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日蓮大聖人・池田大作

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荒川、立川文化音楽祭 広宣の聖火を偉大な庶民の都から

1991.12.23 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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1  創価の世界はすべて開花
 きょうは温暖で素晴らしい晴天。すがすがしく澄み渡った青空──。創価学会の「未来」を象徴するような天気である。そして、どこへ行っても、誇らしくはためく″三色旗″。本当にうれしい。晴れがましい。
 文化音楽祭も本当に立派でした。おめでとう!
 「歌」は人に歌われてこそ歌である。皆が歌いやすい。時代のセンスもある。歌って、聴いて、胸が弾む。それでこそ「民衆の歌」である。そうした歌を、これからもどんどん作り、また歌っていきましょう!
 民衆のにぎやかな歌声があるところ、「自由」があり、「躍動」がある。音楽に強制はない。文化に暴力はない。すべて人間性である。すべて「開花」である。それは、我が「創価学会の世界」でもある。リーダーの皆さまの指導、指揮もそうであっていただきたい。
 「強制」や「無理やり」はリーダーとして敗北であり、失格である。その一番の典型が、今の宗門ではないか。絶対にまねをしてはならない。
2  きょうは東京上野池田講堂にも荒川の皆さまが集われている(音声同時中継)。おめでとうございます。
 また立川<区>の文化音楽祭も、立川文化会館で行われている。立川の皆さま、聞こえますか!
 実は立川からも、いろいろと出席の要望や要請、そして″通告″をいただいていた。しかし、一人の人間が同時に二カ所に行くことはできない。私の心は両方に行きたいが、今回は新しい文化会館が完成して初めてでもあり、荒川におじゃまさせていただいた。
 「心」も、そして新聞の扱いも、まったく同じなので、立川の皆さま、どうかご了承いただきたい。
 信心も人生も、真面目が大事である。幸福の財産である。学会ほど真面目な団体はない。心根のよい人々の集いはない。大法のため、広宣流布のため、また人類のために、私ども学会だけが、日蓮大聖人の仰せ通りに尽くしてきた。戦ってきた。だから勝った。広宣流布を大きく推進することができた。
 一方、宗門の今日の混乱と迷走の原因は、要するに″真面目でなかった″という点にあろう。信心も、生活も、実は乱れに乱れていたのである。「無関係」になって喜んでいる人があまりにも多い。
3  ご存じのように、昭和三十二年(一九五七年)夏、私はこの荒川の地で、一週間──八月八日から十四日まで、折伏と指導の大闘争の指揮を執った。戸田先生の最後の夏のことである。どこよりも″広布共戦″の荒川たれ。私とともに″師弟の道″を貫く荒川たれ──。私はそう願い、戦った。荒川は、私の青春時代の思い出の舞台であり、忘れ得ぬ地である。
 また十数年前、私は連日、立川の地にとどまり、広布の指揮を執った。前回の宗門問題の時のことである。多摩方面の要の地と見抜き、ただ一人、立ち上がって厳然と戦った。私には、立川も、決して忘れ得ぬ場所である。
 今、連載中の小説『人間革命』(十二巻)の「涼風りょうふう」の章で、戸田先生との軽井沢の思い出をつづった。実は私が軽井沢に呼ばれたのは、荒川指導のさなかのことであった。当時、私は二十九歳。荒川の地を縦横無尽に駆け巡っていた。
 永遠から見れば、青春は一瞬である。人生も一瞬である。あっという間に過ぎ去ってしまう。
 御書には「極楽百年の修行は穢土えどの一日の功徳に及ばず」と仰せである。その深義はともあれ、平々凡々たる一生よりも、欲望のままに流される人生よりも、たった一日でも、真剣に仏法を求め、広宣流布のために尽くした人生こそ偉大である。「我が日々」「我が人生」はそうありたいと、私は思う。
4  虚飾なき″庶民のスクラム″をにぎやかに
 思い出多き荒川──。私は荒川が大好きである。
 荒川という地名は、「新川あらかわ」つまり″新しい川″を意味するとの説もあるようだ。そうした詩情豊かな名前ではなく、″荒い川″になったのは、住んでいる人が強そうだからだろうか。こんなところにも、荒川のもつ庶民性があるのかもしれない。
