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日蓮大聖人・池田大作

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創立記念勤行会・東京総会 全人類の幸福へ創価の黄金道を

1991.11.17 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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1  大難こそ″凱旋″への御仏意と
 創立記念の集い、そして東京総会の開催、おめでとうございます!また本当に見事な歌声と演奏でした。ありがとう!
 (富士交響楽団・富士学生交響楽団が「平和の曲『人間世紀の夜明け』池田大作讃歌」を、芸術部のヤング・パワーなど有志が「オー・シャンゼリゼ」を、創価合唱団・富士学生合唱団が「創価歓喜よろこび凱歌うた」を熱演した)
 今から、こんなにも高らかな歓喜の歌声! 創立七十周年は、さぞや大変な″大歓喜の集い″になるにちがいない。
 また研修として参加されているSGI(創価学会インタナショナル)各国の同志の皆さま、大変にご苦労さまです。
2  日蓮大聖人は、伊豆へ、さらに佐渡へと御流罪の身となられた。何一つ罪を犯していないにもかかわらず、邪宗の僧等の讒言のゆえに──。そして、″必ず倒れるにちがいない″との世間の予測を覆し、二度、流罪の地から生還なされた。仏様を殺すことはできない──その偉大なる実証としての凱旋であられた。(五逆罪ごぎゃくざいの中にも、「仏身より血を出す」「殺母しも」「殺父しぶ」等はあるが、「殺仏」はない。不可能犯だからである)
 佐渡への御流罪について、大聖人は次のように仰せである。
 「日蓮はなが流罪されずして・かまくら鎌倉にだにも・ありしかば・有りし・いくさに一定打ち殺されなん
 ──もし日蓮が流罪されないで、鎌倉にでもいたならば、あの戦乱(文永九年二月の北条一族の内乱<二月騒動>)に巻き込まれて、きっと打ち殺されていたにちがいない──と。
 御自身が流罪の大難にあわれたことには、深い意味があることを示されている。より以上の難を避けられたのだと──。
 そして、仏法上の難には、すべて甚深の意味があることを確信しきっていくよう、お教えくださっている。
3  また大聖人は、「からんは不思議わるからんは一定とをもへ」──善い結果になるのは不思議であり、悪い結果になるのは当然と考えなさい──と仰せである。
 この御文は、熱原あつはらの法難について、決して状況を甘く見ず、最悪の事態に備えるべきであると教えられた一節である。広い意味では、仏法を持つ人には、必ず大難があることを覚悟すべきであるとの教えと拝される。
 私どもは、こうした御聖訓を深く拝してまいりたい。
 どうか、三世永遠の生命観の上から、我らは『仏法の真髄』『信心の真髄』の道を歩む! その大道を、今、御本仏が示し、導いてくださっている!──との確信に燃えて、堂々たる前進をお願いしたい。
4  ところで本日は、第三回東北総会が、東北六県七十二会場で同時開催されている。心から祝福申し上げたい。
 さらに、各会場には、地域部の皆さまも参加されている。本当にご苦労さまです!
 このほか、昨日の千葉文化友好祭並びに本日の会合から、新たに四十五会館で、衛星同時中継がスタートした。
 東京・大田区の雪谷文化会館、練馬区の石神井しゃくじい会館、足立区の千住文化会館、立川<区>の立川平和会館、千葉の茂原文化会館、鴨川会館、佐原さわら会館、松戸平和会館、栃木の足利会館、小山おやま会館、矢板会館、真岡もおか会館、今市会館、奈良の五條平和会館、和歌山の海南会館、串本会館、滋賀の大津会館、福井の小浜おばま会館、北海道の浦河会館、宮城の榴ケ岡つつじがおか文化会館、青森の東北研修道場、秋田の本荘文化会館、秋田平和会館、八郎潟文化会館、男鹿おが会館、鷹巣たかのす会館、湯沢会館、東北池田青年研修塾、鹿角かづの会館、山形の長井会館、天童文化会館、寒河江さがえ会館、上山かみのやま会館、長野の長野青年研修道場、南佐久会館、島根の隠岐会館、安来やすぎ会館、岡山の高梁たかはし会館、高知の高知平和会館、宿毛すくも会館、徳島の徳島平和会館、長崎の大村文化会館、熊本の菊池会館、鹿児島の九州研修道場、沖縄の具志川会館の皆さま、本当におめでとうございます!
