Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第2東京文化音楽祭・総会 民衆の声に応えるのが真の宗教

1991.11.4 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

前後
2  きょうは、学会草創の十二支部の代表をはじめとする、懐かしき同志の皆さまも集われている。
 今日の学会の大発展、正法の大興隆は、この十二支部から始まった。この方々が、ただ「広宣流布」のために、真剣に戦い、戦い抜いて、今日をつくり上げた──偉大な先覚者、功労者である。
 「鶴見会」「蒲田会」「小岩会」「杉並会」「文京会」「中野会」「築地会」「足立会」「志木会」「本郷会」「向島会」「城東会」そして「第一会」──私が部隊長であった草創の男子部第一部隊のメンバーの集いである──さらに、各区の人材グループである「江東会」「墨田会」「杉並会」「糀谷会」の皆さまも参加されており、本当にご苦労さまです。
 いつまでも若々しく、長寿で、すべての後輩の模範の人生をお願いしたい。
 また本日は、アメリカで活躍されているトランペッターのシュンゾウ・オオノさんが、友情出演で見事な演奏をプレゼントしてくださった。また、アルゼンチン・タンゴの巨匠であるプグリエーセ氏から私に贈られたタンゴの名曲(「トーキョー・ルミノーソ<輝く東京>」)を、やはりアルゼンチンの名手であるカルロス・リバローラさんが、華麗に舞ってくださった。
 「明年は、私たちもトランペットを吹き、タンゴを踊りたい」と心動かされる素晴らしい名演でした。心からお礼申し上げたい。
3  この文化音楽祭を記念して、第二東京の青年部の諸君が、一幅の絵を贈ってくださった。アジア大陸の中央にそびえる山脈「カラコルム」を描いたものである。
 青年部へのお礼を込めて、まずカラコルムについて、少々、紹介しておきたい。
 「カラコルム」とは、トルコ語、突厥とっけつ(チュルク)語で「黒いれき(小さい石ころ)」を意味する。もとは、この山脈の東部にある峠の名前であった。山脈(大カラコルム)の平均高度は、七〇〇〇メートルにもなる。富士山の二倍もあり、光景の壮大さは比較にならない。
 このカラコルム山脈から、東へはチベット高原、ヒマラヤ山脈、北へはパミール高原、天山ティエンシャン山脈、さらに西はアフガニスタンの山々へと続く。まさに″世界の屋根″と呼ばれるにふさわしい雄大な高山地帯である。
 古来、この険難の地を越えて、シルクロードを多くの旅人が往来した。仏教がインドから中国に渡り、中国から求法の人々が通ったのも、この地である。
 偉大なものは、「けわしき山」を越える。その厳しい試練を乗り越えてこそ、本物となる。「人生」も「広布」も同様である。若き諸君は、「山」が高ければ高いほど勇み立ち、堂々と「勝利の登はん」を果たしていただきたい。
4  「在家を離れた聖職者は存在意義を失う」
 さて今回の宗門の問題について、幾人かの著名な学者の声を紹介したい。さすがに見識ある方々は、物事の本質を冷静に公正にとらえておられる。皆さまにも参考になる話であると思うので、本日は、それらの要点を紹介させていただく。
 ある教授は、社会学者の立場から、こう述べておられる。
 「宗門と学会の諸問題が、両者の対立という形で報道されているようだが、これは正しい見方とはいえない。世界的な民主化の潮流が押し寄せる九〇年代にあって、むしろ、避けては通れない″関門″ととらえるべきであろう。いわば、九〇年代という歴史的転換点において、宗教の本来あるべき姿が問われているのである。
 そこでは、教団運営の民主化、国際化時代での布教の在り方、ボーダーレス(国境なき)時代での宗教の普遍性等々がクローズアップされる。これは健全なことである。
 学会は、日蓮(大聖人)の古典的価値体系を、現代に普遍化するという重要な歴史的役割を果たしてきた。一方、宗門は、伝統的価値にしがみつくことによって、何とか存続してきた。その差は歴然である」
 「ソ連・東欧をはじめとする劇的な変化の底流には、民主化への、大衆の飽くなき欲求があった。結果として、その精神的パワーが、ベルリンの壁の崩壊へ、ソ連のクーデターに対する民衆の勝利へという流れを形成していった。つまり、そうした力が、地球的規模での『情報化』と相まって、社会主義圏にも『自由化』の芽をはぐくみ、急速に『民主化』の流れをつくったといえる」
 「ここで見落としてならないのは、一連の民主化への流れが、実は『聖』と『俗』との関係性の根本的な見直しという哲学的課題を背負っているということである。
