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日蓮大聖人・池田大作

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豊島、文京、台東文化音楽祭、県・区代表… 正法の人を仏の如く敬え

1991.12.21 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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1  学会は庶民の黄金の城、民衆の正義の城
 明るくて、素晴らしい舞台でした。本当に、ご苦労さま。
 どうせ生きるのなら、楽しく、朗らかに、勇気をもって生きたい。大勢の人と一緒に「人生の大道」を行進していきたい。「勝ちゆく人生」を楽しみたい。
 陰険で陰湿な人生、嫉妬の人生は、どんなに地位や名声、富があろうとも、不幸の人生である。そして、学会にこそ、太陽に照らされた信心と人生の王道がある。
2  学会は、庶民の「黄金の城」である。民衆の「正義の城」である。幸福を追求する大善人の「団結の家」である。ゆえに、断じて、この崇高(すうこう)な学会を大切に守っていただきたい。
 また学会は、「人類の宝」であり、「灯台」である。広宣流布という最高の理想に生きる人間性の究極の世界である。
 「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」──法が妙であるゆえに、その法を受持した人が貴い。人が貴いゆえに、その人がいる所も尊い──と大聖人は仰せである。
 その「場所」の尊さは「人」が正しく「法」を持ち、実践しているかどうかで決まる。身延等に、大聖人の御真筆の御本尊があったとしても、謗法を容認するなど、正しい信心がないので邪宗であることに変わりはない。要は「信心」であり、「人」である。
 御本仏に完全に敵対した現宗門は、まことに残念なことながら、もはや仏法の正道を踏みはずしてしまった。私どもが大聖人の「正義」を守り抜いていく以外にない。また、それでよいのである。
3  きょうは、この会場に、著名なプロ野球の選手並びに関係者の方々が多数、わざわざ応援に来てくださっている。(ここで、「球円会」の代表が、一人一人紹介された)
 「信心」は「絶えざる向上の源泉」である。謙虚に、もっと頑張ろう、もっと上をと目指している時は信心も真剣である。油断や傲りが出てくると信心も停滞する。自分の道で「一番」になるまで、努力し抜くなかに信仰者の、そして人間としての勝利があり、輝きがある。
 また、海外十四カ国の代表二十五人、創価大学出身のメンバーからなる「友舞会」、学生部の全国の若きリーダー、学生部の在京国公立大学の人材グループである「学陣会」、方面鼓笛部長の方々も参加している。ご苦労さまです。
4  広布献身の学会員は″広布の英雄″
 また、この一年間、多くの役員の方々には大変にお世話になりました。創価班、城会、白グループ、白樺会・白樺グループ、転輪会、金城会、白雲会、また在京の栄光会、関西の鉄人会をはじめとする全国の設営グループ、守る会、パレスグループ、会館管理者の皆さま、聖教新聞の配達員・通信員の皆さま、婦人部の文化祭デザイン部、女子部のデザイン・グループ、男子部の白鳳会(デザイン・グループ)、SHN(SGI・ヒューマン・ネットワーク)をはじめ衛星通信に携わるサテライトグループ、ビデオ・映画の上映を担当する文化班、統監部、相談室、儀典部、妙筆グループほか、すべての役員の皆さまに、私から最大に御礼を申し上げます。ご苦労さまです。本当にありがとう。
 創価学会は、全員が大聖人を信じ、大聖人と直結した信心を貫いている。ゆえに難も競い起こる。御書に記されている通りである。
 しかし、この一年、我らが「創価の城」は、どんな嵐にも微動だにしなかった。
 それは、これらの方々をはじめとして、全国、全世界の尊貴なる「広布の英雄」「広布の天女」の皆さまが、厳然と信心で守りに守ってくださったからである。
 この信心の団結ある限り、創価学会は、断じて負けない。不滅である。永遠に、美しい「瑠璃」のような輝きを放っていく。皆さまのご苦労に、重ねて心から感謝申し上げたい。
5  「人間尊重」こそ「最上第一に相伝」
 労苦をいとわず、骨身を惜しまず、学会員のため、仏子のため、広宣流布のために尽くす役員の皆さま方の献身の行動。それが、どれほど尊いものであるか──。仏子を守り、大切にする振る舞いのなかに、法華経の精髄があり、大聖人の仏法の根本精神が脈動している。
 釈尊が、法華経二十八品で、一番最後に説いたのも、まさにこの点であった。それは「この経を受持する人を、まさに仏のごとくに敬いなさい」ということである。
 すなわち、普賢菩薩勧発品ふげんぼさつかんぼっぽん第二十八の一番最後で、釈尊は普賢菩薩にこう呼びかけている。
 「経典きょうでんを受持せん者を見ては、まさって遠くむかうべきこと、当に仏を敬うがごとくすべし」(開結六七二㌻)──もし、この妙法を受持する人を見たならば、必ず、立ち上がって遠くまで出迎えるべきことは、まさに仏を敬うように大切にしなさい──と。
