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日蓮大聖人・池田大作

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本部幹部会、品川・目黒文化音楽祭 声は力! 民衆の叫びが正法を未来へ

1991.11.23 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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2  また、ポエール議長は、青年へのメッセージとして、次のように語ってくださった。
 「絶対に悲観主義ではいけない。楽観主義でいくべきです。物事は、いろいろと変化していくものですから」と。
 森羅万象、すべてが変化、変化である。美しい花も、いつかは枯れる。皆さま方だって、十年たてば、その分、年をとっている。変化のないものはない。むしろ、変化があって当然なのである。逆に、何も変わらないのでは困ってしまう。
 変化のなかでただひとつ、不変にして常住の法が妙法である。ゆえに妙法への信心が不変であれば何が変わろうと驚くこともない。神経質になる必要もない。むしろ一切の変化を、より大きな幸福へと生かしていけるのである。
 そう確信し、カラッと愉快に、楽観主義で──これが大聖人の仏法を持った信仰者の生き方である。
3  続けて、議長はこう語ってくださった。
 「また何かやろうとするときは、自分自身を信じることです」と。
 人ではない。自分はこう生きるのだ、という確信が勝利をもたらす。周囲の声に紛動され、そのたびに猫の目のように心を変えていたのでは、何ひとつ確かなものは建設できない。
 私は創価学会に入ったんだ。ここで私は希望を見いだし、確かな人生の道を知った。だから、何があろうと創価学会員でいく──こう自分で決め、決めた自分を信じていくことが大切なのである。その不動の「一念」が、不動の「幸福の人生」をつくり上げていく。
 さらに議長は、「そして人間的な温かい心と情熱をもってやらねばならない」と。
 先ほどの青年部の歌声には、まさにこの精神が満ちあふれていて、私は感動した。
4  ところで本日は、東京・調布<区>の音楽祭、第二八王子<区>の文化音楽祭、福島の文化音楽祭、壱岐の家族音楽祭、秋田・横手圏の家族合唱祭も開催されている。心から祝福申し上げたい。
 また、各地の幹部会、合同研修会が行われている。おめでとうございます。本当にご苦労さまです。
 なお本日は東京の「江戸川の日」(11・23)二十周年にあたるが、新たに江戸川会館で衛星同時中継がスタートした。おめでとうございます!
5  四季を彩る出会い、友情、風景
 さて、日本を代表する婦人誌であり、二十年来のお付き合いとなる、『主婦の友』誌と『主婦と生活』誌の明年新年号に、今回も、一文を寄稿きこうした。
 その編集関係者が語っておられたという。「全国の書店を回って、まず最初に聞かれるのは、『名誉会長の原稿は掲載されるのか』ということであった」と。
 私としても、こうした機会に、広く人間観、人生観について語ることは、ある意味で仏法者としての責務であるとも考え、寄稿させていただいている。また、皆さまが喜んでくださるし、社会に道を開きゆくことにもなると思う。反響も大きい。(今年の「読書週間」に当たっての毎日新聞の世論調査(十月二十七日付)によると、「好きな著者」の第九位に名誉会長が、「この一年で感銘した本」の第二位に「人間革命」が挙げられている)
6  二誌のうち、『主婦の友』のタイトルは、「四季の光彩こうさい──心に残る風景」。編集部から、「激動の世界を歴訪されている名誉会長に、折々の出会いを通し、女性としての生き方を執筆していただきたい」との要望があり、このタイトルとさせていただいた。