 本来、人間性の解放を目的とするマルクス主義は、時とともに人間性から離れ、人々を権威で支配するための教条的イデオロギーと化した。これが″疑似宗教″としてのマルクス主義の登場である。
 この″疑似宗教″、つまり共産主義のイデオロギーのもとでは、権力者たちが″聖職者層″に、一般国民が″在家の信者″にあたる。その関係は、″聖職者″が″在家″を権力で支配し、服従を強いるというものである。この、権力者の腐敗、硬直した体質に対して、国民の憤懣ふんまんつのらないはずがない。そのエネルギーが『民主化』の旗のもとに結集し、劇的な変化をもたらしたといえる。
 腐敗した権力者(聖職者層)が暴走し、国民(在家)を切り捨てれば、どうなるか。それはむしろ、″聖職者″が、″在家″から切り離されたのであり、その時点で、共産党は存在意義を失うしかない。クーデター失敗の本質もここにある。
 ゴルバチョフ大統領を幽閉したクーデター事件と、宗門による総講頭罷免ひめん等のやり方は、その構造において酷似こくじしている」
 「その意味から、宗門が、かりに『破門』等の暴挙に出たとしても、それは宗門自らの社会的・宗教的存在意義を否定したにすぎず、必然的な敗北を自ら招くことにしかならない」
 「組織には、発展に向かうか収束状態になるかの″分岐点″がある。それを乗り越え、土台とし、さらに発展するためのキーワードは何か。それは『人間主義』である。
 ″すべては人間のため″″あらゆるものは人間による″という哲学を貫徹かんてつするところに『人間宗教』の復興(ルネサンス)がある。学会の明年のテーマ『創価ルネサンス』も、その信念の叫びであると受け止めたい」
 「自己革新能力を失った教団は、社会から見捨てられ、いやおうなしに崩壊の道をたどる。宗門問題は、学会が『創造力』『開発力』『自己革新能力』など、次代を担う力をもった教団であることを証明している。これまで通り、『宗教と社会の開かれた関係』を追求し続けていただきたい。そう宣言し実行することが最善の道であると信ずる」
5  昨日、マカオの学者ランジェル博士(マカオ政務長官)との懇談でも、ポルトガルの栄枯盛衰えいこせいすいの歴史をとおし、語り合った。
 一国を繁栄させるためには、その途上に、さまざまな妨害がある。敵もある。あらゆる国が、常に友好的に接してくれるとは限らない。″人がよい″だけでは敵をつけ上がらせ、せっかく築いた繁栄を、食いつぶされて、かえって人々に不幸を味わわせてしまうことにもなりかねない。ゆえに、指導者も民衆も賢明でなければならない──。
 また、ある著名な学者は、こう述べておられる。
 「万が一″日蓮正宗は学会とは無関係……″というような宣告をしようとしているとしたら、それは、日蓮正宗の自殺行為である。心ある社会の人々には、見識を疑われるだけで、まったく逆効果であろう」
 「一宗の法主ほっすが他宗の寺院に、墓を建立することも、前代未聞のことで、おかしな話ばかりである」
6  葬儀仏教は過去の遺物
 さらに、ある中国哲学の著名な学者は、このように語られている。
 「日蓮正宗が、入信の時に授戒じゅかいをするのはよいと思う。だが、それでは死んだ時になぜ、もう一度戒名かいみょうを授けなければならないのだろうか。二度、授戒をすることになり、完全に矛盾している」
 「また『死んだ時に僧侶が来て、戒名を授け、葬儀をすることで成仏する』などと言うならば、その後、一周忌や三回忌などに、なぜ僧侶が行って、『一度仏になった』と僧侶自らが言っている人に対して、何度も″仏にする儀式″を行うのか」
 「葬儀にしても、一周忌などの行事にしても、本来は仏教的なものではなく、″普通の人間が行う、人間の儀式″であった。それが、江戸時代の寺請てらうけ制度、檀家だんか制度の影響で、いつの間にか葬式等が、宗教的儀式と考えられるようになってしまった」
 「より大きい意味では、仏教が葬儀に関係することは良いことだと思う。つまり、仏教を精神的なバックボーンとする人々が集い、友人のことをしのぶ。それが本当の宗教の在り方であろう。宗教は形式ではなく、内容である。そういう意味で、友人葬という学会の葬儀の在り方は、素晴らしいことである。本来の葬儀の在り方であり、本来の仏教の在り方である」
 「葬式が大切というなら、『生まれること』も大切である。なぜ『生きること』について、宗門はかかわろうとしないのか」
 「これからの仏教は、本来の在り方、その本質を問い直さねばならない。例えば″僧の在り方″。僧を僧として尊敬できるのは、信徒を越える『行い』をしていることによる」
