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日蓮大聖人・池田大作

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大学会・渋谷区合同記念総会 われらには大聖人直結の「正道」

1991.11.9 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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1  祈念の集い、思い出に残る一日を
 若々しく、そして優秀な大学会の皆さん、遠いところ、ご苦労さまです!渋谷の皆さまも、ようこそ創価大学へ!素晴らしい歌声と演奏で飾られた合同総会、本当におめでとう!
 大学会のメンバーには、久方ぶりに再会した友も多いであろう。きょうは、ゆっくりと語り合いながら、思い出に残る一日を過ごしていただきたい。提案だが、ここで各大学の歌を歌い、競い合ってはどうだろうか。(東京大学、慶応大学、早稲田大学……と、各大学の校歌・寮歌が、青春の心意気いっぱいに歌われた)
2  きょうは、全国の衛星中継の会場に、昼と夜を合わせ、九十数万、百万人にも及ぶ同志が集われるとうかがった。沖縄の研修道場には、アジアの婦人部、女子部のメンバーが研修に来られている。
 また、東京・文京区の千駄木せんだぎ平和会館、秋田の鹿角かづの会館が、きょう、オープンした。
 また第二東京は、十五の特別区の体制となり、それぞれ発足した。武蔵野、小金井、立川、小平(旧・北多摩)、村山、東村山、秋川(旧・西多摩)、青梅、第一八王子、第二八王子、第三八王子、調布(旧・多摩川)、府中、日野(旧・南多摩)、町田の各<区>である。青梅<区>の羽村平和会館では、開館二周年の記念幹部会が開催されている。
 また、次の各会館では、きょうから、衛星中継がスタートした。兵庫の東播とうばん文化会館、宮城の泉文化会館、白石会館、多賀城会館、山形の新庄文化会館、長野の丸子会館、佐久会館、小諸文化会館、辰野会館、駒ケ根会館、飯田会館、新潟の新潟平和会館、新潟池田婦人会館、大分の杵築きつき会館、沖縄の名護平和会館、泡瀬あわせ会館、与原よなばる会館。
 全国の皆さま、ご苦労さまです。また、記念の集い、本当におめでとう!
3  ″文化と歴史の大国″中国の知恵に学ぶ
 昨日(十一月八日)、中日友好協会の孫平化そんへいか会長をはじめ訪日団の方々と懇談した。
 明年秋、中国と日本は、国交正常化二十周年を迎える。その意義も込めて、婦人誌「主婦の友」の新年号に、孫会長との懐かしい思い出などをつづらせていただいた。
 一九八〇年四月、第五次訪中の折のこと。私は、孫会長とともに、桂林けいりんの地を訪れた。川があり、林があり、蕭々しょうしょうと雨にけむる桂林。その風景の素晴らしさは、今も心から離れない。
 船を待っている間、あたりを歩いていると、二人の少女に出会った。「你好ニイハオ!」。私は話しかけた。「你好!」。にこやかに答えてくれた。
 「私たちは薬売りなんです」
 私は微笑みながら聞いてみた。
 「それでは、すみませんが、頭の良くなる薬はありませんか」
 その答えを聞いて感心した。
 「あ、それでしたら、たった今、売り切れたところです」
 さすがは文化と歴史の大国だなと思った。ユーモアのセンスといい、とっさの機転といい、実に洗練されている。自然である。
 日本人ならば「そんな物ありません!」、「失礼な!」と、冷たくあしらわれるかもしれない。そばにいた妻も、心から感銘を受けたようだった。
4  さて、中国といえば、『荀子じゅんし』という古典に、こんな言葉がある。
 「旧言無きは、われこれいやしむ」
 自分が少々出世したからといってうぬぼれ、古い友人と出会っても、一緒に昔話もしないような人間は、私は軽蔑する──と。いわんや、お金や地位を得たからといって偉ぶり、その恩を仇で返し、それまでの関係を踏みにじるような人間は″最低″であろう。中国に対する日本の態度についても、この点を私は懸念している。やはり、一度受けた恩には、最大の礼を尽くし報いていく──これが「人間の道」「人間の世界」であろう。