 冒頭は、心にわきいずる詩情のままに、短い詩から書き起こした。
   春とともに心美しく
   夏とともに心ほがらかに
   秋とともに心広々と
   冬とともに心たくましく──
 春夏秋冬の織りなす美しき風景。そして、その折々に出会った人々──寄稿では、そのなかから、四つのエピソードを紹介した。それは──、
 (1)十二年前の春に訪れた、中国の桂林。そこで出会った、薬売りの乙女。このエピソードについては、先日もお話しした(十一月十二日、大学会・渋谷区合同記念総会)
 (2)ドイツの歴史の街・フランクフルトで再会した、オーストリア文部次官のサイフェルト女史。(女史とは一九八九年七月に、初めて会談している)
 (3)ロンドン郊外にそびえるウィンザー城──そこから続く「ロング・ウォーク(長い道)」。そして、ゴルバチョフ・ソ連大統領とライサ夫人のドラマ。
 (4)世界の教育の都・ボストンでお会いした、米・ハーバード大学のルデンスタイン学長と、ノーベル平和賞作家のヴィーゼル博士──である。
 また、各地訪問の折、スケジュールの合間をぬってカメラに収めた光景も、要望に応じて紹介させていただいた。
7  サイフェルト女史「雨のあとには太陽が輝く」
 私には、「友人」という「宝」がある。世界に開いた″友情の道″″友情のネットワーク″──ここに、私の誇りがあり、幸福もある。エッセーにつづった、オーストリアのサイフェルト女史も、そのお一人である。
 明年一月二十六日の「SGI(創価学会インタナショナル)の日」から、そのオーストリアの首都・ウィーンにある「キュンストラーハウス(オーストリア芸術家協会)」で、「自然との対話」写真展が開催される運びとなった。また、東京富士美術館の所蔵品による「日本美術の名宝展」も、同時に開催の予定である。
 本年六月、私は、百三十年の伝統を誇る、この「キュンストラーハウス」から、「写真の分野における芸術的業績をたたえて」との理由で、日本人初の「在外会員証」をお受けした。世界でも数少ない会員証であり、過分のご評価に、恐縮のほかないが、その授与式のために特使としてこられたのが、サイフェルト女史である。
 女史は、席上、こう語られていた。
 「『冬は必ず春となる』という、素晴らしい仏典の言葉をうかがいましたが、オーストリアにも、『朝がくれば、必ず太陽は昇る』『雨のあとには、必ず太陽が輝く』という言葉があります。そうした太陽のような生き方を、私は(目が不自由な)両親から学んだのです」と。
 心には心で、誠意の言葉には、確かな手応えのある言葉で、こたえてくださっている──これが、人間の道であろう。ただ一方的、高圧的な態度に終始し、何を言っても「対話」が成り立たない世界では、人間として、あまりにもわびしい。だれからも相手にされなくなってしまおう。
8  さらに、「一番、つらかったこと」についておたずねすると「やはり、仕事のことでしょうか」と。
 「役所ですから、高い地位は、ほとんど男性です。″女性は、家のことをやっていればいいんだ″と言われたことも何度もあります。この二十年間は、そんな無理解との戦いの連続でした。健康で、どんな苦しみも、はねかえすエネルギーがなければ、負けてしまったと思います。
 でも周囲の人々と、衝突ばかりしていれば、やってこられません。むしろ、どうやって上手に調和をとっていくかに、心を砕いてきました」
 女性の働きや意見を、最大に尊重する社会でなくてはならないと、私も思う。学会の組織においても、当然である。本日、この席をお借りして、「婦人部の皆さま、本当にいつもありがとうございます!」と全国の壮年部とともに、謹んでお礼申し上げたい。
 また、先日、女史からいただいた長文のお手紙には、こう記されていた。
 「私のモットーは、『意志あるところに、必ず道はある』ということです」と。深い友情の心がこもる言葉であった。
 私どもも「広布大願」の意志あるかぎり、必ず、広々と道は開けていく。
