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日蓮大聖人・池田大作

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ボストン勤行会 仏法に「権威の階層」はない

1991.9.27 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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1  ペギー「教師は人間性と文化の代表者」
 今回のボストンでの諸行事にさいしては、皆さまにたいへんお世話になり、深く感謝申し上げたい。おかげさまで一切を大成功に終え、大きな広布の歴史をつづることができた。本当にありがとう。(拍手)
 きょうは、その感謝の思いをこめて、けさ、つくった詩を、まず紹介させていただきたい(拍手)。(ここで詩「ヒューマン・ルネサンスの旗手」が朗読される)
 さて、この九月二十九日からアメリカSGI(創価学会インタナショナル)本部で、文化本部主催の第一回「創価教育学」展がオープンする。
 この展示は全米の各地にも巡回される予定であり、明年には、ここ″教育と知性の都″ボストンでも行われるとうかがった。(=一九九二年九月末から約一カ月間、ハーバード大学で行われた)
 そこで本日は、「教育」ということについて少々お話ししたい。ご存じのように、創価学会は、創価教育学会として出発した。教育者を中心に始まったのである。
 牧口初代会長、戸田第二代会長も教育者であられた。そして私にとっても「教育」は生涯の大事業である。
2  フランスの詩人・哲学者シャルル・ペギー(一八七三年〜一九一四年。ユダヤ人であることを背景に不当逮捕された軍人・ドレフュスを救うため戦ったことで有名)。彼はつねに「人間性の守護者たれ」と叫んでいた。
 「人間性」は自然に育ち、自然に守られるものではない。積極的に育て、守らねば、すぐに枯れ始める。「平和」と同じである。「文化」もそうである。
 ペギーは、教師にも言う。「権力」の抑圧や誘惑に負けてはならない、と。
 「小学校教員は市町村において政府の代表者となってはならない。人間性の代表者となることこそふさわしい。総理大臣がどれほど重要なものであろうとも、小学校教員が市町村において代表すべきものは総理大臣ではない、大多数を代表すべきである」「かれは詩人と芸術家の、哲人と学者の、人間性を形成し維持する人びとの、唯一にして較べるものなき代表者である。かれは確固たる文化の代表となるべきである」(『ジャン・コストについて』長戸路信行訳、『悲惨と歎願』所収、中央出版社)
 彼が小学校教員を挙げている理由はいろいろ考えられるが、昨日お会いしたハーバード大学のルデンスタイン学長も、初期の″基礎″となる教育の重要性を強調されていた。
 ペギーいわく、教師は、どんな詩人、芸術家、哲学者、学者も比較にならないほど重要な「人間性の守護者」「人間性と文化の代表」なのだ、と。たしかに直接″人間をつくる″教師の仕事は、一切の文化の土台であろう。
 そのために教師は勉強を、と彼は強調する。使命が大きいことは、責任が大きいことである。
 「もっとも卓越した人びととは、自己研鑽、勉強をやめなかった人びと、いまもやめない人びとのことなのである。苦労なくしては何も得られない。人生は永久の勉強である」「教育は授けられない、それはみずから努め、人から人に伝えられる」(同前)
 すなわち、教師みずからが努力して自分の内側に獲得した文化が、人間から人間へ、教師から子どもに伝えられる。決して、外側から権威的に授けるものではない――と。
 ゆえに教師の内面の成長こそが、子どもの幸福である。教育の進歩であり、社会の進歩となる。
3  またペギーは「文明の危機とは教育の危機」とも言った。文明と社会の危機とは、人間性の危機であり、政治的権力や宗教的権威に、人間性が押しつぶされるところに生まれる。それは、教育の危機にほかならない。教員こそ「人間性の代表者」だからである。
