Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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アメリカSGI第一回総会 われらは「生命のフロンティア」の開拓者

1991.9.29 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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2  新しいアメリカSGI(創価学会インタナショナル)の出発にあたり、私の胸には今日の土台を築いた尊き、また忘れ得ぬ、草創のあの友、この友の笑顔が浮かんでくる。
 ハワイのハリー・ヒラマさん(副理事長)、アリゾナのテッド・オオサキさん(副理事長)夫妻、グラスのテルエ・ベーデンさん(テキサス方面長)、ワシントンのフミコ・スネリングさん(副婦人部長)等々――。皆、最後の最後まで変わることなく、広布のために生きぬいた。けなげなるわが同志である。
 こうした方々のことを、私は生涯、永遠に忘れない。いつの日か、写真と名前を銅板に刻んで、永久に後世に顕彰したいと願っている。(拍手)
 アメリカ広布という前人未到のフロンテイアを切り開いてきたのはだれか。こうした無名の庶民の勇者が、すべてをなげうって開拓してきたのである。
 その汗と涙の結晶である創価の花園を、苦労知らず、恩知らずの卑しい人間によって蹂躙させては絶対にならない。(拍手)
3  難と戦う″冬″が大福徳の″春″に
 御本仏日蓮大聖人は、庶民の苦労をだれよりもあたたかく御照覧くださった。夫に先立たれた妙一尼御前への有名なお手紙では、こう仰せである。
 「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を、経文には「若有聞法者無一不成仏」ととかれて候 故聖霊は法華経に命をすてて・をはしき、わづかの身命をささえしところを法華経のゆへにされしは命をすつるにあらずや、彼の雪山童子の半偈のために身をすて薬王菩薩の臂をやき給いしは彼は聖人なり火に水を入るるがごとし、此れは凡夫なり紙を火に入るるがごとし・此れをもつて案ずるに聖霊は此の功徳あり
 ――法華経を信ずる人は冬のようなものです。冬は必ず春となります。いまだかつて冬が春とならずに秋笙戻ったなどということは、聞いたことも見たこともありません。(同じように)いまだかつて、法華経を信ずる人が凡夫になったなどということも聞いたことがありません。法華経方便品には「もしこの法を聞くことができた者は一人として成仏しない者はない」(開結一八三㌻)と説かれております。
 故聖霊(亡くなった妙一尼が主人)は法華経のために命を捨てた方です。わずかの身命を支えていた所領を法華経のゆえに取り上げられたということは、法華経のために命を捨てたのと同じではないでしょうか。
 かの雪山童子は仏法の半偈を聞くために身を捨て、薬王菩薩は七万三千歳の間、自分の臂を焼いて仏前を照らして仏に供養されました。かの人たちは聖人ですから、それらの修行も火に水を入れるようなものでした。
 しかし、亡くなったご主人は、凡夫ですから、(難を受けることは)紙を火に入れるようなものであったことでしょう。このことから考えると聖霊は、(命を捨てて仏になった雪山童子や薬王菩薩と)同じ功徳があるのです――。
 仏法のために尽くした人は、必ず仏になる。冬は必ず春となると仰せである。たとえ今、どんな悩みがあったとしても、妙法を持ったSGIの友は絶対に負けない。絶対に不幸にならない。必ず幸福の春、希望の春がやってくる。
 「無一不成仏」――皆を一人ももれなく成仏させるために、仏は法を説かれた。真剣に法を行じている仏子が、仏になれないはずがない。法華経ゆえに迫害された在家の門下に、大聖人は、仏の境界を得る大功徳がありますよと――。
