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日蓮大聖人・池田大作

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全国青年部幹部会、茨城県総会 登ろう!最高峰の青春の山へ

1992.4.12 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

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1  ″敦煌の守り人″との永遠の友誼
 音楽隊・東京ビューグルバンドの皆さん、見事な演奏を披露してくださり、本当にありがとう!
 同バンドは、マーチングバンドのコンテストにおいて、一九九一年、全国大会に初出場で優秀賞(上位三団体に授与)、さらに本年一月の全国大会でも優秀賞(上位二団体に授与)に輝いている。東京都や平塚市(神奈川)などの記念行事にも出場し、すがすがしい音律が注目されていると聞いた。素晴らしい演奏に、重ねて感謝申し上げたい。
 本日は、この会場にSGI(創価学会インタナショナル)春季研修会などのため来日された十七カ国・地域の海外メンバーが参加されている。皆さん、ようこそ!おめでとう!
 また、茨城県、各大学会、転輪会の代表の方々も集っておられる。ご苦労さまです!
 一方、福井県では秋谷会長が出席し「ハートフル音楽祭」が行われている。「文化会館に一千人。外は、少し肌寒いけれど、会場は爆発的に盛り上がっています」との報告があった。本当におめでとう。
2  本日は、中国の常書鴻じょうしょこう氏(敦煌とんこう研究院名誉院長)とご家族を、創価大学にお迎えし、先ほど、常画伯から私に贈られた「チョモランマ」の絵の除幕式が行われた。(除幕式の模様は衛星中継で全国の会場にも伝えられた)
 常書鴻氏は「敦煌の守り人」として世界に名高い。その偉大な業績は、私も常氏との対談集(『敦煌の光彩』徳間書店刊)やスピーチ等で何度も紹介させていただいた。まさに中国の″国宝″ともいうべき方である。
 創大キャンパスの中に、互いを支え合うようにして立つ二本の桜──私はかつて、幾多の苦難また苦難を乗り越えてこられたご夫妻の勝利の人生をたたえて、「常書鴻夫婦めおと桜」と名付けた。厳しい冬を越えて、美しい花を咲かせる姿は、お二人の歩みをそのまま象徴している。
 ご夫妻もその夫婦桜をご覧になり、心から喜んでくださった。そして桜の前で幾度も記念写真を撮っておられた。「(名誉会長の)優しい心がうれしいのです」と──。
 きょうお会いした折にも、「創価大学に来ることができ、うれしい。何より、元気な名誉会長ご夫妻にお会いできてうれしいのです」と、繰り返し語っておられた。
 氏は、今月六日に誕生日を迎えられ八十八歳、米寿べいじゅとなられた。除幕式の会場にも、かくしゃくと歩いてこられ、ますますお元気な姿が私は本当にうれしかった。″まだまだ「青年」である。百歳まで戦いますよ″との心意気でおられる。「青年の心」なくして「新しい世界」は開かれない。「希望の未来」も築けない──その模範の気概を氏の姿が示していた。
 ともあれ、真の「友誼(ゆうぎ)の心」は永遠に消えない。
 この講堂の横の″文学の池″には、氏の書で「文学之池」「文学之橋」としたためられている。これも″真心には真心で″との「友好の宝」である。
3  人生は永遠に″戦い″、油断・甘えこそ敵
 さて、氏の存在なくして現在の敦煌芸術を語ることはできない。敦煌は北京から約二千キロ離れた中国甘粛省の西部に位置し、″シルクロードの宝石″と呼ばれる仏教文化の栄えた地。常氏は一九四三年以来、半世紀にわたり、砂漠に埋もれていた敦煌芸術の保護と研究、紹介に尽力した第一人者であられる。
 しかし文化大革命の嵐の中では筆舌に尽くせぬ残酷な弾圧を受けた。″敦煌の文物を盗んだ″等と無実の罪で追及されもした。だが、氏は迫害のなかでも笑顔を忘れない。「私は何も悪いことはしていない!」との確信は揺るがなかったのである。