 また『荀子』では、この言葉に続いて、こう記されている。
 「小人とる者は、われこれあやぶむ」。つまり、小人物と常に一緒にいることは、危険なことである、と。
 ともに生きる友人は、よくよく選ばなければならない。つまらぬ、ちっぽけな人間といつまでも一緒にいては、危険きわまりない。そういう人物が、向こうから離れていってくれたら、こんな幸せなことはない。
5  また、青年時代によく読んだ『十八史略』には、こういう言葉がある。
 「枳棘ききょく鸞鳳らんほうむ所にあらず。百里は大賢たいけんみちに非ず」
 すなわち、カラタチやイバラの茂みは、鳳凰ほうおうのような立派な鳥のすむ場所ではない。わずか百里四方の小さな土地は、大賢人のいるべき場所ではない、という意味である。
 大人物は、コセコセした、陰湿でちっぽけな世界には、おさまらない。また、そこに縛られる必要もない。むしろ勇んで、より大きな広々とした世界へと雄飛していくべきである。
 仏法を基調とした、学会の平和・文化・教育の運動は、今や地球的規模へと広がった。世界の民衆の共感と期待を集めつつ、壮大なスケールで交流し、人間と人間、国と国を結びつけている。正法の存在を全人類に示しきっている。
 この人類のための大運動は、いかなる鎖にも縛られてはならない。
6  また、中国の『易経えききょう』には、次の一節がある。
 「二人ににん心を同じうすれば、の利、きんを断つ」「同心の言は、其のらんごとし」──二人が心を合わせれば、その行いのするどさは、金をも断つほどである。心を同じくする者の言葉は、蘭のごとく高貴な香りを放つものである──と。
 深く強い心と心の絆、揺るぎない心の交流。すなわち″金蘭きんらんまじわり″の語源である。ともに心を開き、話し合い、前進していく。そこに、大いなる力が開かれていく。それを、心を閉ざして対話を拒み、悪意と策謀と駆け引きに終始していくことは、哀れな悲しむべき姿と言わざるを得ない。本来の仏法の精神とも正反対の邪道であろう。
 ともあれ、私どもは、これからもさらに、友情の花園を美しく香らせながら、広宣流布への「同心」の絆を未来へ世界へと、大きく広げていきたい。
7  「正義を興隆」する絶好の機会
 私どもは、どこまでも「御本尊根本」「御書根本」である。その意味から、本日も御書を拝したい。
 大聖人は、「行敏訴状御会通ぎょうびんそじょうごえつう」で次のように仰せである。
 「当世日本第一の持戒の僧・良観聖人並びに法然上人ほうねんしょうにんの孫弟子念阿弥陀仏・道阿弥陀仏等の諸聖人等日蓮を訴訟する状に云く早く日蓮を召し決せられて邪見を摧破し正義を興隆せんと欲する事云云、日蓮云く邪見を摧破し正義を興隆せば一眼の亀の浮木の穴に入るならん、幸甚幸甚
 ──今の世で、日本第一の持戒の僧といわれる良観聖人、ならびに法然上人の孫弟子である念阿弥陀仏、道阿弥陀仏などの諸聖人らが、日蓮を訴訟した文書には、「早く日蓮を呼び出し、裁いて、その邪見をくだき破り、正義を興隆されることを望む」とある。それに対し、日蓮はこう言おう。「邪見をくだき破り、正義を興隆すれば、一眼の亀が浮木の穴に入るような千載一遇せんざいいちぐうのことであり、こんな幸いはない。こんな幸いはない」──と。
 ここでいう、良観をはじめ、法然の孫弟子たちは、当時の宗教界の権威者である。その権威をカサに着た悪侶によって、もったいなくも、御本仏・大聖人御みずからが、大悪人のごとく訴えられたのである。悪侶たちは、この文書を出せば、大騒ぎになるだろう、大聖人が驚かれ、あわてふためいて謝罪されるとでも思ったのだろうか。
 「おどし」は権力者の常套じょうとう手段である。″脅す″人は、絶対に仏法者ではない。悪逆の権力者か、残酷な暴力者であろう。