 ともあれ、荒川は「庶民の都」。私も一庶民である。貴族ぶった、偉ぶった、傲慢な人間は、我が創価学会には必要ない。飾らぬ本当の人間性の世界──それが真実の仏法の世界である。
 私はよく知っている。荒川の皆さまは、本当に、けなげに頑張ってこられた。まず、荒川は聖教新聞の啓蒙で日本一。──本年八月に日本一、今月も再び日本一の勢いとうかがっている。また新しい「会友運動」でも、荒川が大きく道を開いている、と見る人が多い。
 この事実の姿が「実証」である。この前進の姿のなかに「勝利」がある。荒川は東京の大事な″焦点″になりつつあると、私は期待している。
5  また荒川は近隣友好の面にも心を配り、着実な努力をしてこられたようだ。この文化会館でも、麗しい地域友好が築かれつつあると聞いている。
 例えば年末、会館で行っている近隣友好の懇親会──。これは毎年恒例の集いのようだが、今年は、会館近隣の全二十二町会のうち、実に十八町会の会長・役員の方々が出席してくださったという。私からも心より感謝申し上げたい。
 我が地域を「幸福の楽土」「繁栄の都」に──。それが私どもの願いである。その意味で、この文化会館は、地域に根差した「文化の城」「みんなの城」「地域の城」「庶民の城」となった。まさに、荒川は近隣友好の「東京の模範」といえよう。
 さらに、ここ地元の町屋本部の会員数は、地域人口の占有率でも抜群であるという。はつらつたる我が同志が、これほど、にぎやかに、生き生きと地域で活躍しておられる。私も本当にうれしい。
 近隣友好の広がり、信頼の拡大、地域と一体になっての発展──″友″が増えること自体が「広布の発展」なのである。
 どうか、荒川から、新しい広宣流布の「聖火」を赤々と炎上させていただきたい。「東京の前進は荒川から」を合言葉に!
6  この1年──スピーチは衛星中継で二千五百万の友へ
 本年一年、私は語りに語った。正法を守るために、創価学会を守るために、「声」を武器として戦ってきた。
 仏法では「声仏事を為す」と説く。
 妙法を根本とした「正義の声」は、大宇宙に響いていく。根本的に、社会に、希望へのリズムを与えていく。とともに、語った分だけ、その「法」が、その「福徳」が、自らの生命に、永遠に刻まれていく。「雄弁は生」「沈黙は死」である。今こそ真実を語らねばならない。正義を叫ばねばならない。
 この一年間、私が各種会合で行ったスピーチは、「今日より明日へ」「創価のルネサンス」に収録されたものだけで、きょうで百十九回になる。計算すると、ほぼ三日に一度の割合でスピーチしたことになる。
 その他、海外の大学での記念講演が三回(マカオ東亜大学<現・マカオ大学>、国立フィリピン大学、ハーバード大学)。平和提言・アピール等が四回(1・26「SGIの日」記念提言、湾岸戦争への二度の緊急アピール、アメリカのポーリング博士、オスロ国際平和研究所のルードガルド所長との共同起草による「オスロ・アピール」)。
 世界各国の要人等に贈った長編詩が七編(ソ連のゴルバチョフ大統領、フィリピンのアキノ大統領、ドイツのヴァイツゼッカー大統領、イギリスのサッチャー前首相、フィリピンのメンバー、ドイツの青年部、アメリカ・ボストンのメンバーに贈った)。
 メッセージは、インドでの第二回「平和・非暴力会議」などの国際会議を中心として、主なものだけでも十回となる。
7  また、この一年間で三十八回の会合が衛星中継され、延べ人数にすると、実に約二千五百万人の方々が参加されている。このなかには、アメリカでの「第一回アメリカSGI総会」の衛星中継(約三万人が参加)も含まれている。
 さらに、各界の要人・識者等との会見は、聖教新聞紙上で報道されたものだけでも、九十七回。日本を含め四十八カ国・地域、五機関、百二十一人にのぼる。
 また、この一年間も、日本各地、世界各国に広布の足跡を刻むことができた。東京以外の地方指導は十六道府県。海外指導は四回、八カ国・地域。各地で出席した「創価同窓の集い」は九回(国内では八県三区、海外では欧州十四カ国)となった。
 さらに、この一年間に記した原稿や色紙の揮毫きごうの数は約四千枚。毎日、心を込めて書きに書いている。また、いただいた手紙の数は、合計で数十万通にのぼる。
8  世界の称賛は正法宣揚の証
 私どもSGIの平和・文化・教育の活動に対しては、各界から、私にさまざまな顕彰をいただいた。
