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日蓮大聖人・池田大作

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小田原記念音楽祭、佐賀県総会・合唱祭 民衆の歌声に人間宗教の証

1991.10.10 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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2  さて、皆さまも読まれたことがあると思うが、イギリスの大劇作家・シェークスピアの「ヴェニスの商人」に、このような一節がある。
  心に音楽を持たぬ人間、美しい音楽の調和にも
  たえて心を動かさぬ人間、きっとそれは
  謀反むほん策謀さくぼう掠奪りゃくだつなどをやりかねぬ人間なのだ
  その心の動きは夜のようににぶ
  情感はエレボスのようにくら
  そうした人間を信じてはならぬ
3  はつらつたるリズム、希望のメロディー。音楽は「人間性」の表現である。「人間らしさ」の象徴である。反対に、音楽を見下し、文化を弾圧するのは「夜の人間」であり「暗黒の心」である。そこにはみにくい策謀や欲望が渦(うず)巻いている──。
 一体、どちらが人間らしいのか、どちらが信頼できるのか──シェークスピアは、明快に言い切っている。
 学会は、いかなる時でも文化を大切にしてきた。文化祭、音楽祭などを通じて、朗らかな歌声を広げながら前進してきたのも、その一例である。
 民衆の歌声──それはまさに「人間性のあかし」である。そして仏法は本来、人間主義である。この「希望の歌声」こそ、学会が、人間主義の仏法を正しく実践している一つの証明の姿である。
 音楽祭の大成功、本当におめでとう!
4   策略、略奪りゃくだつ、裏切り──そうした黒い心の人間は、清らかな信心の集いである学会の世界からは、どうしても離れていってしまう。
 先日も述べたように、日亨にちこう上人は「貪瞋癡とんじんち」の三毒について論じられた中で、「いかり」の煩悩ぼんのうが強かったとされる舎利弗しゃりほつについて、釈尊が「彼は強情ごうじょうだから、私の言うことも聞くまい。彼の本性は毒蛇なのだ」と語ったエピソード等を紹介されながら、「毒蛇」の本性をもつ人について語っておられる。
 「毒蛇」の本性をもつ人間は、何かのきっかけで、「瞋り」のあまり正気を失ってしまうと、どんな正論も耳に入らなくなり、自分をかえりみるどころか、反対にますます、怒りを増長ぞうちょうさせる。その結果、多くの周囲の人々を不幸にし、恐怖におとしいれる。ゆえに、いるとかえって危険な存在なのである。私どもは悠々ゆうゆうと、うるわしい同志と同志の連帯をさらに強めながら、正義の叫び、歓喜の歌声を、どこまでも広げていきたい。
5  「法難の国土」こそ「凱旋の仏土」
 本日は、厚木にうかがったので、この地ゆかりの御書を拝したい。
 七百二十年前──文永八年(一二七一年)のきょう十月十日、大聖人は竜の口の御法難のあと、依智えちって、佐渡に向かわれた。「種種御振舞御書」には、「同十月十日に依智を立つて同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ」としるされている。その依智(現・依知)は、現在、この厚木市にある。
 大聖人とのえにし深きこの日に、第一回の合唱祭が開催されたことは、大きな意義があると思えてならない。
 また地元の、依知支部をはじめ厚木東本部の方々が集って、10・10「依知の日」を記念して勤行会が開催されることもうかがっている。さらには、神奈川県青年部による依智に関する大変、立派な研究リポートも届けられている。
6  依智に御滞在中、大聖人は、四条金吾にあてられた有名なお手紙で、次のように仰せである。
 「度度の御音信申しつくしがたく候、さても・さても去る十二日の難のとき貴辺たつのくち竜口まで・つれさせ給い、しかのみならず腹を切らんと仰せられし事こそ不思議とも申すばかりなけれ
 ──たびたびのお便りをいただき、その真心のありがたさは言い尽くすこともできません。それにつけても、去る十二日の難(文永八年九月十二日の竜の口の法難)の時、あなた(四条金吾)は竜の口の刑場まで連れそってくださり、そればかりではなく、腹を切ろうと言われたことは、不思議といおうか、とても言い表せません──。