 人を「切る」などということ自体、「人間蔑視」「人権弾圧」以外の何ものでもない。宗教というものは人を切るものではない。人を救うものである。
 ともあれ、悪僧らの恐喝に対して、当然のことながら、大聖人は微動だにもされず、むしろ、正邪を決する千載一遇の機会と喜んでおられる。堂々と「真実」を明らかにしよう! 極悪の謀略をすべて打ちくだいてみせる──との悠々たる御境界であられた。
 権威の僧侶たちから大迫害を受けられた大聖人──うれしいことに、また、不思議なことに、学会は、この大聖人の御留難の道に、まっすぐに連なって歩んでいる。この″大聖人直結″の誉れも高く、堂々と「創価の道」を歩み抜いていただきたい。
8  悪侶は自らの「邪義を隠さんが為」に画策する
 さらに同御書で大聖人は、良観たちの策謀の本質を、次のように喝破かっぱしておられる。
 「但し良観上人等弘通する所の法・日蓮が難脱れ難きの間既に露顕せしむ可きか、故に彼の邪義を隠さんが為に諸国の守護・地頭・雑人等を相語らいて言く日蓮並びに弟子等は阿弥陀仏を火に入れ水に流す汝等が大怨敵なりと云云、頸を切れ所領を追い出せ等と勧進するが故に日蓮の身に疵を被り弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり、此れひとえに良観・念阿・道阿等の上人の大妄語より出たり心有らん人人は驚く可し怖る可し云云
 ──良観上人らがひろめている法は、日蓮からの論難をまぬかれることができず、そのため、すでに悪法であることが明らかになってしまった。そのため彼らは、自分たちの邪義を隠そうとして、諸国の守護や地頭、雑人(鎌倉に置かれ、諸国の治安監察と訴訟の裁きをした役人)などを扇動して、「日蓮ならびに弟子たちは、阿弥陀仏を火に入れ、水に流したりする。あなた方の大怨敵である」と言いたてたのである。そして、「頸を切れ、所領から追い出せ」などとすすめたため、日蓮の身には傷をこうむり、弟子等を殺され傷つけられたことは数百人に及ぶ。これは、ひとえに良観、念阿弥陀仏、道阿弥陀仏などの″上人″の大妄語だいもうご(大うそ)から出たことである。心ある人々は、(このことを知って)どれほど驚き、恐ろしく思うことであろう──と。
 大聖人は、七百年前に、悪侶による謀略の方程式を明快に示してくださっている。自らの悪が、だんだん明るみに出て、追いつめられた悪侶らは、そこから何とか目をそらそう、何とか自分たちを守ろうと躍起になる。その結果、うそに、うそを重ねて世間を扇動していく。全部、自らの「邪義を隠さんが為」なのである。
 大うそつき──これこそ「僣聖増上慢せんしょうぞうじょうまん」のひとつの特徴である。卑劣な悪侶の謀略に、大聖人の弟子たちの多くも命に及ぶ迫害を受けた。学会の受けた、いわれなき悪口・中傷の傷も数知れない。しかし、私どもは一歩も退かない。ますます前進の勢いを増すばかりである。
 こう、いじめれば、これを出せば、やつらは困るだろう、意気消沈するだろうと、黒い心は、ほくそえんでいたにちがいない。だが、そうはいかない。皆、前より元気になってしまった。「意気消沈」どころか、「意気軒高」そのものである。
 学会は絶対に「正しい」ゆえに、難を受ければ受けるほど、「楽しい」「功徳が出る」「張り合いがある」「朗らかになる」「団結していく」──こんな団体は宗教史上にないであろう。
9  大聖人は、最後に、仰せである。
 「仏記に云く此等の悪人は仏法の怨敵には非ず三明六通の羅漢の如き僧侶等が我が正法を滅失せん
 ──経文によれば、これらの悪人(仏法を大弾圧した悪逆の王たち)は、仏法の真の怨敵ではない。それよりも、三明や六神通という神通力をもった聖者のように見える僧侶たちが、我が正法を滅ぼし、失わせるのである──と。
 仏法の一番の怨敵はだれか──それは、仏法者を迫害する一国の指導者や政治家等ではない。″聖人″等として振る舞い、法を説く高僧であると。