 そのまま紹介すると、タイ王国「一等王冠勲章」のほか、大学関係では、マカオ東亜大学の名誉教授、国立フィリピン大学の名誉法学博士号、アルゼンチン・パレルモ大学の名誉博士号の称号。(名誉会長への海外の大学からの名誉教授・博士号は通算十二となる)
 表彰としては、パン・アフリカン作家協会「芸術貢献賞」、中国・武漢放送局「最高栄誉賞」、ソ連平和委員会「平和の戦士賞」、インド国際詩人学会「国際優秀詩人賞」、在東京アフリカ外交団「教育・文化・人道貢献賞」、アメリカ・カリフォルニア州「名誉州民証」、アメリカ・ボストン市「ダイサク・イケダ・デー」宣言。
 また、顧問等への就任の要請としては、中国・武漢大学の中日文化研究センター「最高顧問」、オーストリア芸術家協会「在外会員」、中国・敦煌研究院「名誉研究員」、スウェーデンの「平和と未来研究のための脱国家財団(TFF)」の「国際諮問委員」。
 たくさんあると、皆、慣れてしまって、あんまり喜んでくれない。実は一つ一つが重みをもった意義深き顕彰なのである。
 その他、世界的な詩人・音楽家からも、素晴らしい詩や曲をちょうだいした。南アフリカの人道詩人・ムチャーリ氏からは二編の詩。ブラジルの音楽家・ビエイラ氏から「平和の曲『人間世紀の夜明け』池田大作讃歌」、アルゼンチン・タンゴの巨匠・プグリエーセ氏から「トーキョー・ルミノーソ(輝く東京)」を、それぞれ贈られた。
9  もとより、これらはすべて、皆さまの代表として、私がお受けしたと思っている。皆さまの賞である。皆さまの福運に通じていく。
 私には、自分の世間的栄誉など微塵も必要ない。私は誉れの「信仰者」であり、仏勅の「学会員」である。戸田第二代会長の弟子である。これ以上の「誇り」、これ以上の「魂の勲章」はない。また、これらは何よりも、学会が「正法」の存在を世界に大きく宣揚した確固たる証である。
 この一年、こうした学会の功績を喜ぶどころか、かえって妬み、大聖人直結の和合僧を破壊しようという宗門の策謀と背信の嵐が吹き荒れた。しかし、真実は真実である。事実は事実である。私どもの平和への献身を、世界は熱い心でたたえている。
 その意味から、こうした学会への賛辞の一つ一つは、学会員、皆の団結で打ち立てた大勝利の″記念碑″であり、洋々と未来に開けゆく「世界広宣流布」を象徴していると、私は確信する。
10  著作活動も未来のため広布の種と
 ご存じの通り、本年五月三日から、約十一年ぶりに小説「人間革命」の連載を再開した。
 「大阪」の章(四十四回)、「裁判」の章(二十六回)に続いて、「涼風」の章(二十回)、計九十回の連載が、年内に掲載を終えることになっている。
 そして、明年の「SGIの日」(1・26)を期して、『人間革命』第十一巻が発刊される予定である。さらに、以前にも述べたように、十二巻をもって「人間革命」を完結とし、引き続き「新・人間革命」を連載する予定である。
 また、「大白蓮華」の一月号から六月号に「西暦二〇〇〇年の観点」(イギリス在住の世界的な天文学者・ウィックラマシンゲ博士との対談)が連載された。
11  著書としては、『人間と文学を語る』、『世界市民の対話』(アメリカの故ノーマン・カズンズ氏との対談)、『太陽と大地開拓の曲』(ブラジル移住の先駆者・故児玉良一氏との対談)、『大いなる魂の詩(うた)』<上>(ソ連の作家・アイトマートフ氏との対談)の四点を刊行した。
 加えて、海外出版社からの翻訳出版は、本年一年間で二十八点、合計では百三十八点となった。将来のために、大切な″世界広布の種″をまいているのである。
 その他、婦人誌「パンプキン」に「光のうた」を十三回、婦人誌「主婦の友」「主婦と生活」の新年号には、それぞれ「四季の光彩──心に残る風景」、「『開かれた心』の国際人・アン王女との語らい」を寄稿させていただいた。また、月刊誌「第三文明」新年号から「続・若き日の読書」の連載を開始した。
 ともあれ、明年も、本年の何倍も働く決心である。
 広布の舞台は広い。いよいよ、これからが本格的な出発である。世界の同志が待っている。人類が「人間主義の夜明け」を待ち望んでいる。
 皆さま方も、広宣流布のため、愛する創価学会のため、自身の「偉大なる人生」のために、私とともに思う存分、限りない可能性を発揮していっていただきたい。
12  御書には″信徒に授戒″の記述なし
 ところで、このほど、「御授戒ごじゅかい」について、教学部の方が調べてくれたので、その内容をそのまま紹介しておきたい。
