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日蓮大聖人・池田大作

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全国青年部幹部会、新宿・港合同総会 「精神の交流」「哲学の対話」を世界へ

1992.1.15 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

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1  青年の集い、新成人を祝う
 「若き求道者」たる全国の青年部の皆さん、そして本日晴れて「成人の日」を迎えられた皆さん、おめでとう!
 また、きょうは「新宿の日」でもある。東京一を誇る本陣の皆さま、おめでとう。私も″新宿の一員″として、今後も全力で応援したい。そして港区も、新宿に追い付くような勢いで発展しており、晴れの合同総会を心から祝福したい。
 さらに東北の岩手からも代表がこの会場に集われた。遠いところ、ようこそ!
 また地元では、岩手文化会館をはじめ十一会館にも多くのメンバーが参加されており、寒いなか本当にご苦労さまです。岩手、万歳!
 また、この会場には海外十二カ国・地域の友、沖縄研修道場にはアジアの代表が集われており、心から歓迎申し上げたい。
2  さらに関西文化会館には、世界的ジャズ・ミュージシャンでギタリストのラリー・コリエルさん、ドラマーのケンウッド・デナードさん、クリスチーヌ・カンダースさんが参加されている。
 この三人の方々は昨日、関西創価学園ならびに関西創価小学校を訪問され、コリエルさんとデナードさんが素晴らしいジャズ演奏をプレゼントしてくださった。世界的音楽家が生演奏──こんな素晴らしい学校はないと、学園生から喜びの声が、さっそく寄せられている。創立者として、心からお礼申し上げたい。サンキュー・ベリー・マッチ!
 コリエルさんは、一九八六年(昭和六十一年)に名古屋、翌八七年(同六十二年)に北九州で行われた「世界青年平和文化祭」に、ハービー・ハンコック、大野俊三、ウエイン・ショーター、バスター・ウィリアムスの各氏らとともにバンド「スーパーサウンズ」を組んで名演奏をしてくださった。ジャズ・ギタリストとして世界で活躍するスーパー・スターである。
 またデナードさんは、両耳が難聴なんちょうというハンディをもちながらも、他の演奏者の動きを見ながら、息の合った演奏ができる素晴らしいドラマーである。こうした世界のスターたちの来訪を歓迎し、全国の皆さまに紹介させていただく。
3  世界は精神性の光を求める
 本日は、大切な後継の諸君の集いである。私は、本年の諸君の活躍を信じる。ゆえに、諸君への強き期待を込めて、きょうも語っておきたい。
 アメリカのハーバード大学での私の講演(昨年九月二十六日、テーマは「ソフト・パワーの時代と哲学──新たな日米関係を開くために」)に参加された、同大学のハービー・コックス教授から、先日もお手紙をいただいた。
 コックス教授は、世界最高峰のハーバード大学の中でも宗教学研究の第一人者として知られる。アメリカを代表する世界的学者である。教授は私の講演に深く賛同してくださり、これまでも共感の声を寄せてくださっている。諸君の何らかの糧になればと思い、世界の知性の言葉をそのまま紹介させていただきたい。
 教授は、私が講演の中で、十九世紀のフランスの歴史家・トクヴィルによるアメリカの民主精神の分析に言及したことを評価され、このようにつづっておられる。
 「この講演は、私自身に次のような真摯しんしな反省を起こさせることになりました。それは、もしトクヴィルが一九九二年のアメリカを再び訪れたならば、彼は現在のアメリカに(十九世紀のアメリカと)同様な精神的基礎を見いだしえたであろうか、ということです。