 今、私も氏と同じ確信である。
 そして氏は、かけがえのない人類の文化遺産を守り抜くために、人知れず黙々と、ひたすらに戦い抜かれた。
 私は、そうした戦いの一つ一つをくわしくうかがった。その模様も収めた私どもの対談集の中国語版が、このほど完成し、きょう常氏が私のもとに届けてくださった。
4  常氏にとって、最大の″敵″は何であったか──。氏の答えは、ある意味で、″意表を突く″ものだった。自分にとって最も恐ろしいものの一つは″砂″であったというのである。
 周囲の砂漠から刻一刻と降りかかる″砂″。その一粒一粒は取るに足らないものであっても、絶え間なくしのび込む砂は、石窟せっくつの壁を削り、重圧によって土砂崩れを引き起こす。ひとたび気を緩めれば、貴重な遺産が砂の底に埋もれ、取り返しのつかない破壊につながってしまう。
 研究を重ねた氏は、土砂崩れを防ぐために植樹を行う。そして、二重、三重と土塀をめぐらせた。その他、考えられる限りの方法を試みたと述べておられる。
 まさに「人生とは戦いの連続である」との信念のままに、氏の闘争は続けられた。その氏の事業に、周恩来元総理も大きな信頼を寄せておられた。
5  私どもの「広宣流布」への前進もまた、間断なき戦いである。
 「仏と魔との戦い」と大聖人が教えてくださっているように、絶えず襲いかかる″敵″すなわち″魔の働き″に対し、戦いの手を休めてしまえば、それは停滞ではなく、後退であり敗北につながる。
 たとえば私たちの体内では、赤血球が酸素を運び、白血球が病原菌等と戦うといった″生きるための闘争″が二十四時間休みなく続けられている。そうした活動を少しの間でも止めてしまえば、病気になったり故障してしまう。″生きること″自体が戦いなのである。
 私どもの敗北。それは″広宣流布の死″であり、″人類の希望″の死である。
 ゆえに、信心には″このくらい戦えば、もう十分だろう″という油断があってはならない。
 御書に「なはて堅固なれども蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し」──なわて(田のあぜ)は堅固であっても、そこに蟻の穴があれば、必ず最後にはたたえた水が溜まらないようなものである──と仰せである。
 ″取るに足らない小さな事″──そこに魔のつけ入るスキが生まれる。小事が大事になる前に、いち早く手を打てるのが賢者であり、「責任」を知るリーダーである。
6  先日もインドのモディ博士と語り合ったことであるが、釈尊自身が「行動の人」であった。仏法は座したままの「瞑想めいそうの人」が説いたのではない。「妙法蓮華経」の「経」は、人の身に当てはめれば「足」にあたるとされる。″歩く″すなわち″行動″してこそ法華経を持ったことになる。
 大聖人もまた、歩きに歩かれ、語りに語り抜かれた。真の門下であるゆえに、私どもも徹して動くべきである。叫び抜くべきである。何もしないで「正法」は広まらないし、幸福への境涯の拡大もない。戦いを避ければ、その弱き一念に病魔をはじめ、魔がつけ入ってしまう。
 その意味で、皆さんが日々、会合へ、友の激励へと出かける。語り、励まし、訴える。その行動自体が″勝利への前進″なのである。特に今回、SGIの皆さんが、広宣流布のため、求道心に燃えてはるばる来日されたことを、私は心からたたえたい。″求道の旅″は即″幸福への旅″である。
 ともあれ、「求道者」には永遠に行き詰まりがない。停滞もない。毎日が戦いであり、毎日が前進である。壁に突き当たる時があったとしても、たゆみなき川の流れが岩盤をも削りゆくような、″日々挑戦″の、たくましい青年部諸君であっていただきたい。
7  あの頂へ!そこに人生の王冠
 本日、常書鴻画伯から贈られた「チョモランマ」は、縦三・二〇メートル、横五・三〇メートルの大作。氏の数多い作品の中でも傑作中の傑作とされる名画である。実は、「チョモランマ」の絵は、文化大革命の大弾圧を受けた氏が夫人とともに魂魄こんぱくを込めて描き上げられたものである。