 「信徒の信心の模範となるべきなのが僧であって、そういう僧であれば、敬意は″自然に″出てくる」「僧のほうから『私を敬いなさい』では、まったくだめである」
 「日本の寺院は、江戸時代、一種の″役所″として、おかみの権力をバックに信徒に君臨していた。自らの宗教的な努力によって権威を保っていたのではない。日蓮正宗は、学会が出てきた以前の″村の檀寺″という意識のままである。それが今回の問題の本質であると私は思う。昔の『村の役人』根性である」
 「学会の組織は、信仰で結ばれた組織であり、″精神の絆″をもった『近代的組織』である。それを宗門のほうは、地縁・血縁による非近代的共同体のようにしか思っていない。とんでもない錯覚である。昔からの意識を変革できない、正宗僧侶の″悲劇″である。
 『近代』とは何か、『民主主義』とは何かという、教義以前のことが分からない人が、『近代的組織』の上に君臨しようとするのだから″悲劇″になる。
 『自分たちは僧としての在り方を徹底的に追求する。組織は、あなた方に任せる』と言うのであれば、それは、ひとつの定見であろう。それを、まったく逆に、組織支配に欲を出し、僧としての在り方をなおざりにするのだから、話にならない。世間の″物笑いの種″になるだけである。
 それにしても、学会には、本当にパワーがある。今回のようなことがあれば、普通は大分裂である。しかし学会は、それをもステップにして、さらに″開かれた組織″へと前進している。驚きである。『御書根本』『日蓮(大聖人)の教え通りに』──まさに『宗教改革』の姿である」
7  「学会こそ大聖人の仏法の正統」
 さらに、別の学者は次のように述べておられる。
 「宗教は、民衆の悩みや欲求、人生の生き方の問題にどう応えていくかというところに、その存在意義がある。その意味で、葬式仏教化した宗門は、すでに宗教団体としての存在意義を失っているといえる。日蓮大聖人の精神を現代に生かしているのは創価学会であり、私は、すでに勝負はついていると思う」
 「宗教学者から見れば、なぜ創価学会が現在の日蓮正宗のような教団の体質に拘泥こうでい(とらわれること)しているのか、かえって不思議である」
 「大事なことは、学会が信奉している教義こそ日蓮大聖人の教えであり、本来の日蓮正宗の教義であることを、今まで通り主張しきることです」
 「大聖人の仏法に照らし、現在の宗門の法主絶対化の教義、体制はおかしい、と明確に主張すべきです」
 「一方、宗門がいくら権威主義、非民主的体質であろうと、国家が法的にこれをただすことはできない。宗教の改革は内部で行うしかない。それが、信教の自由にのっとった在り方である」
 「たとえ宗門が学会を処分する等といっても、学会は日蓮大聖人の仏法を信奉する道をそのまま歩めばよい。法的にも何の問題もない。たとえば真言宗にも分派は数多くあるが、根本の教義は同じである。また本願寺(浄土真宗)も東と西にわかれているが、基本の教義は、まったく同じである。宗教法人法のもとでは、教義が同じであっても法人として別である例は多々ある。まして宗門が、学会の宗教法人の解散をうんぬんすることはできないし、そうした論議自体、法律的にも、まったく問題外である」
8  「学会は著しく社会公益的」
 また、別の大学教授は次のような声を寄せておられる。
 「宗門が、戦略的に、創価学会の破門や解散を持ち出してくることは、当然、推測できることであり、そうだとしても別に驚くほどのことでもない。学会は、宗教法人法にのっとって設立された、″独立した人格″を持つ宗教団体である。ゆえに、法的に宗門が何を言ってきても、何の実効性もない」
 「学会は、会員のみならず、社会に大きく価値を還元してきている、著しく社会公益的な団体である。それに対して、宗門は、他の既成宗教各派と同じく、葬儀や法事等を通じて、信徒から金を取るだけ取る。基本的に、そうした存在である。
 様々な面で独善的で、非社会的で品位のない宗門中枢の人々の言うことを、そのまま聞いているとしたら、そのほうが、かえって良識ある多くの人にとって不審なことである。むしろ、学会に対するマイナス・イメージをもつ理由になるくらいである」
 「私の個人的な意見からすれば、もしも、宗門の人間が学会を切ってくるならば、彼らのおかげで学会がこれまでこうむってきたマイナス・イメージを払拭ふっしょくする好機であり、今回の問題に関しては、絶対に妥協してはならないと思う。
 ともあれ、宗門との問題は、学会の社会的役割にとって、まったく本質的な問題でもなければ、大きな問題でもない」
9  「″謗法の一派″からの処分は正義の証明」
 また、ある大学の研究者は次のような期待を寄せておられる。