 また女史は「学会には自由と平等があるから発展したのですね」と洞察しておられた。
 ともあれ、見る人は見てくださっている。正邪を、正しく見極(みきわ)めておられる。そうした意味も含めて、ご紹介させていただいた。
9  人間として輝く人が真の国際人
 もう一誌、『主婦と生活』でのタイトルは「『開かれた心』の国際人・アン王女との語らい」。ここでは、「世界で今、一番、輝いている女性」の一人として、イギリスのアン王女の生き方を通し、″国際化の時代にあって、これからの女性は、どうあるべきか″など、感じるところをつづらせていただいた。
 さまざまな重要な立場で、国のため、平和のため、人権のために戦っておられるアン王女。その活躍をよく知る、英国貴族の一人は、世界に心を開いた王女の毅然とした姿、聡明さ、優しさを心からたたえておられた。王女のように″人間として目覚めた″人物には、多くの男性も、なかなか追いつけないのだとも語られていた。要するに「境涯が違いすぎる」のだ、と。
 そうした場合には、夫婦でも他の関係でも、なかなかうまくいかないことは、皆さまもご存じの通りである。
 私も、初めて、バッキンガム宮殿で王女とお会いした時(一九八九年五月)、その通りだと思った。アン王女ほど、新聞や雑誌で、実像と違う書かれ方をした人も少ないだろう。実際にお会いしてみて、私はその人柄、その誠実な生き方に、風評とは正反対の、人間としての本物の輝き、国際人としての風格を見た。王女は闘士であった。人権の闘士であり、信念の闘士であられる。
10  「国際化」「国際人」──その意義はますます大きくなってきている。日本からの海外渡航者も、今や年間一千万人にも及ぶ時代になった。ところが、その広がりが、そのまま日本の国際化の広がりとはならない現状がある。
 何が欠けているのか──。新年号の一文では、こう指摘した。
 「日本人が『国際化』を問われているとは、実は日本人が『人間としての生き方』を問われているのだ」と。
 「人間として」輝いている人は、世界中どこに行っても輝いている。その人が真の国際人である。また、経済や政策のレベル、表面的な流行や観光という次元だけでなく、生身なまみの人間同士の″心の交流″が大事であると述べた。
 あまりくわしく話すと、読む楽しみが薄れるが、コマーシャルとして一部を紹介させていただいた。
11  悪僧は自分に従わなければ堕地獄と脅す
 ここで「根本」である御書を拝したい。「撰時抄」では、中国の悪僧・三階禅師さんがいぜんじにふれられている。三階はずいの時代、天台大師とほぼ同時代の僧である。
 「漢土の三階禅師の云く教主釈尊の法華経は第一・第二階の正像の法門なり末代のためには我がつくれる普経なり
 ──中国の三階禅師が言うには、「教主釈尊の法華経は、第一段階・第二段階の正法しょうぼう像法ぞうぼう時代の法門である。(第三段階の)末法まっぽうのためには、自分が作った『普経』という教えでなければならない」──と。
 仏の経文よりも、自分が勝手に作った教えに従えというのである。これでは、もはや「仏の教え」とは言えない。
 宗教は往々にして、こうした″トリック″で民衆をあざむき、しばろうとする。聡明な皆さまは、絶対にだまされてはならない。どこまでも経文を、私どもでいえば、御書を根本としてこそ、「正法」なのである。
12  さらに、三階禅師の邪説は続く。
 「法華経を今の世に行ぜん者は十方の大阿鼻獄に堕つべし、末代の根機こんきにあたらざるゆへなりと申して
 ──(禅師は)「法華経を今の世に行ずる者は、十方の大阿鼻地獄に堕ちるであろう。末法の機根きこんに合わないからである」と言って──。
 「堕地獄」「堕地獄」と、むやみに人々を脅そうとする。これも腐敗した宗教の常套手段である。
 本来、宗教は「人を救う」ものである。なぜ、そんなに人を地獄に堕としたがるのか。無慈悲な言動は、それ自体、インチキの証拠であろう。