 (一九九〇年十一月、常氏は名誉会長との会談で、この絵を制作した心情を次のように語った。
 「これは、文化大革命が終わった直後、私たちが一番困難な時期に描いたものです。今は苦しいけれども、二人で文化の世界の最高峰を目指そう。そのためには、まず自分たち自身の孤独を乗り越え、すべての艱難を乗り越えて進もう──。そんな思いで、私たち二人だけの力で描き上げたものです。だれの手も借りていません。文化に貢献し、″世界の最高峰″におられる名誉会長もまた、今日にいたるまでの戦いの途中で、だれにもわからない孤独を乗り越えてこられたことと思います」と。
 また李承仙りしょうせん夫人は「あの絵は、五千メートル、六千メートルの高さに登った時の景観を描いたものです。高いところに登ってこそ、厚い氷が張り、道も険しいことを実感する。それでもなお、山頂を目指していく。そのためには体力だけではなく、精神の力が必要となってきます。──先生の人生も、同じではなかったでしょうか」──と。
 そして、絵の贈呈の申し出を固辞する名誉会長に、氏は「いえ、この絵にふさわしい方は、名誉会長をおいて他に断じていないと私は信じます」と、繰り返し尊敬と友誼(ゆうぎ)の心を伝えた)
 そして今回、常氏は″この絵は文革時代の物資の乏しい時代に描いたものです。画材の質なども考え、末永く残すために、同じ主題、同じ大きさの絵を描き直したい″との真心を寄せられ、丹精込めて仕上げてくださった。
 一流の人は大誠実の人である。氏の深き真心に、私は心からの感謝を捧げたい。
8  この作品には、そうした苦渋を乗り越えた夫妻の魂が込められている。
 青年には希望がある。この名画は語りかける。
 「希望は無限である。大いなる希望をもって、どんな苦しみをも、見おろしていこう!すべての艱難を越えて進もう!」
 創価学会、SGIへの、氏の熱い期待が脈打っている。
 世界最高峰の山、チョモランマ。天をついて、厳然と屹立きつりつする堂々たる威容いよう
 万年の白雪が孤高の姿をさらに美しくいろどり、あらゆる小事を見おろして微動だにしない。
 「さあ、どんな嵐でも来い!どんな吹雪でも来い!」──まさに王者の風格である。
 このような人間の王者たれと、日蓮大聖人も、私どもに教えてくださっていると信ずる。
 絵でも高峰の頂を、大空の光が「王冠」のように飾っている。
9  目を下方(かほう)に転じると、絵には、厳しき登攀とうはんに挑戦せんとする幾人かの人々が、小さく描かれている。中国の登山隊がモデルと考えられている。
 巨大なる山へ、大いなる峰へ、一歩また一歩──まさに、我が学会青年部の姿と、私は思う。また、青年部よ、かくあれと、祈るような気持ちで、私は、この登山家たちを見た。
 行く手には、苦難もある。嵐や病や孤独との戦いもあるかもしれない。「なぜ自分は、こんな苦しい道を自分で選んだのか」と心が動くかもしれない。しかし負けてはならない。
 大聖人も開目抄に「山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし」──(釈尊の在世すら難が多かった。いわんや像法から末法へと悪世となり、国も辺境となって、大難のさまは)山に山を重ね、波に波をたたみ、難に難を加え、非道に非道を増すであろう──と仰せである。
 この通りの大難を受けられたのは大聖人であり、創価学会こそが大聖人直結であるゆえに大難の連続なのである。
 私どもは大聖人の真の門下であり、地涌の菩薩である。断じて一切に打ち勝ち、使命を果たさねばならない。「広宣流布」は、創価学会員への大聖人の御遺命なのである。
 どうか皆さんは、雄々しく自分自身に挑戦しながら、「最高峰の青春」の道を、「最高峰の人生」の山を、敢然と歩み、登攀していただきたい。
 意義ある青年部幹部会の日に除幕された名画である。皆さんが、″挑戦″へ心を定められたなら、常先生も、どんなにか喜ばれるであろう。