 「今回の問題は、日本の仏教運動の将来を方向づける問題だと認識しているので、学会にはぜひ、範を示していただきたい。また、学会にとっても、創立六十周年を経て、さらに大きく飛躍するための好機であろうと考えている」
 「宗祖の教えを曲げた謗法の一派によって、もしも″首を切られる″のならば、むしろ誉れであり、誇りであろう。それが本物の宗教である。学会にとっての″たつの口のくびの座″であると私は見ている。喜ぶべきことである」
 「もし、宗門が学会を″うちとは無関係″等と切り捨てようとしても、宗門を外護し、興隆させてきた学会の功績からいって、無関係であるはずがない。学会が宗門を支えてきたのは世間周知の事実であり、歴史を無視して、一方的に″無関係″などと言えば、笑われるだけである。
 学会は、日蓮大聖人の御精神、本当の日蓮正宗の正義は学会のほうにこそあると、どこまでも主張し抜いていただきたい。そうでなければ逆に、社会からの信頼を失うことになりかねない」
 「悪いのは宗門の″謗法の一派″であり、将来、日蓮正宗が正常化した時には、新たな対応が可能であろう。ただし、その場合も、宗門と学会、僧と俗は、構造的な緊張をはらむ関係であり、この構造自体をそのままにしておくかぎり、根本的な解決はない」
 これらはほんの一部であるが、心ある多くの人々は、学会の正しさを心から理解し、その行動を共感をもって見つめている。そうした期待に応えるためにも、私どもは堂々と、さらに大聖人の仰せ通りの正法流布の道を進んでいきたい。それが仏法者として、人間として、社会人としての責務であり、使命であると確信する。
10  平等の法華経の門を閉ざす悪侶
 最後に御書を拝したい。大聖人は、「開目抄」の最後に次のように仰せである。
 「夫れ法華経の宝塔品を拝見するに釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ「令法久住・故来至此」等云云」──法華経の宝塔品を拝見するのに、釈・多宝・十方分身の諸仏が来り集ったのは何のためか。『法をして久しく住せしめんが故に、ここに来至したのである』と、はっきり説かれている──。
 法華経の会座えざに諸仏が集ったのは、妙法を永遠に住せしめるためであるとの仰せである。
 「三仏の未来に法華経を弘めて未来の一切の仏子にあたえんと・おぼしめす御心の中をすいするに父母の一子の大苦に値うを見るよりも強盛にこそ・みへたるを法然ほうねんいたはしとも・おもはで末法には法華経の門を堅く閉じて人を入れじとせき狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに法華経を抛させける心こそ無慚に見へ候へ
 ──このように、(釈迦・多宝・分身の諸仏)が未来に法華経を弘めて、未来の一切の仏子(一切衆生)に与えようとお考えになった御心の中を推しはかると、父母がただ一人の子供の大苦にあっているのを見るよりも、さらに強盛に衆生のことを心配されている。それなのに、法然はいたわしいとも思わないで、″末法には法華経の門をかたく閉じて人を入れまい″とせき止めた。狂った子供をたぼらかして持っている宝を捨てさせるように、法華経をなげすてさせてしまった心こそ、あまりにも恥知らずなことである──。
 本来、全民衆に平等に注がれた仏の慈悲に背き、謗法の悪侶は法華経の門を閉ざしてしまった。何と恥知らずであり、残酷であろうかと、厳しく責められている。
 「我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし「慈無くしていつわり親しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云
 ──我が父母を人が殺そうとするのを知って、父母に告げないでいられようか。悪子が酔い狂って父母を殺そうとするのを見て、止めないでいられようか。悪人が寺塔に火を放とうとするのを、止めずにいられようか。一人の子供が重病の時に、(いやがるからといって)お灸をすえずにいられようか。日本の禅や念仏の者を見て破折しない人々は、このようなものである。「慈悲がなくて、いつわり親しむのは、すなわち彼のあだである」との仏の金言の通りである──と。
 禅宗の寺に行って破折もしない──ここには、そんな人はいないと思う。
11  仏法破壊の者とは断じて戦う
 ともあれ、仏法破壊の者とは断じて戦い抜く。いつわり親しんではならない。それでは、かえって″敵″となる。妥協してはならない。はっきり言ってあげることが仏法の慈悲にかなう実践であり、相手を守ることになる。私どもの行動こそ、本来の日蓮大聖人の仏法を守り抜く、真の″外護げご″なのである。
