Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1回川崎文化音楽祭 広宣の舞台で戦う人は皆美しい

1991.12.15 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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2  恩師の慈愛「自分を大事に、一人残らず幸せに」
 さて、三十五年前の昭和三十一年(一九五六年)十二月八日、川崎の市民会館(現在は体育館)で、女子部の第四回総会が行われた。
 以前にもお話ししたが、この総会には総本山第六十五世日淳上人も御臨席くださり、「皆様方に日蓮大聖人の御魂が脈々と燃え上っている」「何一つ大聖人様の魂そのままを皆様がうけつがれていないものはない」等と賛嘆してくださった。
 日淳上人をはじめ、歴代上人は厳然と学会の前進を称賛され、励ましを送ってくださっている。
 「天子の一言虚しからず」である。最高の責任者・指導者の言葉には、相応の重みがある。そうした歴代上人の教えに背き、正法広布に励む学会を″破門″するなど、まさに「悪鬼入其身」の姿であろう。
3  この総会に出席された戸田先生は、参加した女子部員に、こう語りかけられた。
 「ここに集まった一万二千の諸君らと会った以上は、私は、みんなしあわせにしてやりたいと思う。そして五年、十年たった後『先生、私はこんなにしあわせになりました』とそばへきてほしいのです」と。
 これが、戸田先生の慈愛であられた。また、それは皆さまへの私の心でもある。
 そして先生は、「広宣流布は、きみらには頼まない」「きみらは自分だけ大事にして、自分がしあわせになりなさい」「だが、やるなといわれればやりたいのは人間の根性だから、やれたらやってもいいのです」と、ユーモアをたたえつつ温かく包容してくださっている。
 「一人も残らず幸福に」──。これこそが真の「仏法者」の心である。願いである。すぐに「堕地獄だじごくだ」とか「慢心まんしんだ」などと、信徒をどなりちらし、残酷ざんこくに圧迫することは、仏法の精神を破壊するものである。
 学会員は、全員が大切な、大切な仏法の「宝」の方々である。その尊い仏子ぶっしである学会員を、何ものにも利用させてはならない。また、断じて利用されてはならない。リーダーの方々は、父として、兄として、また母として、姉として、大切な同志を守りに守っていただきたい。
 お父さん、お母さんといえば、先ほど指導部の方々と少年少女部の皆さんが、「お月さまの願い」を一緒に歌ってくださった。まことに麗しい、「和楽」の象徴のような光景に、私は感動した。川崎の皆さまの熱演に、重ねて御礼申し上げたい。
4  アタイデ氏「人権を侵す権威主義者は人間失格」
 きょう、十二月十五日は、日本において実質的に「信教の自由」が確立された日といわれている。すなわち、終戦の年である一九四五年のこの日、「神道指令」が出され、それまでの国家と神道の関係が否定された。国民を軍国主義へとり立てた国家神道が解体されたわけである。
 実は、川崎の女子部の方々が、この歴史の意義などについて研究論文を寄せてくださった。鋭い論調でつづられた、大変に立派な内容である。心からたたえたい。
 「信教の自由」の獲得──それは、人類の人権闘争の先駆として、人間としての精神的基盤をつくる重要な役割を担ってきた。
 現在、信教の自由は「基本的人権」の一部をなし、″全世界で普遍妥当ふへんだとうする人権″として評価されている。
 一九四八年十二月十日、第三回国連総会で採択された「世界人権宣言」の第十八条にも、信教の自由はうたわれている。
5  昨日も、お話ししたが、ブラジルのアタイデ氏(ブラジル文学アカデミー総裁で、明年開催される″自然との対話″写真展の名誉実行委員、現在九十三歳)は、「世界人権宣言」の推進者の一人。″人権の闘士″として今も活躍されている。
 「最高に価値あるものは何か。それは″人間の存在″である。それ以外は皆、一時的なもので、状況に応じて変化する」──この一貫した精神が、氏の活動を支えている。
 例えば宗教といっても、人間あっての宗教である。人間を基盤とし、人間のためのものでなければ、まったく意味がない。人間という″最高の価値″に尽くす限りにおいて、宗教に価値が生まれる。
 アタイデ氏は語る。
 「『世界人権宣言』の特色は、人種差別、階級差別、貧富による差別、健病(健康か病気か)などの差別を取り除いた″皆、平等″の思想である。
 私たちは皆、人間であるからこそ、平等でなければならない。人間として生まれれば、皆、その尊厳を保障される権利をもっている。この思想は、まさに池田先生がリードする仏法の哲理と、まったく同じである」
 学会の運動によって、世界の最高峰の知性も、仏法の哲理に注目している。共感を寄せている。まさに私どもは″世界を舞台″に、歴史の最先端を切り開いているのである。