10  ″栄光の金峰″を全同志の力で
 この「チョモランマ」という名称は、チベット語である(「世界の母なる女神」という意味で、中国でもこの名で呼ばれる)。
 日本では長い間、この山を「エベレスト(英名)」と呼んできた(現在は「チョモランマ」が一般的)。また、ネパールでは「サガルマタ」(「大空の頭」の意)と呼ばれる。
 このように、一つの山に、まったく別の名前を使ってきた。ちなみに、仏教経典に登場する「雪山せっせん」とは、チョモランマを含むヒマラヤ山脈を指すようである。
 四年前(一九八八年)の五月五日。中国、日本、ネパールの三国友好登山隊が、チョモランマの交差縦走こうさじゅうそうという史上初の快挙に成功した。
 この交差縦走では、登山隊が二グループに分かれ、中国側、ネパール側から同時に登頂する。そして、国境の頂上ですれちがい、それぞれ相手が登ってきた道を下山するというものである。
 三カ国による登山隊は、さらに九つの民族・種族からなり、五つの言語が飛びかう、総勢二百数十人の組織であった。それゆえ、彼らには、極限の厳しい自然との闘いと同時に、まず″人間との″闘いがあった。当然のことではあるが、言葉の違い、習慣の違い、考え方の違い等々、大きな壁が立ちはだかったのである。
 こちらが″常識″と思うことが、向こうの″常識″とは限らない。初めのうちは誤解や摩擦もあったという。途中で激しい議論の衝突が起こり、当初の計画を、大きく変更しなければならないこともあったといわれる。
11  こうした困難も乗り越え、三カ国の登山隊は、登頂の成功へ賢明に対処していった。
 いかなる団体であれ、組織であれ、人間の集まりである以上、皆が喜んで、温かい気持ちで、ともに目標に進んでいく努力が必要である。
 どんな時にも、どんな理由があろうとも、同志に対して言葉を荒らげたり、自分の考えを無理やり相手に押し付けるようなことは、絶対にあってはならない。万が一にも冷酷な力で、自分の思い通りに、相手をわくにはめこもうとするのは、人権の蹂躙じゅうりんといえよう。
 「長所を尊重し、生かすことに専念するのが一番良い。けなし合えば一日で壊れる」。登山隊のリーダーの一人は、こう語っている。危険な山道にあっては、互いの信頼と協力が、何よりの″安全の保証″でもあったであろう。
 ともあれ、リーダーは、寛容であることだ。むやみに怒ったり、感情的になっては、決して前向きな価値は生まれない。
 どこまで細やかな心配りができるか、どこまで親身になり、相手の心の″かせ″を取り除いてあげられるか。安心を与えながら、伸び伸びと力を発揮させていくか。それがリーダーの、自分との戦いであり、使命である。
12  偉業は周到な準備と自在の活躍に
 さて、さまざまな困難に直面した登山隊が、なぜ、それらを見事に乗り越えられたのか。なぜ、世紀の大事業ともいうべき快挙を成し遂げることができたのか。その理由をまとめると、次の四点になるという。
 第一に、「周到な準備」があった。綿密な計画、冷静な分析、周到な準備、そして慎重な遂行──そこに人知の限りを尽くしてこそ、勝利の光は見えてくる。
 ″かけ声″や″はったり″だけでは、人はついてこない。勝てるはずもない。事前に、だれよりも考え、だれよりも心を砕いてこそリーダーなのである。
 広布史に残る小樽問答も、他の地の開拓も、万全の準備に徹底して心を砕いたからこそ、勝った。「結果」だけを見て簡単に考えていたら、真実は何もわからない。こんなところまでというほど、緻密ちみつに一切を点検し、こまやかなうえにもこまやかに配慮してこそ、栄光は輝く。
 周到さの重要性──これは、今年、″新大陸到着″五百年を迎えるコロンブスの航海にも見られる。
 なお先日、(コロンブス到着の地ともされる)中米・ドミニカ共和国のバラゲール大統領から、″五百年祭″への招へい状をいただいた。
 コロンブスは、どの航海においても、二、三隻で航行することを望んだといわれる。その理由の一つは、万が一、一隻が沈没した場合でも、他の船から、すぐに救助することができるからであるという。
