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日蓮大聖人・池田大作

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大分新世紀総会・レインボー音楽祭 仏法は「現証にはすぎず」

1992.3.1 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

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1  皆の幸福が指導者の勝利
 懐かしい大分の皆さまに、どうしても、お会いしたい──その思いがかないました!
 きょう、来る途中にも、街角で、橋のたもとでと、多くの方々と三色旗であいさつを交わした。そして、ここでは素晴らしい創価家族の総会・音楽祭。私は、ここに飾ってもらった「勝利の鐘」を高らかに打ち鳴らしながら、「大分は完全に勝利した!」「完璧に勝った!」と宣言したい。おめでとう!
 きょうの模様は、九州全県に衛星中継され、十一万人の代表が参加されるとうかがった。
 全部を紹介することは時間の関係上できないが、個人の会場でも、中通島、屋久島、喜界島、上甑かみこしき島、下甑しもこしき島、与論島の各会場で、音声による中継が行われている。会場提供者の方々・ご家族に、心からお礼を申し上げたい。
 また九州のほかに、東京池田記念講堂(世田谷区の支部長・婦人部長研修)、麻布文化会館(東京・港区の支部長会)、山口文化会館(山口県支部長研修)にも中継されている。まさに全九州の友に見守られ、日本の多くの同志に注目されての総会・音楽祭である。重ねて「おめでとう」と申し上げたい。
2  大分は、宗門問題の一つの″発祥″の地。永久に広布史に刻まれた宿縁の国土である。使命の同志である。
 今回の訪問は十年ぶり。前回(一九八一年十二月)、私は、この大分の地で「皆さまが幸福になることが、私の勝利です」と申し上げた。
 そのとおりに、今回は、「とよの国」(豊国とよくに)らしく、大分の皆さまの本当に福徳豊かな勝利の笑顔、充実の笑顔を拝見できた。これで私も勝った。
3  いちばん苦しんだ地に、いちばんの栄えを
 会館も、前回は三会館であったが、四月に完成予定の大分南文化会館を含めて十一会館にまで発展した。
 三会館の一つである別府文化会館には、前回、空港からの道すがら、おじゃました。ここでは今、皆さまの真心で、いち早く桜の花が咲いたとうかがった。我が愛する大分の友の″勝利の春″を祝福しているかのようだ。
 今朝、私は、十年前、竹田の皆と歌った「荒城の月」をピアノで弾かせていただいた。また「青年よ二十一世紀の広布の山を登れ」の詩を刻んだ銘板も、ゆっくり拝見した。この詩が発表された幹部会に出席した男女青年部メンバーは、「大分二十一世紀会」として立派に成長し、大分創価学会の中枢となっている。これほど、うれしいことはない。
 頼もしき人材の流れは、大河へと広がっている。「大分の未来は限りなく明るい」と宣言しておきたい。
 本部数・支部数においても、大きく躍進した。会友は、早くも「二万五千人」を数える。特に婦人部総会では、にぎやかで楽しい友情の広場が、全県下に広がったことは、くわしくうかがった。
 その意味からも、宗門問題の勝利を勝ち取った大分こそ、″会友運動の推進のことなら大分に聞け″と言われるような「会友日本一の大分」の模範を示していっていただきたい。
 いちばん苦しんだところが、いたばん勝利する。それでこそ全体の勝利につながる。大分の前進は日本・世界の前進である。