 そのポイントを言えば、御授戒という「儀式」それ自体にとらわれる必要は、まったくないということである。
 大聖人の御書には、「授戒」「受戒」──戒を授ける、戒を受ける──という言葉は用いられているが、すべて仏教史上の過去の例を挙げられたものである。大聖人御自身が「授戒」されたという表現は、一つもない。
 ただ、「最蓮房さいれんぼう御返事」に、「貴辺に去る二月の比より大事の法門を教へ奉りぬ、結句は卯月八日・夜半・寅の時に妙法の本円戒を以て受職灌頂せしめ奉る者なり」──あなたに、去る二月のころから大事な法門を教え申し上げた。そのうえ、四月八日の夜半、寅の時(午前四時前後)に妙法の本円戒をもって、受職潅頂して差し上げたのである──と。
 これは、最蓮房に対して「授戒」されたことを述べられていると拝される。「妙法の本円戒」とは、本門の円頓戒えんどんかいのことで、妙法(御本尊)をたもつことをいう。
 「受職潅頂」とは、菩薩が妙覚の仏になろうとする時に、仏がその菩薩の頂(頭)に智慧の水をそそぐことをいったが、ここでは大聖人が、最蓮房に妙法蓮華経の五字を授けたことをさしていると拝される。
 最蓮房は、天台宗の僧として比叡山で法華経迹門の戒を受けていたと考えられ、独一本門の戒を大聖人から受け直したものであろう。つまり、これは「出家」に対する授戒であった。最蓮房自身が強く望んだものではないか、とも思われる。
13  この最蓮房と、同じく大聖人門下であった日昭の二人への授戒について、日亨にちこう上人は、次のように述べられている。
 「大聖人御門下において、叡山出身の弁成(成弁)日昭と最蓮房とは、まさに迹門受戒了(すでに受戒を終えた)の比丘(びく出家の弟子)であろうに、最蓮房だけは佐渡において大聖よりあらたに本門戒を受けたる御書あるが、日昭においては御門にはいるとともに本門戒を受け直したりとの文献も、伝説も見えず、かえって、門下をわざと北嶺(比叡山)に上らせて梵網戒ぼんもうかいの十重四十八軽(戒)を受けしめたりとの伝が残っておる」(「富士日興上人詳伝」)と。
 比叡山の出身で、もと天台僧だった日昭と最蓮房のうち、最蓮房は大聖人から授戒されているが、日昭の場合は、授戒されたという記録も伝説も残っていない。そればかりか、日昭は自分の門下をわざわざ比叡山まで行かせて、大乗戒を受けさせている、というのである。
 つまり、大聖人の御在世においては、出家の弟子に対してさえ、授戒されたという記録は、最蓮房以外には残っていないのである。まして、在家の信徒が授戒を受けたという記録は、まったくない。当時の慣習のうえからも、信徒への授戒はなかったと考えられている。
14  また日亨上人は、「末法の本門戒」の歴史についても、次のように述べておられる。
 「(日興上人の「五人所破抄」に)『ただし本門の戒体かいたい委細いさい経釈きょうしゃくは面をもって決すべし』とて、公開を避けておらるるから、有期限・無期限・顕露・秘密ともに、旧来の小乗方等ほうどう(大乗)・迹門と月支がっし・漢度(土)・日本に伝来した厳儀げんぎに準ずる本門本円戒の受持作法は、まったく行なわれたことがなかったとみるべく、しばらく他門から富士を見ての批判に、顕本(法華宗)日什にちじゅう直弟じきていの古記に『富士には受持(受戒の儀式)なし』といって、欠点の第一に教(数)えておる」
 要約すると、″日興上人も、「五人所破抄」の中で、爾前・迹門の戒ではなく、法華本門の大戒を用いるべきであるとされているが、その具体的な授戒の儀式については明らかにされていない。したがって、日興上人の時代にも、授戒の儀式は定まってはいなかったのであり、仏教の伝統に準じた授戒は行われていなかったと見るべきである。そのため、のちに他宗から、富士(大石寺門流)では授戒の儀式が定まっていない、と批判されたほどである″──というのである。
 そして日亨上人は、「あるいは、日什の古記に関係のなき広き富士でも、受戒の定規はなかったろうと思う。それが、近古きんこに至って、にわかにその式が新設せられたのではなかろうか」と。
 現在の授戒の儀式は、後年になって定められたものではないか、と考察されているのである。
15  妙法受持の「信心」に「受戒」の本義
 本来、「末法は無戒」である。釈尊の仏法における小乗教、大乗教、法華経迹門などの戒律は、末法の仏道修行には無益むやくであり、無用なのである。
 末法における戒について、大聖人は「教行証御書」にこう仰せである。