 先般、青年部の代表から、さっそうと航海する船の模型が届けられた。それも三隻が並んで進む姿であった。
 用意周到さ、あらゆる場合を想定しての準備、手の打ち方──それは真剣な「責任感」から生まれる。″何とかなるだろう″などと思っているのは、すでに敗北の姿である。
13  また、登山成功の理由の第二は、「人間がそろっていた」「一人一人に力があった」ことであると。
 すべては「人材」で決まる。学会は″獅子の集い″である。臆病な人間、縁に紛動されやすい人間、いざという時に行動できない人間、呼吸の合わない人間が、何人集まろうと、大事をなすことはできない。
 第三は「持てる力を、それぞれが、十分に出し切った」ことである。
 皆が思う存分、自由に力を出して進むためには、リーダーの役割も大切であろう。また、人の顔を見ながら、ほどほどに要領よく動いているだけでは、組織悪に通じてしまう。
 そして最後の第四──これが最も大事な点であるが──「皆が心を一つにして、力を合わせた」ことであると、指摘されている。
 すなわち「団結」「異体同心」である。「史上初の偉業を、何としても成功させたい」という信念に、皆の心が結ばれたのである。
 登山成功の瞬間、世界で最も高い頂に立った勇者たちの一人は、感極まって、こう叫んだ。「全員の協力で、頂上に立てました!」──と。
 自分の力ではない、皆の力だ。自分が偉いのではない、皆が偉いのだ──こう心から言える人が力のある人であり、偉い人である。
14  本日も、この会場には十七カ国のSGIの友が参加されている。
 今、創価学会の連帯の広がりは、世界百十五カ国。さまざまな民族の人がいる。さまざまな言葉、さまざまな立場の人がいる。
 しかし、私どもは、文化や習慣など、あらゆる違いを超えて、「広宣流布」「世界平和」という大聖人の御精神のもとに一致している。偉大なる創価の精神のもとに集った、不可思議なえにしの「同志」なのである。
 これからも永遠に、「広宣流布」という人類の最高峰、人生の最高峰を目指して、ともに前進していきたい。
15  「正文」をもって仏敵を責めよ
 きょうは大切な会合であり、御書を拝して、もう少々申し上げたい。
 大聖人の御在世に「弥三郎やさぶろう」という門下がいた。「伊豆流罪」の折、大聖人をお助け申し上げた船守弥三郎ふなもりやさぶろうとは別人で、静岡の沼津の人という説もあるが、くわしいことは不明である。ともあれ、社会的には無名の一信徒であった。
 この弥三郎が謗法の僧との戦いに立ち上がった。大聖人は、こう励まされている。
 「さて其の法師物申さば取り返して・さて申しつる事は僻事かと返して釈迦仏は親なり・師なり・主なりと申す文・法華経には候かと問うて・有りと申さば・さて阿弥陀仏は御房の親・主・師と申す経文は候かと責めて・無しと云わんずるか又有りと云はんずるか・若しさる経文有りと申さば御房の父は二人かと責め給へ、又無しといはば・さては御房は親をば捨てて何に他人を・もてなすぞと責め給へ
 ──(弥三郎の主張に対して)その法師が何か物を言ってきたら、「では、ただいま私が述べたことは″間違ったこと″であるか(そう反論できるのか)」と言い返していきなさい。
 そして「『釈仏は親であり、師であり、主である』という経文は法華経にあるか」と(こちらから)質問して、(相手が)「ある」と答えたら、「それなら『阿弥陀仏が御房ごぼう(あなた)の親であり、主であり、師である』という経文はあるのか」と責めなさい。
 (これに対して)「ない」と言うのか、「ある」と言うのかをはっきりさせて、もし「その経文はある」と答えたら、「御房の父は二人(釈尊と阿弥陀仏)いるのか」と責めなさい。
 また「(経文は)ない」と答えたら、「それならば御房は親(釈尊)を捨てて、どうして他人(阿弥陀仏)を大事にするのか」と責めなさい──と。
 法論に臨んでの、具体的な戦いを教えておられる。