 私は、トクヴィルはそれを見いだしえなかったであろうと恐れています。それに代わって、あの内発的精神への理解をすでに失い、いずれ不幸な結果を直視せざるをえないであろうアメリカを、彼は発見していたかもしれません」──と。
 実に真摯な言葉である。一流の人は常に謙虚である。未来を真剣に思う教授の″真情の言葉″に、私は胸を打たれた。
4  さらに教授は講演について、「聞きながら、アメリカ人と日本人は、語り合うべき多くをもち、深いレベルで分かち合うべき多くをもっていると感じました」。
 「今日、アメリカ人も日本人も、それぞれの歴史的経過の中で、重大なる岐路きろ辿たどり着いたように思われます。両国ともに、精神的よりどころを蘇生そせいさせる必要に迫られています。それなしでは方向性を失ってしまいます。
 恐らく、いまだかつてなかったほどに、今、私たち(アメリカ人と日本人)はお互いを必要としています。私たちは共通の特徴をもっています。両国とも経済的に強力です。そして精神的危機に直面しています」と。
 そして教授は、日米両国の精神の復興のために、私に対し「深い友情に基づく末永き対話を希望します」と結ばれていた。
 私も、まったく同じ思いである。
5  私がこれまでお会いしてきた各国、各界のリーダーの多くが、「現代を正しく導いていける精神的リーダーシップ」の必要性を語り、訴えておられた。
 そして、「その意味で、仏法の英知を基盤として、世界に深い精神性の光を広げているSGI(創価学会インタナショナル)に期待する」との熱い心のメッセージを多くいただいた。
 今月、日米首脳による両国の新時代への宣言が華々しく報道された。確かに政治や経済の面でのパートナーシップは重要である。そのうえで、日米関係を含め、より深い次元で人類の未来にとって大切なものは何か──。
 それは、こうした各界の指導者の声が示すように、「精神性の復興」である。今、私どもが進めている「精神の交流」「哲学の対話」こそ、時代を先取りした先駆の行動であり、世界の知性が期待する大事業である。
 激動の時代である。一面、人類の危機ともいえる。この変化を、どの方向にリードしていくか。
 学会の使命は、ますます世界の命運を決するものになっている。後継の諸君、どうか未来を頼みます!
6  エマーソン「死んだ形式は奴隷のためにある」
 ところで、ハーバード大学での講演では、アメリカ・ルネサンスのリーダーであった哲学者・エマーソン(一八〇三〜一八八二年)の言葉を紹介した。
 「私のうちに神を示すものが、私を力づける。私の外に神を示すものは、私を、いぼやこぶのように、小さなものとする」(『エマソン選集第』1,斎藤光訳、日本教文社)と。
 人間を根本としない形式主義、権威主義は、自分を、醜く、卑小なものにしてしまう。
 私どもの立場でいえば、御本尊を信ずる自身の中に「日蓮大聖人」の御生命がわいてくる。自身の生命にある尊極の「仏界」、己心の「本尊」を示すものが、「自分を力づけて」くれる。それが妙法であり、信心である。
 日寛上人は「観心本尊抄文段」の中で「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、祖聖人なり」(文段集五四八㌻)と述べられ、我々が御本尊を信受し唱題する意義は、大聖人の御境界を顕された一念三千の御本尊を、我が身に顕すことであることを示されている。この法理には、何の差別もない。
 また戸田第二代会長は、次のように語っている。
 「日蓮大聖人の御生命が南無妙法蓮華経でありますから、弟子たるわれわれの生命も同じく南無妙法蓮華経でありましょう。ですから『日女御前御返事』には、『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』。このようにおおせられているのであります」
 「われわれが信心すれば、日蓮大聖人様の所有の根本の力が、われわれの生命に感応して湧いてくるのです。われわれもやはり、ありのままの永遠真如しんにょの自分にかわるのです」
