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日蓮大聖人・池田大作

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鎌倉・湘南合同総会・文化合唱祭 学会こそ人類の「幸福のオアシス」

1992.1.12 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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2  この神奈川・鎌倉の地で、法難をうけながら、けなげに信心を貫いていた母と娘──乙御前おとごぜんとその母・日妙聖人に対し、大聖人は次のように仰せになっている。
 「いよいよ強盛の御志あるべし、冰は水より出でたれども水よりもすさ凄冷まじ、青き事は藍より出でたれども・かさぬれば藍よりも色まさる、同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり
 ──いよいよ強盛の信心をしていきなさい。氷は水から出たものであるが、水よりも冷たい。青の色はあいという植物から出るが、色を重ねると藍よりも青い色となる。同じ法華経ではあられても、信心の志を強く重ねれば、他人よりも色も優れ、功徳も大きいであろう──。
 「強盛な信心」があるかないか。功徳も幸福も、一切がそれで決まるのだ、との仰せである。
 「同じ法華経」──同じ御本尊であっても、問題はこちらの「信心」がどうかである。「妙法への信心」に功徳が備わっているのである。「信心」がなければ何の功徳もない。学会は最も強盛な「信心の団体」であるゆえに、心を合わせて進む時、大功徳がある。
 「木は火にやかるれども栴檀の木は、やけず、火は水にさるれども仏の涅槃の火はきえず、華は風にちれども浄居の華は・しぼまず・水は大旱魃かんばつに失れども黄河に入りぬれば失せず
 ──木は火に焼かれるが、栴檀という香木こうぼくは焼けない。火は水に消されるけれども、仏の涅槃(悟り)の火は消えない。花は風に散るけれども、浄居天(常に風災がないとされる理想の世界)の花はしぼまない。水は大旱魃(日照り)にはなくなるが、黄河の流れに入ればなくならない──と。
 生命に刻まれた因果は善悪ともに永久に消えない。「信心」によって成仏した人の「知恵」の火、「福徳」の花、そして信心根本の「広布」の大河は永遠なのである。
3  だれ人にも壊せない「大福徳の因と果」
 信心の世界にあっては、祈れば祈った分だけ、動けば動いた分だけ、語れば語った分だけ、「因果の理法」で、すべて自身の福徳となる。自分の境涯を限りなく広げていく。自分自身の「幸福」の軌道を固めていく。信心の世界には、まったくムダがない。
 だれが見ていようと見ていまいと、この「因果の理法」は厳然である。格好ではない。権威でも立場でもない。「心」である。「行い」である。これが大聖人の仏法である。
 ″本物″の信心を貫いた人は、″本物″の福運を積むことができる。
 何があろうと、だれびとが何を言おうと、私どもが自ら築いた、この「幸福境涯」は絶対に侵すことはできない。その「福徳」を奪うこともできない。
 むしろ大難をうけるたびに、ますます素晴らしい大境涯を開いていくことができる。飛行機や船が、空気や波の″抵抗″を利用して進み、より安定した前進をするように、一切を、より盤石な幸福境涯への″推進力″としていける。ここに信仰の真髄がある。
 その意味で、この一年、学会とともに、自分自身の偉大なる「因果の理法」の歴史を築いていただきたい。
4  友情のスクラム、友情の歌声
 本日の関西文化音楽祭には、「校友」の皆さまが参加されている。冒頭では、中国の留学生の方の演奏と、「校友」の方のみの合唱団による歌声も披露された。皆さま、本当にありがとう!
