Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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広布三十一周年記念タイ総会 誠実の人格に人々は集う

1992.2.5 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

前後
2  四年前にチャオプラヤー川のほとりに行ってタイの代表の皆さまと親しく懇談した。終生、忘れ得ぬ光景である。タイには、こんな美しい言葉がある。
 「どこかにすずやかな河が流れていれば、旅人たちが必ず寄ってくる。彼らは河のほとりで水をびたり、飲んだり、安心してくつろぎ、楽しむ。誠実な良き人はこの川のようである。良き人を疑ったり警戒する者はいない。皆、仲よく友だちになりたいと願う。良き人は楽しみ(利)を与え、苦しみ(害)は与えないからだ」(詩人タパニー・ナーコンタップの言葉)
 わが敬愛するタイの友は、この涼やかな大河のごとき、素晴らしい人格の方ばかりである。私は、これからも何度もタイ王国を訪れて皆さまにお会いしたいと願っている。
 ともあれ人格の力は大きい。仏教も、一次元からいえば、釈尊が本当に「良き人」だったからこそ、あらゆる人々が慕い、集まり、そして広まったといえるのではないだろうか。いくら立派な法を説いても、仮に釈尊が悪い人、不誠実な人であったならば、だれも寄りつかない。仏教も広まらなかったであろう。
 私どもの広宣流布運動は、一人一人が人間として限りなく人格を磨き、鍛えあっていく──その連帯でもある。どうか、タイのSGIの方々はさらに「人格」を磨きつつ、チャオプラヤー川の流れのごとく、タイの人々に限りない「安らぎ」と「潤い」を贈りゆく″希望の大河″となっていただきたい。
3  功徳は距離でなく「信心」で決まる
 タイの格言に「カエルは池の華の下に生まれ、住んでいる。しかし華の花のみつの味はまったく知らない。ハチは一由旬ゆじゅん(一説には約十六キロメートル)ほど遠くに住んでいても、飛んできて、華の花の蜜を味わっている」とあるとうかがった。
 これは、人間社会にもよく見られる構図である。
 一体、だれが幸福か。それは環境だけでは絶対に決まらない。いな、どんな境遇にあろうとも、どんな立場であろうとも、この人生を最大に味わい楽しみきっていく──。そうした自身の境涯を開くのが仏法であり、信仰である。
 とともに、次元は異なるが、偉大なる御本尊の功力くりきは、物理的距離などに左右されるものでは絶対にない。
 どんなに御本尊の近くにいても「信心」がなくなり、狂ってしまえば、もはや、まったく功徳はない。反対に、仮にどんなに離れていても「信心」があれば功徳は無限である。皆さま方はさらに、その偉大な実証を示していっていただきたい。
 大聖人は「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」──この御本尊もただ信心の二字におさまっているのです──と明快に仰せである。御本尊は決して遠くにあるのではないと。どこまでも「信心」こそが根本である。信心さえあれば何も心配することはないのである。
4  「胸中に浄土」を悟るのが仏
 大聖人は夫を亡くした南条時光のお母さんを抱きかかえるように、こう励ましてくださっている。
 「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ
 ──そもそも浄土といっても地獄といっても外にあるのではありません。ただ我らの胸中にあるのです。これを悟るのを「仏」といい、これに迷うのを「凡夫」といいます。これを悟るのが法華経です。したがって法華経をたもちたてまつる者は地獄即寂光(苦しみの地獄の国土が即、福徳と歓喜の寂光土となる)と悟ることができるのです──。
 どんなに苦しい悩みの生活であり、現実世界であっても、同志とともに、友と一緒に、妙法を唱え、広宣流布という「無上道」を進みゆく私どもの胸中には、永遠に希望の太陽が昇る。明るい青空が広がっている。未来への虹が輝いている。
 どうか、この愛するタイ王国を、さらに「黄金の常楽の天地」としていくために、朗らかに、また朗らかに、仲良く、また仲良く前進していっていただきたい。
 大切にして尊き皆さま方の、ますますのご多幸とご活躍をお祈りし、本日の祝福のスピーチとさせていただく。

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