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日蓮大聖人・池田大作

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インド創価学会「2・16」記念勤行会 月氏の空に幸福の大音声

1992.2.16 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

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1  御生誕七百七十年を慶祝
 本日は大聖人御聖誕七百七十年、まことにおめでとうございます。(一二二二年の御聖誕)
 仏法上、釈尊の御入滅は二月十五日、大聖人の御聖誕は二月十六日と、まことに不思議なリズムとなっている。こうして大聖人の御聖誕の日を、ほかならぬインドの皆さまとご一緒にお祝いでき、私も感無量である。広宣流布の歴史に永遠に輝くであろう意義深き勤行会となった。
 初めに、この記念勤行会に、秋谷会長、森田理事長ならびに全国の副会長・県(区)長・婦人部長をはじめ日本の同志から「どうかインドの皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えください」との伝言を託されたので、お伝えさせていただく。
 また交流団で、皆さまに大変お世話になった青年部一同からも、このたびのインド青年部の素晴らしい大活躍、そして、「学生部」「高等部」「未来部」の誕生に、心からの祝福の声が寄せられている。
 大聖人は、皆の幸福を願われた。だから、皆が喜ぶことを、大聖人も喜んでくださる。
 皆が「ああ、ほっとする」「何と楽しいのか」と言えるようにしていくのが指導者の役目である。皆を喜ばせれば、自分も幸せになる。大聖人が喜んでくださる。諸仏も歓喜する。福運が広がっていく。
 仏法は、人を、きゅうくつにしたり、苦しめるものではない。人を和やかに、楽しくさせるものなのである。
2  <質問会>伸び伸びと「自体顕照」の光を社会へ
 きょうは、若干の時間を、質問会にあてたい。自由に何でも聞き合い、語り合っていくのが、釈尊以来の仏法の伝統である。その伝統は、学会の世界に生き生きと脈打っている。(以下、質問と答えの要旨)
3  自分だけ会合に参加できたが
 <きょうは記念勤行会に参加でき、私は本当にうれしい。しかし家に帰ると、妻が「あなただけ参加して、私は出れなかった」と私を叱るでしょう。どう答えればいいでしょうか>
 帰ったら、奥さまに最敬礼して、「お前のおかげで行ってこれたよ。SGI会長もよろしくと言っていたよ」と、優しく言ってあげてください。
 勤行会では、参加者のご家族、一族、先祖代々の安穏までご祈念しました。もちろん奥さまの幸福も祈りました。会合は代表参加ですが、「代表」というのは「全員」に通じる意義があるのです。
 たまには、玄関を入ったら、すぐに「愛しているよ」と声をかけることです。
4  実践がなかなかできない
 <SGIの指導として、「雄弁」や「知性」「慈愛」などが目標に挙げられていますが、自分はなかなか実行できません>
 ありのままの自分でよいのです。題目をあげきりながら、自分らしく、伸び伸びと進んでいけばよいのです。自体顕照じたいけんしょうです。本来の自分自身を輝かせていくのが大聖人の仏法です。そうでなければ、偽善ぎぜん者になってしまう。
 人間革命への努力は、当然必要ですが、つくられた「雄弁」や、つくられた「慈愛」、見せかけの「知性」など必要ありません。
 日々、題目をあげて、皆の幸せを祈っていく。また、できる限り人に親切にし、優しくし、自分の人格を磨いていく。そうした努力を重ねることは大切でしょう。
 しかし、なかなか奥さんも大事にできないのに、他人を大事にできるわけがない。「慈悲」なんか、なかなか出るものではありません。このことは戸田先生も、よく言われていた。
 ありのままの「凡夫」そのもので進んでいく。題目根本に、少しずつでも向上していく。これが正しい姿であり、人間らしい生き方ではないでしょうか。仏法は無理のない、万人に開かれた大法なのです。
5  謙虚な人とは
 <どうすれば傲慢ごうまんでなく謙虚けんきょな自分になれるのでしょうか>
