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日蓮大聖人・池田大作

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インド広布三十一周年記念総会 ″五綱を知る″実践で世界広布

1992.2.9 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

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1  衆生を愛する戦い──まず両親を大切に
 昨日の大勝利の大文化祭に、重ねて、お祝いと御礼を申し上げたい。
 来賓の方々も本当に素晴らしいと驚いておられた。日本、世界の同志からも続々と祝福の声が寄せられている。
 心の深いリズムがあった。高い誇りのリズムがあった。生命の躍動のリズムがあった。インドの洋々たる明るい未来を象徴するような大文化祭であった。
 これも、皆さま方お一人お一人の祈りと行動、そして全員の団結の結晶である。本当におめでとう。ありがとう。
2  さて、そもそも釈尊が、なぜ法華経を説かれたのか。
 大聖人はある御書で、「父母の御孝養のため」と仰せである。
 すなわち、大恩ある両親に、今世だけではない、三世に崩れざる幸福を送るためにはどうすればよいか──そのために、法華経を説かれて、三世永遠の常楽の境涯を教えられたのである。皆さま方は、若くして最極の孝養の道を知ったのである。
 昨日、皆さまは、恩師・戸田先生の歌(「いざかん」)を見事に歌ってくださったが、戸田先生は青年にこう言われた。
 「衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得えとくする、人間革命の戦いである」と──。
 どうか、いつも笑顔で、ご両親に喜びを送りゆく青年であっていただきたい。
3  また、妙法で結ばれた親子のえにしは、生死を超えて永遠の希望に包まれる。
 大聖人のある門下は立派なお子さんを亡くしてしまった。姿も立派で、心も素直で賢い、素晴らしい息子であった。その悲しみを乗り越え、真っすぐに、信仰を貫いた。その、けなげなる母に、大聖人はこう仰せである。
 「ただごとにあらずひとへに釈迦仏の入り替らせ給へるか、又をくれさせ給ひける御君達の御仏にならせ給いて父母を導かんために御心に入り替らせ給へるか
 ──(あなたの信心の素晴らしさは)ただごとではありません。ひとえに釈仏が、あなたの身に入り替わられたのでしょうか。または、亡くなられたご子息が仏になられて、父母を仏道に導くために、あなたの心に入り替わられたのでしょうか──。
 亡くなった息子さんの成仏は、絶対に間違いありません。そして、いつも、あなたと一緒ですよ。一緒に、「永遠の幸福の道」を歩んでいるのですよ。──大聖人の御慈愛が、染み入るように伝わってくる。
 ともに幸福へ、ともに成仏へ──妙法の世界は何があっても、永遠に希望、永遠に繁栄の世界なのである。
4  さて大聖人は、こう仰せである。
 「日輪・東方の空に出でさせ給へば南浮の空・皆明かなり大光を備へ給へる故なり
 ──太陽が東の空に昇られれば、南閻浮提なんえんぶだい(全世界)の空は皆、明るくなる。それは、太陽が大光を備えられているからである──。
 これは、題目の限りない力用りきゆうをたとえられた御文である。
 太陽は毎日、昇る。そして地球の全地表を照らし、全人類を照らす。皆さまも毎日、妙法を唱えておられる。その大光は家庭を明るく照らす。さらに、一族へ、社会へ幸福の光を送り、導いていく。
 どうか、この希望の日輪を、さらに赫々かっかくと輝かせながら、偉大にして高貴なる「魂の勝利の歴史」をつづっていただきたい。
5  「宗教の五綱」は正法流布の規範
 本日は、「宗教の五綱」について、少々、お話ししておきたい。
 言うまでもなく、日蓮大聖人の仏法は「世界宗教」である。必ず、全世界にひろまり人類を救っていく。このことは、大聖人御自身が明確に断言しておられる。
 例(たと)えば大聖人は「大集経の白法隠没の時に次いで法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」──大集経に予言された、末法に入って釈尊の正法の功徳が失われた時の次に、法華経の大白法、日蓮大聖人の仏法が、日本国ならびに全世界に広宣流布することも、疑いないのである──と仰せになっておられる。
 そして、大聖人は、世界に正法を流布していくために心得るべき規範きはんを明かされている。それが、教・機・時・国・教法流布の先後という五つの具体的な要件であり、これを「五綱」とも「五義」ともいう。これらを弘法ぐほうの「人」がわきまえてこそ正法流布が現実となるのである。