 妙法の世界は、素晴らしき「人間」の世界である。美しい「心」の世界である。皆、平等の立場で、一緒になって演奏をしたり、楽しく語り合ったり──。これほどすがすがしい、うるわしい姿はない。
 ともあれ、さすがは関西である。何でも早い。発想が柔軟ですぐに行動に結びつく。「会友」「校友」運動も見事に先駆を担っている。まさしく「創価ルネサンス」の新時代を象徴する友情の歌声であり、友情のスクラムである。
 参加された「校友」の皆さまに、心から感謝申し上げたい。
5  「法華初心成仏抄」──唱題の根本義を明かす
 ふたたび「法華初心成仏抄」を拝して、申し上げたい。
 「凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と三世の諸仏のさとりの妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり
 ──そもそも妙法蓮華経とは、我ら衆生の仏性と、梵天や帝釈などの仏性と、舎利弗や目連などの仏性と、文殊や弥勒菩薩などの仏性と、三世の諸仏が悟ったところの妙法とが一体不二である法理を、妙法蓮華経と名づけたのである──。
 衆生の仏性も、仏・菩薩等の仏性も、仏が悟った妙法も、まったく「一体不二」である。それこそが「妙法蓮華経」なのであるとの仰せである。
 いわば「平等」こそが、「妙法蓮華経」の魂なのである。いわんや、だれかの仏性は「特別」であるとか、「上」であるとか、そんな差別はない。すべてが徹底した平等観に貫かれている。
6  「故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり
 ──ゆえに、ひとたび妙法蓮華経と唱えれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵天・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神ないし地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天界の一切衆生の心中の仏性を、ただ一声に呼び顕したてまつるのであって、その功徳は無量無辺である──。
 この前後も含め、″唱題の根本義″を明かされた重要な御文と拝される。
 「一度ひとたび」「ただ一音」と仰せである。ただ一度でも、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えるならば、その功徳の大きさは「無量無辺」である、と。
 また大聖人は、仏が唱える題目と、私ども凡夫が唱える題目との間に、何の差別も設けておられない。どこまでも「平等」である。差があるとすれば、立場の差ではなく、「信心」の差なのである。大事なのは、どこまでも「信心」であり「実践」である。
 大聖人の仏法は「南無妙法蓮華経」に一切が包まれている。
 ゆえに、私どもは、何があっても、題目を唱え抜いていけばよいのである。微動だにせず、朗々と、また堂々と──。どんな地にあっても、どんな時であっても、御本尊を信じての真剣な唱題の声は、三世十方の仏・菩薩に通じる。また、宇宙法界ほっかいに響いていく。
 どうか皆さまは、毅然と胸を張り、我が唱える題目の波動は、百千万億光年の先までも及んでいく──そうした大確信の信心で功徳を受けきっていただきたい。
7  「わが身の仏性」を呼び顕す
 さらに、大聖人は「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」──我が己心の妙法蓮華経を本尊と崇めたてまつって、我が己心の中の仏性を南無妙法蓮華経と呼び呼ばれて顕れられるところを仏というのである──と。
 「我が己心の妙法蓮華経」を指して、「本尊」と仰せである。これは、別しては大聖人の己心の妙法であり、それを顕された御本尊のことである。総じては御本仏の真の門下の「己心の妙法蓮華経」が「本尊」であるとの仰せと拝される。
 「総勘文抄そうかんもんしょう」には「己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり」、また「一人を手本として一切衆生平等」とある。