 天魔らが、その身に入った「悪鬼入其身あっきにゅうごしん」の高僧が、正法を破壊しようとするのである。大聖人の仏法を破壊し、広宣流布を破壊する高僧──経文通りの″仏法の大怨敵″とは、戦わざるをえない。戦った人の成仏、大福徳も、経文と御書に照らして、絶対に間違いない。
 中国の古典に、「じゃは正をおかさず」と。
 「邪」は、いかにたくみによそおっても、必ず、悪の本性が現れてしまう。
 また、いかに正義をかくし、犯そうとしても、絶対にできない。
 「邪」は「正」に勝つことはない──私どもは、この確信で、″正義は楽し″と、朗らかに、また朗らかに前進していきたい。
10  「友人葬は社会待望の葬儀革命」
 さて、私どもの前進に対しては、各界の有識者から、高い評価と賛同が寄せられている。本日も、その一部をご紹介させていただく。
 はじめに、ある社会学者は、次のように述べられている。
 「学会の友人葬、同志葬は、日本の葬儀に革命ともいえる変革をもたらすもので、大変、注目しています。本来、日本の伝統では、村落共同体が死者に対して、村をあげて送るというのが中心であり、僧侶による葬儀は後世になって出てきたものと言えます。
 宗教者、すなわち僧侶や神官が中心ではなく、村落共同体が全員で死者を弔うことが日本伝統の葬送儀礼であり、その意味で、生前の友人、同志が一堂に会して故人の冥福を祈る友人葬こそ、本来のあるべき姿であると思います」と。
 また、「今、多くの日本人が戒名や僧侶による葬儀に疑問を感じています。しかし、家族や親族への配慮などから、心に思っていても、なかなか葬式仏教は打破できない」「それを今、実行しているのが創価学会であり、その一点だけをとっても、今回の問題は宗教改革に通じるものであると評価したい」と。
 「友人葬は、時代を先取りしているものだけに、一部の『旧思考』の人々からは反発されるかもしれません。しかし、これが将来の葬儀の理想となり、定着することは明らかです。ぜひ、学会の方々には頑張っていただきたいと思います」
 学会の友人葬は「時代を先取り」している。″先端中の先端″を行っている。その誇りを強くもって、堂々と進むべきだとの声である。
 「仏法は道理」である。葬儀に僧侶が出なければならないとは、御書のどこにも出ていない。
 むしろ″友人葬のほうが、僧侶よりも、よほど朗々とした、張りのある勤行である。また一部の悪僧のように、葬儀に遅れてきて、読経を間違えたり、途中で居眠りすることもない。よけいな気を使う必要もなければ、御供養もいらない″と、ある幹部が言っていた。
11  「学会は悠々と高みに立って独自の道を」
 さらに、この識者は、今回の問題が学会の理念・運動を社会に、わかりやすくアピールする絶好の機会であるとされ、堕落した僧侶との対立などにとらわれず、高い次元で進んでいくよう励ましてくださっている。
 「世間には日蓮正宗という団体は存在しないといってよいくらいです。人々には創価学会しか見えないのです」、「学会は、悠々と、高みに立って、独自の道を主張したほうがよいと思います」と。
 また、「日本に檀家制度ができた江戸時代から三百年。考えてみれば、創価学会は、この三百年の日本の宗教史を、わずか三十年で体験してしまったのではないでしょうか。三百年かかって定着した制度を、三十年で、もう乗り越えようとしている。このスピードと発展は、まさしく奇跡としか言いようがありません」
 「今、日本人で、創価学会員が身近にいない人は、だれもいないはずです。あえていえば、日本人にとって『宗教』というと、特定の信仰を持っている人も、いない人も含めて、それは『創価学会』をイメージしているとさえ言ってよいと思います」と。
 そして、大きな社会的存在となった学会の新たな発展を期待されている。これが、公正な識見をもつ方の見方である。
 さらに他の識者の方からも、「学会の進める宗教改革に、私は心から『万歳!!』を贈ります」等の声が寄せられている。
12  「大乗仏教は在家が中心」
 また、世界的に著名なある仏教学者は、次のように述べておられたという。
 「日蓮正宗が解散勧告を送ってきたところで、創価学会にとって何の心配もありません。自信をもって独自の活動を、どんどん進めてください」