 在家の私どもが正しき仏法の正しき実践のゆえに、さまざまに圧迫され、またいやがらせをされることがあるかもしれない。しかし、そのことによってじつは、想像を絶する大福徳を開いていくことができるのである。
 それを思えば、今日のことも、すべてSGIの新たなる大発展のために深い意味があると確信していただきたい。(拍手)
4  さらに続けて、大聖人は仰せである。
 「大月輪の中か大日輪の中か天鏡をもつて妻子の身を浮べて十二時に御らんあるらん、設い妻子は凡夫なれば此れをみずきかず
 ――亡くなったご主人は大月輪(月)の中か、大日輪(太陽)の中か、天の鏡に、あなた方妻子の姿を浮かべて一日中、見守っておられることでしょう。しかし妻子は凡夫ですから、これを見ることも聞くこともありませんが……――。
 そして「御疑あるべからず定めて御まほりとならせ給うらん・其の上さこそ御わたりあるらめ」と。
 ――決して疑ってはなりません。(成仏したご主人は)必ず(あなた方家族を)守っておられることでしょう。それだけではなく、さぞかし、あなた方のもとへ来られていることでしょう――。
 ここには、まことに深い意味があると拝される。
 ともあれ、妙法の家族、妙法の同志は、生死を超えて自在に交流しながら、最高に価値ある、最高に意義ある生命の旅を続けていくことができる。
 先ほどご紹介したアメリカ広布の大功労者たちも、本日のこの集いを晴ればれと笑顔で見守っていると思われてならない。(拍手)
5  ブッシュ大統領、核戦力の削減、廃棄へ歴史的決断
 さて、話は変わる。アメリカのブッシュ大統領は、一昨日、大幅な「核戦力の削減、廃棄」計画を発表した。「地上発射の短距離核と核砲弾の全廃」「海上・海中配備の戦術核の多くを廃棄し、平時には米艦船から核をなくす」――などを含む、歴史的な決断である。
 その前日、私はハーバード大学で「ソフト・パワーの時代と哲学」と題して講演したが、冷戦後の世界新秩序は、「ハード・パワー」(軍事力、権力、経済力など)ではなく「ソフト・パワー」(知識、情報、文化・システムなど)を主流とせねばならない。そうした大きなトレンド(時流)を象徴する発表であった。アメリカの皆さま、おめでとう。(拍手)
 恩師の遺命のままに、「核全廃」を叫び、世界を駆けてきた私にとっても、大きな喜びである。(拍手)
 ブッシュ大統領は、演説の中で述べている。
 「我々は以前にもました新しい世界に近づいているのかもしれない。将来は我々が影響力を及ぼし、つくっていくものだ」「運命は偶然ではなく、選択の問題であり、待つものではなく、達成されるべきものである、という言葉がある」「我々は運命が求めるところ、つまり、もっと平和で希望に満ちた将来に向かって進もう。世界の子供たちにこれ以上大切な贈り物を与えることはできない」(「朝日新聞」九月二十八日付夕刊)
 大統領は「将来は現在の選択で決まる」と。そのとおりである。
 恩師戸田先生は、核の奥にある″悪魔の爪をもぎとれ″と叫ばれた。核の「サタン(悪魔)ヘの選択でなく、平和の「希望」への選択――それこそ、人類が願い続け、やっとその端緒についた道である。
 「ソフト・パワー」の時代は「精神」と「文化」と「人間」の時代であり、私どもこそ、その″主役″である。
 この偉大なるアメリカの大地に、また世界の大地に、「希望の未来」を広げる運動を、いちだんと力強く進めてまいりたい。(拍手)
6  自己絶対化が「宗教を悪魔化」
 次に、少々、むずかしいかもしれないが、大切な、一つの本質論として、一般的に宗教がどのようにして変質し、権力化していくかにふれておきたい。
 本来、宗教は幸福のためにある。しかし、その正邪は別にしても、あまりにもしばしば、宗教は積極的に不幸をつくりだしてきた。
 ある時は、「愛の教え」が「憎悪の行動」に、ある時は「慈悲の信条」が「″残酷の正当化″の理論」に逆転し、民衆を苦しめてきた。
 それでは、なぜ、こうした「宗教の悪魔化」が起こるのだろうか?