 エマーソンについては、コックス教授も、お手紙の中で、こう書いておられる。
 「エマーソンは、ハーバード大学神学部での有名な講演や、そのほかでも訴えていますが、『人間は外発的な権威、あるいは伝統のみで、漫然と宗教を受け入れるべきではない』と主張しました。
 精神的な方向づけは、すべての人間に不可欠のものではあります。しかし、人間は自らの体験により、それを検証し、自己のものとしなければなりません」と。
 すなわち、宗教とは、権威や伝統、形式といった″自分の外にあるもの″からのみ、与えられたものであってはならない。常に自身の「体験」の上から、「信じられるのか」「正しいのか」を検証しなければならない、というのである。
 学会の「体験談」「実験証明」を中心にした在り方が、いかに正しいかの一つの証明である。
7  エマーソンは、権威と伝統で人々を縛り、見下す既成宗教を「死んだ形式」と断じ、痛烈に批判した。また、こう述べている。「われわれは『教会』と『魂』とを対照させた。魂のなかに救いを求めなくてはならない。(真の)人間が現わるところには、必ず革命がおこる。古いものは、奴隷のためにある」(前掲書)と。
 「奴隷」とは、隷属れいぞくの境遇に自ら甘んじ、自分で考えることも、自分で検証することもなく、権威に支配されるに任せている人々のことであろう。伝統を誇るだけの「古い権威」「死んだ形式」に盲従もうじゅうすることは、精神の奴隷となるに等しいと警告しているのである。
 かつて日亨上人は、人々を見下し、食いものにし、隷属させゆく悪侶の本性を「毒蛇」であると述べられた。また、戸田先生は、学会を裏切り、反逆していく者は「心の奴隷」であると厳しく戒められていた。
 私どもは、どこまでも真の「人間」でなければならない。そして真の「人間」であろうとする時、宗教革命、社会革命による人間解放は必然となるのである。
8  エマソンはさらに、こうも語る。
 「世界で価値のあるただ一つのものは、能動的な魂です。あらゆる人は、この魂を持つ権利を与えられています。あらゆる人は、この魂を自らのうちに蔵しています」(前掲書)と。
 ″人々よ目覚めよ。権威を恐れるな。形だけの伝統にだまされるな。自らの活動的な魂、内面の魂を輝かせよ″──このエマソンの叫びは、宗教界に対する、鋭き弾劾だんがいであった。
 大事なのは「自分」である。自分の「生命」である。外にある御本尊も、我が″内なる″御本尊を顕すためにこそ大聖人が建立してくださったのである。
 我が身の″仏性″を顕すことが信心の最大事であり、本来、この″内面の魂″──尊極の生命を最大に輝かせていけるのが、大聖人の仏法である。そして、この妙法の根本精神を破壊し″外なる権威″で支配しようとする「死んだ形式」と、敢然と戦っているのが学会なのである。
 歴史は繰り返す。アメリカ・ルネサンスをもたらしたエマソンの獅子吼は、私どもの前進に、勇気の風を送ってくれている。今まさに、創価ルネサンスの時代!学会が叫ばざるをえない時が来たのである。
9  学会は″広宣流布ひとすじ″
 日蓮大聖人が佐渡に流罪されて二年になろうとする、文永十年(一二七三年)の七月──。それまでに、大聖人のもとには、さまざまな門下の声が届いていた。そのなかには、「どうして、まだ赦免しゃめんされないのか」といった、嘆きの声もあった。しかし大聖人は、そうした弱々しい心の門下を、強く励まされていた。
 富木常忍ときじょうにんへのお手紙(土木殿御返事)の中では、こう仰せである。
 「御勘気ゆりぬ事・御歎き候べからず候
 ──流罪がゆるされないことを、お嘆きになってはならない──と。
 厳しき戒めのお言葉である。″私の弟子ではないか。「妙法の英雄」ではないか。何があろうと、嘆くなかれ。驚くなかれ。たじろぐなかれ″──そうした大聖人の大確信の御心が、拝されてならない。
 何かが起こった──そこからが本当の戦いである。