4  御書に「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」──日蓮が仏法をこころみるのに(仏法の勝劣を判断するうえで)、道理と証文とに過ぎるものはない。さらに道理や証文も、現証に勝るものではない(現証こそ、一番、大切である)──との、有名な御文がある。
 「仏法は勝負」である。御書には「仏法と申すは勝負をさきとし」とある。
 理屈や観念、感情だけではない。「勝った」という事実こそが「現証」である。その意味で、大分の皆さまの、幸の前進の姿は創価学会の正義の何よりも雄弁な「現証」である。私は、最大にたたえたい。
 反対に、皆さま方をいじめた悪侶、皆さま方を苦しめた背信者たち──人間の道を踏みはずした、卑しい心根の報いが、どれほど厳しいものか。だれよりも皆さまが、ご覧になられてきた通りである。
 大分の同志は、この十年、この厳粛なる仏法の因果、賞罰を見事に示された。勇気があった。戦い抜かれた。
 仏法の勝負を戦い抜いた人は、生々世々にわたって、生命に盤石な「幸福の宮殿」が固まっていく。そびえていく。臆病に負けた人は、ヘビににらまれたカエル、タカにあった小鳥のように、常に″強きものに脅され、びくびくする卑屈な生命″となってしまう。絶対に臆病であってはならない。
 大分では、前回、多くの脱会者があったが、今回は、まったく何の動揺もない。それどころか、次々と数多くの友が入会している。皆、賢明になった。もう悪い人間には、だまされない。このこと自体が、「勝利」である。厳然たる「現証」である。
 「現証」によって正法を証明し、広宣流布を前進させた功徳は計り知れない。皆さま方は、三世にわたって、その功徳に包まれ、永遠の幸福の旅路を悠々と楽しみゆかれるにちがいない。
5  福沢諭吉も″堕落僧″を責めた
 さて、沖縄から大分に向かう飛行機の中で、「大分が生んだ偉人たち」が話題になった。
 福沢諭吉(幕末から明治にかけて活躍した思想家・教育者。慶応義塾の創立者)、滝廉太郎(明治日本を代表する作曲家)、前野良沢(江戸時代中期のオランダ医学者。「解体新書」をはじめ、多くの訳著作がある)、朝倉文夫(彫刻家。明治・大正・昭和にわたる美術界の重鎮)、広瀬淡窓(江戸後期の儒学者)はじめ、その数は多い。
 ともあれ、「正法」を人々に、また地域に、後世に伝え、残しゆく人は、世間の道のどんな偉人よりも永遠なる″無上道むじょうどうの人″である。
 大分の偉人のなかでも、福沢諭吉は特筆すべき「人権」の先覚者であった。
 あの「学問のすゝめ」の冒頭に掲げられた、「天は人の上に人をつくらず人の下に人を造らず」との、あまりにも有名な言葉──。この不滅の「平等の宣言」「人権の宣言」も、もともと福沢が、ふるさと大分の友に贈ったメッセージといわれる。郷里・中津に学校が開かれるにあたっての言葉という。
 その意味からも大分の皆さまは、「僧が上」「俗が下」などという時代錯誤の不平等論を、断じて許してはならない。
 彼らは「学会」を攻撃しているつもりかもしれないが、実は人間平等を説かれた「日蓮大聖人」を攻撃し、本来の「日蓮正宗」を攻撃しているのである。だから許すわけにはいかない。戦わねばならない。
6  また、政府の″許可″によって、明治の初めから妻帯を始めた僧侶たちの腐敗・堕落を、福沢が厳しく弾劾したことも有名である。
 明治十五年(一八八二年)三月一日──ちょうど百十年前のきょう。彼は、「独立」と「自由」の言論の武器として、「時事新報」を創刊した。
 創刊当初の社説でも、福沢は「僧侶論」を展開し、「僧侶は俗より出でて俗よりも俗なり」の言葉で嘆いてもいる。
 さらに「僧侶の貪利とんり(利益をむさぼること)不品行ふひんこう(乱れた行動)、あたかも仏門内に仏敵ある如し。慨嘆がいたんに堪えざるなり」──。僧侶の貪欲、堕落こそ、仏教を破壊する元凶である、と。