 「六時の礼懺・四時の坐禅・生身仏のごとくなりしかば、人多く尊みて弟子万余人ありしかどもわづかの小女の法華経をよみしにせめられて当坐には音を失い後には大蛇になりてそこばくの檀那弟子並びに小女処女等をのみ食いしなり
 ──(禅師は)一日六度の礼拝らいはい懺悔さんげや一日四度の坐禅などを行い、生き仏のように多くの人々から尊ばれていた。弟子も一万余人もできたのであるが、法華経を学んだ、かよわい少女に責められて、その場で声も出なくなり、後には大蛇となって(本性をあらわし)多くの檀那や弟子や少女、乙女等を飲み込み、食べてしまった──と。
 万余の弟子を誇った高僧も、法華経を持つ少女によって正体を暴かれてしまった。いかなる「権威」も「正論」の前にはむなしい。少女の胸のすく活躍は、今で言えば、学会の女子部の姿であろうか。
13  悪侶の本性をあばいた在家の女性の叫び
 「法華伝記」という唐(とう)の時代の記録では、この説話を大要、次のように伝えている。
 (同伝記は、三階禅師の弟子と在家の女性との対決としており、「撰時抄」では、この記述を要約して述べられたと拝察される)
 この三階禅師一派のある僧侶は、愚かな俗人をつかまえては、「法華経なんか読んでいては地獄に堕ちますよ。すぐに懺悔すべきです」と言って、自分たちの一派に勧誘していた。
 ──何の悪いこともしていない人に「懺悔せよ!」「謝れ!」と連発して、自分たちのほうに連れていこうとする。これが、正法破壊のひとつの図式なのである。
 この時、一人の優婆夷(うばい)(在家の女性信徒)が立ち上がった。彼女はみずから法華経を持ち、そして一生懸命に弘法ぐほうに励み、友人や知人にも法華経を持たせてあげていた。ところが禅師一派の悪侶は、こうして彼女がせっかく苦労して育ててきた人たちに対しても「地獄に堕ちる」等と脅し、自分たちの支配下に誘い込んだ。
 けなげに弘法に励んできたこの″女性リーダー″は、大切な正法の同志を泥棒のように奪い取ろうとする悪侶に、決然と挑む。一万人もの敵陣のまっただなかで、声高らかに叫んだ。
 「もし、私が法華経を持つことが仏意に適っていないならば、皆の前で阿鼻地獄に堕としてみせよ。しかし、もし私が法華経を持つことが仏意に適っているならば、私たちを脅しているあなた方のほうこそ、裁かれるべきである」
 ″私たちは正しい信仰を貫いている!人を救うべき僧が、地獄に堕ちると脅すとは断じて許せない!そんな恫喝どうかつなんかにおびえるものか!″と。
 また″大事なことは、仏意に適っているか、いないかの一点である。私たちには、その絶対の確信がある!地獄に堕ちるというのなら、それはあなたたちではないか!″と。
 ──「正義の怒り」に燃える女性の声は、まことに強い。それは、やむにやまれず心の奥から放った「魂の自由」の叫びであった。言うべきことも言えない。言いたいことも言えない。これこそ地獄である。
 正義の主張を語って語って語り抜いていく。そこにこそ、我が「生命の勝利」が晴れ晴れと輝く。
 そして、この恐れを知らぬ女性リーダーの「声」が、力強くとどろきわたると、それまで偉そうに己義こぎ(自分勝手な教え)を説いていた禅師は、魂を抜かれたように声を失い、急にしゃべれなくなってしまった。なみいる老僧たちも、皆、まったく言葉が出なくなった。
 この女性の、歴然とした信心の勝利によって、悪侶にたぶらかされてきた者たちにも、ようやく目を覚ますきっかけが与えられたのである。
 とともに、禅師の一派は、一人の女性の勇気の「声」によって、けの皮がはがされてしまった。信徒や弟子たちを貪欲どんよくに″食い物″にする、「大蛇」のごとき本性が、あからさまになってしまった。
 哀れなのは、蛇に飲み込まれるように、悪侶によって底知れぬ苦しみの淵に引きずり込まれた信徒や弟子たちであろう。
14  今こそ「声仏事を為す」と
