明らかになっていく。
26  日淳上人はお述べになっている。
 「興尊(日興上人)が五師(五老僧)と不和になったのは決して世間の問題からではなく、もっとも大切な生命ともいふべき御法門について此等これら五師がまったく聖祖(大聖人)の御本意にそむたてまつったからである。聖祖の御法門へ異体同心すれば何事もじょうずるが、異心になった方へ同心すれば聖祖の御法門もついに絶へて末法万年の暗愚あんぐの衆生は全く出離生死しゅつりしょうじの道にまよはなくてはならぬ」と。
 現在の状況にも、そのままあてはまる、御指摘であろう。
 現宗門は、人法一箇の大御本尊を根本とする日蓮正宗の宗旨を改変して、法主根本を宗旨としてしまった。そのために、日蓮正宗の立てる「三宝義」を改変して、法主が仏宝・法宝と等しいという法主絶対化を図った。
 さらに、現法主が根本で、大聖人・日興上人さえしゃくであるとする、未曾有みぞうの邪義を主張するに至った。もはや、五老僧に勝るとも劣らぬ、邪宗・邪義のやからと成り下がったのである。
 日淳上人は、さらに「興尊が正義を弘伝ぐでんせられんがために五師と不和なることもかえりみず奮然御立ち遊ばしたことは、もって末法御本仏の御化導を尽未来際じんみらいさいまでの暗愚の衆生にこうむらしめ給ふもの」であるとされ、「風前の燈火ともしびに等しい正法を良く安穏あんのんたざらしめたことは唯仏与仏ゆいぶつよぶつの御境界の初めてあたふところである」と。
 私どもは、この日興上人の、正法厳護の御精神のままに進む。大聖人が遺された「民衆のための仏法」を守り抜くために「現代の五老僧」と戦っている。私どもの戦いこそ、まさに風前のともしびにも等しかった正法を、末法万年のために伝えゆく、「令法久住りょうぼうくじゅう」の戦いなのである。
27  創立七十周年、八十周年を大歓喜の歌で飾れ
 きのう、そして、きょうの中部の青空は素晴らしい。私は二首、歌をんだ。
   晴ればれと
     五月三日の
        喜びは
     君も私も
        宝の光りに
   素晴らしき
     創価の元朝
        祝賀せむ
     五月三日の
        太陽浴びつつ
           ──中部にて
 つつしんで贈らせていただく。
 それでは、ともどもに晴れやかな「五月三日」を、お祝いしましょう。
 そして、創立七十周年(二〇〇〇年)を「大歓喜の歌」で、八十周年(二〇一〇年)を「大歓喜の中の大歓喜の歌」で飾りたいと申し上げ、お祝いのスピーチを終わらせていただく。
 長時間、本当にご苦労さま。本当に、ありがとう。

1
1