 ──まさに現在の宗門の姿そのものであろう。
 だれびとであれ、少しでも「道理」をわきまえた人なら、堕落僧は徹底して責めるべきだと一致する。近代の先覚者は皆、悪の聖職者と戦っている。
 私どもは、これまで、僧俗和合のため、宗門を守りに守り抜いてきた。その一方で宗門は、あまりにも守られすぎて堕落した。
 悪侶を戒め、打ち破りゆく学会の戦い──。もし、今、福沢諭吉が、私どものこの姿を見たならば、「会友」の一人として、心からの賛同の声を寄せると信じたい。
7  「是れ今生の禍・後生の福なり」
 次に御書を拝して申し上げたい。
 鎌倉の建長寺の道隆どうりゅう(中国・南宋出身の臨済宗の僧。建長五年<一二五三年>、北条時頼が建立した建長寺の開山)──彼は、幕府の手厚い帰依きえを受け、大変な権勢を誇った禅僧であった。立派な高僧のように見せかけながら、その権威をカサに、極楽寺の良観とともに、大聖人に陰湿な迫害を繰り返した。
 しかし、「悪」は長く栄えない。また栄えさせてもならない。
 この道隆もやがて死ぬ(弘安元年=一二七八年)。すると、弟子たちは、″道隆の身は、舎利しゃり(仏の骨)となった。ありがたい仏さまの骨である″などと宣伝した。もちろん、まったくのウソである。今も、宗教の権威の陰に身を隠して、ウソまたウソを宣伝している輩がいることは、ご存じの通りである。
 宗教に名を借りた″悪知恵″は特に、際限がない。民衆は常にだまされ続けてきた。大聖人はこうした宗教のまやかしを、だれよりも激しく、容赦なく破折された。そこに、大聖人の戦いがあられた。そこから大難も起こった。
8  大聖人は、次のように仰(おお)せである。
 「其の上建長寺は現に眼前に見へて候、日本国の山寺の敵ともおもいつべき様なれども事を御威によせぬれば皆人恐れて云わず、是は今生を重くして後生は軽くする故なりされば現身に彼の寺の故に亡国すべき事当りぬ
 ──そのうえ、建長寺のありさま(堕落のようす)は、現に眼前に明らかである。日本国の諸山・諸寺の敵ともいうべきような状態にあるが、なにかと権威を借りるので、人々は恐れて何も言わない。これは今生を重く見て、後生を軽んずるゆえである。したがって、現実に建長寺のゆえに、国が滅びるであろうといったことがその通りになっている──。
 大聖人は、権威を恐れて何もいわない臆病を″後生を軽んずるゆえ″と仰せである。仏法は「三世」と説く。目先のことだけにとらわれるのは仏法者とはいえない。
 現在の宗門の堕落・腐敗は、私どもの「眼前」に明らかである。それを、権威を恐れて、大聖人を恐れず、破仏法の悪と戦わないのであれば、僧であれ、俗であれ、因果の裁きは厳しいであろう。
 そもそも仏法は「人を救う」ものであって、「人を切る」ものでは決してない。また、人を妬んだり、脅したり、圧迫するものでもない。
 さらに、大聖人は「日蓮は度度知つて日本国の道俗の科を申せば是は今生の禍・後生の福なり
 ──日蓮はこのことを知って、たびたび日本国の道俗(出家と在家)の誤りを諫めたので、これは今生には迫害を受けて禍であっても、後生には福となるのである──。
 日本国中の人々が権威を恐れて沈黙していた時、大聖人はただ御一人、毅然として諫言された。正義を叫ばれた。そのために、「今生の禍」──数限りない迫害を受けられた。しかし、これは「後生の福」──永遠の幸福となるのである、と大確信を述べられている。
 一時的な「今生の禍」など問題ではない。大聖人は、大海がもろもろの河川の水を返すことがないように、「法華大海の行者」には、さまざまな大難の河川が流れ込むが、それを押し返したり、とがめだてすることはない、と仰せである。