 ゆえに教育を守ることが文明を守ることになる。教育を変革することが社会を変革することになる。人間教育の興隆こそが、″文明のバロメーター″なのである。
 一見、どんなに教育が栄えているようでも、人間性の代表ではなく、権力の代表、経済至上主義の代表となった教育は、″野蛮のバロメーター″にすぎないであろう。
4  その意味で、ユゴーは「学校を開く者は牢獄の門を閉じる」と言った。学校を開くことは、社会に人間性の″光″を送ることであり、″闇″の象徴である牢獄を必要でなくする、と「教育」の意義を象徴的に表現したのである。
 ユゴーは社会悪は教育の不足から起こると考えていた。「だれがなりたくて犯罪者となるだろうか!」――当時の貧困や差別、偏った強圧的教育が人間をゆがめていると訴えたのである。
 ともあれ「学校と牢獄」の対照は「人間性と権力」の対立を表しているように思えてならない。そして、「人間性の代表者」として「権力の象徴」である牢獄の中で亡くなられた牧口先生の崇高な信念にあらためて感動する。
5  コメニウス「一切の堕落の根源は無知に」
 「文化を逆行させることはできない。この世には青年がいるから」――ヘレン・ケラー女史の言葉である。
 また、先日、チェコの教育家コメニウス(一五九二年〜一六七〇年)について日本でスピーチしたが(九月三日、学生部・教育部合同総会)、彼は「人類の腐敗が救済されるものであるならば、それは青年の慎重なる教育によってでなければならない」(『大教授学』稲富栄次郎訳、玉川大学出版部)と語っている。彼は世の悪に憤っていた。
 「(宗教の名のもとに)憎悪と敵意と戦いと殺戮とが横行している。正義の代りに不公平、詐欺、圧迫、楡盗、強奪が行われている。純潔ではなしに、不純、及び傍若無人の思想、言葉、行為が横行している。単純性と真理とではなくて、嘘言、虚偽、破廉恥がのさばっている。謙譲の徳の代りに、人と人との間の高慢、不遜がみなぎっている」(同前)
 本来、人を幸福にすべき宗教の名のもとに、人々を苦しめる蛮行が続けられている――と。本当に宗教には、恐ろしい面がある。
 コメニウスは、そうした宗教戦争の荒廃を教育によって癒そうとしたのである。彼の意識は、初めは「祖国(=モラビア)のため」「わが教団のため」であったが、やがて「全人類のため」「世界のため」に広がっていった。
 何もかも、どうしてこんなに「堕落」してしまうのだろうか? コメニウスならずとも、われわれもそう叫びたい現実が、あまりにも多い。
 彼は「一切の堕落の根源は無知にある」とした。そして社会の三要素、すなわち学問(人と物の関係)、政治(人と人との関係)、宗教(人と絶対者の関係)の堕落を「普遍的な理知の光」で救おうとしたのである。
 理性に照らされない学問、政治、宗教は、暗黒となると。そして闇の中では、必ず″魔もの″が増えていく。
 青年が理知を鍛えるかぎり、文明は「逆行」しないのである。また「逆行」させるようでは、青年でもなく、教育でもない。
 仏法を基調に、教育、文化、平和の運動を進め、人々に普遍の光を送っているSGIの運動の正しさを、この点からも確信していただきたい。
 世界は真の「民主」と「人権」の時代へと進んでいる。この流れを、絶対に逆行させてはならない。(拍手)
6  共に苦しみ共に喜ぶなかに仏法は脈動
 ところで聖職者といえば、代表は医者と教師と宗教の僧職であろう。
 ここはニュー・イングランド地方であるが、イギリスの良医は、「われわれの容体はどうか?」「われわれの病気は治るよ」などと言って、「あなたの」とは言わないそうである。病気は、医者と患者が協力して治すものだとの考えらしい。「自分の問題」「自分の責任」「自分の苦しみ」として、とらえようというのである。
 また、良き教師も、「われわれの試験」「われわれの合格」などと言って、「君の試験」「君の答案」とは言わないと聞いた。生徒がテストで良い成績をとるかどうかは、教師も試されている――テストを受けている――のであり、結果が良ければ、「共同の勝利」ということらしい。
 両方とも、慈愛と責任感、あたたかい人間性が伝わってくる話である。本来、聖職者とは、人々と「ともに苦しみ」「ともに生き」「ともに進む」ものなのである。