 これが、釈尊が法華経で最後の最後に説いた教えである。また、それは私どもが、身をもって実践してきた経文である。
 仏子である会員の方々を最大に大切にし、真心を込めて奉仕する。それが学会のリーダーの根本の姿勢でなければならない。その″心″があるからこそ、学会はここまで発展してきた。「会員第一」の精神は、永遠に不変である。
6  大聖人の「御義口伝」には、この普賢品の文について、次のように仰せである。
 「此の品の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎とうきおんごう当如敬仏とうにょきょうぶつの文なり、此の文までにて経は終るなり
 ──この普賢品第二十八の中には、最上にして第一の相伝がある。すなわち、釈尊が八年間にわたって説いた法華経を八文字に留めて、末法の衆生に譲り与えられたのである。その八文字とは「当起遠迎当如敬仏(まさって遠く迎うべきこと、当に仏を敬うがごとくすべし)の文である。この経文までで、法華経の説法は終わるのである──。
 「当の字は未来なり当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり
 ──「まさに」という「当」の字は、未来のことである。「当起遠迎」とは(末法において)必ず仏の如くに法華経の行者を敬っていきなさいという経文である──と。
 妙法受持の人を、最大に尊敬し、大切にすること。その教えこそ「最上第一の相伝」であると述べられている。「当に」とは「未来」、つまり末法の「今」の時であると仰せである。また「法華経の行者」とは、別しては大聖人であり、総じては末法広宣流布に生きゆく大聖人門下であると拝される。
7  「仏子」を尊敬せよ。「人間」を尊重せよ。ここに最第一の「相伝」がある──。釈尊、そして大聖人の仏法に脈々と通う「人間主義」「人間愛」に、私どもは深く感動する。感謝する。心から納得する。その教え通りに、永遠に進みゆくことを誓い合いたい。
 反対に、広布の実践に励む学会員を奴隷のように軽蔑し、しいたげる言動は、仏法への、この「相伝」への根本的な違背いはいである。大聖人、また釈尊への「師敵対」であり、その罪は無限であると断じておきたい。
 もはや宗門には、この人間尊重の「相伝」が断絶してしまった。あるのは、「人間を軽賎きょうせん(軽んじ、いやしめる)する」という″僣聖増上慢せんしょうぞうじょうまんの相伝″だけである。
 正義は正義、邪悪は邪悪と明快に言いきっていかねばならない。「法の正邪」という一点を曖昧にしてしまえば、自分をも人をも不幸の道に転落させてしまうからだ。
8  「生命」は永遠である。「人類」も永遠である。「大聖人の仏法」も永遠であり、「広宣流布」の前進もまた永遠である。ゆえに何ものも恐れる必要はない。目先の小事に右往左往したり、移りゆく人の心に右顧左眄うこさべんする必要もまったくない。
 「大聖人直結」の大道を進む創価学会の「正しさ」は、御書に照らし、経文に照らして明白である。「真実」は、時がたてばたつほど明瞭になっていく。私どもは「永遠の勝利者」なのである。はるかなる「未来」を指さしながら、我が学会は、厳然と「この道」を進む。
9  日興上人の御遺誡にも反する宗門の転倒
 さらに、第二祖日興上人も「遺誡置文ゆいかいおきもん」の中で、この普賢品の文を引かれている。
 「身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事
 ──身軽法重(身を軽く法を重くする)の行者に対しては、たとえその人が、身分や立場が下で劣った法師であったとしても、「当に仏を敬うが如くすべし」との道理のままに、信じ敬っていくべきである──と。
 我が身をなげうって広宣流布に献身しゆく行動の人は、立場や地位にかかわらず尊敬していきなさい、との仰せである。まことに重大な御遺誡であられる。
 この仰せ通り、身軽法重で大聖人の仏法を行じ、弘めているのはだれか。それは私ども学会員である。学会員を仏の如く大切にしなさいとの御遺誡なのである。
 以前にもご紹介したが、日達上人は、この「日興遺誡置文」を拝され、次のように明言されている。
 「私は、世界の人の前で、この身軽法重の行者、折伏の指導者である創価学会会長池田先生を大事にします。また、折伏の闘士として、創価学会の皆さんを大切にします」(昭和四十一年五月三日、第二十九回本部総会)と。
 今や、こうした歴代上人の御心は、ことごとく踏みにじられてしまった。仏法とはまったくあい反する、冷酷にして残忍な世界となってしまった。情けないことである。「取るだけとって、一方的に切るなんて、こんなあさましいやり方はない。こんな大悪党の宗教は他にない」と言う声も多い。
 ずいぶん長い間、苦しめられ、いやな思いをさせられてきたものである。特に婦人部の皆さまは、その思いが強いのではないだろうか。しかし、もはや私どもは、そうしたずる賢い、いやな人間に、よけいな気を使う必要が一切なくなった。その分、我が「学会家族」をこれまで以上に大切にしながら、世界最高、人類最高の「衆生所遊楽」「常楽我浄」の人生を、晴れ晴れと歩んでいけるのである。