 ありがたいお言葉である。在家の信徒の「真心」を深くくみとってくださっている。「心」を「心」で受けとめてくださっている。門下の不惜身命ふしゃくしんみょうの信心を「不思議」とまで、たたえられているのである。
 私どもも、大聖人の仰せのままに、不惜身命の行動を貫き、「広宣流布」を進めに進めてきた。御本仏はすべて″真実″を、わかってくださっていることを確信する。
7  「日蓮過去に妻子・所領・眷属けんぞく等の故に身命を捨てし所いくそばくか・ありけむ、或は山にすて海にすて或は河或はいそ等・路のほとりか、然れども法華経のゆへ題目の難にあらざれば捨てし身も蒙る難等も成仏のためならず、成仏のためならざれば捨てし海・河も仏土にもあらざるか
 ──日蓮は過去において、妻子・所領・眷属(一族の者、また身近につかえる家来)などのために身命を捨てたところは、どれほど多くあったことであろう。あるいは山に捨て、海に捨て、あるいは河、あるいはいそ等、また道ばたに命を捨てたことだろうか。しかしながら、法華経のゆえ、題目のゆえの難ではないので、捨てた身命も、受けた難等も成仏のためのものではなかった。成仏のためではないから、身命を捨てた海や河も仏土ではなかったであろう──
 大聖人も過去世において、妻や子供、また所領や一族・郎党などのために、命を捨てたであろうと述べられている。御本仏の示同凡夫じどうぼんぶ(凡夫と同じ姿をお示しになること)のお姿であろうか、成仏の道を貫くことは難しく、しばしば踏みはずしてしまうことをお示しくださっていると拝される。
 もとより、何の苦難もない人生などない。ただ同じ苦労でも、仏法上の苦労、難は、すべて自分の永遠の大福徳に変わる。ゆえに勇んで正法広布のため、正しき信心を守るために、戦う人が、成仏へと歩む人である。
 「仏法は勝負」である。仏と魔との戦いである。魔は仏子ぶっしを悩まし、不幸にしようとねらってくる。その魔の働きを「魔」と見破って、勇んで向かっていくことである。そうすれば退散していく。
 魔を打ち破る根本は「唱題」である。そして「戦う一念」である。
8  「今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ、流罪は伊東・死罪はたつのくち・相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ仏土におとるべしや、其の故は・すでに法華経の故なるがゆへなり
 ──このたびは法華経の行者として、流罪・死罪にまで及んだ。流罪は伊東であり、死罪は竜の口であった。相州(相模国、現在の神奈川県)の竜の口こそ、日蓮が命を捨てた所である。仏土に劣るであろうか。いや劣らない。そのわけは、すでに法華経のゆえに身命を捨てた場所だからである──。
 大聖人は、法華経の行者として、流罪、死罪にあわれた。とりわけ、この神奈川の竜の口こそ、死罪に処せられようとされた地である。
 「若し然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか、娑婆世界の中には日本国・日本国の中には相模の国・相模の国の中には片瀬・片瀬の中には竜口に日蓮が命を・とどめをく事は法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか
 ──(法華経が成仏のための真実の教えであると経文には説かれている)もしそうであるならば、日蓮が(法華経のゆえに)難にあう所ごとに仏土となるであろう。娑婆世界の中では、日本国、日本国の中では相模の国、相模の国の中では片瀬、片瀬の中では竜の口に、日蓮の命をとどめおくことは、法華経のゆえであるから、その地は寂光土(仏の住する国土)ともいうべきであろう──。
 大聖人は、法難にあうところすべてが、仏国土になると述べられている。
 「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」と仰せである。
 「難」は「正義」の証明である。迫害を受ければ受けるほど、「正法」の大力用りきゆうは強く、深く、広く、発揮はっきされていく。個人の宿命転換も、国土の変革もなされていく。これが、法華経の重要な原理である。大聖人が教えられ、身をもって示された「立正安国」への軌道きどうである。