 先日(本年二月二十七日、第一回SGIアジア総会)もお話ししたが、御書には「大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや、法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なし」と、あるとおりである。
 私どもの未来には、「後生の福」──すなわち″永遠の幸福″″永遠の勝利″が開かれている。″三世の常楽我浄じょうらくがじょうの人生″のためにこそ、今世で頑張りなさい、「大悪」と戦いなさい、と大聖人は仰せなのである。
9  大成人は″権威の高僧″のまやかしを破折
 大聖人は続けて記されている。
 「但し道隆の振舞は日本国の道俗知りて候へども上を畏れてこそ尊み申せ又内心は皆うとみて候らん
 ──ただし、道隆の振る舞いは、日本の出家・在家が知っているけれども、幕府を恐れているからこそ大事にしている。とはいえ、内心では、皆が疎んでいるであろう──。
 高僧の悪行を知る出家(僧)も在家(信徒)も、恐れて口に出さないが、皆が内心では嫌っていた。現宗門も同様のようである。
 さらに「仏法の邪正こそ愚人なれば知らずとも世間の事は眼前なれば知りぬらん、又一は用いずとも人の骨の舎利と成る事は易く知れ候事にて候、仏の舎利は火にやけず・水にぬれず・金剛のかなづちにて・うてども摧けず、一くだきして見よかし・あらやすし・あらやすし
 ──仏法を知らない一般の人には、仏法の邪正こそわからなくとも、世間のことは眼前の事実であるから、わかっているであろう。また、仏法を用いなくとも、人の骨が舎利(仏の骨)となったかどうかは、容易にわかることであろう。仏の舎利は火に焼けず、水にもぬれず、金剛のかなづちで打ってもくだけない。ためしに一度、道隆の骨を砕いてみるとよい。(本当かどうか見分けるのは)なんと簡単であろう、なんと簡単であろう──。
 道隆の門下が「道隆の骨が仏舎利ぶっしゃりになった」、すなわち「道隆は釈尊のようである」と、仏法に無知な人々をたぶらかしていることに対し、大聖人は痛烈に破折された。
 「本当に仏舎利かどうか、一度、実際に砕いてみればわかるではないか」──どんなまやかしも、社会・生活の道理に照らしてみれば、明らかとなることを、大聖人は教えてくださっている。
 正法の行者は「賢く」なければならない。悪に「たぶらかされ」てはならない──大聖人は「御書」に繰り返し繰り返し叫ばれている。
 宗門の悪行の数々は、これまで多くの有識者の方々からも、あらゆる角度から指摘され、糾弾されてきた。また、大分の婦人部だけでも、悪侶の実態を後世に残す「証言」が三千人以上の方々から寄せられたという。これらもすべて、日常の生活の姿、現実の振る舞いを見て、「絶対に納得できない」という″民衆の正義の怒りの声″である。
10  時とともに悪の根は露れる
 さらに、この御書の結びにこう仰せである。
 「長寺は所領を取られて・まどひたる男どもの入道に成りて四十・五十・六十なんどの時・走り入りて候が用は之れ無く道隆がかげにしてすぎぬるなり、云うに甲斐なく死ぬれば不思議にて候を・かくして暫くもすぎき。又は日蓮房が存知の法門を人に疎ませんとこそたばかりて候らめ、あまりの事どもなれば誑惑おうわく顕われなんとす、但しばらく・ねうじて御覧ぜよ、根あらわれぬれば枝れ・源渇けば流尽くると申す事あり、
 ──建長寺は、所領を取り上げられて行き先のない男たちが、入道となって、四十・五十・六十歳などにもなった時に逃げ込んできた者たちの集まりである。そうした人間たちが、何の働きもなく、道隆の陰に隠れて暮らしてきたところなのである。(道隆が)ふがいない死に方をしたのが不思議なので、このような(道隆の骨が仏舎利になったという)説を流して、しばらく過ごしたのである。