 「本来、日蓮正宗と創価学会は別々の宗教法人であり、日蓮正宗が解散命令とか勧告をするなどは常識はずれで、どう考えてもおかしなことです」
 「今日では、出家者が在家の信徒を信仰上、指導することは、もはやありえないことです。なぜならば、日本にはすでに本来の意味の出家者はいない。いるのは、頭を丸め、袈裟けさを着ていても、教団の運営者にしかすぎません」
 「本来、仏教は『法』が根本であり、人間の生き方を説いたものです。したがって、教義とか権威で信仰者を縛るのは仏教の本義から考えてありえないことだ」、「釈尊も当時のインドの風習に従って出家したのであって、本来、法を求めるにあたって、出家でも在家でもよかったのである」と。
 さらに、「基本的に、時代と民衆の要請に応じて変化していくのが仏教である。出家教団が必要な時代もあった。しかし、大乗仏教の興隆は、時代の要求に応じて在家が主体となって起きてきたものだ」と。
 ″大乗仏教の興隆は在家が主体″と──。「日蓮正宗」も″大乗仏教″のはずである。
 また、″時代と民衆の要請に応じて変化″と。ただし、最近は、法主ほっすが「本」で御本仏は「迹」だそうだが、こんな″変化″は時代も民衆も″要請″していない。
13  「歴史的に見れば、近代日本にあっても二度の大きな変化があった。一つは明治維新の時であり、これは国家が仏教の在家主義化をはかったものである。このころから僧侶の妻帯が始まった。もう一つは、第二次世界大戦後であり、神道を中心にした古いナショナリズムが崩壊し、新たな民衆仏教への模索が始まった」
 「その中でも、日蓮の『立正安国』の思想が民衆に受け入れられ、日蓮系の教団が多く出現した。その意味から、既成教団の一つである日蓮正宗のみでは、民衆の要請に応えられるものではなかった。創価学会の出現によって、日蓮の立正安国の思想が日本全国、全世界に広まったのである」と。
 「伝統」は大切である。しかし、食べ物も長く放っておけば腐ってしまう。衣服も手入れをしないと、いたむであろう。頭脳も、使って鍛えなければ鈍くなる。古いものは何でも″尊し″として、新しい息吹いぶきを取り入れなければ、どんな立派なものも、いつしか腐敗してしまう。この点だけでも、学会の前進が、どれほど仏法の本来の精神と時代の流れにかなったものか。
 さらに「まさに三千年の仏教の歴史から見て、創価学会の出現は、民衆の要請に応じた仏教正統の流れと見ることができる」と。
 「また葬儀についても、現在、創価学会の会員の皆さんが行っている友人葬や同志葬を、自信をもって進めていってほしいと思います。もはや今日では、出家者の存在意義もなくなっていますし、仏教本来の在り方からしても、僧侶がかかわらないのが当然のことです」
14  「宗門問題の根本原因は法主の嫉妬」
 別の宗教学者からも次のようなコメントが寄せられた。
 「日蓮正宗が遅かれ早かれ解散勧告等の処分に出てくるとは思っていたが、何と馬鹿なことをやったのかと、あいた口がふさがらない」
 「世界が開放の時代にあるのに反し、宗門は、まったく閉鎖的。『時代錯誤』以外のなにものでもない」
 「正本堂はじめ多くの寺院の寄進、大石寺の寺域の拡充、すべては創価学会の献身的な御供養によるものだ。こんな不当な処置は、一般社会であったら、訴訟になって当然だ」
 「そのうえ、まだ宗門は懸命になって″取ろう″としている。考えられないことだ」
 「池田名誉会長と創価学会の存在がなければ、日蓮正宗など一つのちっぽけな既成仏教で、だれにも知られることなどなかったはずだ」
 「その意味で、今回の宗門問題の根本原因は、日顕法主の嫉妬以外の何ものでもない。池田名誉会長が、世界の識者と会われ、世界広布に尽力して有名になられているが、そのことに対しても、″古くからの法華講が、どうにもならないなか、ここまでやっていただいて本当に申し訳ありません。心より御礼申し上げます″と感謝するのが、本来の宗教者ではないか」