 有名な御文に、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」──この御本尊は、まったくよそに求めてはならない。ただ我ら衆生が、法華経を受持して南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのである──と。
 本尊とは、どこか別のところにおられるのではない。「我が己心」に、「胸中の肉団」におわしますとの仰せである。衆生が、その己心の本尊を顕現けんげんするために、大聖人は、御本尊を御図顕ごずけんくださったのである。
 大事なのは、どこまでも「人間」である。「生命」である。
8  「たとえば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ
 ──たとえばカゴの中の鳥が鳴けば、空を飛ぶ鳥が呼ばれて集まるようなものである。空を飛ぶ鳥が集まれば、カゴの中の鳥も出ようとするようなものである。口に妙法を呼びたてまつれば、我が身の仏性も呼ばれて必ず顕れられるのである──。
 「我が身の仏性」を顕すことが目的である。根本である。そのためにこそ妙法を唱える。また、「空とぶ鳥」──すなわち仏・菩薩等の仏性との感応かんのうが大事になってくる。主体はどこまでも自分自身なのである。
9  「梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ、されば「若し暫くも持つ者は我れ則ち歓喜す諸仏も亦然なり」と説き給うは此の心なり
 ──梵天や帝釈の仏性は呼ばれて我らを守ってくれる。仏や菩薩の仏性は呼ばれて喜ばれる。すなわち法華経宝塔品に「もし少しの間でも、妙法を持つ者がいれば、我(釈尊)は即座に歓喜する。諸仏もまた同様である」と説かれているのは、この心なのである──。
 広布への正しき一念で題目を唱えると、その″声″が梵天・帝釈の仏性を呼び、私どもを守ってくれる、と。
 正法興隆こうりゅうに尽くす学会の行動は、世界各国の識者や著名人からもたたえられ、賛同と理解をもって守られている。仏法のまなこで見るならば、これも梵天・帝釈の働きといえよう。そして、この事実の姿自体が、妙法の力がどれほど偉大か、そして学会の理念と行動が、いかに大聖人の御心みこころかなっているかの証明なのである。
 また、もし少しの間でも妙法を持つ人がいれば、釈尊も、諸仏も喜ぶと経文にある。いわんや、御本仏・日蓮大聖人、十方の諸仏が、日夜、広布に邁進する学会員を、賛嘆されないはずがない。
 その誉れある人々を、″ころもの権威″で見下みくだしたり、いじめたりすることは、それこそ「御本仏への敵対者」である証拠なのである。
10  成仏は自身の仏道修行による
 「されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐・一切衆生・皆成仏道の妙法と云うは是なり
 ──したがって、三世の諸仏も妙法蓮華経の五字によって仏になられたのである。三世の諸仏の出世の本懐であり、一切衆生が皆、成仏する妙法というのは、このことである──。
 何によって仏になれるか。「妙法蓮華経の五字」によってである。妙法を強く信じ、唱える「信心」によってである。僧侶のおかげでもなければ、形式によってでもない。成仏とは、自分自身が獲得する境涯であり、″自分の宝″にほかならない。絶対に、他から″与えられるもの″ではない。
 正しい宗教は本来、人々に「歓喜」と「希望」を送りゆくものである。「恐怖」を与え、「嫉妬」を植え付けるものではない。そんな宗教は″邪教″である。″邪教″には功徳はない。一生懸命やるほど人生は狂っていく。
 大聖人の教え通りに進む創価学会こそが絶対に「正しい宗教」なのである。
 妙法を朗々と唱えゆく、その音声おんじょうは、全宇宙へとつながっていく。「歓喜」と「希望」のリズムが広がり、また広がり、やがて全人類、全地球をも包み込んでいく。ここに大聖人の仏法の広宣流布の姿がある。
 御本仏の仰せ通りに、この妙法を唱える限り、最高に愉快な、最高に人間性に満ちた、最高に美しい生命の連帯を広げていけるのである。
11  御書は″末法の経典″
 昭和二十七年(一九五二年)四月二十八日、立宗七百年の佳節(かせつ)──。戸田先生の発願ほつがんで、堀日亨にちこう上人の編纂へんさんによる、七百年間で初めて完璧かんぺきな御書全集が、創価学会の手で発刊された。