 「平等」こそ、人類すべてが認める普遍の価値である。いわんや最高に「平等」の仏法の世界に「差別」を持ち込むのは、反仏法であり、反人類であり、時代逆行である。
6  さらに、アタイデ氏は続ける。
 「民衆の『平等』のための運動に反する権威・権力は、世界的・普遍的な『人権』に傷をつけている。人権に傷をつけることは、人間として最低である。人間と呼ばれる権利はまったくない。世界平和のためには、全人類の人権という点を自覚せねばならない。人権、民衆の心に注目しない人や国は、時代に逆行していると断ずる以外にない」
 「権威主義のかさのもとに、人間と人権を傷つけることは、最も崇高な人間の自由を傷つけることになる。人権を中傷する者は、いかなる高位の者であれ、人間として″失格者″である」
 「『世界人権宣言』の起草者たちは、将来のことを考えていた。未来に大きく起こるであろう人権問題のことを考えていた。私たちは″人間″ということを考えていた。人間という視点から常に考えていたから、将来を見抜くことができた。
 池田先生が今、民衆のために権威主義と戦っておられることも同じ原理である。民衆のこと、人間のことを真剣に考えているからこそ、未来を見通されているのである」
 私どもの「宗教革命」の戦いは、まさに人間の自由、人権のための闘争である。時とともに、その重大な意義が明らかになっていくことを、強く確信していただきたい。
7  戦いは″勢い″──共に励まし勝利のリズムを
 弘安三年(一二八〇年)の十二月十六日、日蓮大聖人は、四条金吾の夫人・日眼女にちげんにょに、こう述べられている。
 「しゐぢ椎地の四郎がかたり申し候・御前の御法門の事うけ給わり候こそ・よに・すずしく覚え候へ、此の御引出物に大事の法門一つかき付けてまいらせ候
 ──(あなた方の同志である)椎地しいじ四郎さんが報告してくれましたが、(夫の四条金吾殿が)主君の前で法門を論じられたとうかがい、このうえなくすがすがしく思っております。そのごほうびとして大事な法門を一つ書き送りましょう──と。
 大聖人は、金吾が主君の前で法門を語ったこと、すなわち折伏をしたことを、″すがすがしい″と大変にお喜びになっている。
 広宣流布への行動は、すがすがしい。仏法の話を一言でも語ったあとは、心がさわやかになる。反対に、自らの欲望のままに生きる人生はあまりにもむなしい。悔いも残る。
 また大聖人は、門下の活躍をたたえ、″ごほうびを差し上げましょう″と。御本仏の温かいぬくもりが伝わってくる──。
 その他の御書を拝しても、大聖人は、門下のちょっとした報告をも、ひとつも見逃されない。すべてを的確に把握し、すぐさま、激励の手を打たれている。
 総じて、真の仏法の指導者は、社会・宇宙の回転を観じ、ギアをかみ合わせながら、壮大にして、ち密な大コンピューターのごとく、″時″に応じ、″機″に応じた手を打っていく。
 「一葉落ちて天下の秋を知る」といわれるが、大聖人は、この報告から、門下の「勢い」を感じられたと拝される。──金吾は主君の前で戦った。我が門下は憶病ではない。たとえ、いかなる法難が起ころうとも皆、立派に戦うであろう、と。
 戦いは″勢い″である。孤独になっては勢いは出ない。ますます心が沈んでしまう。これまでも連携をとれない、また連絡をとらない人の多くは、退転し堕ちていった。
 大変な時こそ、互いに声をかけあい、励まし、ほめたたえあう──そこに勢いが生まれる。愉快になる。爽快になる。明朗になる。勝利へのリズムが、生まれる。
 私も常に、このリズムをつくり、戦ってきた。皆さまの「勝利の人生」も同様であっていただきたい。
8  使命に生きる信心には″一切が大功徳″
 さて、大聖人が、このお手紙で″ごほうび″として書きとどめてくださった法門とは何か──。
 この一カ月前の十一月十四日に、鎌倉の八幡宮が炎上するという大事件が起こった。その事件の本質について、仏法のうえから明快に教えてくださったのである。
 「されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給うとも、法華経の行者を見てはいかでか其の影をばをしみ給うべき、我が一門は深く此の心を信ぜさせ給うべし、八幡大菩薩は此にわたらせ給うなり、疑い給う事なかれ・疑い給う事なかれ
 ──したがって、(諸天善神である)八幡大菩薩は、(権力者らの)不正直を憎んで天にのぼってしまわれたのである(だから八幡宮が焼けた)。しかし、法華経の行者を見ては、どうしてその影をうつすことをおしまれるであろうか。我が一門は深くこの旨を信じていきなさい。八幡大菩薩は、ここ(日蓮大聖人の一門のいる所)にいらっしゃるのである。決して疑ってはいけません、疑ってはいけません──と。
 悪鬼入其身の大謗法の寺社からは、諸天善神も逃げ去っていく。大聖人の仰せどおりに仏法を実践する人のもとにこそ、諸天善神はこぞって集まってくるのである。おめでとう!