 もしも相手が「一」言ってきたら、こちらは「十」言い返す。仏敵の「一の邪論」には「十の正論」で、徹底的に責め、打ち破っていく。大聖人門下であるならば、この「折伏精神」がなければならない。
 学会は、大聖人に敵対する悪侶を、御書に仰せの通り、徹底して打ち破ってきた。一方、彼らは反論するどころか、何一つまともに答えていない。いな、答えられない。この一点から見ても、我が学会の正義は明らかである。
16  大聖人は続けて、こう仰せである。
 「其の上法華経は他経には似させ給はねばこそとて四十余年等の文を引かるべし
 ──そのうえで、「法華経は他の経(爾前経)とは比べものにならないほど勝れた経である」と言って、「四十余年未顕真実みけんしんじつ」(法華経を説く以前の四十余年には、いまだ真実をあらわしていない)」等の経文を引くべきである──。
 私どもの法戦は、どこまでも「御書根本」「経文根本」である。御書を拝し、御書を基準として、真実を明らかにし、悪を見破り、正義を訴え続けていく。相手を″破折屈伏はしゃくくっぷく″させていく。これが最も正しい軌道である。大聖人の門下の道である。学会はその「正道」をまっすぐに進んでいる。
17  さらに大聖人は「即往安楽の文にかからば・さて此れには先ずつまり給へる事は承伏かと責めて・それもとて又申すべし」と。
 ──また、もし相手が法華経の「即ち安楽世界にく」等の経文を(自分、ここでは念仏宗の都合のいいように)あげてきたならば、「では、こちらから問うたことに答えられず、詰まってしまったことは認めるのか」と責め、(もし負けを認めたなら)「それならば」と言ってから、その経文(「即往安楽」等)について申し述べなさい──と。
 相手の僧侶が、経文を悪用してきた場合を想定しての仰せである。悪侶ほど、口がうまい。言葉巧みである。こうした″詭弁きべん″に民衆はだまされ続けてきた。しかし、もはや、断じてだまされてはならない。卑怯な弁明や芝居に、目をくらまされてもならない。
 大聖人は、在家の弥三郎に対し、「悪侶はこのように責めよ」と教えられた。私どもも、こうした仰せのままに、さらに、現在の悪侶を責めきってまいりたい。
18  御本仏は苦悩と「同居」
 弘安三年(一二八〇年)の秋九月五日、南条時光の弟・七郎五郎が亡くなった。詳しいことは不明だが、突然の死だったようである。
 当時、七郎五郎は数え年で十六歳。あまりにも若い死であった。大聖人は、その知らせをお聞きになると、即座に、時光と母に心からの激励をなさる。死の翌日、九月六日付で慰めと励ましのお手紙を送られている。
 「南条七郎五郎殿の御死去の御事、人は生れて死するならいとは智者も愚者も上下一同に知りて候へば・始めてなげくべしをどろくべしとわをぼへぬよし・我も存じ人にもをしへ候へども・時にあたりて・ゆめか・まぼろしか・いまだわきまへがたく候
 ──南条七郎五郎殿の御死去のこと、人はだれも皆、生まれて死ぬのが定まりとは、智者も愚者も、(身分が)上の人も下の人も一同に知っていることであるから、今はじめて嘆いたり、驚いたりすることではないと、自分(大聖人)も思い、人にも教えてきたが、さて、いよいよ、その時にあたってみれば、夢か幻か、いまだに判断がつきかねるほどである──。
19  「まして母のいかんがなげかれ候らむ、父母にも兄弟にも・をくれはてて・いとをし最愛をとこに・ぎわかれたりしかども・子ども・あまた数多をはしませば心なぐさみてこそ・をはしつらむ
 ──ましてや、母はいかばかり嘆かれていることであろうか。父母にも兄弟にも先立たれ、最愛の夫にも死に別れたが、子供が大勢いらしたので、心を慰めておられたことでしょうに──。
 「いとをしき・てこご・しかもをのこごみめかたち容貌も人にすぐれ心も・かいがいしくへしかば・よその人人も・すずしくこそみ候いしに・あやなく・つぼめる花の風にしぼみ・満つる月の・にわかに失たるがごとくこそをぼすらめ、まこととも・をぼへ候はねば・かきつくるそらも・をぼへ候はず
