Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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静岡・沼津文化会館 学会の「宗教革命」の正しい確信

1991.12.26 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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1  世紀は″人間原点″へ向かう
 宗教は本来、人に安心を与えるものである。そこへ行けば、ほっとする。楽しい。希望がわく。心が明るく軽くなる。これが、真の信仰の集いである。それが「人間のための宗教」である。
 反対に、人に気を使わせ、神経を使わせ、疲れに疲れさせるのは、その一点だけでも、正しい信仰の世界ではない。″宗教のために人間がいる″のか。″人間のために宗教がある″のか。私どもは断じて「人間のため」が正しいと思う。
 日蓮大聖人も、当時、人間を「宗教の道具」「宗教の奴隷」のように見下し、自分たちの権威のために利用するだけ利用しようとしていた悪侶たちと、厳然と戦われたのである。
2  きょうの夕刊に、ゴルバチョフ大統領の辞任声明のニュースが載っていた。地元の静岡新聞には「民主改革の正しさ確信」と、大きく出ている。冷戦を終わらせ、形骸化し権威主義となった共産党を解体させ、世界の潮流をも大きく変えたゴルバチョフ氏の民主革命。その足跡は、時代の大きな転換点として、世界史に刻まれた。
 その最終的評価は歴史が決めることであるが、″人間原点″でなければ、どんな思想も、どんな体制も、権力も支持されない、続かないことが、もはやだれの目にも明らかになった。
 そして学会も、この一年、相次ぐ変化の波を堂々と乗り越えてきた。この″民衆の勝利″の正義の軌跡は、時とともに輝きを増すと確信する。
 文証、理証、現証に照らし、学会の行動の正しさは証明されている。文証──御書のうえから、理証──道理のうえから、現証──事実の生活、行動のうえから、学会がいかに正しいか。真実はあまりにも歴然としている。
 ″人間原点″への世界の潮流をたたえつつ、私どもは「学会の『宗教革命』の正しさ確信」と、声を大にして宣言したい。
3  ヨーロッパでも、強大な「教会の権威」に抵抗した宗教改革の先駆者たちは、熾烈な戦いを強いられた。
 例えばチェコスロバキアのフス(一三七〇ごろ〜一四一五年)。彼は教会の堕落を厳しく非難した。免罪符を攻撃したことで破門されたが、投獄されても自説を曲げなかったため、火あぶりの刑にされた。
 フス派の人々は、この極刑に激怒した。そして反乱闘争を起こし、皇帝や教会の勢力の悪を弾劾している。
 またガリレオ(一五六四〜一六四二年)はイタリアの自然学者、天文学者で、「近代科学の父」と称される。しかし、その晩年は、教会による迫害の連続であった。地動説を主張したため、異端審問を受け、地動説を否定することを誓わせられた。このように、真の改革は、迫害を避けることはできない。
 私どもの宗教改革は、大聖人の仏法による、根本的な改革である。大聖人御自身がお示しのごとく、悪人の妨げがあるがゆえに、「正しい」と言えるのである。そもそも日蓮大聖人御自身が、最も激烈な「宗教改革」「宗教革命」の御生涯であられた。
4  変化を″鍛え″に修行を″喜び″に
 私どもは、その大聖人の真の門下であるゆえに、「宗教改革」に生きる。停滞や形式主義の「保守」は、大聖人の仏法とは正反対の生き方である。
 これからも、変化の波があろうが、いろいろな事があってよいのである。そうであってこそ、皆、信心の鍛えもあり、人間としての成長もある。団結も深まる。何もなければ、皆、ぼーっとなって、成仏のための、せっかくの″修行の場″を逸してしまう。戦いなくして幸福はない。
 信心指導も、すべて自分のためである。例えば「退転させまい」。この強い一念の祈りと激励は、実は自身の生命に「自分は、永遠に退転しない」という楔を打ち込んでいるのである。
 また、信心は「一生」である。そして「三世」である。目先のことに振り回されるのは、真の信仰者ではない。
 最後には、すべてよくなるに決まっているのだから、常に前へ前へ、一切をよい方向へ、よい方向へととらえ、進んでいく。この、妙法を根本とした、強き「楽観主義」の人には、永遠に行き詰まりがない。第一、自分が楽しい。この喜びと確信の「一念」に、尽きることなき功徳と福運が、いよいよ備わってくる。
5  沼津は、草創の文京支部から出発した。私にとっても縁の深い、懐かしい所である。
 私が初めてこの地を訪れたのは、昭和二十九年(一九五四年)三月六日、文京支部長代理として「折伏座談会」に出席した時である。二十六歳であった。
 場所は「松の湯」という、駅前の風呂屋の二階。未入信の方を含め、二百人ぐらいが出席されていたようだ。当時は、この文化会館のような、素晴らしい会場はなかった。ここなら、集まり過ぎて床(ゆか)が抜ける心配もない。まさに隔世の感がある。おめでとう!