 または日蓮(大聖人)の知っている法門を人に疎ませようとして、うわさを仕組んだのであろう。しかし、あまりのことなので、その誑惑(人をたぶらかし惑わすこと)の企みが露見しかけている。(ゆえに)ただ少しの間、我慢してごらんなさい。「(樹木は)根があらわれれば枝は枯れ、(河川は)源が渇けば流れは途絶えてしまう」(天台大師の摩訶止観の文)という道理がある──と。
 建長寺といえば、当時、″鎌倉一″との名声、格式を誇る大寺院(鎌倉五山の筆頭が建長寺)であった。しかし大聖人は、本質を鋭く見抜かれていた。社会の脱落者が出家して集まり、修行もせず、厚い庇護の陰で腐敗しきっていた実態を──。
 学会の外護によって″日本一″″世界一″の繁栄を誇った大石寺も、出家の本義を忘れ、俗世の欲望に走った者たちによって完全に牛耳られてしまった。ついには「正法流布」にまい進する学会を疎んじ、信徒を奪い取ろうとして数々の策謀を仕組んだことまで、謗法の禅寺・建長寺とあまりにも似ている。そういえば、「日顕宗は禅寺と縁が深い」と言う人もいた。
 大聖人の弟子を名乗りながら、禅寺以上に堕落しきった宗門の姿を、大聖人は心から悲しまれ、怒っておいでであろうと拝されてならない。
 しかし、大聖人が厳然と仰せのように、御本仏に敵対し、仏子を迫害する「悪の画策」は必ず、その「根」があらわれ、「源」が渇いていく。そして仏法の厳しき因果は、「謗法者の末路」と、「広布の団体の勝利」の明暗を、鮮やかに浮かび上がらせていくにちがいない。
 ゆえに私どもは、大聖人の直系中の直系の門下として、仏法の「勝利の証」を、断固として全世界に示し、永遠の歴史にとどめてまいりたい。どうか、その″勝利の震源地″に、この大分こそがなっていただきたい。
11  ところで「大分」の地名の由来について、地元の幹部に聞いたのだが、だれも知らない。まあ、これには諸説あるようだが、そのなかに「碩田おおきだ」説がある。
 これは、昔、景行けいこう天皇が、現在の大分平野あたりを眺めて、地形の広大さとうるわしさをたたえ、″広く大きな田″という意味の「碩田」と呼んだ。それが始まりという説である。
 「おおき」には″大きい″″えて充実している″″どっしりしていて立派である″″盛んな″等の意味があるようだ。
 皆さまのような方々を「碩学せきがく(大学者)」ともいう。ともあれ、大分は″大きい″。″立派″である。
 「オオキダ」から「オオイタ」になったとする説には、「大段おおきだ」説もある。「段」は「分」と同じく、″分かつ″とか″しきり″″一区画″の意味で、たくさんの区画に分かれている、地形が複雑である等の意味かとされている。
 他に「大分国造くにのみやつこ」(『旧事本紀くじほんぎ』)、「大分君おおいたのきみ」(『日本書紀』等)の名前と活躍が伝えられており、「大分」の表記もかなり古い歴史がある。古くから「オオキダ」「オオキタ」等と呼んでいたところ、後世に意味不明となって、説明のためさまざまな説が生まれたと考えられる。なお、日本の古称、美称である「豊葦原瑞穂国とよあしはらのみずほのくに」とは、もともと大分周辺=「とよの国」を指したとの説もある。
12  海も素晴らしい大分。今、「広布の大航海時代」である。新時代にふさわしく、大分の皆さまも、今年、来年、再来年、近い将来に、どんどん海外交流に出かけていただきたい。
 「会友日本一」の模範の地として、九州は当然のこと、世界にも大きく希望を与えながらのご奮闘であられんことを、心からお祈り申し上げたい。
 お会いできなかった皆さまに、よろしくお伝えいただきたい。また、街角で歓迎してくださった皆さま、くれぐれも風邪をひかれませぬように。
 それでは、またお会いしましょう。きょうは本当にありがとう!

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