Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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SGI香港・九州合同総会 「信心」は永遠の幸福映す鏡

1992.2.20 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

前後
2  大聖人は「開目抄」で、次のような経文を引いておられる。
 「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ
 ──自身の過去世の原因を知ろうとするならば、現在の結果を見なさい。また未来の結果を知ろうとするならば、その現在の因を見なさい──と。
 爾前経の文ではあるが、″妙法の因果″の世界では、より以上、この法則が厳しく表れる。
 生命は永遠である。信心は永遠の幸福のためにある。「素晴らしき信心」こそが「素晴らしき人生」を、そして「素晴らしき三世の勝利」をつくっていく。
 大聖人は「心こそ大切なれ」と仰せである。形式が大切とは仰せではない。心である。信心の「心」の微妙な違いが、時とともに大きな境涯の差となって表れる。
 大聖人の仰せ通りに、世界広宣流布へ、「大善」の心を重ねる皆さま方は、三世にわたって「生命の長者」「福運の勝者」「希望の王者」と輝くことは、まちがいない。
 反対に、悪の心は、それなりの報いをもたらす。人間に生まれてくるともかぎらない。なかんずく正法の世界を破壊し、嫉妬し、尊き仏子をいじめるような毒蛇の心は、自分自身の生命を根底から破壊していく。(日亨上人は、悪心の僧侶を「毒蛇」にたとえられている)
3  ともあれ、信心には″ムダ″がない。自分の「心」の通りに、自分の「心」のままの結果を、自分が受けていく。一念の不可思議な妙用みょうゆうである。
 一般の世界では、努力が報われるとはかぎらない。悪人が栄える場合すら多い。しかし信心の世界の因果だけは、絶対に厳正であり、公平なのである。
 きょうの参加者の方々のなかにも、「いやいや」来られた方もいらっしゃると思う。「よし」と勇んで、歓喜に燃えて来られた方もおられる。ともに会合出席という行動自体が尊いことは言うまでもないが、同じ行動のように見えても、その「心」ひとつで、長い間に大きな差が出てくる。いな、因果は倶時ぐじであり、その瞬間に、「未来の果」は生命に刻まれているのである。
4  御本尊は妙法を唱える人自身の中に
 さて私どもが御本尊を拝する本義は、どこにあるのか。大聖人は次のように仰せである。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり
 ──この御本尊は、まったく外に求めてはならない。ただ我ら衆生が、妙法を持って南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団におられるのである──と。
 御本尊は、妙法を唱える人自身の肉団にあられる。自分自身の内なる仏の生命を涌現させる所縁しょえんが、私どもの拝する御本尊であられる。
 「鏡」もくもったり、よごれていては映らない。磨かねばならない。我が生命の″鏡″を磨く作業が御本尊への信行の題目である。
 どこまでも自身の鏡を磨き、胸中の御本尊を力強く涌現するために大聖人は御本尊を建立されたのである。
 「観心の本尊」と大聖人は仰せである。「観心」すなわち己心の仏界を観じ、覚知するための御本尊であられる。そして「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」と大聖人は断言しておられる。
 信心があれば、そこに御本尊が顕現される。信心なくば、どんなに御本尊を持っていても功徳はない。その「因果」が御書には厳しく説かれている。
5  唱題を重ねていくと、内なる仏性が、どんどん輝きわたっていく。我が生命に南無妙法蓮華経がしみわたっていく。自分自身が妙法の当体であることを確信し、覚知していける。そうした境涯を開けば、生きていること自体が楽しい。常楽である。力も出る。
 ″よし、広宣流布に進もう!″″よし、人を救っていこう″″仕事でもっと実証を示そう″と、ぐんぐん生命力がわく。「無限の希望」「無限の力」「無限の福徳」「無限の知恵」が輝く人生を、永遠に歩んでいける。
6  大切なのは「人間」である。人間への尊敬を教えたのが仏法であり、なかんずく大聖人の仏法である。その尊き「人間」を、事実の上で尊極そんごくの当体と輝かせるために、大聖人は忍難の御生涯を送られ、御本尊を建立してくださった。
 その御本尊を利用して、私腹をこやしたり、人間を、いわんや大切な皆さま方″広布の仏子″をいじめるなどというのは、大聖人とまったく正反対の所業である。
 創価学会は、大聖人の仰せの通り、「御本尊根本」で、そして「人間主義」でいく。お一人お一人を尊重し、大切にしていく。
 牧口先生、戸田先生は中国の人々をも多大に苦しめた日本の軍国主義と戦って、牢に入られた。牧口先生は獄死なされた。学会こそが、大聖人の「正法」を守り抜いたのである。「権威の宗教」と「人間のための宗教」と。その差は、あまりにも明白である。
 最後に、九州創価学会の皆さまの、いよいよのご多幸とご活躍、そして香港SGIの皆さまの、いっそうのご繁栄と福徳をお祈りし、「万歳」また「万歳」と申し上げて、祝福のスピーチとしたい。

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