 「それを自分たちが何もしないで、有名になりたいなどと考えているとすれば、″正宗″と名乗る資格はない。看板をはずすべきだ」
15  「学会は宗教改革運動で今後も発展」
 さらに、この先生の声をそのまま伝えさせていただく。
 「社会的に見ても、法主の″かまし″発言などは、一宗の管長として、あまりにも品がなさすぎる」
 「言葉は悪いが、まるで″どこかの組の偉い方か″と、唖然とした」
 「また添書てんしょ登山への変更なども、結局は信徒に″大石寺に来るな″と宣言しているのと同じであり、こんなひどい仕打ちはない。あまりにも非社会的だ。解散勧告にしても、添書登山にしても、信徒に対し″死ぬなら死ね″と宣言しているに等しい。このような非社会的で、閉鎖的な教団が、民族や文化の異なる世界を指導することなど絶対にできない」と。
 そして「その意味で、今回の宗門問題は、仏教における宗教改革運動であり、時代の流れから見ても、創価学会の今後の発展は明らかだ」。
 「会員の中には、御本尊のことを心配する人たちもいると思うが、御本尊が本来、(日蓮大聖人のさとられた)宇宙の根本の法に基づくというなら、狭い日蓮正宗宗門だけの占有物ではないはずである」
 学会員のことについて、″正宗僧侶以上に″理解し、案じてくださっている。
 ヨーロッパの世界的宗教学者も「本山なら本山といった特定の場所に行かなければならないというような宗教は世界宗教とはなりえない」と断言している。
 この点、学会員は各家庭において御本尊を受持しており、世界宗教にふさわしい態勢の基盤が、すでにできあがっている。また受持していない人は、御本尊まします会館や拠点に行くことができる。各家庭、各会館等の御本尊は大御本尊の″分身散体ふんじんさんたい″の意義で、まったく同じ無量の功徳を具えておられる。
 本来、御書に「此の御本尊全く余所に求る事なかれ」、また「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」と仰せの通り、御本尊は仏子の″信心″に納まり、″胸中の肉団″におわしますのである。
 また「観心の本尊」──わかりやすく言えば凡夫が「信心」によって自身の仏界を涌現ゆげんし証得するための御本尊であられる。この本義からみて、強盛なる「信心」があれば何の心配もない。必ず成仏できるのである。
 また、この学者は「教義の問題にしても、日蓮正宗に悪僧たちが出れば、信徒が護持ごじしていく使命があると確信していけばよい」、「″日蓮大聖人の精神と教義の現代における正統は、創価学会にある″との主張をしっかり訴えていけば、何の問題もない」と。
 また「学会には全国に会館がある。必要な宗教儀式は会館で行えばよい」「宗門が何を策してきても、創価学会には会員が動揺すべき要素は何ひとつないことを、一人一人が確信して発展していってほしいと願っています」と、励ましを送ってくださっている。
 知性の声、良識の声、社会の声──。私どもの「正義」に対する、一次元からの「証明」として紹介させていただいた。
16  理不尽な圧迫にも″信仰を捨てなかった四条金吾″
 最後に、再び御書を拝したい。建治三年(一二七七年)七月、大聖人が四条金吾に与えられたお手紙である。
 当時、金吾は最大の苦難のまっただ中にいた。前年から、主君(江間氏)の圧迫は増大し、「減俸」「領地替え」の命が下り、さらに「所領没収」「追放」の恐れさえあった。そして、この御消息の直前には、″無実の罪″を着せられ、それを理由に、″法華経の信仰を捨てよ″と起請文きしょうもん(誓約書)を書くよう命令された。(六月、大聖人門下の三位房が、鎌倉で人気のあった堕落僧・竜象房を、法論問答で徹底的に破折した<桑ケ谷問答>。金吾も同席していたが、それを「金吾が竜象房の説法の場に押しかけ、暴力をふるった」と、事実無根の讒言ざんげんをされた)
 しかし、金吾は毅然きぜんとして大聖人にお誓いした。「決して誓約書は書かない」「法華経は捨てない」と──。この御消息は、その報告への御返事である。