 ハーバード大学の有名な哲学者であったパウル・ティリッヒ博士(一八八六年〜一九六五年)は述べている。
 「聖なるものを運搬する有限なるもの、あるいは聖なるものの体現を、究極的なもの自体の尊厳にまで、つまり神的なものにまで高めることを、われわれは悪魔化と呼ぶのであるが、もしあるものを究極性にまで高めることが行なわれると、そのあるものは他の有限なるものすべてを、自己の統制下に服従させようとし、もしその統制が可能でないときは、すべてのものを破壊しようとする」(三小田敏雄訳、ティリッヒ博士講演集『文化と宗教』高木八尺編訳、岩波書店。以下、引用は同書から)
 「究極的なもの」とは、仏法でいえば「本尊」にあたろう。有限な存在でありながら、たとえば自分を「本尊」の尊厳にまで高め、″一体不二″などと主張する者がいたとしたら、そこに「宗教の悪魔化」が始まるというのである。
 そうなると、他の存在をすべて見くだし、自分の「統制下」に服従させようとする。まさに「権力化された権威」である。そして、自分に奴隷のごとく「服従」しないものがいると、それを「破壊」しようとする、と――。
 広布の和合僧を壊そうとの狂気のごとき行動の本質を、このことから、よく知っていただきたい。
 「聖なるものを運搬」とか「聖なるものの体現」とあるように、法王(教皇)の絶対化など、とくに「教会」「聖職者」の悪魔化の危険を、博士は主張しているのである。
 博士は続けている。
 「それ故に、悪魔的に歪められた組織は、すべての他の組織、すべての対立する文化を攻撃し、また悪魔的に歪められた個人は狂信的となるのである」
 先ほど演奏された、ベートーヴェンの「第九交響曲」が「謗法」である(爆笑)などというのも、「文化攻撃」の典型であろう。(拍手)
 ティリッヒ博士はドイツ生まれ、ナテスの支配に抵抗し、ドレスデン大学から追放されている。
 ヒトラーという「有限な人間」、また当時のドイツ(第三帝国)という「有限な国家」を、神聖化し、絶対化することによって、ナチスは、文字どおり悪魔と化した。アウシュヴイッツ強制収容所はその象徴である。
 ナチズムは、「国家崇拝」「個人崇拝」を伴った一種の宗教といえよう。宗教の悪魔化を論じる博士の胸中には、往時の祖国の悲劇が去来していたかもしれない。
 私どもは断じて、このような不幸を繰り返してはならない。
7  狂信者は攻撃的、対話を拒否する
 先日(九月二十五日)、お会いした作家のエリー・ヴィーゼル氏も、強制収容所での体験をとおして「宗教は人類に貢献するものでなければなりません」と語られていた。切実な心情を私は感じた。反対に「人間が宗教に奉仕する」――その延長は狂信となり、地獄絵となるとの心であろう。
 さて、それでは「狂信」とは何であろうか。ティリッヒ博士は、その心理の根底を「疑惑の抑圧」としている。
 「われわれが狂信的と呼ぶ人々は、彼ら自身の疑惑を抑圧しているものである。彼らにも、より良いと認められるものがあるのであるが、彼らはこのより良い知識を受け容れようとはしない。そこで彼らは、自ら抑圧して隠しているところの、彼ら自身の裏面を表にかかげるすべての人々に対して、攻撃的となる」
 ――たとえば「SGIは正しい」と内心(裏面)では知りながら、抑圧して、「認めまい」と思っている。そこで、はっきりと(「表」だって)そう主張する人々に対して攻撃的になる。自分の不安定な内心、確信なき心を、ぐらつかせる人々であるからいちばん憎むのである。じつは、こうした人々は、自分自身の隠された「裏面」に対して、いらだち、怒っているのである――鋭い洞察と思う。
 さらに「このようにして彼らは攻撃的となり、他のものを自分のように変えようとし、さもなければ破壊しようとする」と。
 そうした人々の心理を見抜けば、本当に哀れむべき、不幸な姿であることがわかる。攻撃的に仏子をいじめ、自分に服従させようとし、さもなければ、仏子の「誇り」と「確信」の前進を破壊しようとする。
 また、狂信的な人々の特徴として、彼らは「対話」を拒否する。
 「もはや彼らとは話し合うことすらできないのである。なぜなら、彼らは議論される問題について、真剣に話し合う気構えをするだけで、彼ら自身の抑圧が崩されるからである」とティリッヒ博士は言う。
 たとえていえば、″ぐらぐらしている積み木″であることを内心では自覚しているから、それをゆるがせるような人に、そばに来てほしくない、対話をしたくないのである。
 反対に、「疑惑の抑圧」がなく、何でも話し合える雰囲気のなかで、「正しい信仰」ははぐくまれていく。
8  「法」に順わない仏法破壊の天魔
 仏教においては、絶対のものは「法」である。日蓮大聖人も、つねに「経文どおり」の「如説修行」が必要なことを身をもって示された。徹底して「法華経の行者」として振る舞われた。ここに重大な意義があることを知らねばならない。