 (広布を推進する学会を愛された日亨上人の遺品は、学会に多く伝えられ、創価ルネサンス大勝利記念幹部会(一九九一年十一月三十日)の折に紹介され、愛用の杖と雑のうをはじめ、小さな経机などがある。いずれも質素なもので、贅沢を排したご生活がしのばれる)
 御書発刊以来、本年でちょうど四十周年を迎える。御書は″末法の経典″である。日寛にちかん上人の「立正安国論文段もんだん」には、「仏の説を経と名づけ」とあるように、御本仏みずから記された根本の、そして永遠の″経典″なのである。
 日興上人の弟子と名のる限り、このお言葉に従わねば師敵対である。だれびとであろうと、御本仏の御金言を根本にしなければ″邪流じゃりゅう″なのである。学会は何があろうと御書根本に、「正流」の王道を行く。
 御書に基づかない、また御書を自分勝手に歪曲わいきょくした人師・論師の攻撃など、「風の前の塵」のようにはかない。
12  「立正観抄」──法華経を軽んじ衰亡した比叡山
 かつての日本天台宗の堕落・衰亡も、釈尊の出世しゅっせの本懐であり、根本の経典である法華経を軽んじ、後世の人師・論師の邪義に侵されたためである。(天台大師、伝教大師の後継を自任する座主ざすたちが、法華経を軽んじ、邪義を取り入れていった)
 比叡山が、真言・禅などに染まり、″天魔の山″となってしまったことを大聖人は、厳しく指弾しだんされている。有名な「立正観抄」には、次のように仰せである。
 「両大師の伝法既に法華経に依るあに其の末学之に違せんや
 ──(天台と伝教の)両大師の伝える法がすでに法華経によっているのに、どうしてその末学(後世の弟子たち)がこれに違背してよいであろうか──。
 先師の定めた根本の経典に背くことは、先師の教えにも背くことになる──そのことを厳しく破折されている。大聖人の門下においては、日興上人の定められた通り、″伝法″は、どこまでも″根本の経典″御書に依る。
 どんな「師伝」や「秘法」等と強調しても、根本に違背していたのでは、大聖人への違背である。″もと″が狂っているゆえに何の意味もない。かえって謗法となる。「根本」を見失う姿は、まさに″根なし草″そのものである。
13  「違するを以て知んぬ当世の天台家の人人・其の名を天台山に借ると雖も所学の法門は達磨の僻見と善無畏の妄語とに依ると云う事
 ──(このように先師の定めに)違背していることで知ることができる。現在の天台宗の人々はその名を天台山に借りているとはいえ、学んでいる法門は(禅宗の)達磨の偏った見方や(真言宗の)善無畏のウソによっているということを──。
 今の日蓮正宗も、名称だけは日蓮大聖人のお名前を借りていながら、御本仏の経典によらず、御書を軽んじ、御書をゆがめ、勝手な「己義こぎ」を中心にして、正法を破壊し続けている。もはや完全に、大聖人、日興上人の御魂おんたましいの住まわれない″天魔の山″と化してしまった。
14  「天台伝教の解釈の如くんば己心中の秘法は但妙法の一言に限るなり
 ──天台・伝教大師の釈のとおりであるならば、己心の中の秘法とは、ただ「妙法」の一言に限るのである──。
 「己心中の秘法」といっても、仏の極説ごくせつである「妙法」以外にあるわけではない。妙法を離れて、それ以上の秘法が別に伝えられたのではないのである。
 自分だけが妙法以上の特別な″秘密の法″を知っているなどと見せかけるのは、それ自体がインチキの姿である。
 「然而しかして当世の天台宗の学者は天台の石塔の血脈を秘し失う故に天台の血脈相承の秘法を習い失いて我と一心三観の血脈とて我意に任せて書を造り錦の袋に入れて頸に懸け箱の底に埋めて高直こうじきに売る故に邪義国中に流布して天台の仏法破失するなり、天台の本意を失い釈尊の妙法を下す是れひとえに達磨だるまの教訓・善無畏のすすめなり
 ──しかし、現在の天台宗の学者は天台の石塔の血脈を失ってしまったので、天台の血脈相承の秘法(「妙法の一言」)を習うことなく、自分から「一心三観の血脈」と言い出して、自分勝手な心のままに文書を造り、錦でできた袋に入れて首にかけ、箱の底に埋めて高い値段で売っているのである。このために邪義が国中に流布して天台の仏法は破壊され失われてしまった。天台大師の本意を失い、釈尊の妙法を見下すことは、ひとえに達磨の教訓と善無畏の勧めによるのである──。
 根本の妙法を失い、己義を構える。その己義をありがたいものに見せるために、さまざまに飾り立てる。これが、正法堕落だらくの方程式である。歴史の常である。