 ──かわいい末の子で、しかも男の子、容貌も人にすぐれ、心もしっかりして見え、よその人々もさわやかな感じをもって見ていたのに、はかなく亡くなってしまったことは、花のつぼみが風にしぼみ、満月が急に消え隠れてしまったように感じられる。本当のこととさえも思えず、励ましの言葉も書きようがない──。
 「追申、此の六月十五日に見奉り候いしに・あはれ肝ある者かな男や男やと見候いしに・又見候はざらん事こそかなしくは候へ、さは候へども釈迦仏・法華経に身を入れて候いしかば臨終・目出たく候いけり、心は父君と一所に霊山浄土に参りて・手をとり頭を合せてこそ悦ばれ候らめ、あはれなり・あはれなり
 ──追伸。この六月十五日に(七郎五郎殿に)お会いしたときには、あっぱれ肝のある者だな、(すばらしい)男である、男であると見ていたのに、再び会えないとは、悲しいことです。しかしながら、(七郎五郎殿は)釈迦仏、法華経に身を入れて深く信仰されていたから、臨終も立派だったのです。心は、(先立った)父君と一緒に霊山浄土に参り、手をとり、頭を合わせて喜ばれていることでしょう。感動的なことです。感動的なことです──。
 追伸に仰せの通り、七郎五郎は、死のわずか三カ月前、兄・時光とともに大聖人のもとを訪れている。大聖人は、その凛々りりしき兄弟の姿を心から喜ばれ、将来を期待されていた。それだけに七郎五郎の悲報にふれて、大聖人は「夢か幻か、いまだに判断がつきかねるほどです」と──。だれもが驚き嘆いた出来事であった。
20  この七郎五郎は、父が亡くなった時、母のおなかにいた子供である。母にとって、生きる支えとも思ってきた最愛の子を、突然失った悲嘆はいかばかりであったことか。今でいえば、我が子を懸命に後継の人材に育て上げてきた婦人部のお母さんである。
 大聖人は、その心に、深く深くみ入るように″同苦″の言葉を送っておられる。一人の母の言い尽くせぬ悲しみを、本当に我が悲しみとして、包容し、一緒に心で泣いてくださっている。
 同情などという次元ではない。まさにその人と一体となっての″同苦″のお姿であられた。苦悩の人と同じ「心」を、同じ苦しみ、同じ悲しみを共有しておられた。これが、御本仏・日蓮大聖人の御振る舞いであられた。「人間」の最極さいごくのお姿を私どもは涙とともに拝する。
 我が学会も、どこまでも御本仏の深き「人間主義」に連なっている。
 心からの″励まし″こそ、仏法者のあかしである。悩む人、苦しむ人には、即座に、″激励の声″を送り届ける。悲しみを勇気に、悩みを希望に変えていく──。それが、大聖人の御精神であられた。
 本来、それは日蓮正宗のあるべき姿でなければならなかった。しかし現在の宗門には、慈愛の心など、微塵もない。もはや大聖人に敵対する「悪鬼入其身あっきにゅうごしん」のみにくい姿にしてしまった。
21  三世の幸福は仏眼・法眼で
 大聖人に直接お目にかかった門下であっても、若くして亡くなる場合があった。さらに、幾多の法難のなかで、どれほどの門下が死に、迫害を受けたことか──。
 釈尊の在世においても、多くの一族や門下が、悪の権力者に殺されている。たとえば、「開目抄」には「無量の釈子は波瑠璃王に殺され」等と仰せである。
 かりに、信心強盛にして不慮ふりょの死──事故死したり、若死にしたりしても、御聖訓に照らし、仏のまなこから見れば、何らかの深い意味がある。生前の福徳、また追善供養で救われることも間違いないと確信する。
 表面的な現象また目に見える形のみで云々うんぬんできないのが、仏法の深遠さなのである。
 仏法の真髄しんずいは、凡眼ぼんげんにははかり知れない。いわんや嫉妬に焼かれ、感情に眼を曇らされた人間には、″真実″は何も見えない。
 私どもが信じ奉るのは、三世永遠に及ぶ大聖人の「仏眼」「法眼」である。それ以外の何ものにも煩わされる必要はない。
 この大確信で、「素晴らしい一生」を、「楽しい一生」を、ともどもに歩み、勝ち取ってまいりたい。きょうは本当に、ありがとう!

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