 「法」を無視して「人」なかんずく自身を絶対化するのは、仏教では「魔」の所業とする。
 (大聖人は「蓮盛抄」に、涅槃経の「若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属けんぞくなり」との文を引いておられる)
 大聖人は「四箇の格言」の一つとして、「禅天魔」と仰せである。そのゆえは、禅宗は「経文」を無視し、自分の「心」を師とする。正しい修行もなく、「心即仏」とする。その傲りに「天魔」が入る。
 大聖人が繰り返し教えられた「心の師とはなるとも心を師とせざれ」の根本的な戒めを忘れると、″暴走″が始まる。「天魔化」「悪魔化」が始まるのである。
 御本仏の門下でありながら、末法の経文である御書を軽視ないし否定し、自己の感情や利害を根本とするのは「天魔」の行動といえよう。
 テイリッヒ博士は一九六〇年(昭和三十五年)、日本に来られた。私がアメリカに「世界広宣流布」の第一歩をしるした年である。
 博士は日本で仏教についても発言している。その核心の一つは「仏教は生きている宗教なのですか」という問いかけであった。形骸化した日本の既成仏教への鋭い問題提起であった。
 日本では創価学会が、仏教を「社会に躍動する宗教」「現代世界の宗教」に活性化した歴史がある。私どもの誉れである。
 また博士は、当時、西洋にもよく知られた「禅」が「自己絶対化の傲慢」におちいる危険をも、いち早く指摘している。
9  「宗教の悪魔化」を防ぐ方法は二つあると、ティリッヒ博士は言う。
 一つは、宗教を否定すること、いわゆる「世俗化」である。これは宗教がからんだ争いにこりごりした人々が、近代になって急速に進めた方向性である。しかし、これでは「精神性」そのものがなくなってしまい、人間が機械化される危険がある。
 もう一つは、途中の媒介なく、「究極的なるもの」と信者自身が直接出会えるようにする道である、と。
 日蓮大聖人の仏法は、「万人」が「その場」で、最高の信仰実践をし、成仏しゆく大法である。また、一人一人を最高に賢明にし、尊厳にし、幸福にする宗教である。そこには本来「権威主義」の入り込む余地はない。人間を抑圧する「宗教の悪魔化」とも、無縁なのである。
 もしも、大聖人の門下にして、そういう悪の姿が出たとしたら、それは絶対に正しき門下ではないと断言しておきたい。(拍手)
 ともあれ、仏法では、「魔」は「魔」と見破れば、信心によって打ち破れるとしている。「御書」と「経文」に照らし、「理性」と「道理」に照らし、そして「信心の眼」に照らして、問題の本質を過たず、聡明に見ぬいていただきたい。(拍手)
10  妙法が「人類の根本課題=生死」を解決
 私が青春時代、愛誦した″デモクラシーの詩人″ホイットマンは、「生と死」と題して、こう歌っている。
  たえずひとつに絡み合う古い素朴な二つの問題、
  すんでのところで分りかけ、逃げてしまい、目のまえにあり、肩すかしをくい、組みつかれ。
  次々と移りゆくどの時代にも解けず、次の時代へ送られ、
  きょうわたしたちの時代に届いたが――わたしたちも同様に次へ送る
    (『草の葉』鍋島能弘・酒本雅之訳、岩波文庫)
11  「生と死」――それはまさしく、どんなに財産があろうと、どんなに有名であろうと、また、どんなに権力があろうとも、だれ人も決して避けることのできぬ人生の根本問題である。
 しかし、どの時代も、この「生と死」というテーマを解決することはできなかった。かのホイットマンでさえ、真剣な探究の果てに、未来に期待し、託さざるをえなかったのである。
 大仏法を信じ、行じ、学びゆく皆さま方こそ、この「生死」という人類最大のフロンテイアに挑みゆく偉大なる開拓者である。
 私は、ポーリング博士とも″二十一世紀を「生命の世紀」に″(『「生命の世紀」への探求』読売新聞社)と語り合った。世界の知性も「生死」、さらに「生命」というテーマに大きく焦点を当て始めている。
 この総会にはカナダからも代表が参加されているが、カナダ・モントリオール大学のシマー副学長(ガン研究の権威)とも、「生命」や「健康」をテーマに「対談集」の準備を進めている。
 大聖人は「御義口伝」の中で、次のように仰せである。
 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは生死の闇を照し晴して涅槃の智火明了なり(中略)煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり
 ――今、日蓮および門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉ることは、生死の迷苦の闇を照らし晴らし、涅槃(悟り)の智慧の火が明了に現れることである。(中略)また、煩悩の薪を焼いて菩提(悟り)の智慧の火が現前することである――と。
 この御文は、「生死即涅槃」「煩悩即菩提」の法理を明かされている。
 本日は、くわしい解説は略させていただくが、青年時代、戸田先生のもとでこの一節を学び、万人に開かれた大聖人の仏法の明快なる大哲理に、私は目が覚めるような思いであった。そして入信以来、四十四年にわたる実践をとおして、大聖人の仰せに寸分の狂いもないことを、私は深く強く確信している。
 もとより、信仰したからといって悩みがなくなるわけではない。もちろん死なないなどということもありえない(爆笑)。しかし、信心の一念によって、いつでも、どこでも、わが生命の内奥から赫々たる知恵の光、幸福の炎を輝かせていくことができる。
 ゆえに信仰者は、何があっても行き詰まらない。何があっても恐れない。すべてを前進のエネルギーヘと転じて、人生の″向上の坂″″希望の坂″を力強く上っていくことができる。そして、三世永遠に揺るぎなき、王者の大境涯を堂々と完成させていくことができる。(拍手)
12  また大聖人は、亡くなった南条時光のお父さんについて、「きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」――生きておられた時は「生の仏」、今は「死の仏」、生死ともに仏である――と仰せである。
 皆さまの周りにも、こうした信心の大先輩の姿があるにちがいない。
 生も幸福であり、死もまた大満足である――一人の人間が事実のうえで、尊極なる「生死」のドラマを刻むことができる。これが仏法の力である。
 どうか、この大仏法をいだいた哲人の誇りも高く、粘り強く信行学の基本を積み重ねていただきたい。その人に勝る人はいない。その人より幸福になる人はいない。
13  アメリカの前進が世界の前進
 最後にふたたび、ホイットマンの詩を朗読したい。
  わたしたちはここにぐずぐずしてはいられないのだ、
  愛する人々よ、わたしたちは進軍しなければならない、
  わたしたちは危険な矢面に立って耐えきらなければならない、
  わたしたちは年をとっていない筋肉たくましい種族だ、
  あらゆる他のものはわたしたちに信頼をかけている、
  開拓者たちよ! おお、開拓者たちよ―
   (「開拓者たちよ! おお、開拓者たちよ!」、『草の葉』富田碎花訳、第三文明社。以下同じ)
14  世界広布の前進にあっても、開拓者アメリカが健在であれば、なんの心配もない。私が世界広布の開拓を三十一年前、アメリカから始めたのも、この思いからである。(拍手)
 アメリカの前進が世界の前進である。アメリカの成長が世界の成長である。将来はSGIの中心は、アメリカになっていくことも必然と私は確信している。(拍手)
 ホイットマンはさらにこう歌う。
  あらゆる過去は後に取り残すのだ、
  わたしたちは一層新しい、一層力に満ちた世界へ、
  変化した世界のうえに進出するのだ、
  生き生きと力強く、わたしたちはしっかりと世界をつかむ、
  労働の世界と苦しい長旅を、
  開拓者たちよ! おお、開拓者たちよ!
15  今、私たちも晴ればれと「新しい世界」へと進んでいる。「民主」と「自由」「平等」の″人間″の時代をつくるため、勇気と希望の楽しい語らいを繰り広げながら、新しい「開拓の歴史」をつづっていきたい。(拍手)
16  またホイットマンは、母たち、妻たち、娘たちにこう呼びかける。いわば、婦人部と女子部の皆さまである。
  君たちは決して分離されてはならない、
  わたしたちの隊伍にあって君たちは一つになって行進するのだ、
  開拓者たちよ! おお、開拓者たちよ!
17  どうかアメリカSGIは、何があっても″仲良く″、何があっても″朗らか″に、何があっても″聡明″に、美しいスクラムで進んでいっていただきたい。
 壮年・男子部の方々は、婦人・女子部のメンバーの言うことをよく聞いて(爆笑)、大切にしていただきたい。奥さまはご主人を、ご主人は奥さまを、家族、友人はたがいに尊敬し合い、励まし合って生きぬいていただきたい。
 その平凡といえば、あまりにも平凡な良識の振る舞いのなかに、「信心即生活」の軌道があり、崩れざる「福徳」を固めゆく道がある。
 ともあれ、″偉大なるアメリカに栄光あれ!″″世界広布のセンターとの誇り高く前進を!″と申し上げ、晴れの日の記念のスピーチとさせていただく。サンキュー・ソー・マッチ!
 (ロサンゼルス・世界平和講堂)

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