 そして学会は、この軌道の通りに、大難を受けながら、正法を世界に拡大してきた。その歩みと歩調を、あわせるかのように、日本の国も発展した。
 今、皆さま方は、それぞれの地域を「仏国土」に「幸の宝土」に変革する戦いをなされているのである。これ以上の誉れはない。
9  護法の人には永遠の大福徳
 大聖人は続けて四条金吾に仰せである。
 「かかる日蓮にともなひて法華経の行者として腹を切らんとの給う事かの弘演が腹をさいて主の懿公がきもを入れたるよりも百千万倍すぐれたる事なり
 ──このような日蓮にともなって、(金吾が)法華経の行者として腹を切ろうと言われたことは、中国の弘演が自分の腹をさいて、主君の懿公のきもを入れたことよりも、百千万倍すぐれたことである──と。(懿公は、中国・春秋しゅんじゅう時代のえい国の王。異民族にめられて殺された時、駆けつけた忠臣・弘演は、自分の腹を切って王の肝を収め、主君のはじかくして死んだと伝えられる)
 身命しんみょうした四条金吾の強盛ごうじょうな信心を、最大にたたえられている。
 「法」のたっときゆえに、護法ごほうの「行動」もまた最高にたっとい。皆さまの日々の広布への「行動」こそ、「大福運」を積み、「大境涯」を開きゆく行動であると確信していただきたい。
 そして大聖人は、信徒の金吾に対してまで「法華経の行者として」と、たたえてくださっている。この大慈悲を深く拝したい。
 「日蓮・霊山にまいりて・まづ四条金吾こそ法華経の御故に日蓮とをなじく腹切らんと申し候なりと申し上げ候べきぞ
 ──日蓮が霊山にもうでた時には、まずはじめに「四条金吾こそ、法華経のゆえに日蓮と同じように腹を切ろうと言いました」と申し上げましょう──と。
 大聖人御みずから、門下に代わって、その功績を、まっさきに霊山で報告してあげようとまで仰せくださっている。何とありがたい御本仏の御心であろうか。
 反対に門下の功績をねたみ、隠そうとし、こわそうとするような仏がおられるであろうか。
 私どもは、どこまでも大聖人とご一緒である。「僧宝そうほう」であられる日興上人の仰せ通り、御本尊と御書を根本に、大聖人直結の信心を貫いているのである。
 いかなる″我見″や″策略″も、この信心のきずなを断ち切ることはできない。
 私どもは「大聖人の門下」であり「御本仏の眷属けんぞく」である。この一点さえ自覚すれば、何も恐れる必要はない。真実は時とともに証明されるであろう。何より大聖人が厳然とさばいてくださるにちがいない。
10  戦いの強き祈りに、諸天の強き守り
 「又かまくらどのの仰せとて内内・佐渡の国へ・つかはすべき由承り候
 ──また鎌倉殿(北条時宗)の仰せということで、内々に(大聖人を)佐渡の国へ配流はいるすることを聞いている──。
 時の権力者の命令ということで、大聖人を流罪にしょそうとしている。その裏には法華経に説かれた″僣聖増上慢せんしょうぞうじょうまん″である極楽寺良観ごくらくじりょうかんらの讒訴ざんそがあった。大聖人は、こうした″策謀の構図″をするどく見抜かれていたと拝される。
 ″聖人″のごとく尊敬を受けている仏敵ぶってきと権力者との結託けったく──正法の実践者を包囲する悪の連合は、いつの時代も巧妙こうみょうかつ悪質である。見抜かねばならない。屈してはならない。私どもは宿縁深き御本仏の″仏使ぶっし″である。
 大聖人は、こうした大難のさなか、諸天善神の加護かごが厳然と現れたことを示されている。
 「三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ
 ──三光天子の中で、月天子は光り物となって現れ、竜の口の頸の座で日蓮を助け、明星天子は四、五日前に別の御書にも、竜の口では、江の島の方から光り物(月天子)が出現し、大聖人を斬首ざんしゅしようとした太刀たち取りも、目がくらみ、倒れ伏してることができなかった。また依智の本間重連しげつらていでは大星(明星天子)が梅の木に下り、武士たちは、地面にひれ伏したり、家の後ろへ逃げ去るありさまであった──等と述べられている。
 そして、「いま日天子ばかりのこり給ふ定めて守護あるべきかとたのもしたのもし」──今、日天子だけが残られている。必ず守護があるにちがいないと、たのもしいかぎりである。たのもしいかぎりである──と。