 地元の記録によると、私が沼津を訪れたのは、昭和二十九年が四回、三十年が八回、三十一年が六回……となっている。当時、「勢力せいりき」という旅館で、よく会合がもたれたと記憶している。
 三十二年以降も、何度もおじゃました。そして、今回は十四年ぶり。本当に懐かしい。沼津の皆さまは、心から信頼できる真の「親友」であり、「同志」であると私は思っている。
6  奉安殿の建立寄進により「大御本尊は安穏」
 正本堂が完成する前、本門戒壇の大御本尊が御安置されていたのは奉安殿である。これは、学会によって建立寄進された最初の建造物であった。
 昭和三十年(一九五五年)十一月二十三日、奉安殿落慶の折、戸田先生は、挨拶の中で、こう語られている。
 「学会は、日蓮大聖人様の時代に還れ、大聖人様の弟子檀那に還れというのが、私の主張であり、信念であります」と。
 学会は「日蓮大聖人の弟子」である──これが大御本尊の御前での、戸田先生の宣言である。
 奉安殿ができる以前、大御本尊の御開扉ごかいひは、御宝蔵ごほうぞうで行われ、お目通りできる人数も限られていた。奉安殿への大御本尊のお出まし──それは、学会の前進とともに大聖人の仏法が、いよいよ広宣流布へと向かう一大転機であったといえよう。
 日昇上人は、奉安殿の落慶に際して、次のようにお述べである。
 「今またここに戒旦かいだん本尊奉安殿を建立寄進しもって本宗究竟くきょう帰趨きすうたる本門戒旦本尊をして永久に安穏あんのんならしむこう大なる」と。
 すなわち日昇上人は、学会によって、本門戒壇の大御本尊が、永久に安穏となられゆくことを心から喜ばれた。そして、仏法上「その功は大きい」と、心からたたえられたのである。
 また日淳上人(当時、重役)も、奉安殿を御覧になり、「戒壇の大御本尊が御宝蔵から宝輦ほうれん(宝で飾られた輿)にお乗りになってお出ましになった」と喜ばれた。
 さらに、日達上人(当時、庶務部長)は、落慶式の閉会の辞のなかで、奉安殿建設に協力した寄付者名簿(百数十冊に及ぶ)を指されながら、「これ(名簿)は(大御本尊御安置の)須彌台しゅみだいに向って正面の右側がくらになってをりますから、この中に秘蔵ひぞう致し、この奉安殿と共に永久に保管されます」と、学会員一人一人の真心に応えて述べられた。
 私どもの真心の「真実」は消えない。広布の歴史に永遠である。その福徳も永遠にちがいない。
7  昭和三十年五月、豊島公会堂で行われた本部幹部会において、戸田先生はこう話されている。奉安殿落慶の半年前のことである。
 「このたびの奉安殿建設には、金銭の大小を問わず、大御本尊様広宣流布までのお住まいを御供養しましたことは、日蓮大聖人様のお目にとまり、生々世々、住む家に困らないと確信いたします。
 (中略)われわれの行動は、日蓮大聖人様はよく知ろしめて、かならずや功徳があるものと確信します」──と。
 大聖人がすべてを御存知である──「仏使」である私どもにとって、これ以上の喜びはない。これ以上の誇りはない。
 御本尊に、また御本仏・大聖人に「直結」しゆく時こそ、功徳の泉が無限に涌き出ずることを、確信していただきたい。また僧侶をはじめすべての仏法の指導者は、人々を「自分に」ではなく、「御本仏に」直結するよう導くのが使命なのである。それが御書の仰せである。
 当時は学会も、学会員も、貧しかった。しかし、学会の建物よりも、また我が家よりも、まず、″大御本尊のお住まいを″と奉安殿を御供養申し上げた。さらに、正本堂はじめ総本山を荘厳しきってきたのは学会員である。
 今日、学会が、日本そして世界に多数の立派な会館を持つことができたのも、この福徳と思えてならない。
 ここ沼津文化会館も、本当に新しく、立派になった。心からお喜び申し上げる。
 これからが、いよいよ大福運が花開く時代である。御本尊根本に、自分たちの力で、この「広宣流布の世界」を楽しく、立派に栄えさせてまいりたい。
8  「一生成仏」──生きるための大法
 大聖人の仏法は「一生成仏」の大法であられる。わかりやすく言えば、「来世」ではなく「今世」で、「死んでから」でなく「生きているうちに」成仏できるということである。
 その法理を、大聖人は次のように平易な譬えで教えてくださっている。