 「度度の難・二箇度の御勘気に心ざしを・あらはし給うだにも不思議なるに、かく・おど威嚇さるるに二所の所領をすてて法華経を信じ・とをすべしと御起請候事いかにとも申す計りなし、普賢・文殊等なを末代はいかんがと仏思し食して妙法蓮華経の五字をば地涌千界の上首・上行等の四人にこそ仰せつけられて候へ・只事の心を案ずるに日蓮が道をたすけんと上行菩薩・貴辺の御身に入りかはらせ給へるか又教主釈尊の御計いか、彼の御内の人人うちはびこつて良観・竜象が計ひにてや・ぢやうあるらん、起請をかかせ給いなば・いよいよかつばら彼奴等をごりて・かたがたに・ふれ申さば鎌倉の内に日蓮が弟子等一人もなく・せめうしなひなん
 ──(日蓮の)たびたびの難、二度の御勘気(伊豆・佐渡の二度の流罪)の折に、(在家の)あなた(四条金吾)が揺るぎない信心をあらわされたことさえ不思議であるのに、このように(主君から)おどされた時に二カ所の所領を捨ててまでも、法華経を信じ通すという誓状を書かれたことは、言葉では言い表すことができないほど立派なことである。釈尊は、普賢菩薩や文殊師利菩薩等でさえも、末法の法華経弘通ぐづうにはおぼつかない(心配である)と思われて、妙法蓮華経の五字の流布を地涌千界(地涌の菩薩)の上首である上行菩薩等の四人に仰せつけられたのである。
 ただ、このたびのことの意味を考えると、日蓮の道(法華弘通の道)を助けようとして、上行菩薩があなたの御身に入りかわられたのだろうか。または、教主釈尊の御計おんはからいであろうか。江間氏の御内みうちの(あなたを憎んでいる)人々が増長しているのは、良観や竜象房が、きっと画策しているのにちがいない。もし、あなたが(信仰を捨てるという)起請文をお書きになったならば、ますます彼らは驕り高ぶって、方々に、それを吹聴するであろう。そうなれば、鎌倉にいる日蓮の弟子等は、一人も残らずせめられ、いなくなってしまうであろう──と。
 大聖人は鋭く本質を見破られている。金吾に対する迫害の背後には、僣聖せんしょう増上慢の良観、また竜象房ら「悪侶」の黒い策謀が働いていると。
 しかし、いかなる脅迫まがいの圧迫にも、ひるむことなく「正しき信仰」を貫き通す在家の金吾。その大強信の雄姿を、大聖人は最大に御称賛くださっている。″これこそ「日蓮の道」を助ける偉大な行動である″と──。
 今も「方程式」は同じである。私どもの行動についても、大聖人が諸手を挙げて、たたえてくださっていることは絶対に間違いない。
17  仏の御計い──最良の方向と確信
 大聖人はさらに、こう仰せである。大変、有名な御文であるが──。
 「一生はゆめの上・明日をせず・いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず、されば同くは・なげきたるけしき気色なくて此の状に・かきたるが・ごとく・すこしも・へつらはず振舞仰せあるべし、中中へつらふならば・あしかりなん、設ひ所領をめされ追い出し給うとも十羅刹女の御計いにてぞ・あるらむと・ふかたのませ給うべし
 ──一生は夢の上の出来事のようにはかないもので、明日のことさえわからないものである。たとえ、どんな乞食になったとしても、法華経にきずをつけてはならない。それゆえ、同じくは、(あなたの決意はすでに定まっているのであるから)嘆いた様子を見せないで、この誓状に書かれたように、少しもへつらわずに振る舞い、語っていきなさい。なまじ、へつらうようなことがあれば、かえって(状況は)悪くなるであろう。たとえ、所領を没収され、(土地を)追い出されようとも、それは十羅刹女(諸天善神)の御計いであるのだろう、と深く信をとり、十羅刹女にまかせておきなさい。
 もし日蓮(佐渡に)流罪されないで鎌倉にでもいたならば、あの戦い(文永九年二月の北条一族の内乱<二月騒動>)に巻き込まれて、きっと打ち殺されていたにちがいない。今、あなたが江間家を追い出されることも、このまま江間家にとどまっていてはよくないだろう、という釈仏の御計いなのであろう──と。