 何があっても変わらない。ひとたび決めた「我が道」を行く。いかなる困難も、恐れず進む。それが信心であり、人生の究極である。戸田先生が常々言われていた、「学会精神」なのである。
10  そして大聖人は、「設い日蓮死生不定為りと雖も妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か」──たとえ日蓮の″生き死に″がどうであろうとも、妙法蓮華経の五字の流布は、疑いないであろう──と。
 大聖人は、御自身の生命さえ、問題にしておられない。まして、流罪が赦されようと赦されまいと、まったく問題にしておられない。
 大事なのは、「広宣流布」である。民衆一人一人を救い、幸福にすることである──大聖人の御心は、ただ、この一点にあられた。
 学会は、この御本仏の御心通り、″広宣流布ひとすじ″に進んできた。ゆえに強い。何ものにも紛動されないし、攪乱されない。そして、いつも「朗らか」である。
 先日もご紹介したが、ある識者も「これだけやられて、普通だったら全滅であり、分裂だろう。それなのに微動だにしていない」と驚くほどの、不思議なる前進、また前進──それが、我が創価学会なのである。
11  ″御書の行者″学会は御本仏の教団
 私どもは、常に御書を拝し、御書を仰ぐ。常に「大聖人根本」である。御本仏の″末法の経典″が基準である。それが大聖人の真の門下である。
 大聖人の仰せを根本としなければ、だれびとの言うことであろうと、すべて己義こぎであり、ウソである。仏法とは無縁の、自分勝手な作りごとにすぎない。
 さらに大聖人は、こう仰せである。
 「仏滅後二千二百二十余年今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず、当時果報を論ずれば恐らくは伝教・天台にも超え竜樹・天親にも勝れたるか、文理無くんば大慢あに之に過んや、章安大師天台を褒めて云く「天竺の大論尚其の類に非ず真旦の人師何ぞ労しく語るに及ばん此れ誇耀こように非ず法相の然らしむるのみ」等云云
 ──仏滅後二千二百二十余年の間、いまだに法華経寿量品文底もんていの仏と、肝要の妙法蓮華経の五字は流布していない。(その大法を流布している)現在の(私の)果報を論じるならば、おそらくは伝教大師や天台大師にも超え、竜樹や天親よりも優れているであろう。(みずからこう言うことは)文証・理証がなければ、これ以上の大慢心があろうか。(しかし、きちんと文証・理証の裏づけがあるゆえに少しも慢心ではない)
 章安大師は、(師の)天台大師をほめて「インドの大智度論だいちどろんでさえ、それ(天台の法門)に肩を並べるものではない。中国の人師の書など、どうして、わずらわしく語る必要があろうか。これは誇り、おごっているのではない。説かれた法理の内容が、そうさせるのである」等と言っている──と。
 「日蓮又復是くの如し竜樹天親等尚其の類に非ず等云云、此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ、故に天台大師日蓮を指して云く「後の五百歳遠く妙道に沾わん」等云云、伝教大師当世を恋いて云く「末法太はだ近きに有り」等云云、幸いなるかな我が身「数数見擯出」の文に当ること悦ばしいかな悦ばしいかな
 ──日蓮もまた、このとおりである。竜樹や天親等でさえ日蓮に肩を並べるものではない。これは誇り、おごっているのではない。法理の内容が、そうさせるのである。ゆえに天台大師は、日蓮を指して「後の五百歳(末法)に遠く妙法によって世は利益りやくされるであろう」と述べている。また伝教大師は、現在の(大聖人の)世をしたって「末法は非常に近くにある」と言っている。何と幸せなことであろう。我が身(大聖人)は「しばしば所を追われる」という経文に当てはまっている。なんと悦ばしいことであろう。なんと悦ばしいことであろう──。
 文証・理証を離れて仏法はない。「誇り、おごって言うのではない。法理の内容からの当然の主張なのである」と。これが、御本仏の御確信であられた。