9  この焼けてしまった八幡宮の再建工事は、本来、池上兄弟が担当することになっていた。池上兄弟は、当時、幕府の作事奉行さくじぶぎょう(建物の造営や修繕などの監督官)を務めていた。しかし、大聖人のもと折伏・弘教に奔走した兄弟はいわれなき讒言ざんげんによってか、その担当からはずされてしまう。さぞ悔しく、無念であったにちがいない。
 しかし、大聖人は、″かえってよかったのだ″と教えられる。というのは、当時、大聖人は、近い将来に蒙古の再襲来はまぬかれないとお考えになっていた。事実、本抄御執筆の五日前、蒙古は高麗兵船を派遣し、壱岐・対馬を侵略している。
 池上兄弟が、もし八幡宮の再建を担当した場合、なぜ八幡大菩薩が守らないのかと、その蒙古襲来まで兄弟の責任のようにされてしまいかねない。ゆえに、一時的に華々しく見えても少しも得にならないと、大聖人は示してくださったのである。
10  「かかる者の弟子檀那と成りて候が八幡宮を造りて候へども八幡大菩薩用いさせ給はぬゆへに此の国はせめらるるなりと申さむ時はいかがすべき、しかるに天かねて此の事をしろしめすゆへに御造営の大ばんしやう番匠を・はづされたるにやあるらむ 神宮寺の事のはづるるも天の御計いか
 ──(世間の人々から)「あんな人間の弟子檀那となっている者が、八幡宮を造っても、八幡大菩薩が用いようとされないゆえに、この日本の国は(蒙古から)攻められるのである」と非難された時は、どのようにするつもりなのですか。しかるに、天はかねてこのことを知っておられたがゆえに、あなた方を御造営の大番匠だいばんしょう(建設のリーダー)からはずされたのではないでしょうか。また神宮寺(神祇を祭るために八幡宮の境内に建てられた寺院)の工事からはずされたのも天の御計らいでありましょうか──と。
 ″苦労して工事を完成させても、少しもあなた方の得にならない。かえって損をして恥をかくかもしれない。だから諸天がその役目からはずしてくれたのですよ。喜ぶべきことですよ。守られたのですよ″──と。
 大聖人は仏法の真髄から見た考え方を教えられた。
 「信心」ある限り、根本は、すべて良い方向へ、良い方向へと向かっているのである。一切の変化また変化が、すべて「幸福」へ「成仏」への動きとなる。
 そう確信し、何ごとも良い方向に、前向きにとって楽観していく。そして、さらに勇んで知恵を働かせ、道を開いていく──そこに、いよいよ大福運がついてくる。いよいよ守られていく。功徳があふれんばかりにわきいずる。──ここに、ひとつの信心の極意がある。
 長い目で見れば、信心強き人には一切が功徳なのである。
 そして大聖人は、池上兄弟に「つねにめるすがたてにておわすべし」──いつもにこやかな姿をしていきなさい──と。
 どうか、皆さま方は、目先のことに一喜一憂せず、低次元のことを笑いとばしながら、悠々と楽しき人生を歩んでいただきたい。
11  「正しき信心」に正統の「血脈」
 血脈の本義について少々述べておきたい。
 日有にちう上人は、「信と云ひ血脈と云ひ法水ほっすいと云ふ事は同じ事なり、信が動せざれば其筋目すじめたがふべからざるなり、違はずんば血脈法水は違ふべからず、(中略)高祖こうそ已来いらいの信心を違へざる時は我レ等が色心妙法花経の色心なり、ノ信心が違ふ時は我レ等が色心凡夫ぼんぶなり、凡夫なるが故に即身成仏そくしんじょうぶつの血脈なるべからず、一人一日中八億四千のねんあり、念々中の所作しょさ三途さんず業因ごういんと」。
 ──信といい、血脈といい、法水ということは、同じことなのである。信心が動かなければ、その筋目は違うことはないのである。筋目が違わなければ、血脈・法水は違わない(正しい)のである。(中略)大聖人以来の信心を違えない時は、我らの色心は妙法蓮華経の色心である。この信心が違う時は、我らの色心は凡夫の色心なのであり、凡夫であるゆえに、即身成仏の血脈ではないのである。一人が一日に八億四千の念々を起こす。その念々の所作が皆、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の原因となるのである──とお示しになっている。