 どのように圧迫されようとも、少しも嘆くことはない。″三世永遠″から見下ろせば、″一瞬″の出来事である。断じて、へつらってはならない。卑屈な振る舞いを見せてはならない。
 この大聖人の仰せを、私どもは今一度、深く心に刻んでまいりたい。とともに、仏法の眼から見れば、すべて深い意味がある。御本仏が厳然と創価学会を守ってくださっている。一切が「正義の証明」へ、「正義の勝利」へと動き、回転していることは間違いない。
 あとになれば、万事、一番、良い方向に進んだことがわかるのである。
 また「日蓮が道」を助ける──「広宣流布」という御本仏の御遺命実現に働く私ども学会員には、必ず十方の仏菩薩、諸天善神の絶大の加護がある。ゆえに、何があっても、朗らかな「楽観主義」で悠々と進んでまいりたい。
18  正法ゆえの難は法華経への供養
 さらに大聖人は「此の陳状・人ごとに・みるならば彼等がはぢあらわるべし、只一口に申し給へ我とは御内を出て所領をあぐべからず、上より・めされいださむは法華経の御布施・幸と思うべしと・ののしらせ給へ、かへすがへす奉行人に・へつらうけしき気色なかれ、此の所領は上より給たるにはあらず、大事の御所労を法華経の薬をもつて・たすけまいらせて給て候所領なれば召すならば御所労こそ又かへり候はむずれ、爾時は頼基に御たいじやう怠状候とも用ひまいらせ候まじく候とうちあて・にくさうげ憎体気にて・かへるべし
 ──この陳状(「頼基陳状」のこと。四条金吾の正義を訴えた主君への陳述書。大聖人が代筆された)を人々が見るならば、(策謀した)彼らの恥がはっきりと表れるであろう。
 あなたは、ただ一口に申しなさい。「自分から江間家を出て、所領を差し出す気持ちはありません。主君から取り上げられるならば、それは法華経への御布施であり、幸いと思います」と言いなさい。くれぐれも奉行人に、へつらうような様子があってはならない。「この所領は、主君からいただいたものではありません。主君の御病気を法華経の大良薬をもって助け奉って、いただいた所領ですから、それを取り上げるならば、また御病気が再発するでしょう。その時になって、頼基(金吾)に謝罪されても、もはや用いません」と、言い放って、憎々しげに帰りなさい──。
 正法ゆえの迫害で何かを取り上げられても、それは「法華経への御布施」となる──ゆえに大功徳となるのである。また本来、私どもの御供養は、すべて御本尊、そして大聖人に御供養したものである。その「信心」に「大福徳」が伴うことは間違いない。
 一方、その「真心」を裏切り、「大聖人への御供養」を、私物化し、横領するようなことがあれば、因果の理法で厳然と裁かれるであろう。
19  仏法は一切衆生を幸福に
 世界は広い。大きい。六十億もの人間が、それぞれ「幸福」を願い、「希望」を抱(いだ)いて、それぞれの人生を生きている。
 いわんや「幸福」になるための信仰である。仏法である。大聖人はこの信心で「釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」と仰せである。一切衆生を仏に──これが御本仏の御心みこころであられた。
 信徒をいじめ、苦しませる──そんなものが大聖人の仏法であるはずがない。日蓮門下の「正統」であるはずがない。大聖人の御精神とは「無縁」の仏法破壊のやからなど、悠々と見下ろし、我が人生を飾っていけばよいのである。何一つ、心配する必要はない。学会は何も困らない。
 学会にこそ、大聖人の「正統」がある。歓喜と勇気に満ちた「正法の世界」、希望に燃えた「正しき信心」がある。人生を最高に遊楽できる「正しき道」がある。私どもは、この「大確信」で、我が創価学会の「栄光の道」を、楽しく、堂々と進んでいきましょう!
 大学会の皆さん、本当にご苦労さま!。また、「渋谷ここにあり」との雄姿を示してくださった渋谷の皆さまも、ご苦労さまでした。全国の皆さま、きょうは、ありがとう!おめでとう!

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