 昼夜合わせて百万人の代表が参加された本日の集いを、重ねてお祝い申し上げたい。
5  日淳上人「学会とともに人類の幸福のために精進」
 本日、十一月十七日は、日淳上人の祥月しょうつき命日である。本年が、三十三回忌。私も今朝、学会本部第二別館で、代表幹部とともに日淳上人をおしのびし、報恩感謝の勤行をさせていただいた。
 御遷化ごせんげなされたのは、昭和三十四年(一九五九年)十一月十七日の早朝。満六十一歳であられた。
 その御遷化のまさに前日。十六日の午後、私と故・小泉理事長の二人が、大田にある日淳上人のご自宅に招かれた。枕元で、日淳上人から甚深の御遺言があった。まことに厳粛な歴史である。
6  本日は、その日淳上人を偲びつつ、いくつかのお言葉をご紹介したい。
 昭和二十七年──学会の宗教法人設立の年──この年の十二月(七日)、創価学会第七回総会の折に、日淳上人はこう述べられた。
 「創価学会が人類の幸福の為に、着々と自他共にその幸福を実現している事は、尊い事であり何とも申し様の無い尊さを感ずる次第である。学会は人類の幸福を願いとし、正しい宗教、信仰を招来しょうらいせしむる事に大願を置かれて日夜活躍している。それには寸分の曲りも無い天地宇宙の法則に結合せしむるこそ幸福であり、それにそく(=ぐ)わねば不幸なのである。その宇宙の法則こそ仏法の正法である妙法蓮華経より他に無い。この法則に従い正しい宗教の確立こそ人類の幸福をもたら所以ゆえんである。自ら体験し、教化する事は実に尊い仕事であり一つの責務である」
 そして、「この道は容易ではないが、皆様と共に人類の幸福の為いよいよ精進して行く以外にはない。広宣流布の為の大折伏は学会の皆様へ御願い申します」と。
 学会を賛嘆された、厳然たる御指南である。学会は、この御指南通りに、今日まで進んできた。
 先師のお言葉を削り取ることはできない。民衆の真実の歴史も、だれにも変えることはできない。
7  「人類の幸福」を願い、「正しい宗教の確立」を目指しての、学会のスケールの大きな行動を、日淳上人は最大にたたえてくださっている。
 先師の言葉に偽りはない。責任ある人はウソをついてはならない。「天子の一言虚しからず」──世間の法ですら、そうである。まして、仏の言には、いささかの虚妄こもうもない。釈尊も「不妄語ふもうご」を誓って仏になったとされている。ウソをつかないというのが仏法者の、また信心の大原則なのである。
 本日の会合には、海外のSGIメンバーも参加されている。この地球大の広宣流布の広がりを、日淳上人、そして日達上人は、どれほどお喜びくださっていることであろう。
 私どもの歩む道は、何ひとつ変わっていない。創立のこころざしそのままに、六十年間、一貫してきた。
 これからも、この日淳上人の仰せ通り、いよいよはつらつと、いよいよ明るく、にぎやかに、ちっぽけな騒動など、高みから見下ろしながら、「人類」「地球」「宇宙」という壮大なスケールで進んでまいりたい。
8  学会には大聖人の御魂が脈々と
 また、日淳上人は、昭和三十一年十二月(八日)、女子青年部第四回総会にも御出席くださった。この総会には、私も戸田先生とご一緒に出席した。
 席上、日淳上人は、「皆様方に会うことは光栄なことでござりまする」と、広布に進む仏子ぶっしに心からの敬意を表しておられた。いばる御様子など微塵もあられない。これこそ本当の仏法者のお姿と私どもは感動した。
 この総会で、こう仰せである。