 今、私どもの「正義の声」「真実の声」「自由の声」が、あの地にも、この地にも、明るく伸び伸びと響きわたっている。不気味な「恫喝どうかつの声」「おどしの声」は、民衆の声のうずによって完全にかき消され、威力いりょくのかけらもなくなってしまった。
 「声」は力である。「声仏事を為す」と説かれる。
 総じて、妙法を根本にした正義の「声」が、どれほど偉大であるか。それを証明することがまた、私どもの信仰である。ゆえに、「声」を失うことは信仰の敗北である。叫び続けていくことが、勝利につながる。
 私どもは、これまで十数年間、僧俗和合のため、何があってもひたすら耐えてきた。常に宗門を立て、守り、かばおうとしてきた。
 だが、今、私どもが宗門の危機的状況を見るに及んで、これ以上、黙っていることは、かえって大悪となる。後世のために、真実を伝え残しておかねばならない。今、あらん限りの声で叫び、大悪の根を断ち切っておかなければ、大聖人の仏法は消滅してしまう──これが、私どもの憂いであり、心からの「叫び」となったのである。
15  もとより「信心の血脈けちみゃく」は、大聖人との血脈である。私どもは、大聖人を信じ、拝し、日々、信仰に励んでいる。その無二むにの信心にこそ正法は脈動すると、大聖人は仰せになっている。
 また、大聖人の仏法は「下種げしゅ仏法」である。大聖人の教えを語っていくことが正法流布の前進となる。その行動の中に無量の福徳が備わってくる。発心ほっしん下種、聞法もんぼう下種といって、語った相手がすぐに信心を起こす場合(発心下種)も、起こさない場合(聞法下種)も、その功徳は同じである。
 ゆえに語り抜くことである。そこに正義がある。正しき令法久住りょうぼうくじゅうがある。万年への広宣流布の道が開けてくる。
16  広布の途上では、善いことにも悪いことにも、さまざまに出あう。順風だけの人生はありえないし、波風がなければ、航海の喜びもない。
 「善悪不二ふに」「善悪一如いちにょ」である。生命それ自体、「無明むみょう」「法性ほっしょう」という両面をもつ。深い次元においては、無明という闇があるからこそ、法性が輝く。
 このことは、広宣流布の前進においても同じである。五濁悪世ごじょくあくせであり、大なり小なり、悪との衝突は避けられない。「すりかえ」によって被害者が加害者のように宣伝されることも、現代の実相である。それらを変毒為薬へんどくいやくすることによって、信心を深め、知恵と福徳を増していけるのである。
 その意味で、「宗風をけがす」等ということも、表面の世間的な現象によってではなく、どこまでも仏法上の基準によって論ずべきであろう。
 現象面の善とか悪とかは、いわば相対的なものであり、その人の立場や見方によって正反対にもなる。
 それに対して、仏法の根本は「勝負」である。「正義」が勝つか負けるか、栄えるか否か──勝負は絶対的なものである。ここに大聖人の仏法のひとつの真髄がある。
 何が起ころうとも、すべて御仏意ごぶっちととらえ、妙法に生き切っていく。「仏法は勝負」の一念で、勝ち抜いていく。その不屈の信心を貫き、未曽有みぞうの広布発展を実現してきたのが、我が学会の歴史である。
17  「妙法の力用」に生き詰まりはない
 大聖人は、こう仰せである。
 「凡夫にてをはせし時・不妄語戒を持ちて・まなこかれ・かわをはがれ・ししむらをやぶられ・血をはれ骨れ・子を殺され・うばわれなんどせしかども・無量劫が間・一度もそら事なくして其の功に依りて仏となり給いて候が・無一不成仏と申して南無妙法蓮華経を只一度申せる人・一人として仏にならざるはなしと・かせ給いて候
 ──(釈尊が)凡夫であられた時、「妄語を言わない戒」を持って、眼を抜かれ、皮をはがれ、肉を破られ、血を吸われ、骨は枯れ細り、子供を殺され、妻を奪われなどしたけれども、無量劫の間(計り知れないほど長い間)、一度もうそがなく、その功徳によって仏になられたのであるが、(その釈尊が)「一人として成仏しない者はない」と経文(法華経方便品)にあるように、「南無妙法蓮華経をただ一度でも唱える人は、一人として仏にならないものはない」と説かれているのである──と。