 月天(月)、明星天(星の代表)がすでに現れた。あとは日天(太陽)だけである。現れることは間違いない──。
 むしろ大聖人は、日天子がどのように法華経の行者を守護するか、悠然ゆうぜんこころみておられるようにさえ拝される。まさに「大確信」の御心であられる。宇宙大というべき、壮大な御境界であられた。
 門下である私どもも、太陽と語らい、星々を友とするような、ロマンある人生を歩んでいきたい。そうした大いなる境涯を開くための信仰なのである。
11  さらに四条金吾に、法華経の経文を引き、諸天の加護は絶対に間違いないことを重ねて述べられている。心配する門下に、「安心しなさい」と激励されているのである。御自身が、あれほどの大難のさなかで、門下のことまで気づかってくださっていた。
 「法師品ほっしほんに云く「則遣変化人為之作衛護」疑あるべからず、安楽行品に云く「刀杖不加」普門品に云く「刀尋段段壊」此等の経文よも虚事にては候はじ、強盛の信力こそありがたく候へ
 ──法華経法師品には、「すなわ変化へんげの人をつかわしてこれため衛護えごさん」(仏はさまざまな姿の人を派遣して、必ず法華経の行者を守る)と説かれている。疑ってはならない。また安楽行品には、「刀杖も加えず」((法華経の行者を)刀や杖などで害することはできない)とあり、普門品には「つるぎいで段段に壊(お)れなん」((法華経の行者を、きりつけようとする)刀は、すぐにいくつにも折れてしまう)と。これらの経文は、よもやうそではあるまい。強盛な信力こそ、ありがたいことである──と。法華経の行者を仏は必ず守る。迫害のやいばすら、絶対に及ばないと仰せである。
12  私どももまた、総じては、その信心に応じて、実は厳然と「守られている」のである。
 もとより凡夫の世界である。いわんや、末法も進んだ濁世じょくせである。さまざまな苦難にあい、「どうしてこんなことが」と思うようなことが起きるのも、ある意味でやむをえない。
 しかし、深い「仏法のまなこ」で見れば、すべてに意味がある。すべてが御仏意ごぶっちにかなった「勝利への前進」の姿に、ほかならない。根底においては、すべて守られながらの、私どもの「広布の旅路たびじ」なのである。
 どのような策略をもってしても、大聖人の真の門下をなきものとすることは絶対にできない。″策″は、しょせん″策″である。″謀略ぼうりゃく″は、しょせん″謀略″である。御書の仰せ通りの実践に、かなうはずがない。
 正法の実践者を迫害する者は、「還著於本人げんじゃくおほんにんかえって本人にきなん」(法華経普門品の文)の原理で、かえって自身にその悪の果報かほうをうけ、必ず「自滅じめつ」していく。
 ゆえに大切なのは、「強盛の信力」である。
 御書には「必ず心の固きに仮りて神の守り即ち強し」──必ず心の堅固けんごさによって、諸天善神の守りは強いのである──との釈を繰り返し引いておられる。
 学会は常に、この「大信力」で、一切の障魔を打ち破ってきた。大難を乗り越え、また乗り越え、六十年間で″世界一″の正法の教団を築き上げてきた。まさに「不思議」なる仏勅ぶっちょくの教団なのである。
 どうか皆さまは、このことを強く確信し、ますます元気に、ますます明るく朗らかに、大勇猛心で、私とともに世界広宣流布を目指して進んでいただきたい。
13  金とを″食いぶち″と見る「狗犬の僧」
 さて、話は変わる。仏典に、「ライオンの毛皮」という物語(「獅子皮ししかわ本生ほんじょう物語」)がある。
 ──あるところに、立派な麦畑があった。農夫たちが、来る年も、来る年も、一生懸命にたがやし、育てた麦畑である。ある年のこと、その麦畑に、なんとライオン(獅子)が現れた。そして、大切麦を次から次へ食い荒らしていった。
 「なんとしても追い払わねば!」──畑の番人はあわてた。しかし、相手がライオンではとても近づくことができない。
 ライオンはいたる所に出没しては、悠然ゆうぜんと麦を食べていった。
 「これ以上、畑をめちゃくちゃにされてはたまらない」──とうとう我慢の限界を超えた村人は、ついに立ち上がった。
 こぞって手に手に武器を持ち、ほら貝を吹き、太鼓を打ち鳴らしながら、畑へと押し寄せた。そしてライオンめがけて大声で叫んだ。
 満腹のうえに、「どうせ皆、恐れているんだ。向かってくるわけがない」と油断ゆだんしきっていた″ライオン″は、驚(おどろ)いた。驚いたあまり、つい声が出た。「ヒヒン、ヒンヒン!」──とでも鳴いたのだろうか。