12  御書にも法華経にもないことを言うのであれば、まさに「慢心」であろう。
 しかし、御書の通り、法華経の通りに実践する。経文の上から、道理の上から、「正義」を堂々と主張する──それは慢心でも何でもない。
 それを妬んで″破門″などする者こそ、大慢心であり、大増上慢なのである。それは″御書と経文を否定した″ことになるからだ。大聖人の厳しきお叱りは、絶対に免れない。
 御書に仰せの「一閻浮提いちえんぶだい広宣流布」を進めているのは、創価学会だけである。現実に、「立正安国」の行動を展開しているのも、我が学会だけである。仏法上、学会に肩を並べられる教団など、他に絶対にないと思う。
 私どもの戦いを、大聖人は、いかにお喜びか──学会こそ、いわば御本仏の教団である。宗教界の王者である。精神界の王者である。諸君は、尊き「創価の王者」なのである。ゆえに「王者」らしく勝ち抜いていただきたい。
13  先日も触れたが(一月十二日、鎌倉・湘南合同総会)、「諸法実相抄」には「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」、「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」と仰せである。
 大聖人の御遺命ごゆいめい通り、広宣流布へ向かって、自行化他じぎょうけたにわたって題目を唱えている──それが創価学会員である。御書と経文に照らして「地涌の菩薩」に決まっているのである。
 この「地涌の出現」を切り捨てるということは、地涌の菩薩の「上首じょうしゅ」(最高指導者)であられる御本仏・日蓮大聖人への大反逆である。宗門は大聖人に矢を放ったのである。仏法上、これ以上の極重罪ごくじゅうざいはない。
 ともあれ、いかなる困難も、学会が御書通りに進んでいるがゆえの難である。難があること自体、学会が「本物」であることの証なのである。これほどの喜びはないし、誉れはない。
 どうか諸君は、この確信で、これからも大聖人の仰せのままの「広宣流布」の大道を、胸を張って前進していただきたい。
14  獄中の牧口初代会長「心一つで地獄も楽しみ」
 昭和十九年(一九四四年)、牧口初代会長は、生涯最後のお正月を、東京拘置所のわずか三畳ほどの独房で迎えられた。
 板の間に、硬い畳がたった一枚敷いてあるだけ。暖房など、まったくない。もちろん御本尊も御安置できない。その獄中から、この一月、牧口先生は、何通かの便りをご家族に送られる。
 その中の、一月七日付の一通──。
 「貞子ちゃん私も無事に、こゝで七十四歳の新年をむかへました。こゝでお正月の三日間は、おもちも下さいましたし、ごちそうもありました。心配しないで留守をたのみます」
 (「貞子ちゃん」とあるのは、牧口先生の三男・洋三氏の夫人。洋三氏は、牧口先生が亡くなる直前、戦死)
 昭和十九年の新年──牧口先生は、数え年で七十四歳になられた。思えば、日目上人が国主諫暁こくしゅかんぎょうおもむかれる途上、御遷化ごせんげなされたのも、七十四歳であられた。牧口先生は、獄中の粗末な食事を「ごちそう」と表現されている。品数もなく、栄養もない、ひどい食生活であったろう。しかし、愚痴一つこぼされない。悠々たる、お姿であった。
15  さらに、先生は「大聖人様の佐渡の御苦しみをしのぶと何でもあません」と書かれている。
 獄中にあって、先生の「基準」は、大聖人の御法難であられた。流刑地の佐渡におられる大聖人のお姿を拝するならば、自らの獄中生活など大したことはないと──。私どもは、その先生の後継者である。皆さまも、どうか「同じ心」であっていただきたい。
 少々の難、少々の苦労があったとしても、どうして一喜一憂することがあろうか。それらは、いわば人類の業であり、永遠に、なくなることはない。また、生老病死の苦悩を離れて、人間も人生もないのである。
 何の苦労も、悩みも、悲しみもなく、過ぎ去っていくような人生は、あまりにもむなしく、愚である。生きがいもない。