 傲慢な人は、そんな質問しません。また傲慢といい、謙虚といっても、対象によって、善悪は変わってくる。悪に対しては、傲慢に見えるくらいの強さで、御書に仰せの通り、あやまちをただし、攻撃し追撃しなければならない。それが正義であり勇者であり、そこに本当の謙虚さもある。
 根本は「法」と「真理」に対する謙虚さです。信仰の道については、どこまでも謙虚に、いよいよの求道心で進んだほうが得です。求めれば求めるほど、自分が福運をつける。強くなる。幸福になる。
 だから、悪人は見破らなければいけないが、信仰の心は素直に、また広宣流布の組織からは決して離れないでいってください。その人は、もう一番、謙虚な、一番、正しい軌道の人なのです。その人のことを、傲慢などと言うなら、言うほうが傲慢です。堂々と胸を張って、まっすぐに進んでください。
6  女子部が結婚のためいなくなる
 <せっかく育てた女子部員が、次々に結婚して、地域から女子部がいなくなってしまうのですが>
 おめでたい話ではないですか。自分の地域は、女子部よりも、もっと円熟えんじゅくした、安心できる、お金もある年配者に恵まれているんだと″誇り″をもっていけばよいのです。
 お子さんは、いますか。(ハイ。三歳半の娘がいます)女子部じゃないですか。ともあれ、一切を前向きにとらえ、自分の地域らしく、くよくよと悩まないで、心豊かに祈っていくことです。地域に福運がついてきます。すべて、一番ふさわしい軌道に入っていきます。
7  目に光をとりもどすには
 <右目が部分的に光を失ってしまいました。光を取り戻すための特別な祈りがありますか>
 婦人作家の方ですね。(ハイ)。よく存じ上げています。読みに読み、書きに書いて、目を使われたのでしょう。どんな機械でも、使っていけばいたみや故障が出てくる。それが自然です。人間の体も、年とともに、さまざまな故障も出てくる。それは本有ほんぬの病気であり、自然なことなのです。
 特別な祈りというのは、ありません。光が戻るように、いよいよ存分に仕事ができ、広布に生き抜いていけるように、真剣な一念で祈ることです。結果として、生理的に目がどうなるかは、さまざまな場合があります。しかし絶対に、確実に言えることは、必ず「心眼」が開いていくということです。ぱっと見て、本質が手にとるようにわかる「心の眼」が輝いてくる。
 視力が完全でも、ものが全然、見えてない人もいる。さかさまに見ている人もいる。森羅万象しんらばんしょうを、ありのままに如実知見にょじつちけんする眼が開けば、これ以上の光はありません。
 戸田先生も、視力は〇・〇一。けれども、それは鋭く、何もかも見ぬかれていた。仏法以外の人でもヘレン・ケラー女史などは、健常の人以上に深く、ものごとを見たといわれる。
 御書には、目を太陽と月になぞらえた文(「眼は日月に法とり」<妙楽の『止観輔行伝口決』>)が引かれている。日月は雲がかかれば見えない。しかし、雲を突き抜けた高みには、常に日月は輝いている。その境涯が心眼です。一念の妙用みょうゆうです。「妙」は″不可思議″の意味であり、根本的には、必ず祈りはかなっていくのです。
8  病院をつくらない理由
 <創価学会は、どうして病院をつくらないのでしょうか>
 戸田先生の遺言なのです。学会は、どこまでも信心の団体であり、文化・平和・教育の展開でいくのである、と。
 日本のある識者も、この点を高く評価されていました。つまり、世間には自前の病院を持っている宗教教団もある。しかし本来、宗教の使命とは、どこまでも内なる″精神の次元″から、人間を救っていくところにあるはずだ。人間が「希望」を胸に生き抜いていくための″精神闘争″″生命闘争″を教えるべきである。
 それが、精神的な教えを説く一方で、病院を建て、金をもうけ、民衆を内面から救っていけない自分たちの無力さをごまかしている。こんな欺瞞ぎまんはない。宗教者としての根本の使命を忘れた堕落だらくではないかと、言われておりました。
 そもそも、生理的な面での病気の治療は、基本的には技術の次元であり、正法の団体だから特別の治療ができるというものでもない。ゆえに必要があれば、その都度、信頼できる病院に行けばよいのです。自前で病院まで持ったら、信仰の世界を、いたずらに複雑にしかねません。
 学会は、もっと根本的に人類をいやしていく「生命の病院」といえるでしょう。我々は、我々らしく、この無上の道を行けばよいのです。
