Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「5・3」記念SGI代表者会議 全世界に「地涌の菩薩」が出現

1992.4.13 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

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2  四月は恩師・戸田先生が、逝去された月である(一九五八年<昭和三十三年>四月二日)。初めに、戸田先生の教えを通し、創価学会の精神について述べておきたい。
 第二次世界大戦後の創価学会の再建は、戸田先生の出獄から始まっている。
 日本の敗戦直前の一九四五年(昭和二十年)七月三日、豊多摩とよたま刑務所を出獄された戸田先生は、二年にわたる過酷な獄中での生活のため、お体は衰弱しきってボロボロの状態であった。極度の栄養失調のうえに、肺病、喘息ぜんそく、心臓病、糖尿とうにょう病、リューマチなどに侵され、視力も減退して、片目は失明寸前であった。
 しかし、師・牧口先生の遺志を胸中に炎と燃やしながら、獅子のごとき大生命力で、荒野に一人立たれたのである。その時の心境を、先生は後にこう述べておられる。
 「昭和二十年七月、出獄の日を期して、私はまず故会長(牧口先生)に、かく、こたえることができるようになったのであった。
 『われわれの生命は永遠である。無始無終である。われわれは末法に七文字の法華経を流布すべき大任をおびて、出現したことを自覚いたしました。この境地にまかせて、われわれの位を判ずるならば、われわれは地涌の菩薩であります』と」──。
 それは、戸田先生が獄中で体得された偉大なる確信であられた。
3  また先生は、こうも教えられている。
 「金持ちになりたいとか、自分の性格を改革したいとかを目的とする宿命の打破は、相対的幸福への欲求であって、これのみでは、絶対的幸福境涯の建設、すなわち、真実の人間革命の真髄とはいいえないのである。
 小説『人間革命』のがん理事長が、身をもって体験した牢獄の重難のなかに、断っても断っても、はいってくる経典から、仏法求道のまなこを開き、題目をかさね、経典ととり組んで、はげしい苦悶くもんの末に、ついに、自らの生命が仏であり、過去久遠くおんのむかしよりの地涌の菩薩であったことを確信して、歓喜にふるえ、『よし、僕の一生は決まった! この尊い法華経を流布して生涯を終わるのだ』との、強い決意を胸にきざみ『かれ(孔子)に遅るること五年にして惑わず、かれに先立つこと五年にして天命を知る』と叫んだ姿こそ、一切大衆救済を願望する真の人間革命である」
 「大御本尊を信じ、大聖人の弟子として、信行にはげむ青年諸君よ、青年こそ国家を救い、民衆の良き指導者としての使命をになう者である。
 真に国家を憂い、民衆の幸福を願うの心ある青年であるならば、まず自らが、この高邁な人間革命の真髄を求めて、いかなる三類の強敵・三障四魔とも戦い抜き、勝ち抜いて、勇猛精進ゆうみょうしょうじんすべきではなかろうか」と。
 真の「幸福」は「使命」を果たすなかにある。ゆえに「使命」を自覚することである。確信することである。「使命」に突き進むことである。
4  また、先生と私どもとの師弟のえにしについて、こう語られた。
 「師匠と弟子というものはかならずいっしょに生まれるという。この大聖人様のお言葉から拝すれば、じつにみなさんに対して、私はありがたいと思う。約束があって、お互いに生まれてきたのです。私はあなた方の師匠に、なにもなりたくてなったわけではない。
 『ぼくが日本の国のぶっつぶれたころに行くから、君らもこないか』といったら、『はい、行きましょう』『そうだ、あそこで遊ぼうじゃないか、では行こうかねえ』とかいってきた。『何になって行きましょう』『おまえらは貧乏で、商売が困る役目で出てこいよ』というわけで、みな出てきたのです」
 「約束で来たのだからよくならなくては困るでしょう。お芝居みたいなものです。やめたっていえばそれで終わりなのです。自分はもう貧乏やめたといったら、終わりなのです。御本尊様の前でやってごらんなさい。『もういいかげんに貧乏はやめてもいいでしょう』と。『もうちっとやっていなさい』などといわれるかもしれません」
 草創の多くの友は貧しく、大きな苦悩を背負っていた。しかし恩師の大確信にふれて、「使命」を自覚した。「勇気」を奮い起こした。「確信」に燃えた。「知恵」と「力」をふりしぼって、必死で戦った。
 形式でもなければ、役職でもない。自分自身の″人間革命の真髄″を求めて、ひたぶるに広布に走った。その捨て身の奔走ほんそうが、七百年来、だれびともつくれなかった″世界の地涌の大河″を実現したのである。その胸には、常に恩師との「師弟」の魂が燃えていた。
5  日淳上人「戸田先生が霊山会の大士を呼び出した」
 日淳上人は、戸田先生が亡くなられた一カ月後の一九五八年(昭和三十三年)五月三日、創価学会第十八回総会で、こう御講演された。
 「法華経の霊山会において上行を上首として四大士(上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩)があとに続き、そのあとに六万恒河沙ごうがしゃの大士の方々が霊山会に集まって、必ず末法に妙法蓮華経を弘通ぐずう致しますという誓いをされたのでございます。その方々が今ここにでてこられることは、これはもう霊山会の約束でございます。