 「皆様方に日蓮大聖人の御魂が脈々と燃え上っているということを痛感する次第であります。(研究発表、体験発表、代表決意など)いろいろとうけたまわりまして何一つ大聖人様の魂そのままを皆様がうけつがれていないものはないということであります。大聖人の魂を伝える皆様が益々日本国を導いて行く時には、丁度大聖人様が愚痴一ついわれず、只『南無妙法蓮華経』と唱えられて来た御在世当初にかえって行くものと存じまする。
 日蓮正宗は単なる一宗旨であるばかりでなく一切衆生の宗旨であり、この日蓮正宗を背負って立ち上って行かんとするのが戸田会長先生でありまする。皆様方も正宗こそ自分が背負っているのだということを心におかれて奮闘されんことを望むものであります。
 私は若い人々に対して、若い者こそ正宗を背負って立たねばならぬ事と日夜念願して居る次第でありまする。いよいよ若い此の熱と、此の気迫を持って大聖人様の為に御奉公願う事を申しあげて挨拶に致(いた)します」と。
 一切衆生──全人類に開かれた宗教。これが大聖人の仏法であり、その「人類の幸福」のための正法流布を担っているのが創価学会であると日淳上人は明確に言明されておられる。
 このお言葉に反し、一宗一派のみにとらわれるような心で、「人類のため」という根本目的を忘れては、もはや正宗とはいえないであろう。
 また「大聖人様のために」と日淳上人はお述べである。これが正宗の原点である。すべては御本仏日蓮大聖人の仰せを根本として、広宣流布のため、大聖人に仕えることが第一義である。
 この点を見誤ってはならない。人がよすぎて、目くらましや、脅しに、だまされてはならない。原点に立ち返ってみれば、すべては明快となる。
 日淳上人は、宗門の若い人々にも、この尊き正宗を背負って立つ人材にと日夜念願しておられた──。今の宗門の姿を見れば、どんなにお嘆きであろうか。
 ともあれ、「大聖人の御魂」を脈々と受け継いでいる学会は、一切衆生の宗教たる大聖人の仏法を背負っていってください、「大聖人のため」に行動していってください、そこにはいささかの遠慮もいりません──これが、日淳上人の学会に対する期待のお言葉である。
 私どもは永遠に、その通りの道を進んでまいりたい。
9  アメリカ″人種差別″バスボイコット運動
 話は変わる。今世紀半ば(一九五〇〜六〇年代)、アメリカの黒人によって、「人種差別の撤廃」「公民権獲得」を求める大運動が巻き起こった。
 その″勝利の扉″を開いた第一歩の戦いとなったのが、人種差別を強制する公営バスのボイコット運動であった。もちろん、ここに至るまで、長年の″平等への努力″が積み重ねられていたことは言うまでもない。
 このバスの座席は、″白人用″と″黒人用″とに分かれていた。人種隔離である。しかも″黒人用″は後部のごくわずかな座席があるだけで、仮に″白人用″が空いていても、黒人は立っていなければならなかった。また″白人用″が満席になると、黒人は席を譲らねばならなかった。
 「同じ人間ではないか! なぜ差別するのだ。もう、我慢(がまん)できない!」──ある事件をきっかけに、ついに黒人たちは立ち上がった。
 ″人種差別を強要するバスは絶対拒否!″。一九五五年(昭和三十年)、歴史的なバス・ボイコット運動の始まりであった。
 (事件は、当時、全米でも″人種差別の壁″が厚かったアラバマ州の町で起こった。一人の黒人女性が、乗車したバスの中で、白人に席を譲らなかったとして警察に逮捕されたのである。それまで忍耐してきた黒人市民は激怒し、抗議運動が開始された。しかも、″非暴力″で──。この運動の指導者が若きマーチン・ルーサー・キングである)
 「バスなんか、乗らなくてもいい! どうして差別される必要があろうか。我々は、歩く!」。それまでバスを利用していた二万人もの黒人たちが皆、歩くようになった。なかには、家から職場まで二十キロも離れている人もいた。しかし、だれもが辛抱強く、また誇り高く歩いた。