9  同志に嫌いな人がいる
 <信仰している人に対して、どうしても好きになれない等と思うのは、謗法ほうぼうになるのでしょうか(女子部員)>
 なりません。嫌いな人は嫌い、合わない人は合わない、それは人間の自然です。そのことによって妙法や広布の組織そのものを誹謗ひぼうするならともかく、そうでない限り、謗法ではありません。当然の人間性の表れです。
 むしろ、あなたのような美しい女子部員だと、邪心を抱く男子部員が出るかもしれない。その時は、はっきり大嫌いだと言って、「そんな変な人は学会から出ていってちょうだい!」と、やっつけてかまいません。そういう組織利用の人こそ謗法です。
 立場を使って、仏子を利用したり、いじめたりすることは大謗法です。その謗法に怒り、戦うことは正義です。仏法の世界は、本当の″人間性の世界″なのです。人間らしく、さらに人間らしく生き抜いていけばよいのです。
10  仕事に頑張ったが
 <「人の三倍働こう」と指導を聞き、その通りに頑張りましたが、上司や周囲は皆、適当にしか仕事せず、私一人が浮き上がってしまいました。どうすればよいでしょうか>
 本当にご苦労さま。努力は素晴らしいが、周囲に実証を示し、信頼を得るための努力が、まわりから異常視されていたのでは仕方がない。
 どうすれば信頼され、友情を深め、人間の輪を広げていけるか。それは国土によっても異なり、職場によっても異なる。五綱(教・機・時・国・教法流布の先後)をわきまえるのが賢者です。聡明そうめいに、良識と道理の上から、判断してください。
 時間の関係上、きょうは質問会はこのくらいにして、続きは次の機会にしたい。まだ質問のある方は、その時まで退転せず、元気でいていただきたい。
11  仏法に「グローバル意識」の魂
 本日の記念として、何点かスピーチを残しておきたい。
 大聖人は有名な「報恩抄」にこう仰せである。
 「日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり
 ──日本および中国・インド・全世界において仏法を深く理解している人も、そうでない人も差別なく、一人一人がみんな一緒に、他の教えを捨てて南無妙法蓮華経と唱えるべきです。このことはいまだ弘まっていません。全世界のなかで、釈尊がなくなってから二千二百二十五年の間、一人も唱えなかった。ただ日蓮一人が南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と声も惜しまずに唱えているのです──。
 この御書に照らし、今、「月氏がっし」(インド)の皆さまが唱える、すがすがしい希望の音声おんじょう、最高の幸福のリズムを、大聖人はどれほどお喜びであろうか。偉大なる先駆者であられる皆さま方お一人お一人が、月ごとに、年ごとに、ますます大いなる福徳で包まれゆくことは間違いない。
 とともに、この御書にも拝されるように、大聖人ほど、いわば、壮大なるグローバル(全地球的)意識を体現されている方はいない。その御境界は、全地球・全人類・全宇宙を包んでおられた。そして私ども一人一人も、我が心、内なる世界を限りなく広々と広げていけるのがこの仏法である。
 先ほど、私は、皆さま方を代表して「グローバル意識開拓賞」を受賞した。世界広宣流布も、人間のグローバルな意識を開拓しゆくものではないかと思う。その意味で、大聖人御聖誕の日に頂戴したことは、まことに意義があると思っている。
 ともあれ、今回の訪印は十二日にわたる日程でありながら、一番大切な皆さまときょうまで、十分に懇談の時間をとれず申し訳なく思っている。ただ、一家においてもお父さんは、なかなか家族と会えない場合がある。大切な家族を守るために外で一生懸命働いているからである。
 私もSGIの最高責任者として、大切な大切な仏子であられる皆さまをお守りするために必死である。死に物狂いである。皆さまにお会いしたい気持ちは、だれよりも私が一番である。どうか私のこの心情を賢察していただきたい。
12  釈尊は在家に「正法守護」の付嘱を
 大聖人は、こう仰せである。
 「仏陀すでに仏法を王法に付し給うしかればたとひ聖人・賢人なる智者なれども王にしたがはざれば仏法流布せず、或は後には流布すれども始めには必ず大難来る
 ──仏陀(釈尊)はすでに仏法を王法に付嘱ふぞくなされた。したがって、たとえ聖人・賢人である智者であっても、王に従わなければ仏法は流布しない。あるいは、後には流布するにしても初めには必ず大難が来る──。