 つまり「信心」と「血脈」と「法水」とは″同じこと″であると──。難しいことは何もない。信心が動揺することなく、「正しき信心」を貫くところに、血脈が誤りなく流れるのである。
 大聖人以来の信心を少しも違えずに実践する時に、我々の色心は、仏の血脈が流れる妙法の当体となって、その身そのままで成仏できる、と仰せなのである。反対に、大聖人の仰せに背き、信心が狂った場合には、すべての行為が三悪道に堕する悪業になるのである。
 創価学会は、どこまでも「大聖人根本」「御本尊根本」に進む。この「正しき信心」の軌道は、永遠に変わらない。私ども学会員の「無二むにの信心」の実践のなかにこそ、大聖人からの信心の血脈が清らかに、また滔々とうとうと流れている。それを、この御文から、深く確信してまいりたい。
12  さらに、この御文について、日亨上人の註解を参照しておきたい。
 「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・この信心にりて御本仏より法水を受く、その法水の本仏より信者にかよ有様ありさまは・人体に血液の循環じゅんかんするごときものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通でんづうする所を血脈相承そうじょうと云ふが故に・信心は永劫えいごうにも動揺すべきものにあらず・撹乱かくらんすべきものにあらず、し信が動けば其法水は絶えてきたることなし」(「有師化儀抄註解」)
 要するに「正しき信心」を貫きゆく時、御本仏・日蓮大聖人から信徒の生命へと法水が流れ通う。それを信心の「血脈相承」というのである、と。
 さらに、「仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖たいせい開山日興上人已来いらいの信心を少しも踏みたがへぬ時、末徒まっとたる我等の俗悪不浄の心も・真善しんぜん清浄しょうじょうの妙法蓮華経の色心となるなり」、また、「不善不浄の邪信じゃしん迷信となりて仏意に違ふ時は・法水の通路つうろいたずらに壅塞ようそく(ふさがる)せられて・我等もとまま粗凡夫あらぼんぶの色心なれば・即身成仏の血脈をくべき資格消滅せり」(同前)と述べられている。
 ご指南は明快である。大聖人、日興上人以来の信心・実践を少しも踏みあやまたない時に、我ら凡夫の色心が妙法の当体となるのである。
 反対に、仏意に背いて邪信・迷信となった場合には、血脈の流れる通路がふさがってしまうため、血脈をぐ「資格」が「消滅」して、堕地獄だじごくの道をたどることになる。破仏法はぶっぽうの人間は、だれであれ、事実のうえで、即身成仏の血脈を受ける資格を喪失そうしつしているのである。
 仏法の根本は、どこまでも「信」である。「地位」でも「権威」でもない。「信心」の二字にこそ血脈は通い、生き生きと脈打つのである。
 もしも信心を失い、信心が狂った場合には、立場が高いほど、むしろ厳しく「法」によって裁かれることは間違いない。「信心の血脈が切れる」などと脅しているほうが、実は血脈が切れているのである。絶対にだまされてはならない。
 創価学会の「信心」は何ひとつ変わっていない。動いていない。変わったのは宗門のほうである。大聖人以来の成仏の血脈は、私どもに脈々と流れていることをいよいよ確信し、悪僧たちを見下ろしながら、朗らかに、堂々と、前進してまいりたい。
13  「法華経を修行せn人人は日蓮が如くに」
 ここで、再び御書を拝したい。
 「私ならざる法門を僻案びゃくあんせん人はひとえに天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし、此の法門は年来貴辺に申し含めたる様に人人にも披露あるべき者なり総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし、其れさへ尚人人の御心中は量りがたし