10  歩こう!民衆の″自由の大道″を
 ラッシュアワーには、徒歩の黒人たちで道路がいっぱいになった。また彼らは、客がいなくて空っぽのバスを見つけると、歓声をあげて笑い飛ばした。(実際、バス会社は悲鳴をあげていた)そして、陽気に歌を歌いながら、「″自由への道″″平等への道″は我々の道だ!」と闊歩かっぽしたのである。
 「歩くこと」──それは、戦いの象徴だった。
 ある時、一人の黒人のおばあさんが苦しそうに道を歩いていた。そこに、黒人で組織する″相乗り自動車″が通りかかった。
 「おばあさん、この車に、お乗りなさい。歩くには及びませんよ」
 ところが、おばあさんは、穏やかに、しかし、きっぱりと答えた。
 「私は、自分のために歩いているのではありません。私は、子供や孫のために歩いているのです」
 そう言って、おばあさんは再び、ゆっくりと歩き出したという。後に続く世代のために、今、歩くのだ、戦うのだ。まことに毅然とした態度である。
 女性が真剣になったら、本当に強い。物事の本質を見抜く直感の鋭さ、知恵の深さ、腹の座った行動力──これには、どんな男性もかなわない。
 はた目にも、歩くのが難儀そうに見えたおばあさんである。車に乗れば、どんなに楽だったろうか。しかし、かわいい子供や孫たちの顔を思い浮かべると、彼女は負けるわけにはいかなかった。抵抗運動の主体者だとの誇りがあった。
 同じように私どもも、未来の大切な宝である学会っ子たちに、また百年、二百年と続く後継の友のために、″我が誇りの道″を、″我が創価の黄金の大道″をしっかりと開き、残し、踏みしめて、盤石に仕上げてまいりたい。
 ボイコット運動はやがて、全米の市民感情をも揺り動かし、共感を広げていく。さまざまな脅迫や弾圧もあったが、「正義の行動」を押しつぶすことはできなかった。そして、とうとう、連邦最高裁判所も、″バスの人種隔離は違憲(憲法違反)である″と宣言する。
 「差別から平等へ!」「抑圧から自由へ!」。運動を始めてから実に一年余──偉大なる「民衆の勝利」であった。
 次元は異なるが、この構図は今も同様である。学会の勝利こそ「民衆の勝利」「人権の勝利」と確信し、堂々と正義を訴えてまいりたい。
11  哲学と知性の指導者ネルー
 さて、昨日の千葉の文化友好祭は、本当に立派でした。限られた予算で、よくぞ、あそこまで見事な舞台をと感動した。
 何度もご紹介しているが、この祭典には、インドのガンジー記念館館長・ラダクリシュナン博士にもご出席いただき、あいさつをしていただいた。
 その前日の懇談の折、私は博士に「インドの本で″この一冊は″といえる名著は何でしょうか」と質問した。
 博士は「まず第一に」として、ネルー初代首相が書いた『インドの発見』という本をあげられた。
 ネルー首相については、ノーマン・カズンズ氏も、私との対談のなかで、「まれにみる哲学と知性の政治的指導者であった」と、たたえられていた。哲学と信念をもった政治的指導者──今こそ、求められているものであろう。
 ご存じの通り、ネルー初代首相は、先ごろ亡くなられた(一九九一年五月)ラジブ・ガンジー元首相の祖父にあたる。
 ラダクリシュナン博士は、私がラジブ・ガンジー首相にお贈りした詩(「獅子の国 母の大地」)を、首相夫人や、二、三十人の方々の前で朗読したとおっしゃっていた。ささやかながら、親愛の気持ちを喜んでいただいたようで、私もうれしかった。