 これは仏法の精神でもある。大乗仏教の菩薩は、人々が成仏するまでは自分の成仏を後回しにしても、人を救うことを誓う。
7  自分だけが仏であり、自分だけが偉いとし、皆を見くだすのは仏法の心に反する。「ともに苦しみ」「ともに喜ぶ」――この「和合」のなかに仏法は脈動する。
 大聖人は、在家の四条金吾に「あなたが地獄に入られたら、私も同じく地獄に行きましょう」とまで言われた。
 (「設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし」――たとえ、あなたの罪が深くて地獄へ入られたとしたら、釈迦仏がどんなに日蓮を仏になれと誘われたとしても、応じることはない。同じく地獄にまいりましよう――と)
 また、ある婦人の門下には、「ともに飢え死にしましょう」とさえ、大慈悲をそそいでおられる。
 (「乙御前御消息」に「いかなる事も出来候はば是へ御わたりあるべし見奉らん・山中にて共にえ死にし候はん」――どんなことが起こったとしても、私のもとへ、おいでなさい。お会いしましょう。〈身延の〉山の中でともに餓え死にいたしましょう――と)
 SGIは、こうした大聖人の大慈大悲を仰ぎながら、仏法の根本精神のままに「人間の連帯」を広げてきた。
 この一点だけを見ても、SGIこそ大聖人の仏法を正しく実践していることは明らかである。ゆえに真の功徳もある。
8  破仏法の罪は隠しきれない
 世の中には善もあれば悪もある。悪に寛大であれば、善は衰える。そして悪は当然、正体を隠そうとする。ゆえに、賢明に見破り、むしろこちらから、追撃の手をゆるめず、矢継ぎ早に問いつめていけば、化けの皮は、はがれていく。
 仏典に「牛どろぼう」の話がある。
 ――ある村の人々がよそから牛を盗んで、皆で食べてしまった。牛を盗られた者が跡を追って村までやって来た。そして村人をつかまえ、問いつめた。
 「お前は、この村の者か」。盗んだ者は答えた――「私はこの村の者ではありません」。また聞いた。「この村の中に池があるはずだ。その池のほとりで、皆で一緒に牛を食べただろう」。ところが、「池なんてありはしませんよ」。
 盗人はやましい心があるし、″事実″をごまかそうとしてでたらめを言う。
 「池のかたわらに樹があるだろう」「樹なんかありません」
 牛飼いは、怒っているので追及の手をゆるめない。
 「牛を盗むのに、この村の東の方へ行っただろう」
 いよいよ核心に迫ってきた。ところが、答えがあきれる。
 「ここには東なんてありませんよ」(笑い)
 だんだんボロが出てきた。(笑い)
 「お前たちが牛を盗んだのは日中ではなかったか」「いいえ。ここには日中なんて時はありません」(爆笑)
 ――もう、しどろもどろである。とうとう牛飼いは怒りを爆発させた。
 「村人でないとか、樹がないというだけならまだしも、東もない、時もないなどというところが、いったい世界のどこにある。お前の言うことはみなうそばかりだ。すべて信ずるに足らない。お前たちは、やっぱり牛を盗んで食べたな!」
 ついに盗人の村人は、「たしかに食べました」と白状した。
 ――笑い話のようであるが、経典には「破仏法の人もまた同じである。罪をごまかそうとしても、何ごともないかのようでいて、死して必ず地獄に入る。諸天善神が天眼をもって見れば、隠しきることはできない」と結ばれている。(百喩経、大正四巻参昭)
 そうした諸天善神の働きを強めるのは、「自分の牛を盗られて、黙っていられない!」との、牛飼いのごとき不正への「怒り」と「追及」であるとの教えである。
 悪を犯しているのは事実なのだから、ボロが出ないはずがない。これまでもSGIの「広宣流布」への前進を妬み、破壊しようと、多くの悪人が策謀した。「盗人」のように、私どもの営々たる努力の実りだけを盗もうとする人間もいた。今もいる。これらの盗人に対しては、決して遠慮してはならない。
 悪を黙認してはならないと、大聖人は繰り返し教えておられる。その確信の行動が、諸天善神の働きを呼び起こして、厳然と正邪、善悪を明らかにするのである。
9  ″今″″ここ″が寂光土