10  何があっても苦楽をともにしゆく、真実の同志愛。この麗しい創価のスクラムにこそ、大聖人の御精神が脈々と流れ通っている。大聖人の仏法の「正統中の正統」の実証がある。そこに無量の福徳が輝いていくことを、強く強く確信していただきたい。
 また、だからこそ、この純真で善良な「民衆の集い」を破壊しようとする「極悪」の勢力を、私どもは絶対に許すことはできない。
 偉大なる獅子は、ついに立ち上がった。吼えに吼える。戦いに戦う。「正義の勝利」「人間性の勝利」──それを事実のうえで証明する日まで。
11  「大悪」を「大善」と変えた勝利の一年
 ここで有名な「大悪大善御書」を拝したい。
 「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき
 ──大事の起こる前には小さな瑞相ずいそう(予兆)はない。大悪が起これば必ず大善がくる。すでに大謗法が国にあるから、大正法が必ず弘まるにちがいない。おのおのは、何を嘆かれることがあろうか──と。
 本抄についてくわしいことは不明だが、大難の真っただ中で、したためられた御書であると拝察する。大悪は、きたるべき大善を約束している、との仰せである。このことを心に深くとどめていただきたい。
 学会もこの一年、この御書の通りに、「大悪」を嘆くことなく、「大善」へと転換してきた。ふってわいたような事件にも、すぐさま極悪の本質を鋭く見抜き、敢然と戦った。そして民衆の″大歓喜のうねり″、民衆の″大確信のうねり″を起こし、この一年を大勝利で飾った。
 この強盛なる「信心」ある限り、時とともに、いよいよ明らかに、いよいよ大いなる大善の時代がくることは絶対に間違いない。
12  御書には続いてこう仰せである。
 「迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか、普賢菩薩の来るには大地を六種にうごかせり
 ──(大善がくるとの喜びで)迦葉尊者ではなくても、舞を舞うべきところである。舎利弗ではなくても立って踊るべきところである。上行菩薩(地涌の菩薩の上首じょうしゅ(リーダー)であられる)が、大地から出現された時には、踊り出られたのである。普賢菩薩がこの(娑婆しゃば世界という)国土に来た時には大地を六種に動かしたのである──と。
 われわれは、この御文のままに、何があろうと、「舞を舞い」「立って踊り」「踊り出ずる」──これが、地涌の菩薩の自在の人生なのである。
 さあ、踊ろう、戦おう、進もう、語ろう──学会にこそ、成仏という″最高に楽しき境涯″への軌道がある。皆が舞い踊り出すような、はつらつたる新年勤行会で「創価ルネサンスの年」を楽しく出発していただきたい!
 この御文に出てくる「普賢菩薩」は「一閻浮提いちえんぶだい広宣流布」を実践する力の象徴であると大聖人は示されている。すなわち、「御義口伝」には「此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に依るなり、此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり」──この法華経を一閻浮提(全世界)に行じることは、普賢菩薩の偉大な力によるのである。この経が広宣流布することは、普賢菩薩の守護によるのである──と仰せである。
 いよいよ、きょう集まられた皆さま、また全国の皆さまが、普賢菩薩の守護を得て、日本はもとより、世界へも飛び出し、「広宣流布」を一段と拡大していっていただきたい。
13  世界のどこでも太陽(大聖人の正法)は仰げる
 かつてゲーテはうたった。
   いつまでも土地にくぎづけになるな
   思いきりよく、元気に飛び出せ
   頭と腕に勇ましく力こもれば
   いずこにいてもわが家と同じ
   太陽をよろこぶところ
   どのような憂(うれ)いもない
 (「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」第三巻、登張正実訳、『ゲーテ全集』8所収、潮出版社)
14  一つ所にとらわれるような人生はわびしい。人間は、人生は自由である。私たちは、黒い鎖から自由になって、いずこにあっても「正義」を広げていけばよいのだ。さあ、思い切り外に飛び出せ、とゲーテも励ましてくれている。
 文豪は、さらに続ける。
   われらが世界に散らばるように
   そのためにこそ世界はこんなにも広いのだ
 世界は広い。人生も広々と生きたい。世界のいずこにあっても太陽は輝く。「太陽の仏法」も、ある特定の場所でしか実践できない等という道理はない。
15  皆さまは尊き南無妙法蓮華経の当体であられる。一念三千の当体であられる。皆さまが自身の胸中に「広布の新天地」を開くことによって、大勢の同志の胸も開かれる。組織も変わる。社会、国土の幸福をも大きく、さらに大きく開いていける。
 この確信に立って、明年も堂々と「広布の新天地」をともどもに開いてまいりましょう。全国の皆さま、本当にご苦労さま、本当にありがとう。

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