6  教・機・時を知る
 第一に、「教」を知る──大聖人の仏法こそ現代と未来を、永遠に救いゆく教えであると知ることである。
 そのためにも、大聖人の仏法とはいかなるものか、他の宗教と比較して、いかに勝れているかを、法理のうえで、また体験のうえから知ることが力となる。
 正しい信仰は、盲信もうしん迷信めいしんではない。道理のうえから納得でき、しかも事実の生活の中で体験し、実証できるものである。
 御書をしっかり学ぶとともに体験によって、いよいよ確信を深めながら、法の正しさを訴えていってこそ、いかなる環境の中でも、正法は流布していくのである。
 第二に、衆生の「機根」を知る必要がある。
 「機」すなわち、人々の生命の中にひそんでいる、正法を受け入れる可能性を知らねばならない。
 末法の人類は、大聖人の仏法によってこそ成仏できる「機」であると知ることである。
 ただし、法を聞いても、その人がすぐに入信するとは限らないことは言うまでもない。場合によっては、激しく反対されたり、批判されることもあるだろう。
 しかし、正法を聞かせた「聞法もんぽう下種」の功徳は、友人が入信を決意した場合の「発心ほっしん下種」の功徳と同じである。
 また、「仏」になる″種子″を、友の″心の田″に植えつけたのだから、いつかは必ず「信心」が芽生めばえることを確信して、広い心で、あせらずに、悠々と、着実に、多くの人々の幸福を祈っていっていただきたい。
 第三に、「時」を知る──。今がいかなる教えによって人々が救われる時かを知ることである。
 仏法上、現在は「末法」という時に当たる。過去の正法がいかにその当時、力を持っていたとしても、今は「去年のカレンダー」のようなものである。この「時」を知ることが「五綱」のなかでも特に肝要となる。
7  国を知る
 第四に、「国」を知ることである。
 大聖人は、仰せである。
 「仏教は必ず国に依つて之を弘むべし国には寒国・熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国・一向偸盗国・一向殺生国・一向不孝国等之有り、又一向小乗の国・一向大乗の国・大小兼学の国も之有り
 ──仏教は必ずその国に応じて法を弘めるべきである。国には寒い国と熱い国、貧しい国と富める国、世界の中心的な国と周辺的な国、大国と小国、盗賊ばかりの国、殺生者ばかりの国、不孝者ばかりの国などがある。また、小乗だけの国、大乗だけの国、大乗と小乗を兼ねて学ぶ国もある──と。
 ″国の違い″を、いろいろな観点から挙げられている。熱い国か寒い国か、気象条件によってとらえる見方もある。貧しい国か富める国か、経済状況によってとらえる見方もある。多くの国に影響を与えていく国(中国)か、影響を受けていくほうの国(辺国)なのか、これは文化的側面の違い。大国か、小国かは、国力の差といえる。また、所有の観念が強くないためか、盗みが横行している国。生命が軽視され、殺人や傷害が日常化しているような国。親子の絆がうすく、親への孝行など見られない国。このように道徳観念や風習の違いによる見方もある。
 こうした、気候や経済、文化、国際関係、道徳観などの違いに応じて、その国の人々の考え方や生き方も異なるので、そこへの弘教の在り方も異なってくる。
 仏法は、どこまでも現実に即した教えである。現地の人を最大に大切にする。決して一国だけの風習や考え方を押しつけてはならない。それは大聖人の仏法ではない。
 末法の正法である大聖人の教えを等しく奉じながら、SGI(創価学会インタナショナル)は、それぞれの国情に応じて、知恵を発揮し、賢明に、地域・国家に貢献しつつ、周囲の信頼と納得を得てきた。それが「国」を知ることになるからである。
 ゆえに、ここまで弘まったのである。簡単なことではない。具体的な「人」の具体的な「行動」こそが決め手である。
8  教法流布の先後を知る
 第五に、「教法流布の先後」を知らねばならない。
 大聖人は「必ず先に弘まれる法を知つて後の法を弘むべし」──必ず、先にその国に弘まった法を知って、後の法を弘めるべきである──と仰せである。
 仏法を弘めるためには、その国に、これまで、いかなる教えが流布されてきたかを知って、これまで流布した法よりも、勝れた教えを弘めなければ人々を救うことはできない。
 大聖人の仏法は、最高にして究極の教えであるゆえに、以前に弘まった教えがいかなるものであれ、その順序を誤る恐れはまったくないのである。
 日寛にちかん上人は「今末法においまさただ要法ようぼう弘通ぐづうすべきなり。くの如く知るをすなわこれ教法流布の前後を知るとうなり」(依義判文抄)──今、末法においては、まさにただ、大聖人の五字七字の妙法を弘通すべきなのである。このように知ることを、すなわち、教法流布の先後を知るというのである──と教えられている。