 内容のない場合ほど、それをさとらせまいと、さまざまにもったいぶる。悲しいことに、往々にして、そのトリックにだまされ、ありがたがり、″権威による救い″を高額を払ってでも求めようとする人々もいる。
 民衆は絶対に賢明にならねばならない。御書を学ばねばならない。それが「幸福」への「力」となる。悪を断ち切る″つるぎ″となる。
 本抄に仰せの天魔の行動を要約すれば次のようになろう。
 (1)正しい仏法の流れを受けいでいない。(2)そこでインチキで自分を権威づける。(3)またデッチあげの文書等を作ったりして金もうけする。(4)そして自分勝手な心のままに正法の世界を破壊しようとする。
 今も、まさに「御書の仰せ通り」の現実が起こっている。ゆえに、いよいよ私どもは「御書の仰せ通り」に進んでいく。そこに「広布」も「幸福」もある。
15  「日は東より出づ」──御本仏の仏記は学会が実現
 先日(一月七日)、インド大使とお会いした時にも話題になったが、今年は、日本とインドの間に平和条約が締結(ていけつ)されて、ちょうど四十周年を迎える。
 インドの初代首相・ネルーは、師と仰いだマハトマ・ガンジーとともに、インドを独立へと導いた偉大な指導者である。戸田先生も、大変に注目されていた。
 戸田先生が亡くなる半年前の一九五七年(昭和三十二年)十月、ネルーが来日したが、その時も″機会があれば、ぜひ、会ってみたいものだ″と語っておられた。
 「諫暁八幡抄かんぎょうはちまんしょう」には「日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」──太陽は東から昇る。これは、日本の仏法(大聖人の仏法)が(仏教発祥の地である)インドへと必ずかえっていく瑞相である──と仰せである。
 私は、この御遺命ごゆいめいを深く拝し、また戸田先生の思いを受け継いで、懸命に道を開いてきた。中国と日本の友好関係の実現を、いち早く提唱し行動もした。韓国でも、インドでも、多くの友が活躍している。仏法有縁うえんの、あの地この地に、信頼と友好の絆は着実に広がっている。
 インドは四度、訪問した。また、これまでに「ラマチャンドラン賞」(一九八八年一月、開発教育ナショナルセンターから)、「国際平和賞」(一九八八年十二月、国際平和非暴力研究所から)、「ラルバドール・シャストリ記念ICDO国際賞」(一九九〇年十二月、国際文化開発協会から)、「ラグヴィラ賞」(一九九〇年十二月、インド文化国際アカデミーから)の四つの栄誉をいただいた。また、このたび、インドの非暴力デリー会議から、同会議として初の「最高特別会員」の称号が贈られるとの決定通知をいただいている。
 いずれも、日蓮大聖人の仏法を根本としたSGI(創価学会インタナショナル)の行動への深い共感と賛同のあかしである。
 まさに「日は東より出づ」──光は世界へ広がっている。
16  ネルー首相「恐れなき前進こそインド人の魂」
 ネルー首相の生涯は、まさに闘争の連続であった。独立運動の途上においては、実に九回、投獄されている。
 戸田先生も、不当な弾圧によって二年間、牢に入られた。牧口先生は、獄中で亡くなられた。私も、二週間であったが、無実の罪で投獄された。それがどのようなものであったかは、入った者でなければわからない。そうした熾烈さに比べれば、これまでの難も、嵐でも何でもない。皆に嵐が届かないように私も懸命に守ってきたつもりである。
 今も学会員は、いわれなき圧迫も何のその、微動だにしない。朗らかに歌を歌い、爆笑の渦のなかで語り合い、いつも、明るく集い合っている。こんなに平和な、楽しい世界はない。
 ある識者は驚いていたという。「特にこの二十余年間、学会は攻撃されっぱなしだった。普通だったら全滅だ。それなのに微動だにしていない。この強さは一体、何なのか」と。
 もちろん「正しい」から「強い」のである。「正しい」から「明るい」、「正しい」から「楽しい」のである。
 ネルーは、獄中という逆境にあっても、多くの著作を書き遺した。ネルーより自由な皆さま方は、きっと素晴らしい論文が書けるだろうと、だれかが言っていたようだ。
17  さて、一九三〇年から三年間に及んだ獄中生活において、ネルーは「世界の歴史」について、まとめ上げた。これは、当時、十代半ばであった、彼の一人娘、すなわち、後のインディラ・ガンジー首相にあてた手紙の形で書かれている。千ページ以上の大作。その歴史的考察の深さはもとより、資料にも事欠く獄中で書かれたとは思えないほど正確で、内容も古代から現代まで多岐にわたっている。何より、娘を思う愛情にあふれた、感動的な著作である。