 「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内にあに万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけん
 ──この法華経の本門の肝心である妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字としたものであるから、この五字の内にどうして万戒の功徳を納めていないことがあろうか。ただし、この万行万善を具えた妙戒は、一度持てば、後に行者が破ろうとしても破ることができないのである。これを、金剛宝器戒というのである──と。
 すなわち、妙法蓮華経の五字(三大秘法の南無妙法蓮華経)には、三世の諸仏のあらゆる善行の功徳を納めているとされ、御本尊を受持することが、「末法の戒」であることを示されている。ひとたび御本尊を受持すれば、その戒体(戒の本体)は絶対に破ることができない。金剛石(ダイヤモンド)でできた宝器のように、堅固で壊れることがない。これを「金剛宝器戒」というのである。
16  また、「観心本尊抄」には、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と仰せである。
 ──釈尊の因行(成仏の因となる菩薩の修行)と果徳(因行の結果、成仏することによってそなわる徳)の二法は、ことごとく妙法蓮華経の五字(御本尊)に具足している。我らがこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えられるのである──。
 大聖人は、御本尊を信受することそれ自体によって功徳を得て、成仏できること──すなわち、「受持即観心じゅじそくかんじん」を明かされているのである。
 末法は、御本尊を受持して、生涯、不退に信行を貫いていくことが戒を持つことになるのであり、それを「受持即持戒じかい」というのである。
 日興上人も、相伝書である「三大秘法口決」の裏書きに、「受持即受戒なり、経に云わく是を持戒と名ずく」──受持することが即、受戒であり、それを持戒という──と記されている。
 したがって、末法における「受戒」とは、御本尊を「受持」することであり、それ以外に特別な「儀式」を行わなければならない、ということはないのである。
17  儀式は後年に新設、学会の折伏で定着
 それでは、今まで正宗寺院で行われていた「御授戒」の儀式は、何だったのか、という疑問が起こるであろう。
 学会の草創当時を知る、牧口門下生である和泉最高指導会議議長の証言によれば、信徒に対する「御授戒」の儀式は昭和十二年(一九三七年)ごろ、牧口先生が宗門に依頼して始めてもらったものだという。
 「当時の新入信者は、いくつもの邪宗を遍歴したうえで入信するケースが多かったので、正しい信心への″けじめ″をつけさせ、信心のくさびを打って退転させないために、授戒の儀式を受けさせたのである」という話であった。
 それ以前には、宗門には、信徒全員にきちんと授戒の儀式をするという伝統はなかったのである。第一、折伏をしないのだから、ほとんど新入信者も出ず、授戒する必要がなかった。牧口先生は、授戒の形式を必要とされたのではなく、あくまでも発心を固めさせ、不退の信心を確立させることを目的とされていたのである。
18  しかし当初は、学会員が折伏をして、入信希望者を連れていっても、どこの正宗寺院でも御授戒をしてくれたわけではなかった。最初は、東京の″中野の歓喜寮″と、砂町教会の二カ寺だけだったのである。後に常在寺が加わって、三カ寺に過ぎなかった。
 また和泉議長は「戦後、戸田先生によって学会が再建され、本格的な折伏活動が展開された後でも、宗門は決して協力的ではなかった」と語っている。
 戸田先生は昭和二十九年(一九五四年)七月の本部幹部会で、その実態の一端を述べておられる。
 「地方に、一軒の正宗の寺があった。学会の地方折伏の趣旨を話したが、『勝手にやりなさい』となんら助けてくれない。しかたがないので、(聖教)新聞とチラシをもって、一軒一軒まわった」と。
 ほとんどの僧侶は、学会の折伏・弘教の活動に対して無理解であり、むしろ、批判的でさえあった。その後、学会による折伏・弘教の伸展とともに、全国の寺院でも御授戒が行われるようになっていった。