 大聖人の仏法の極意は、煩悩即菩提。苦しみが大きいだけ、苦悩が深いだけ、悟りも喜びも大きいのである。
 少し後には、「御本尊様を一生けんめいに信じてれば次々に色々の故障(障害)がでて来るが皆なおります」と。
 信心を一生懸命に実践していると、障害として、″三障四魔″が競い起こってくる。しかし、微動だにすることなく、信心を貫いていけば、必ず乗り越えていける。変毒為薬できる。その大確信をつづっておられる。
 これが、一月七日付の私信である。
16  また牧口先生は、十日後の十七日付のお便りで、こうも記されている。
 「信仰を一心にするのが、この頃の仕事です。これさへして居れば、何の不安もない。心一つのおき所で、地獄に居ても安全です」(文中の「地獄」の二字は検閲を受けて、当時、削除された)
 二十六日付には、「心一つで地獄にも楽しみがあります」と。(この文も、検閲に触れ、十六字すべてが原文から削除された)
 冷たく、暗澹あんたんたる牢獄の「地獄」も、ただ「心一つ」で「何の不安もない」。「安全」であり、「楽しみ」があると。まさに「地獄即寂光」「煩悩即菩提」と御書に説かれるままの泰然自若たいぜんじじゃくとしたお心──。
 これが我が創価学会創立者の、偉大なる「信心」である。「境涯」である。大聖人の仏法を深く、身で読まれた方が、私どもの師匠なのである。
 この牧口先生のご苦労をしのべば、どんな苦労も大した難ではない。先生の後に続いていくことは、最大の誉れであることを深く確信したい。
17  「学ばずは卑し」
 さらに、一月十七日付の便りでは、牧口先生は「今が寒の頂上ですが、病気は直って無事です、心配しないてで下さい。本が一ばん楽しみです、ぞくぞく入れて下さい」と、本の″差し入れ″を頼まれている。
 先生は、どんな環境にあっても、少年時代から、生涯、最後の最後まで、勉強された。学び通された。
 亡くなる約一カ月前に出された最後の書簡(十月十三日付)には、「カントノ哲学ヲ精読シテ居ル」との一節が見える。身体の衰弱にもかかわらず、たゆむことなく勉学を続けられていた。
 その直後には、「百年前、及ビその後ノ学者共ガ、望ンデ、手ヲ着ケナイ『価値論』ヲ私ガ著ハシ、カモ上ハ法華経ノ信仰ニ結ビツケ、下、数千人ニ実証シタノヲ見テ、自分ナガラ驚イテ居ル。コレ故、三障四魔ガ紛起ふんきスルノハ当然デ、経文通リデス」と、″経文通り″″御書通り″の大確信を記されている。
 まさしく「学ばずはいやし」──学ばない人は卑しい人である、ということに通ずると思う。きょうは中等部の「結成記念日」であり、大切な諸君のために、このような話を申し上げた。
 我が中等部の皆さん、いらっしゃいますか?きょうだけは大いに遊んでください。
 きょうくらいは、できれば、ゆっくり友情を温めてほしいが、それはそれとして、勉強は絶対に大切である。勉強しなければ、自分が損をする。今は楽に見えても、社会に出てから、また結婚してから、後悔する。行き詰まる。勉強しない人、努力しない人で、偉くなった人は歴史上、一人もいない。
 「勉強した人」が偉い人である。「努力した人」が勝利の人である。どうか、牧口先生の後に続き、「学べ、また学べ」と、皆さんに申し上げておきたい。
 私も、この牧口先生のお心を知るゆえに、幼稚園から大学まで整備し、「教育」に全力を尽くしている。
 「教育」は全世界に通ずる「普遍性」がある。宗教だけでは、相手の心に警戒と壁をつくってしまいかねない。人類に貢献するという、こちらの真意を伝えることも困難である。心が伝わらなければ、何の実りもなく、かえって法を下げてしまう。
 要は「人間」である。現実に世界に通用する「人間」であるかどうか。世界広布といっても、そうした自分自身をつくるところに一切の″要″がある。その意味でも、勉強また勉強をお願いしたい。
18  戸田第二代会長「学会の創立者は″法華経の行者″」
 この牧口先生を、戸田先生は、「牧口先生」と題した一文の中で、こうたたえられた。