 その中でネルーは、「恐れなき前進」こそ、インド人の魂である、と訴えた。彼は、古代インド文明を築き上げた祖先たちが、西北の険しい山々を越えて、温和な平原へと下り立った様子を、こう語っている。
 「おそれを知らずに、かれらはただ前進した」「破滅と災厄とにたじろがないことこそは、生命をたのしむための、ただ一つの道だということを知っていた。破滅と災厄とは、おそれることを知らぬものを避けてとおるものなのだ」(『父が子に語る世界歴史1』大山聰訳、みすず書房)
 そして「われわれが、このながい歳月の直系の子孫にあたるということは、思うだにすばらしいこと」(同前)なのだと。
 ″人生を楽しむ唯一の道は、「困難にたじろがない」ことである″″我々インド人は、この恐れなき祖先の、直系の子孫なのだ″と、宣言したのである。
18  我が学会も″恐れないで″前進したからこそ、広がった。世界一の福運と和楽のオアシスを築くことができた。
 法華経には「衆生所遊楽しゅじょうしょゆうらく」(この世界は人間が遊楽するところである)とあり、大聖人は「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せである。
 いかなる困難も恐れず進む。妙法を唱えに唱え抜いていく──これが、人生を最高に楽しみきっていく道であり、我が学会の道なのである。
 「進まざるは退転」である。前進する人には「希望」がわく。「勇気」がみなぎる。「張り」がある。「充実感」がある。「結果」も出る。だから楽しい。″停滞″の日々は、″後退″の人生となり、時とともに寂しく、後悔がつきまとう。
 自分自身が楽しく、満足できる人生を、生きる希望と喜びに満ちた境涯を、築き広げていってこそ「信心」である。そして、この偉大なる「信心」の心を胸に進む私どもこそ、間違いなく、大聖人の「直系の弟子」「直系の門下」であると宣言したい。
 歴史は「真実」に味方する。大聖人の″真の弟子″として、楽しい、朗らかな一生を、ともどもに送ってまいりたい。
19  希望のオアシス──鎌倉・湘南の友
 (ここで鎌倉・湘南の合唱祭の舞台に。湘南混声合唱団が「ラデツキー行進曲」を、少年少女部の鎌倉ペガサス合唱団が少年部歌「君よ輝け」を、湘南バンドと青年合唱団が「オアシス─海よ空よ大地よ─」を熱唱。鎌倉混声合唱団は、戸田第二代会長が詠んだ「いざかん 月氏のはてまで 妙法を ひろむる旅に 心勇みて」の和歌を歌い上げた。さらに、参加者全員で神奈川の歌「ああは昇る」を大合唱。また、湘南の婦人部の合唱団は、チャップリンの人間愛と希望の心を歌声でつづった)
 素晴らしい!見事でした。
 ″月氏のはてまで″の歌──戸田先生も心から喜ばれていると思う。
20  地涌の菩薩への迫害は″大謗法″
 最後に、御書の一節を拝したい。
 「諸法実相抄」に、次のような有名な御文がある。
 「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや(中略)末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり
 ──日蓮と同意であるならば、地涌の菩薩であろう。地涌の菩薩に定まれば釈尊の久遠の弟子であることを、どうして疑うことができよう。(中略)末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は男女のへだてをしてはならない。皆、地涌の菩薩の出現でなければ、唱えることのできない題目なのである──と。
 御聖訓に照らし、題目を唱え広布に進む私どもは、皆、「地涌の菩薩」である。学会は、末法に妙法を広宣流布するために出現した「地涌の菩薩」の集まりなのである。久遠よりの″御本仏の一族″なのである。
 それを、一個人の感情や嫉妬で、切り捨てたり破門したりという行為は、御本仏への師敵対であり、根本的な″大謗法″である。このことを、皆さまは生涯、忘れないでいただきたい。
 私も、神奈川の、そして関西の同志のために、全国・全世界の友のために、全力を尽くします!きょうは長時間、ありがとう。どうか、お元気で。また、お会いしましょう!

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