 同じ牧口門下生の柏原参議会副議長は「なかには、やり方をよく知らない僧侶もいて、学会の幹部が教えてあげたこともある」と述べている。
 また、″謗法払い″も、学会が厳格に実践し、定着させた。総本山内の謗法払いまで学会の力でやったのである。
 「宗門がどんなに威張っても、全部、学会が教えてやったんじゃないか」と、牧口門下生は皆、語っていた。
 これが、正宗で「御授戒」が行われるようになった経緯である。信仰の″けじめ″の意義で御授戒の儀式は行われていたのである。本来、その形式自体が絶対に必要というものではなかった。
 大聖人の仏法の「受持即持戒」という本義からいうならば、御本尊を受持した時、または、最初に御本尊への信を起こした発心の時が、末法の戒を受けた時といえるのではないだろうか。
19  「不退の一念」に「万戒の功徳」
 さらに言えば、本来、戒とは″授けられる″ものというよりも、自身の決意で主体的に″持つ″ことに眼目がある。発心を持続することが、戒を持つことになるのである。
 大聖人は、苦難のなかにあった四条金吾に対して、「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」──(御本尊を)受けることはやさしいが、持つことは難しい。したがって、成仏は持ちつづけることにある──と、信仰の要諦を教えられている。
 妙法実践の途上には、必ず、さまざまな障魔や難が競い起こる。発心して、信仰を始めることはやさしいが、その決意を、生涯にわたって貫き通すことは難しいものである。
 たとえ、授戒の儀式を受けていても、苦難に負けて退転してしまえば、功徳がないどころか、かえって不幸になっていく。
 成仏の境界きょうがいを開くには、何があろうとも不退転の信心を貫く以外にはない。決意を持続し、正しい実践を貫くところに、信仰の実証が必ず現れるのである。
 つまり、末法における戒とは、妙法を持ちゆく強き「信心」の一念の中にある。いわば「信心即持戒」であり、「信仰の持続」こそ「持戒」なのである。反対に、信心なき化儀けぎ・形式には、なんの益もない。
20  ともあれ、戸田先生が叫ばれた「信心は大聖人の時代に還れ」こそが、我が創価学会の一貫した精神である。魂である。
 大聖人時代の信心。ここに、私どもの進むべき道がある。「大聖人直結」の実践を貫くところ、福運と功徳は無量に、永遠に、輝いていく。
 今、不思議なことだが、御授戒ひとつとっても、自然のうちに学会は、大聖人時代の信仰の姿通りになってきたのである。
 宗門による信徒への「御授戒」も、学会の大折伏によって確立されたのである。発展しきった今ごろになって、大功労の学会を破門したり、学会員への御授戒を拒むなどというのは、まさに本末転倒であり、仏法破壊の悪行である。
 何があろうと地涌の軍勢には行き詰まりはない。御書に仰せの通りである。彼らは信心がないので、それがわからない。私たちが困ると思って″意地悪″をしているのである。私どもは、大聖人の仏法の本義に照らして、「信心」本位で進めばよい。
 今お話ししたように、決してこれまでの″形″にとらわれる必要はない。知恵はいくらでもわいてくる。″会友運動″という新しい運動も、「広宣流布」への新段階として、身も心も軽やかに、勇んで取り組んでいただきたい。
21  大御本尊は「一閻浮提総与」であられる。「全民衆の幸福」のための御本尊であられる。その大御本尊が書写された、会館や皆さまのご家庭の御本尊も、御本尊としての御力に、何の違いもない。また、かりに御本尊を拝せない場合も、強盛な信心の唱題は、大御本尊に必ず通じていく。妙法は全宇宙にあまねき大法なのである。
 私どもに「無二むにの信心」ある限り、「無上宝聚むじょうほうじゅ 不求自得ふぐじとく(無上の宝聚、求めざるにおのずから得たり)」で、道は自在に、限りなく開けていく。また大聖人が、その道を厳然と開いてくださることは間違いない。
 このことを深く確信して、朗らかに、楽しく進んでいただきたい。
 最後に、本日、お会いできなかった皆さまにも、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。立川にも、必ずおうかがいしたいと願っている。
 すべての皆さまの「幸福」と「ご長寿」と「ご活躍」を、心からお祈り申し上げ、本日のスピーチを終わります。ありがとう!

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