 さらに続けて、大聖人は仰せである。
 「日蓮は日本国の諸人にしうし主師父母なり一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親」等云云」──日蓮は日本国の諸々の人々にとって主であり、師であり、親である。一切、天台宗の人は、彼らの大怨敵である。「彼のために悪を除くのは、すなわちこれ彼の親である」と。(その親のごとく振る舞われているのは日蓮大聖人以外にない)──。
 大聖人が、主師親三徳具備ぐびの末法の御本仏であられることを御宣言あそばされた、まことに重要な一節である。さらに、その大慈悲の御心から、天台宗をはじめとする仏敵を呵責かしゃくされていることを示されている。
 「無道心の者生死をはなるる事はなきなり、教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられさせ給い天台大師の南北・並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をつと伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といはれさせ給いし皆法華経のゆへなればはぢならず愚人にほめられたるは第一のはぢなり
 ──道心(信心)のない者は、生死(の苦悩)から離れることはできない。教主釈尊は、一切の外道から大悪人であると、ののしられた。天台大師は、南三北七の十派から怨嫉され、日本の法相宗の僧・得一からも、「(天台は)三寸に足らない舌をもって(仏説を誹謗し)五尺の仏身を断つものである」と中傷された。また伝教大師も、南京(南都<奈良>)の六宗の人々から「最澄は、いまだ唐の都を見ていない(だから大したことはない)」と悪口を言われた。これらは皆、法華経のゆえであるから、まったく恥ではない。(それよりも)愚人にほめられることこそ第一の恥である──と。
 妙法ゆえの大難は、むしろ「最高の誉れ」である。愚人にほめられることこそ、最大の恥ではないか──。これが御本仏の教えであり、永遠の「学会精神」である。
12  流罪は「大いに悦ばし」との御境界を仰ぎ
 「日蓮が御勘気を・かほれば天台・真言の法師等・悦ばしくや・をもうらんかつはむざん無慚なり・かつはきくわいなり
 ──日蓮が幕府の御勘気をこうむった(流罪になった)ので、天台・真言の法師等は喜ばしく思っているであろう。(その心は)実に恥を知らぬものであり、奇怪きかいなことである──。
 正義ゆえの難をみて、喜び笑っているとは──何と卑しく、ゆがんだ、仏法の精神と正反対の心であろうか。
 「夫れ釈尊は娑婆に入り羅什は秦に入り伝教は尸那に入り提婆師子は身をすつ薬王は臂をやく上宮は手の皮をはぐ釈迦菩薩は肉をうる楽法ぎょうぼうは骨を筆とす、天台の云く「適時而已」等云云、仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし
 ──(法華経を弘めるために)釈尊は娑婆世界に応誕おうたんし、鳩摩羅什くまらじゅうは中国に入り、伝教は中国に渡った。また提婆菩薩や師子尊者は(正法のために)身を捨て、薬王菩薩は、ひじを焼いた。上宮太子(聖徳太子)は手の皮をはいで経を写し、釈菩薩は自らの肉を売って供養し、楽法梵志ぎょうぼうぼんじは骨を筆として仏の教えを書きとどめた。これらのことを、天台は「時にかなうのみ」と説いている。仏法は時によるべきである。日蓮が(時にかなって、謗法を責め)流罪されていることは、今生の小苦であるから少しも嘆かわしいことではない。後生には大楽を受けるのであるから、大いに喜ばしいのである──。
 大聖人は、このように「開目抄」を結ばれている。「おおいに悦ばし」──流罪の大難を悠然と見下ろされた、何と澄みきった崇高な御心境であられることか。
 「仏法は時によるべし」と。大聖人につらなる私どもの現在の行動も、まさに「時にかなった」実践なのである。ゆえに大功徳がある。また、それは「三世永遠の大楽」を開く正義の法戦なのである。
13  ともあれ、「第二東京」は、今後ますます大切な「使命の天地」と輝いていくにちがいない。私も、この地の発展のために、一段と力を入れていく。
 「何が二十三区だ!」、また「何が関西だ!」──と意気軒高な人がいたが、堂々たる「日本一」の前進を祈りたい。
 ″難攻不落の第二東京″、武蔵野の大空に「勇気」と「和楽」と「団結」の旗ひるがえる第二東京の建設を、重ねてお願いしたい。
 きょうは本当にありがとう。また何度も何度も、お会いしましょう!

1
2