 ──(仏の)大事な法門を曲げて考える人は、ひとえに天魔波旬(第六天の魔王)がその身に入り代わって、人を惑わし、自他ともに、無間地獄に堕ちてしまうであろう。愚かなことである。愚かなことである。この法門は、長年、あなたに申し含めてあるように、人々にも披露されるがよい。
 総じて、日蓮の弟子といって法華経を修行する人々は、日蓮と同じようにしなさい。そうするならば、釈仏・多宝仏・十方分身の諸仏、諸天善神たる十羅刹も必ず守護されるであろう。そうであるのに(この道理がわからない人々がいるのはどうしたことであろうか)、なお人々の心の中は計り知りがたい──と。
 この御文は、弘安二年五月、下総(現在の千葉県)に住む富木常忍に与えられたお手紙(四菩薩造立抄)の一節である。
 当時、同じ下総に住む大田乗明の一族の中に、法華経の迹門には得道とくどうはないのだから、方便品は読まない、と主張する者がいた。大聖人は、それを″日蓮の本意の法門ではなく、もってのほかの邪見じゃけんである″と破折はしゃくされている。そして、大聖人の教えに背き、己義こぎ・邪見を構える者は、人を惑わし、自他ともの「正しき信心」を破壊する「天魔」である。必ず、無間地獄に堕ちるであろう、と厳しくいましめられている。
 すでに本質は明らかである。御聖訓は、現在の「正邪」と、未来の「悪の果報」をあざやかに照らし出してくださっている。
 また大聖人は、門下として正法を修行する者は「日蓮が如くにし候へ」と。大聖人が自ら実践され、教えられた通りの「正しき信行」に励んでこそ、真の門下である。そこに「信心の血脈」も流れていく。
 まさに、大聖人の仰せのままに実践してきた、創価学会の正しさを証明された御文ともいえよう。
14  戸田前会長「日蓮大聖人の時代に還れ」
 戸田先生は、昭和二十九年五月三日の第十回春季総会の席上、宣言された。
 「学会精神というと、なにかめんどうなことのように思うであろうが、それは、ただ『日蓮大聖人様の時代にかえれ』というだけです。日蓮大聖人様の御心みこころを心として、この大御本尊様を、みんなに受けたもたせたいというだけなのです。折伏というと、学会を大きくするかのように考える人たちも、なかにいないとはかぎらない。では、なぜ折伏するかというと、大聖人様は、大御本尊様を、みんなにただ受持させるためにあらわされたのではないのです。みんなをしあわせにしてやりたいと思って、示現じげんされたのであります」
 また、同年十月十八日におこなわれた第三回志木支部総会で、戸田先生は、次のようにも言われた。
 「学会はたえず叫ぶ、『日蓮大聖人様の昔に還れ』と。大聖人様は、法華経を弘めるために、あの苦難を受けたのではありません。その証拠には、佐渡からお帰りになったときに『三千貫の寺領を受けて法華経を弘めてよい』という北条幕府の申し入れに対し、ニッコリ笑っておおせには『なにも法華経を弘めることを許してもらいたいと思って、いままで戦ってきたのではない。日本の国を救わんがため、まちがった宗教が人心を弱めているから、それらをやめさせるために叫んだのである』と、三度いさめて聞かずんば去ると申されて、身延の山へこもられたのであります。この精神がすなわち学会精神なのであります。『広宣流布して、日本の国を安泰あんたいにしたい』、それが、われわれ創価学会の念願なのです」と。
 邪宗・邪義を打ち破って、苦悩する民衆を救うことこそ、大聖人の御精神であられた。いかなる理屈を構えようとも、民衆を苦しめ、信徒を悩ませる行動が、大聖人の御心に反していることは言うまでもない。
 また苦悩する民衆を救う広布の聖業(せいぎょう)を破壊する正義など、あるはずがない。
15  「第三の強敵の出現を喜べ」
 さらにこの時、戸田先生は述べられている。
 「(広宣流布は)どうなったらできるか、予言しておく。それは三類の強敵ごうてきが現れたときにできるのです。三類の強敵とはいかなるものか。俗衆増上慢ぞくしゅぞうじょうまんと申して、わけのわからぬ人がゴボゴボと悪口をいう。次は道門どうもん増上慢と申して、坊さん──失礼だからいいなおすと、坊主どもが自分らの信者が減るため、ゴボゴボいいだして悪口をいう。次に、もっともこわいのが僣聖せんしょう増上慢です。どういうものかというと、一国の指導者で、あの人のいうことならまちがいない、あの方こそりっぱな人だといわれる人が、この広宣流布に対して悪口をいいだしたときが、広宣流布するときです」と。