 日蓮大聖人は、御流罪の地・佐渡で、学僧であった最蓮房に、次のようにしたためられている。いわば当時のインテリであり、皆さまと共通する面があるかもしれない。
 「我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し」と。
 ――われらが住んで法華経を修行する場所は、どこであれ常寂光の都となる。われらの弟子檀那となる人は、一歩も行かずして(法華経が説かれた)インドの霊鷲山を見、永遠の寂光土へ、昼も夜も往復されることは、うれしいとも何とも言い尽くしがたい。言い尽くしがたい――と。
 流人として生命の危険にさらされながら厳しいご生活をされる佐渡にあって、大聖人は″ここ″こそ「寂光の都」だと仰せである。
 どこかほかのところに「寂光の都」があるのではない。どこかほかのところへ行かねば成仏できないのではない。「一歩も行かずして」その場がそのまま、成仏の「常楽の都」となる――それが真の大聖人の仏法の教えである。
10  ここには重大な意義がある。その一つは、この教えは悪の″権威主義″と、まっこうから対立する――ということである。
 「距離が権威を生む」という言葉がある。遠いところ、手が届きにくい高いところにあるものを尊く思う人間の愚かさをついた言葉である。
 御書には「世人は皆遠きを貴み近きをいやしむ但愚者の行ひなり、其れ若し非ならば遠とも破すべし其れ若し理ならば近とも捨つべからず」と。
 ――世の人は皆、遠きを尊び近きを卑しむ。これはただ愚者の行いである。もし誤ったものならば遠くとも(遠き先師の説でも)破すべきであり、もし道理なら、近くとも(近来の説でも)捨ててはならない――と仰せである。
 これは時間の遠近についての仰せであるが、空間についても同様の真理であろう。人間は身近なものの尊さを忘れがちなのである。しかし仏法は、″今″″ここ″の生活と現実を大切にする。
11  ″どこか″特定の場所に行かねばならないということになると、どうしてもそこに近い人間が権威をもつことになる。そして、近い順番に権威の階層(ヒエラルキー)ができていくであろう。″外なる神″を説く宗教では、遠い神や天国と、民衆とを結ぶ″橋わたし″の役割をする人々が、特別の権威をもった面があるかもしれない。
 それに対し、仏法では、衆生が即、仏の当体であると説く。どこか別世界に仏が存在するのではなく、衆生の″内側″に仏性があり、″その場″が寂光土となると、とくに法華経は強調している。
 この面から考えても、大聖人の仏法には本来、権威主義の入る余地はないのである。真に尊厳なるものは御本尊しかない。仏界しかない。そして、「仏」は″今″″ここに″おわします。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり
 ――この御本尊は、まったく、よそに求めてはならない。ただ、われら衆生が法華経を持って、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団におわしますのである。これを九識心王真如の都というのである――と大聖人は仰せである。
12  最蓮房へのお言葉は、また「世界広布の時代」、そして「地方の時代」の根本的な指針でもある。どこにあっても″その場″が世界広布の本舞台である。どこにあっても″その場″が寂光土となる。
 どうかボストンの皆さまは、わがふるさとボストンが、またわが地域、わが家庭こそが「常楽の都」と確信し、幸福の光で輝かせていっていただきたい。さらに楽しく、さらに朗らかに、良識豊かに、「だれよりも自分は幸せだ」と言いきれる人生を、謳歌していっていただきたい。
 ご主人は奥さまを大切に、奥さまはご主人を大切に、ご両親はお子さんを大切に、子どもは両親を大切に――。この平凡な実践のなかに、着実な「信心即生活」の軌道の上に、仏法者の正しい姿がある。福徳も満ちてくる。
 この四日間、本当にありがとう。最大に感謝します。皆さまの「世界一の人生」「世界一のご家庭」をお祈りし、シー・ユー・アゲイン(また、お会いしましょう)!
 (ボストン会館)

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