 その方々を会長先生(戸田会長)が末法に先達せんだつになって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即ち妙法蓮華経の五字七字を七十五万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います」と。
 すなわち創価学会こそ、「法華経」に説かれ、大聖人がさらに深く教えられた「地涌の菩薩」の教団である、と明確に示されているのである。実に創価学会の出現には甚深じんじんの意義がある。
 さらに日淳上人は「これからが、いよいよ広宣流布へ進んで行く段階になったと思うのであります。会長先生は基盤を作った、これからが広布へどんどん進んで行く段階であろうと思うのでございます」と断じておられる。
 そのお言葉通り、戸田先生が切り開かれた広布の軌道を、私を中心に、まっしぐらに進んできた。そして正法を世界にひろめた。世界中に地涌の菩薩を呼び起こした。この仏意仏勅の「地涌の教団」を破壊しようとするものは、だれびとであれ、いかなる詭弁きべんろうそうとも、明らかに仏敵であり、法華経と大聖人を、まっ向から否定する大謗法である。真理は明快であり、単純なのである。
6  「信心なき僧は宗門から放逐せよ」
 日亨上人は、大聖人の宗義を明らかにされた「日蓮正宗綱要」の中で、「謗法」について次のように述べられている。
 「宗門で謗法といふのは、せっかく御大法に入りても、または信心の家に生れても、また僧侶となっても、とかく信念が弱いところから、ついに信仰の決定けつじょうも出来ず、知らずらず非宗教になったり非仏教に成ったり、他宗門に信を寄せようと思ふたり、寄せたり、後には、そのために明らかに反対の態度を取りて、宗門の人法を批難攻撃する事になる、これを、たびたび訓誡くんかいせられても、がんとして改心せぬのが、即ち大謗法である」
 代々、宗門の家に生まれ、自身も出家の身となった者も、広宣流布への決定した信念もなく、信仰よりも我欲がよくに走り、堕落して「非仏教」となり、宗祖をはずかしめ、宗祖の御遺命を実現している者を「批難攻撃」する。その過ちが満天下に明らかにされても「頑として改心せぬ」──と。
 ここに、現在の宗門の大謗法が明白に示されている。
 日亨上人は続けて、「信心」こそ教学と修行の根本であるゆえに、信心が無くなったり、転倒していたりする者は、世間でいえば死刑にあたいするほど罪が重く、価値がないばかりか、その存在が他の多くの人をそこなう恐れがあるとされ、「無信背信はいしんの謗法者は厳重のいましめとして宗門から放逐ほうちくせにゃならぬ」と、厳しく戒めておられる。
 私どもが、悪侶の″放逐″を叫ぶのは、このお言葉に従っているのであり、正法厳護のためなのである。
7  御本仏の未来記をわれらが実現
 大聖人は、地涌の菩薩が涌出ゆじゅつする「地」の意義を、こう仰せである。
 「地とは我等衆生の心地なり」──地とは、我ら衆生の心地(心)である──。
 地涌出現の「地」といっても、どこかよそにあるのではない。私ども衆生の「心」こそ大菩薩がずる″大地″なのである。ゆえに「心こそ大切」である。信心の「心」を開拓し、「心」の奥底から地涌の大力を引き出すことである。
 また一次元から言えば、広宣流布とは、人類の″心の大地″を根本的に開拓することともいえよう。
 さらに「涌出とは広宣流布の時一閻浮提の一切衆生・法華経の行者となるべきを涌出とは云うなり」と──涌出とは、広宣流布の時、一閻浮提(全世界)の一切衆生が法華経の行者となることを、涌出というのである──と。
 全世界に、地涌の勇者が現れ満ちるという壮大な御予言である。皆さまは、まさにその先駆けである。御本仏の仏記を証明している方々である。皆さまを迫害することは、御本仏に弓を引くことであることはいうまでもない。
8  末法広布の使命を自覚した私どもは、疑いなく地涌の菩薩である。そのことは、あまりにも有名な御文であるが、「諸法実相抄」に「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」──日蓮と同意であるならば、地涌の菩薩であろうか──と明確にお示しである。
 さらに「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」と。
 ──末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は、男女のわけへだてをしてはならない。皆、地涌の菩薩が出現した人々でなければ唱えることのできない題目なのである──と。
 この″唱える″とは「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」とお示しのように、みずらも唱え、人にも弘める実践をいう。
 皆さまが日々唱えておられる題目の声は、今や地球をつつむ。これだけ題目を唱え、弘め、広布を推進してきた学会員が地涌の菩薩でなければ、地涌の菩薩など、どこにも存在しないことになろう。