 「もし(牧口)先生が法華経の行者でなかったら、この運命(獄死)はありえないのです。されば、先生は、法華経のために身命をなげうったお方である、法華経に命をささげた、ご難の見本である。先生の死こそ、薬王菩薩の供養でなくて、なんの供養でありましょう。先生こそ、仏に『もろもろの中にいて、最尊最上』の供養をささげた善男子なり、とおほめにあずかるべき資格者である。愚人にほめらるるは智者の恥ずるところと大聖人のおことばを、つねに引用せられた先生は、ついに最上の大智者にこそほめられたのである」
 法華経の薬王菩薩本事品ほんじほんには、薬王菩薩が自分の身を焼いて、仏と法華経に供養したと賛嘆されている。正法のために生命を捧げた牧口先生の獄死は「薬王菩薩の供養」であり、「法華経の行者」であったゆえの「難の見本」だと戸田先生は叫ばれたのである。
 この尊き姿を見よ!眼を開いて仰ぐべきである!──と。
 末法の「法華経の行者」日蓮大聖人。その殉難の御生涯に、まっすぐに連なっているのが、牧口先生であり、我が創価学会なのである。
 法華経の行者、御書の行者、広宣流布の行者──。地涌の使命に立たなければ、私にしても難また難、悪口また悪口、迫害また迫害の今の人生とは大きく違っていたであろう。しかし、ひとたび立ち上がった以上、何があろうと、前へ進む以外にない。喜んで戦い抜くことである。
19  さらに戸田先生は、薬王品の「命終みょうじゅうの後に、また日月浄明徳仏にちがつじょうみょうとくぶつの国の中に生じて、浄徳王の家にいて、結跏趺坐けっかふざして忽然こつねん化生けしょう」との経文を引かれて、こう書かれている。
 「凡下ぼんげの身、ただ大聖人のおことばを信じて、この鏡(法華経の鏡)に照らしてみるならば、先生は法華経流布の国のなかの、もっとも徳清らかな王家に、王子として再誕さいたんせらるべきこと、かたく信じられるべきで、先生の死後の幸福は、吾人ごじんに何千、何万倍のことか、ただただ、おしあわせをことほぐばかりである」
 三世の生命観の上から、牧口先生の未来を論じられている。王子とは、広く現代的に言えば、あらゆる分野での大指導者、大長者の意義にも通じるかもしれない。
 広宣流布に身命を捧げきった人の来世の大境涯、大福徳は、絶対に約束されている。原理は諸君も同様である。ゆえに私も、難があればあるほど喜ぶ。未来の大果報を確信しきっている。
 そして、この一文を戸田先生は、次のように結ばれている。
 「先生の法難におどろいて先生を悪口した坊主どもよ、法を捨て、先生を捨てたるいくじなしどもよ。懺悔さんげ滅罪めつざいせんと欲すれば、われらが会(学会)にきたって先生の遺風いふうをあおぎ、仏のみ教えに随順ずいじゅんすべきであるぞ」
 「坊主どもよ」──先生の口の悪さといったら、私はとてもかなわない。悪侶に対しては、いつも「坊主」「坊主根性」と厳しく叱られていた。
 先生の怒りは激しかった。獄死した恩師・牧口先生は、日蓮正宗の悪侶に切られ、いじめ抜かれたのである。懺悔し、罪を滅する気があるならば、学会に来るべきである。学会には大聖人の御精神が脈々と流れているのだ。「仏のみ教え」に随順するつもりがあれば、学会で学ぶべきである──戸田先生の大確信であった。
 宗教は格好ではない。「人間」として、どうかである。どんなにいばってみても、どんなに権威をもっても、人道を踏みはずした「人間のクズ」では、どうしようもない。
 学会は牧口先生、戸田先生以来、大聖人直結であり、真の「人間の道」を行く。
 「仏法の長者」「創価の王者」「広宣流布の賢者」──諸君も、この栄光の道を威風堂々と進んでいただきたい。
 私どもが見ているのは、世界であり、宇宙である。万年先であり、永遠である。
 改めてお話しする機会があるかと思うが、御書には全世界を意味する「一閻浮提」「閻浮」「閻浮提」等の言葉が、何と二百カ所以上も用いられている。この事実が示すように、本来、大聖人の仏法は、「世界の宗教」であり、「全人類の大法」なのである。一民族や、いわんや一独裁者、一僧侶のためにあるのでは絶対にない。