 ともあれ、ライオンとは、似ても似つかぬ声であった。いやしい本性が、声に出た。黙っていれば、よかったのに、我を忘れて、ついつい卑しい声を張り上げてしまったばかりに、中身がわかってしまったのである。まさに″自滅″″自爆″であった。
 「おや!あれは、ロバの声だぞ!」
 「なんと、ライオンじゃない。ロバだ!」
 農夫たちは、勢いづいた。そして、たちまちロバに飛びかかり、さんざんに打ち倒していまった。
 実は、ロバが、ライオンの毛皮を、頭からかぶっていたのである。その″けの皮″がはがされた──このロバは、一人の商人が商売で立ち寄る先々で、ロバの背から荷を降ろすと、ロバにライオンの毛皮をまとわせて畑にはなっていたのだった。
 商人がもどってきたとき、哀れなロバは虫の息だった。
 ロバは商人に笑われた。「ライオンの毛皮をまとっていれば、いついつまでも緑の麦を食べることができたものを、ロバの一声を発したばかりに、身を滅ぼしてしまったことよ」──と。
 これは「本生経ほんじょうきょう」に説かれる話である。本当に仏典の知恵は深い。今を見通したかのような物語である。
14  「法師の皮を著たる畜生」
 大聖人は、「謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり」──謗法の者を責めずに、いたずらに遊びたわむれ、気ままな話ばかりして暮らす者は、僧侶の皮をかぶった畜生である──と、厳しくいましめておられる。
 法師、僧という「ライオンの皮」をかぶって、人々を恐れさせながら、不惜身命ふしゃくしんみょう弘法ぐほうもせず、遊び暮らし、供養くようを私物化するなどの姿があれば、まさしく「畜生」の姿そのものであろう。
 いわんや、信徒が丹精たんせい込めた″広布の花園″を破壊しようとたくらむ──まさに御本仏に敵対する、大謗法である。
 大聖人はまた、我欲がよくに狂う末世の僧を、「狗犬くけんの僧」(犬のような僧)とも仰せである。
 その姿といえば、「名聞名利に著し上には袈裟衣を著たれば形は僧・比丘尼に似たれども内心には邪見の剣を提げて我が出入する檀那の所へ余の僧尼をよせじと無量の讒言を致す
 ──名聞と名利に執着しゅうじゃくし、表面は袈裟けさ・僧衣をつけているので、形は僧や尼に似ているが、内心には邪見の剣をひっさげて、自分が出入りする檀那のもとへ、他の僧尼を寄せつけまいとしてあらゆるでっちあげの言をもって悪口する──。
 つまり、檀那(信徒)を、自分の″食いぶち″としてしか考えていない。その″食いぶち″を得るために、檀那を確保しようとし、ガツガツと供養を得ようと、むさぼる。そのためには手段を選ばない。平気でうそをつく。権力をもつ者へ、でっちあげを広めたりする。人を救う慈悲など、まったくない。──こうした「邪見」の僧を、大聖人は、「狗犬の僧」と、厳しく断じられたのである。
 ともあれ、攻められて、″にせライオン″は″ロバ″の本性を出してしまった。
 仏典の英知は、「表面の『獅子の毛皮』などにだまされるな!こちらが道理を貫き、徹底して攻め抜いていくならば、『悪』は自ら、その『正体』を現す!」──その戦いの方程式を、教えてくれている。
15  「正法」と「人間性」の創価の城を永遠に
 昨日、私はブラジルの連邦下院議員であるウエノ氏と懇談したが、ブラジルには、次のような趣旨しゅしのことわざがある。
 「いかなる財を持つよりも、良い友人を持つことは大切である。友情は金や銀よりも価値がある」と。
 変わらぬ友情は、いかなる宝よりも尊い。そして、策や利害ではなく、友情を結び、友情を大切にする人生こそ光り輝く人生である。
 私どもも人間としての「友情」で結ばれている。また世間的な友情よりも、もう一歩深いきずなで結ばれた「三世の同志」である。これ以上、麗しい人間性の世界はない。これ以上、美しき、真心の世界は絶対にない。
 どうか、「正法」と「人間性」のとりでである創価学会をしっかりと守りながら、「これでよかった」と言い切れる、最高に「価値ある人生」を、「希望の人生」を、「朗らかな人生」を生き抜いていただきたいと申し上げ、祝福のスピーチを終わります。
 神奈川の皆さま、佐賀の皆さま、そして栃木・千葉の皆さま、本当におめでとう!ありがとう!

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