 そして「私が、初代会長のあとをついで、広宣流布の途上に立ちながら、いつも悲しく思ったことは、三類の強敵がない。三類の強敵どころか、第二類もない。すなわち俗衆増上慢だけで二類も三類もなかったので、ひじょうに悲しいと思っていたところが、最近、学会も十五万を超える世帯数となりました。(中略)そこで三流新聞の記者を買収して、攻撃してきた。邪宗の坊主が騒ぎだした。私は二類が現れたかと、心から喜んでおります。(中略)しかし、これからますます学会活動が本腰になるにつれて、日本じゅうの邪宗の坊主が結束してかかってくる。それでも責めようがなくなると、次に現れるのが第三類の強敵であり、これはこわい。これがでると、私もうれしいと思うが、みなさんもうれしいと思ってもらいたい。そのときこそ、敢然かんぜんと戦おうではないか」と指導されている。
 戸田先生が今、いらっしゃったなら、ようやく第三類の僣聖増上慢が出たぞ、と呵々大笑かかたいしょうして喜ばれることであろう。学会の実践が正しく、世界広布が本格的に伸展する時がきたからこそ、かつてない僣聖増上慢が出現したのである。
 戸田先生は、かつて「佐渡御書講義」の中で、釈尊在世に仏法を誹謗ひぼうした「六師外道」の末流まつりゅうが邪宗の僧と生まれて、法華経を誹謗し、大聖人を迫害するとの御文を拝し、叫ばれた。大聖人御在世の悪僧等が現在に生まれて、創価学会の広宣流布の邪魔をする、と。その際、将来を予見され、この悪僧等が「こんどは日蓮正宗のなかに生まれてくるのです」と喝破かっぱされている。
 ともあれ、戸田先生が指導されているように、私どもも、敢然と立ち上がり、大いに喜び勇んで戦ってまいりたい。
16  日亨上人「薄信・臆病者は「門下」にあらず」
 日亨上人は、「薄信はくしん(信心が弱く)臆病おくびょうにして、るべく法難をまねかぬ様に、(身口意の)三業を世間的に謹慎きんしん(言行を慎む)にして、大言壮語たいげんそうごもなし得ずして、非日的に行動する人あらば、それはすこぶる大聖人の御本意に遠ざかる、魔事怯業まじきょうごう(魔であり卑怯な行動)であると見なければならぬが、そう云ふ人は聖人の門葉には無からうと思ふ」と述べられている。
 「日蓮が如く」と正反対の「非日蓮的」な魔事──「薄信」「臆病」で法難を恐れ、広布への行動なき者は、門下ではない。いわんや今の宗門は、「非日蓮的」どころか「反日蓮大聖人」となってしまった。
17  私どもは、今までも、そして、これからも、変わることなく、″日蓮大聖人の門下″である。「日蓮が如くにし候へ」と仰せになった通りに、いよいよ「御書の通り」の実践に励めばよいのである。
 また、戸田先生が、「日蓮大聖人の時代に還れ」と叫ばれたように、これまでと同じく、大聖人の仏法の本義にのっとった、正しい信心・実践に立って、世界広布の道を、勇躍して前進し、開いていけばよいのである。
 しかも、今までと違って、民衆をしいたげるしき権威や、迷信的な化儀・形式、供養の強要などの、一切の鉄鎖てっさからき放たれて、自由に、自在に、伸び伸びと、広布の天地に駆けることができる。
 私どもは、大聖人の仏子である。″師子王の子″である。野犬の遠吠とおぼえのごとき狂態など、見下ろし、笑い飛ばしながら、いよいよ「創価の時代」の開幕と確信して、朗らかに前進してまいりたい。
 きょうは「偉大なる川崎」の雄姿を拝見でき、本当にうれしい。どうか「毅然たる信心」で、「楽しい人生」「有意義な人生」を満喫(まんきつ)していっていただきたい。
 また、同時中継の皆さまも、お休みのところ、ご苦労さまでした。きょうは、おめでとう!またお会いしましょう!

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