20  広布の旅人よ! 君の琴を奏でよ
 最後に、インドの大詩人・タゴール(一八六一〜一九四一年)の詩を、ともに味わいたい。
 彼は、うたった。
   おお旅びとよ
   前進する旋律せんりつをうたい出せ
   そして君のことをかなでよ。
   広い海は岸を持たない──
   この喜びのおとづれが君の心を歓喜で踊らせるがいい。
   道を進む一歩一歩が涙と笑いとの花々を
   咲き出させるがいい。
   束縛そくばくされない君のために
   春の自由な南かぜが吹く
21  「前進する旋律」──″リズムで生活を、リズムで人生を″である。広布の戦いもまたリズムと勢いが大切となる。その根本は唱題であり、また、「長の大確信」である。
 「君の琴をかなでよ」「君の心を歓喜で踊らせるがいい」──奏でるのは自分自身である。踊るのは自分自身である。どう、幸せを感じていくかは、自分自身による。
 「涙と笑いとの花々」──涙もある。笑いもある。その花々が集まって、人生の道を飾る。妙法に生きる人の人生は「煩悩即菩提」で、波乱があればあるほど美しく咲く。
 この詩が書かれた時(一九一六年ごろ)、時代は戦乱(第一次世界大戦)に翻弄ほんろうされ、独立前の祖国の民衆は抑圧に泣いていた。
 だがタゴールは、希望を失わなかった。
 苦しみの冬は、必ず去る。幸福の春は、必ず訪れる。疑うな。信じるのだ!一歩また一歩と、我が道を進もう!──と。
22  この一年、創価万年の勝利へ
 私どもが信じて進むこの道──広宣流布の道は、万年の未来へと続く。これからである。始まったばかりである。七百年やそこらは、大聖人の御遺命の道からみれば、つかのまにすぎない。
 創立一万年を、私は見ている。大いなる指標である。あと九千九百年以上もある。
 一万年後の学会は、世界広布は、どうなっているだろうか。世界中に絢爛たる「三色旗」。あの国にも、この国にも、あの友の家にも、あそこの大統領のところにも、鮮やかに翻る栄光のカラー(色)──そんな景色かもしれない。
 「万」とは「みつる」を意味する。万年といっても、″満つるがごとき″自身の境涯を勝ち取っていくなかに、洋々たる未来が開かれていく。
 未来は無限である。小さなことに煩わされる必要はない。大洋のごとく広々とした心で、今という時を、賢明に、楽しく生き抜いていただきたい。
 常に「希望」をもち、「希望」を生み出しながら、すべてを乗り越えゆくことだ。たゆみなく前進することだ。「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」である。
 停滞は敗北である。困難を避けていては、あとに″悔い″を残してしまう。″ああ、大変だな″と思うことも、十年もたてば″夢″に変わる。むしろ、大変な時に頑張るからこそ、福徳も大きい。胸おどる、創価の万年。その時には、またその時までに、繰り返し一緒に生まれ、一緒に戦いたいと思うがどうだろうか。
 どうか″希望のマーチ″″勝利のマーチ″″前進のマーチ″を、大空いっぱいに響かせながら、まず、この一年、自分自身の「黄金の歴史」を刻み、残していただきたい。
 若き学会の後継者・青年部、若き「広宣流布の英雄」であり、「哲学の英雄」であり、若く、恐れなき「戦士」である青年部諸君の前進に、「栄光よ、永遠に輝け」と申し上げ、記念のスピーチを終わります。ありがとう。
 (このあと、新宿・港区の青年部代表、音楽隊軽音楽部メンバーらによる合唱・演奏。また、芸術部の女性歌手も登場し熱唱)
 素晴らしい!全国の衛星中継会場の方々も喜んでくださったと信じたい。満点です!本当にありがとう!
 全国の皆さまも、本当に、ご苦労さまです。皆さまの健康と活躍と成功を、一生懸命に祈っております。安心して、伸び伸びと戦ってください。

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