Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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神奈川・横須賀で第1回文化音楽祭 「旭日の港」から「自由の大海」へ船出

1991.11.24 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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2  今、先駆けの人に大果報
 「妙法比丘尼びくに御返事」を拝読したい。
 「日蓮は法華経のゆへに度度所をおはれ戦をし身に手をひ弟子等を殺され両度まで遠流せられ既に頸に及べり、是れひとえに法華経の御為なり
 ──日蓮は法華経のゆえにたびたび所を追われ、戦って傷つけられ、弟子等を殺され、二度までも遠流になり、すでに頸まで斬られそうになった。これは、ひとえに法華経のおんためである──。
 「法華経の中に仏説かせ給はく我が滅度の後・後の五百歳・二千二百余年すぎて此の経閻浮提えんぶだいに流布せん時、天魔の人の身に入りかはりて此の経を弘めさせじとて、たまたま信ずる者をば或はのり打ち所をうつし或はころしなんどすべし、其の時先さきをしてあらん者は三世十方の仏を供養する功徳を得べし、我れ又因位の難行・苦行の功徳を譲るべしと説かせ給う取意
 ──法華経の中で仏が説かれるには、「私の入滅ののち、後の五百歳、二千二百余年を過ぎて、この経が全世界に流布しようとする時、天魔が人の身に入り代わって、この経を弘めさせまいとして、たまたま信ずる者があれば、あるいはののしり、暴力をふるい、追放し、あるいは殺したりするであろう。その時、まず先駆さきがけをする人は、三世十方の仏を供養するのと同じ功徳を必ず得る。私(釈尊)もまた、難行・苦行の修行の功徳を譲るであろう」と説かれている──。
 この御聖訓通り、世界広宣流布をさせまいとする圧迫に対し、「先駆けして戦う人」の大果報は絶対である。
3  「立正安国論」の御指南──″悪侶を誡めよ″
 また、「立正安国論」には「悪侶を誡めずんばあに善事を成さんや」──悪い僧侶をいましめなければ、どうして善い事を成し遂げることができるであろうか──とある。
 そして、この御文の前には、悪侶の本質を鋭く指摘した「法華経」「涅槃経」の門が引かれている。まず「法華経」(勧持品)の文には、次のようにある。
 「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲てんごくに未だ得ざるをれ得たりとおもい我慢の心充満せん
 ──悪世の中の僧侶は、邪智で心が正直でない。いまだ悟っていないのに悟ったと思い、自分は偉いと思い上がる心が充満している──。
 「或は阿練若あれんにゃに納衣にして空閑に在り自ら真の道を行ずとおもいて人間を軽賤する者有らん
 ──あるいは人里離れた静かな場所に、袈裟けさ・衣を着けて閑静かんせいな地に暮らし、自ら仏法の真の道を行じているとおごり思って、人間を見下みくだし、いやしめる悪侶があるであろう──。
 「利養に貪著とんじゃくするが故に白衣の与めに法を説いて世に恭敬くぎょうせらるること六通の羅漢の如くならん
 ──(彼らは)自分の身を養うことに執着しゅうじゃくむさぼるゆえに、在家のために法を説いて、世の人々から、まるで六神通(六種の神通力)を得た羅漢(阿羅漢=声聞が修行によって達する最高の悟りの境地)のように尊敬されるであろう──。
 「常に大衆の中に在つて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗ひぼうして我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん
 ──常に大勢の人々の中で、正法を持つ私たちをそしろうとするがゆえに、国王や大臣、バラモン、在家の名士、および諸々もろもろの僧侶に向かって(正法の行者のことを)「よこしまな思想をもっており、(仏法ではない)外道の論議を説いている」等と誹謗するであろう──。
 「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈し毀辱せん
 ──濁りきった悪世の末法においては、多くの諸々の恐怖があるだろう。悪鬼がその身に入って、正法の行者をののしったり、誹謗しはずかしめたりするであろう──。
 「濁世の悪比丘は仏の方便・随宜所説の法を知らず悪口して顰蹙ひんしゅくし数数・擯出せられん
 ──濁った世の悪侶は、仏が衆生の機根にしたがって説いた方便の教えを区別できず(邪法を容認し)、かえって正法の行者の悪口を言い、顔をしかめて憎み、何度も、その正法の行者を追放するであろう──と。
 これらの御文に描かれた「僣聖増上慢せんしょうぞうじょうまん」の姿は、今日にも通じる永遠の鏡である。
4  形のみの沙門は貪欲な猫の如く
 さらに続けて涅槃経ねはんぎょうの文が引かれている。
 「我れ涅槃の後・無量百歳・四道の聖人ことごとく復た涅槃せん、正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし
 ──私(釈尊)が入滅して後、幾百年幾千年もの長い年月を過ぎると、(仏法を正しく伝える)四道の聖人たちもことごとく入滅するであろう。正法時代が過ぎて像法時代になると(像法は仏法が形骸化する時代。末法の教主・大聖人がここに引かれた意義を拝すると、ここでの像法は末法に通ずるものと考えられる)、次のような僧が現れるであろう──。
 「持律に似像して少く経を読誦し飲食を貪嗜して其の身を長養し袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く猫の鼠を伺うが如し
 ──(その僧は)外面は戒律を持っているように見せかけて、少しばかり経文を読み、食べ物をむさぼって我が身を養っている。袈裟を身にまとっているけれども、(信徒の布施をねらうありさまは)猟師が獲物をねらって、細目に見てしずかに近づいていくようであり、また猫がねずみを取ろうとうかがっている姿にそっくりである──。
 「常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善けんぜんを現し内には貪嫉を懐く唖法を受けたる婆羅門等の如し、実には沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗ひぼうせん
 ──そして常に「自分は羅漢の悟りを得た」と言い、外面は賢人、善人のように装っているが、内面はむさぼりと嫉妬を強く懐いている。(堂々と外部へ正法流布の言論戦ができないさまは)唖法あほう(無言の行)の術をうけて黙り込んでいるバラモンのようである。実際には、僧侶でないのに僧侶の格好だけをして、(内心は)邪見が非常に盛んで正法を誹謗ひぼうするであろう──と。
 このように大聖人は、経文に照らして悪侶をいましめられている。同じように、今、学会が、大聖人の「御書」を根本に、迫害を受けつつ正法の主張を続けていることこそ、誉れである。
5  最後に、学会は広宣流布という最高善を実践する団体である。法のため、人のため、社会のため、そして同志のために、何らかの「歴史」を残したと胸を張れる一生を送っていただきた。自分自身の使命と信念に生ききる──これ以上に尊く、喜びと福徳に満ちた人生はない。
 ″横須賀、万歳!″″神奈川の同志の皆さま、お元気で!″と、励ましのエールを送りつつ、祝福のスピーチとさせていただく。

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