 「たとえば春夏・田を作りうへつれば秋冬は蔵に収めて心のままに用うるが如し春より秋をまつ程は久しき様なれども一年の内に待ち得るが如く此の覚に入つて仏を顕はす程は久しき様なれども一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり
 ──たとえば、春夏に田を耕し、種を植えたならば、秋冬には、その実りを蔵に収め、思うがままに用いることができる。春から秋まで、待つ間は長いようであるが、必ず一年のうちに待ち望んでいた通りになる。それと同じように、この覚り(われわれ衆生が仏であるという覚り)に入って、仏の境界を顕していくまでは長いようであるが、必ずこの一生のうちに顕して、この我が身が三身即一の仏(法報応の三身を一身に備えた仏──すなわち法身ほっしん(仏の悟りの法)と報身ほうしん(仏の智)と応身おうじん(仏の慈悲)を合わせもった存在)となるのである──。
 大地を耕し、種を蒔く苦労は、豊かな秋の実りとなって、「一年の内に」報われる。同様に、私どもは、日々の仏道修行によって、我が″生命の大地″に植えられた妙法という″成仏の種″を育てている。育てきれば、必ず「一生の内に」、成仏という無上の、満足の人生の実りを楽しみきっていける。
 ″一生のうちに仏に″──これが大聖人の絶対のお約束である。法のため、人のため、広布のために戦いきった人は″一生成仏の人″である。その人が、死んでから急に「堕地獄」になるはずがない。根本は、どこまでも、今世の自身の「信心」である。
 僧侶が成仏・不成仏を決めるのではない。いわんや、塔婆とうばの数や葬式で決まるわけがない。そんな考えは、大聖人の仏法とは、まったく「無関係」の邪義である。
9  大聖人はさらに、こう仰せである。
 「秋のいねには早と中と晩との三のいね有れども一年が内に収むるが如く、此れも上中下の差別ある人なれども同じく一生の内に諸仏如来と一体不二に思い合せてあるべき事なり
 ──秋の稲には、早(早稲わせ)と中と晩(晩稲ばんとう)との(実りの時期が異なる)三種の稲があっても、いずれも一年のうちに収穫できる。それと同じように、この仏法においても、衆生の機根に上・中・下の違いがあっても、皆、同じく(平等に)この一生のうちに、諸仏如来と一体不二となる(成仏できる)と思い合わせていくべきである──。
 どんな人でも、皆、平等に一生のうちに最高の幸福境涯を開いていける──これが、大聖人の大仏法である。
 一生のうちには、喜びの日もあれば、悩みの日もある。天候だって、一年中、快晴というわけにはいかない。しかし「煩悩即菩提」の信心によって、一切を成仏、すなわち絶対的な幸福境涯への糧にしていくことができる。
 今世の信心の勝利は即、三世永遠の勝利に通じていく。ゆえに信心だけは貫ききっていくことである。作物も、育てきってこそ、すべての労苦が生きてくる。
10  「世界への道」開いた学会こそ正統
 大御本尊は「一閻浮提いちえんぶだい総与そうよ」の御本尊であられる。全世界の民衆のために与えられた御本尊であられる。
 ゆえに「全世界への道」を開きに開いていくことが、大御本尊を真に奉じゆく実践となる。現実に「道」が開かれてこそ、大御本尊と世界の民衆が結ばれる。日蓮大聖人の「一閻浮提総与」との御心を実現しゆくことになる。
 この「世界への道」を開いたのは創価学会である。「道を開く」と、ひと口に言っても、並大抵の苦労ではない。歴史的に仏教と無縁の国もあれば、敵視している地域もある。文字通り、命がけで開いてきたのである。
 しかし今や、広々と「道」は開かれた。数限りない仏子らが安心して往来できる「大道」をつくることができた。これからもつくっていく。
 大御本尊への「信心の大道」を、世界に開いた功徳は大きい。「信心」さえあれば、世界のどこにいても、大御本尊に通じていくからである。
 反対に、道をつくる苦労もせず、それどころか、道を閉ざし、破壊し、民衆のための大御本尊を、保身のための″道具″として私物化しようとする人間は、御本仏から、どれほどのお叱りがあるか想像もできない。
 静岡の同志の皆さまも、大きく視野を広げ、「世界」と伸び伸びと交流しながら、我が地域にあっては、盤石なる創価の「大静岡王国」を築いていただきたい。
 お会いできなかった方々にも、よろしくお伝えください。懐かしい沼津の皆さま、きょうは、本当にありがとう!

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