 また、法華経の従地涌出品じゅうじゆじゅっぽんには「く菩薩のどうを学して、世間の法にまざること、蓮華れんげの水にるがごとし」と。
 ちょうど泥水の中の蓮華のように、濁悪じょくあくの世間のまっただ中で正法をたもちながら、しかも、世間の諸悪に染まることなく、民衆救済の菩薩道に励みゆくのが、地涌の菩薩なのである。まさしく我が学会員の実践こそ、この経文の通りである。
 ここ十数年、宗門の指示により、私どもは「我々は地涌の菩薩である」と言うことができなかった。「地涌の菩薩の眷属けんぞく」との表現を用いさせられてきた。「信徒蔑視べっし」の宗門は、信徒が「地涌の菩薩」などと名乗ることは許せなかったのであろう。しかし、抑圧のくさりは断ち切られた。
 戸田先生は「外用げゆうのすがたにおいては、われわれは地涌の菩薩であるが、その信心においては、日蓮大聖人の眷属けんぞくであり、末弟子である」と述べておられる。
 釈尊の法華経から見れば、私どもは「地涌の菩薩」であるが、さらに深く言えば、実は、久遠元初くおんがんじょ以来、御本仏とともに妙法広布を成してきた、三世にわたる門下なのである。
9  大聖人は「報恩抄」の中で、こう仰せである。
 「いさかひの後のちぎりき乳切木なり、ひるのともしびなにかせん
 ──(師の道善房が、法華経の敵をみても責めようとせず、その敵が死んでから法華経を少し信ずるようになったが、それは)″けんかのあとの棒切れ″のようである。(夜という時が過ぎたあとの)″昼のともしび″が、何の役に立つというのか──と。
 戦いが終わってから武器を持ち出してきても、役に立たない。暗闇が去ってから灯火ともしびかかげても意味がない。正法を守り、仏子を守るために、戦うべき時に戦い、叫ぶべき時に叫ぶ。「時」にかなった信心の行動こそが、諸天を動かし、胸中の無量の福徳の″扉″を開くのである。
10  反ナチスの北欧詩人「われらには内面的な力がある」
 先ほど、世界的な「平和学」の第一人者、ヨハン・ガルトゥング博士とお会いした。現在進めている博士との対談集の打ち合わせのためである。タイトルも『チューズ・ピース』(邦題は『平和への選択』)とすることで一致した。楽しみにしていていただきたい。
 博士の祖国は北欧のノルウェー。第二次大戦のさなか、ナチス・ドイツの狂暴なる軍隊に占領され、蹂躙じゅうりんをうけた。
 博士も十三歳の時、父親がナチスによって逮捕されている。最も多感な少年時代に刻み付けられた、権力への怒り、戦争への憎しみ。ここに「平和は受動的に与えられるものではなく、意志的に『選択』するものである」との信念に生き抜いてこられた博士の、一つの″精神の原点″があると思う。
 この時、ノルウェーに、断固として不屈の雄叫びを上げた一人の詩人がいた。エーヴェルラン(一八八九〜一九六八年)である。
 彼は、ドイツ軍が侵入した後もオスロに残り、ナチスと戦う。『われらはすべてを生き抜く』と題する詩集は、不当に逮捕され、収容所を転々としながらもうたい続けた魂の結晶である。その中に、こんな一節がある。
   われらには内面的な力がある
   われらはすべてを生き抜く!
   われらは聖なる必勝の信念を有する
   それだからこそ忍耐強く落ちついていられる
   精神は永遠で
   生命は生々せいせい発展することを知っている!
11  ″内面の力″″精神の力″は、いかなる武力、権力にも屈しない。″魂の抵抗の旗″を掲げ続けるならば、必ずや「勝利の太陽」は昇る。「自由の夜明け」は来る。詩人はそう確信していた。また、歴史はその通りになった。
 「世界平和の旭日」もまた、あの国、この国の人々の胸に″希望の灯″が、ひとつ、またひとつ、まばゆく輝いていってこそ、高くまた高く昇る。
 エーヴェルランは、人々を抑圧する権力者をさげすみながら、誇り高く謳う。
   君が知らない真理が
   君がもやす書物のなかにある!
   君には理解できない思想が
   君の子より永生(ながい)きするだろう
  
   自由は君には無用の長物だろうが
   心配するな、君はもうそれを持っていない!
  
   君にとっては縁遠い心のあたたかさには
   装甲そうこうは必要でない!
   君が軽蔑する寛容の美徳は
   憎悪ぞうおの力よりまだ強い!
   君は恐怖でびくびくしているが
   各所で恐れを知らぬ人たちに会う
  
   君は好んで自分の名誉について語るが
   あらゆる人から悪人視されるだろう!
   君の生涯はうそかたまりだった。嘘の種子たね
   君のくびめる。君は、このようにして、死ぬ!
   君に裏切られた自由な国民は
   君のことを忘れる。悲しんだり、泣いたりする者はない!
12  圧迫のなかであるにもかかわらず、水晶のように、透明な明るさと強固さがある。人間そのもののもつ強さと、平和への希望が、揺らぐどころか一層の輝きを放っている。きょう、集われた皆さまの清々しい笑顔のように──。
 皆さまの「健康」と「長寿」と「幸福」を、私は毎日、祈っている。「幸福の王子・王女」として、妙法の「偉大なる心の王・王妃」として生き抜いていただきたい。
 ご家族の皆さま、各国の同志の方々に、くれぐれもよろしく!また、お会いしましょう。お元気で!サンキュー!

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