 仏法で説く「守護しゅご付嘱」、すなわち仏が「出家」に対してではなく、社会のリーダーたる「在家」に法を付嘱して仏法を守護、弘通ぐづうせしめられた重大な意義を説かれている。
 この御書に仰せの「王法」「王」とは現代にあっては、現実社会のリーダー、根本的には民衆のことといえよう。
 社会に根を張り、社会に共感を広げていくことが、どれほど大切か。いかに仏法が正しいといっても、その国の社会のリーダーから理解もされず、また民衆から反発されてしまえば、絶対に弘めることはできない。また大弾圧を受けて壊滅かいめつさせられてしまう。
 もとより私一人が難を受けることなど少しも恐れない。憶病な妥協など絶対にしない。事実これまでも、大難また大難の連続であった。しかし、大切な仏子である皆さまを苦しめることだけは、絶対できない。皆さまが安心して、伸び伸びと進んでいけるようにお守りする。これが私の決心である。また、それが事実の上で「法」を守ることにも通じる。
 そして、社会に仏法への理解と共感が広がれば広がるほど、その国に人間性がうるおい、新たな活力が生まれ、福徳もぐんぐん増していく。国が栄えていく。
 今、私は御書の教えにのっとり、万年にわたる世界広宣流布の道を懸命に開いている。聡明そうめいなるインドの皆さまにはよくご理解いただけることと思う。また、要請にこたえて、さまざまな賞をお受けするのも、仏法への共鳴のあかしとして、皆さまに代わって受けているのである。
13  仏法の栄えは″信頼の一人″から
 大聖人御在世当時は、決して大勢の門下はいなかった。今のインド創価学会と同じといえよう。そうしたなかにあって、大聖人はこう仰せである。
 「強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ、あしき名さへ流すいわんやよき名をや何にいわんや法華経ゆへの名をや
 ──強盛な大信力を出して法華宗の四条金吾、四条金吾と鎌倉中の上下万人および日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい。人は悪名でさえ流すものだ。まして、よき名を流すのは当然である。まして法華経のゆえの名においてはいうまでもない──。
 また「中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心かりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ」──「四条金吾は主君の御ためにも、仏法の御ためにも、世間に対する心がけも立派である、立派である」と鎌倉の人々から言われるようになりなさい──と。
 一人一人が力ある存在として社会に実証を示し、信頼を勝ち取っていく──。このBSG(インド創価学会)の皆さまのいき方は絶対に正しいのである。
 数ではない。一人が社会で百人、千人分の存在と光っていく。大リーダーと育っていく。ここにこそ「仏法即社会」「信心即生活」の展開がある。悠々ゆうゆうと広布と人生の「王道」を進んでいただきたい。
14  境涯を広げれば、幸福も広がる
 また大聖人は四条金吾夫妻にこう仰せである。有名な御文である。
 「ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず(中略)苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへさせ給へ」──ただ世間の難が来ても取り合われないことである。賢人や聖人でも、難は逃れられない。(中略)苦を苦と悟り、楽を楽と開き、苦しくても楽しくても南無妙法蓮華経と唱え切っていきなさい──。
 人生は、だれびとたりとも悩みとの闘争である。その苦しみをも悠々と見おろしながら、我が胸中に永遠の崩れざる「幸福の都」を開いていくのがこの信心である。境涯を開けば幸福が開ける。境涯が広がれば幸福が広がるのである。
 大聖人は「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」──悩みや苦しみという薪を焼いて悟りの智の火が目の前に現れるのである──と仰せである。