 その上で、その国と地域のこれまでの宗教的歴史を知ることは、当然、重要になってこよう。
 このように、世界のあらゆる国において、大聖人の仏法が、教・機・時・国・教法流布の先後の、すべての条件がそろって、必ず流布していくことは間違いない。
9  御書には「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」と仰せである。
 大聖人の仏法を御予言通り世界に弘めたのはSGIである。百カ国をはるかに超える国々に、続々とSGIの地涌の友が生まれ、功徳を満喫しながら、地域に貢献しつつ広布を進めている。この現実自体が、SGIが大聖人の仰せ通り、宗教の五綱をわきまえて、正しい軌道で進んできた証左である。
 一方、現宗門は五綱に外れており、ゆえに少しも弘教できなかったのである。
 今回、その宗門が、仏勅ぶっちょくの創価学会を「破門」にしたが、私どもにとっては、本格的な世界広布への道が開ける「開門かいもん」となったと受け止めたい。狭く冷たい、閉鎖された宗門の港から錨を抜いて、広く自由な、世界の大海へ船出する″出港″ができた。新たな壮大な旅立ちをしたのである。
10  御本仏の大慈悲は一切衆生に平等
 末法の御本仏・日蓮大聖人の大慈悲は、一切衆生に平等に注がれている。国や民族によって差別があるはずもない。日本だけとか特別の立場の人だけに大きな功徳があるなどということも、まったくない。大切なことは、「信心」があるかないか、御本仏の御心に適(かな)うかどうか、なのである。
 日亨上人は「御本仏の上には四条さん(四条金吾)もない、富木さん(富木常忍)もない。波木井はきりさん(波木井実長)も南条さん(南条時光)もない。皆あわれむべき末世の衆生のみである。又悪むべき平左衛門頼綱もない、少輔房しょうぼうもない、極楽寺殿(北条重時)もない、最明寺殿(北条時頼)もない、皆気の毒なる末法の迷子ばかりである。是が本仏の平等見びょうどうけんである」と述べられている。
 信徒を代表する立場にあった四条金吾や、富木常忍も、また無名の熱原の信徒も、大聖人の目から御覧になれば、ともに愛すべき末法の衆生であり、門下のだれかを特別視したり、えこひいきされるようなことは絶対になかった、と。
 さらに、大聖人を迫害した平左衛門尉などの権力者たちでさえも、御本仏の大慈悲の目からみれば、憐れみ、救うべき、末法の迷える衆生の一人にすぎなかった、と仰せである。
 佐渡御流罪中に、大聖人は「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん、我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん」──願わくは、私を迫害した国主等を、まず最初に導いてあげよう。私を助けてくれた弟子たちのことは、釈尊に申し上げよう──と仰せになっている。
 御本仏には、一切衆生──全人類をことごとく救って成仏させたい、という慈悲の御心しかないのである。
 太陽は平等である。全地表の生命を照らす。人類の太陽であられる御本仏の大慈悲の光も世界のすべての人々の上に、平等に注がれている。いわんや仏の御使いとして、苦悩の友を救おうと広布に励む、地涌の先駆の皆さまの信心は、即座に御本仏の御心に通じ、三世にわたる福運が積まれていることを確信していただきたい。
11  戸田先生は「慈悲論」の中で述べられている。
 「困った人々に物をやり、金を与えることが慈悲ではないのである。物の布施には限りがある。与えるほうにも限度があり、もらったほうにも、その効用には限りがある」
 「真の仏法の法、偉大な日蓮大聖人の真の教えである正法を与えるなら、与えるほうも大聖人の教えを伝えるだけであるから無限であり、与えられたほうも、生命の源泉に清浄な生命力を植えつけられるのであるから、無限の活動力が生じて、新進の人生が開拓できるのである。これこそ真の慈悲と称すべきであって、われわれの慈悲はこれである」と。
 この偉大なる国・インドで「広布」と「社会貢献」の歩みを重ねる皆さまは、尊貴なる仏の使いであられる。不思議なる地涌出現の方々であられる。どうか、無限の希望を抱き、その希望を実現しながら、朗らかに、勇んで、私とともに、世界広布の新時代を開いていただきたい。
 最後に、敬愛するインドの同志の皆さまのいよいよの「幸福」と「ご健康」を心からお祈り申し上げ、記念のスピーチとしたい。

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