12  さて、この『インドの発見』という本。これは、インドの独立が達成される三年前の一九四四年、ネルーが、わずか五カ月で書き上げたものである。しかも、場所は、二年と十カ月にわたることになる、九度目の投獄のさなか──獄中であった。短期間で、捕らわれの身で書かれたとは想像できない、千ページにも及ぶ大作である。
 ネルーは、その不屈のペンで、インドの偉大な歴史や国民性を描こうとした。本当のインドの素晴らしさを書くことによって、他国の支配に苦しむ同胞たちに勇気を、そして誇りを与えようとしたのである。その精神は、学会の同志が、学会の真実の歴史を綴り残そうとしているのと相通じるかもしれない。
 正義の魂は、どんな苦難にあっても、絶対に屈しない。どんなに理不尽な圧力を受けようとも、いな、それが激しければ激しいほど、より鋭い言論で、悠々ゆうゆうと打ち返していく。ネルーの信念は、むしろ度重なる投獄によって、鋼鉄のごとく鍛えられていったといえる。
 ″自分は、一歩も引かなかった。戦った。勝った。一点の悔いもない″と言い切れる、大満足の人生を味わえるかどうか。ここに信仰の眼目がある。
 人がどうかではない。自分の心が満ち足りるかどうかである。これが人生の真髄であろう。そのためには、どこまでも信念を貫くことだ。負けないことである。生き抜くことである。前へ前へと歩みきっていくことである。
13  ガンジーは大衆の言葉を語り、大衆に目を向けた
 ネルーはこの本のなかで、インド独立の父、マハトマ・ガンジーの偉大さを、こう述べている。
 「(ガンジーの登場は)旋風のごとくであり、多くのものをくつがえし、とくに民衆の心の持ち方を一変させた。彼は天上から降ってきたのではなかった。彼はインド幾千万の大衆の間から現れ出て来たという様子で、大衆の言葉を語り、目を絶えず大衆とそのすさまじい生活に向けていた」(『インドの発見』辻直四郎・飯塚浩二・蝋山芳郎訳、岩波書店)
 すなわち、″救ってやろう″などと、相手を見下した傲慢な心で、民衆と接していたのではない。どこまでも同じ立場に立って、ともに悩み、ともに苦しみながら、人間の真実を見つめようとした。だから偉大なのだと。
 戸田先生の姿をほうふつさせる一節でもある。
 人間はすべて平等である。人を見下す権利もなければ、人から見下される義務もない。この当たり前のことを、当たり前に実践してこそ「人間性」であり、そこに仏法者の根本精神もあると思うが、どうだろうか。
14  そして、ガンジーが、すべての民衆にもたらした最も大きな″贈り物″とは何であったか──。
 ネルーは、こうとらえる。それは″心のなかに恐怖を宿すな。恐れるな。恐れることなど何もない″と教えてくれたこと。軍や秘密警察、官吏、そして牢獄へと追いやる法律、それらへの恐怖の妄想を、「真実」を示すことによって打ち破ってくれたことであったと。
 つまり「恐怖」の呪縛じゅばくは「ウソ、偽り」によって生ずる。「無知」と「恐れ」はセットになっている。「恐れぬ勇気」は「真実を知ること」に基づく。ゆえに「真実」をわきまえれば、「恐怖」は消え去るのだと。
 真実を見抜く知性に支えられた″恐れない心″は、精神を自由へと解放する。そして自らの境涯を、どこまでもどこまでも、伸びやかに広げていく。
 この″恐れぬ心″″師子王の心″を、我が生命の中からわきあがらせていくのが、広宣流布への信心なのである。
 創立七十周年を目指し、また明年の創立記念日を目指して、本当に自分らしく、悔いなく、強く、正しく、伸び伸びと、朗らかに生き抜いていかれんことを心からお願いし、記念のスピーチを終わります。
 全国の皆さま、きょうはお休みのところ、ありがとう! ご苦労さまでした!

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