 唱題はあらゆる苦しみをすべて希望の前進へのエネルギーへと転じていく。わかってみれば、悩みは、幸福に不可欠の糧でさえある。ゆえに、自ら目標の山をつくり、山を目指し、山を乗り越えていくのが真の信仰者なのである。
 また戸田先生はよく「皆、地涌じゆ菩薩ぼさつとして自ら願って、あえてそれぞれの境遇きょうぐうを背負ってきたのである。それは、その悩みを堂々と打開し、使命の人生を貫き、あとに続く人々に限りない希望と勇気を与えるためである」と指導された。
 リーダーである皆さま方もさまざまな課題を抱えているかもしれない。しかし、全部、深い意味がある。たじろがず、大確信の信心で、朗らかに進んでいただきたい。
 さらに大聖人は「この功徳は父母・祖父母・乃至無辺の衆生にも・をよぼしてん」──この功徳は、あなたの父母・祖父母、さらに無辺の衆生にも及んでいくでしょう──と仰せである。
 一人が本当の信心に立ち上がれば、一家も一族も、先祖も、皆、必ず救い切っていける。その一人になることである。その一人を大切に育てることである。
15  「霊山の一会は永遠」と確信
 あの見事なる文化祭──皆さま方の真心こもる″いざかん″の曲を戸田先生もきっと満面の笑顔で聞かれていたことと思う。戸田先生はかつてまれた。
 「君見れば わし深山みやまに遊びにし 昔ぞおもう ともに会い得て」
 (あなたを見ると、霊鷲山りょうじゅせんで共に遊んだ昔が思い出される。こうして再び共に会うことができて)
 私たちのえにしは、今世だけのものではない。久遠くおんよりの同志である。特にインドの皆さまとは不思議な縁を感ずる。私たちは法華経の霊山会りょうぜんえでの「広宣流布」という久遠の誓いを、ともに果たすために生まれた。自ら願って、それぞれの使命の舞台におどり出てきたのである。
 日淳上人が、かつて仰せのように、創価学会はまさしく「霊山りょうぜん一会いちえ儼然げんねん未散みさん」(霊山の一会厳然としていまだ散らず)の姿そのものの、崇高すうこうなる仏の集いである。
 どうか、この大切な久遠の同志と励まし合いながら、世界一仲の良いインド創価学会をつくっていただきたい。私もこれから何度も、大好きなインドの皆さまとお会いしに、訪問させていただきたい。新しい会館でお会いすることを、最大の楽しみにしている。
16  一、インドの有名な大叙事詩「ラーマーヤナ」の中に、こんな一節がある。
 「雲が慈雨をもたらし、太陽がやみをやぶり、月光が人の心をなごますように、き友は自然のうちに助けに訪れる」と。
 すなわち、天の運行のように友情の行動は自然に、また自発的になされ、友の心にうるおいを与え、明るさをもたらし、喜びを生むものである、と。
 友情の拡大が広布の拡大である。内外に多くの心通うきずなを広げていただきたい。
17  自由の理想郷へ頭を高く上げて
 貴国の詩聖・タゴールは″我が祖国がどのような理想郷を目指すべきか″について次のようにうたっている。
  心がおそれをいだかず、こうべ毅然きぜんと高くたもたれているところ
  知識が自由であるところ
  世界が狭い国家の壁でばらばらにひきかれていないところ
  言葉が真理の深みからづるところ
  たゆみない努力が完成に向かって両腕をさしのべるところ
  理性の清い流れが形骸化けいがいかした因習いんしゅうからびた砂漠の砂に吸いこまれ、道を失うことのないところ、
 そうした誇り高き「自由の天地」を目指して、心ひろびろと前進しよう。タゴールはこう呼びかけている。この詩は、先日お会いしたベンカタラマン大統領も、ご自身のスピーチで引用されていた。
 一節一節に「自由」への深い祈りの響きがある。インドには自ら「自由」を勝ち取った精神闘争の伝統がある。
 妙法こそ最も根本的にして、永遠の「自由」への源泉である。皆さまは頭を毅然と高くあげて、心おそれなく、伸び伸びと、人類の「自由の理想郷」建設へ、勇んで進んでいただきたい。
 年ごとに、希望あふれるインドである。決して、あせることなく、着実に、また確実に、悠久のガンジスの流れのごとく、一千年先、二千年先を見つめて、堂々と進んでいただきたい。
 大切な同志である皆さまの、ご幸福とご健康とご長寿をお祈り申し上げ、記念の集いを終わりたい。本当にお世話になりました。また、お会いしましょう!

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