 「うそ」を言わないのが仏様であると仰せである。「うそつき」は絶対に仏ではないということである。
 その、うそを言われない釈尊が、「題目をただ一遍でも唱えた人は、必ず仏になる」と仰せである。何より御本仏・日蓮大聖人がそう断言しておられる。それほど、妙法の力は広大無辺なのである。
 いわんや、日々、妙法を唱え、長年にわたって広宣流布に励んできた仏子ぶっしが、成仏できないはずがない。御本仏の大慈悲の仰せと、悪侶の脅しとは、まさに正反対である。
 「一遍の唱題に無量の功徳」がある。ゆえに「信心」ある限り、真の仏子には永遠に行き詰まりはない。自在であり、自由であり、広々とした「知恵の道」「大福徳の道」が、時に応じて、限りなく開けてくる。
18  中国の大河・黄河のごとく、この正法流布の流れは、とどまることがない。悠々と、大山脈を越え、大平原を渡り、時に大きく迂回うかいし、時に、まっしぐらに進み、常に己の軌道を堂々と描いていく。
 大河であるほど、変化も大きい。定規で引いたように、まっすぐに進むのは、コンクリートで固めた用水路かなにかであろう。大河であるゆえに、変化を楽しみ、途中の多様な景観を味わい、より多くの人々をうるおしながら、時とともに豊かに、時とともに深く、大きく、水かさを増していく。ここに、広布と人生の、真に「偉大な旅路」があるのではないだろうか。
 何があろうと、仏子は困らない。止まることもない。何より、根本の「信心」という魂の世界は、いかなる権威・権力もおかせないからだ。他の人為的な機構上の問題は枝葉であり、変化が当然である。やがて、すべて「これでよし」という最高の結果になることは間違いない。
 どうか一切、安心して、「御本尊根本」「御書根本」の正道を私とともに歩み抜いていただきたい。
19  学会の「広布大願」は永遠
 私が『撰時抄講義』を発刊した折(昭和三十九年十一月)、日達上人は「序」を寄せてくださった。そのなかで、次のように述べられている。
 「日蓮大聖人は末法の本仏として、『今まさしくの時なり、決定けつじょうして大乗を説く』(法華経方便品の文)、このために撰時抄を御書きになり、南無妙法蓮華経を宣説せんぜつせられたのであります。
 しかるに、今日の仏教徒は、いまだに時を解せず、しかも正法誹謗ひぼう徒党ととうをなしている観があります。
 かかる時期に、池田先生は、世界の人々に謗法ほうぼう撰捨せんしゃ(えらび捨てること)し正法の南無妙法蓮華経を撰取せんしゅ(えらび取ること)せしむるため、進んで本撰時抄講義を出版せられたことを、私は深く感謝するのであります。
 要するに、池田先生は、久遠元初くおんがんじょ本因妙ほんにんみょうの南無妙法蓮華経を、今の時に広宣流布せしめようとする念願のほか、なにもないのであります」と。
 日達上人は、本当に丁寧なお言葉づかいで、どこまでも「法」を基準にされている。世界に妙法をひろめている学会の「大願」と「行動」を心からたたえてくださった。
 今も昔も、私の、そして創価学会の「広布大願」は、いささかも変わらない。いな、迫害にあえばあうほど、何ものにも縛られず、これまでの何倍、何十倍の知恵と力で、世界広宣流布に進んでいく。今こそ、その″時″である。
 私どもは、朗らかに、仲良く、また正義の信念を深くもって、堂々たる確信で「道」を開いてまいりたい。
 ちっぽけな悪の策動など、高みから見下ろし、笑い飛ばしながら、大聖人の仰せ通りの「偉大なる信仰者」として、「偉大なる人生」を歩みゆかれんことを念願し、スピーチを結びたい。
 きょうは、素晴らしい歌声をありがとう!衛星中継でご覧の全国の皆さまも長時間、本当にご苦労さま!

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