Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第一回日米交流研修会 ″幸福になる″のが世界宗教

1991.9.23 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

前後
1  冥益は持続の信心に
 初めに日本の秋谷会長、森田理事長はじめ全国の幹部、また世界三十二カ国の理事長から、アメリカの皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えくださいとのことであった。お伝えさせていただく(拍手)。
 さらに日本の青年部長からも、アメリカの青年部に、よろしくとの伝言があった。日米交流の「信心」と「英知」の研修会、本当におめでとう!(拍手)
2  (全員で行った三座の勤行について)勤行は、一次元からいえば、小宇宙である自分の生命と、大宇宙との交流の儀式である。
 妙法の力用によって、わが心身が奥底から蘇生し、調整され、活力を得る。いわば、生命の″歓喜の歌″を歌い始める。大宇宙の諸天善神、十方の仏菩薩が、唱題の声に呼応して、私どもを勇んで守り始める。
 譬えていえば、毎日、お化粧し、身づくろいをするように、部屋の掃除をするように、また体操をして体を整えるように、食事をしてエネルギーを得るように、リズム正しい「信心即生活」を重ねていくことだ。
 そして、年ごとに、いよいよ健康に、いよいよ朗らかに、いよいよ充実した人生をエンジョイしていっていただきたい。(拍手)
3  妙法の功力の基本は「冥益」である。祈った願いは、たとえ、すぐには目に見えなくても、必ず結果が顕れてくる。
 地下水も、いつか地表に出る。植えられた種子は、春の″時″を待って、花を咲かせる。大樹も育つには一定の時間がかかる。仏法は道理である。
 ゆえに「持続」が大切である。一時的に、燃え上がるような信心、修行を狂信的に行ったとしても、「持続」しなければ、真の功徳は味わえない。
 かりに、どうしても勤行できない時があったとしても、それをいたずらに気にかける必要はない。
 「信心」の心があれば、それだけで福運は消えない。一遍の唱題にも、大功徳がある。大事なのは生涯にわたる粘り強い仏道修行である。
 本日も少々、語っておきたい。むずかしいところもあるかもしれないが、一生涯、学んだ人が「進歩の人」であり、「勝利の人」となる。向上の心を失ってしまえば停滞し、後退し、ついには敗北の人生となってしまうであろう。
4  世界的な宗教社会学者で、私とも対談集『社会と宗教』(講談社。本全集第6巻に収録)を出した、オックスフォード大学のウィルソン教授は、世界宗教の条件として、「その場で実践できること」を挙げておられる。
 どこか遠いところに行かなければならないのでは、結局、限られた人にしか信仰できないとの指摘である。
 日蓮大聖人の仏法では「霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」――霊鷲山とは、御本尊ならびに日蓮と門下の南無妙法蓮華経と唱え奉る者が住む所のことをいうのである――と説かれる。
 また「ここを去つてかしこに行くには非ざるなり」――,ここを去ってあちらに行くのではないのである――いずこであれ、大聖人と門下が妙法を持つ所が寂光土である、と大聖人は仰せである。
 このアメリカの地で幸福になる、この自分の地域、自分の家庭をこそ「寂光土」と確信し、輝かせていく。
 それが、真の世界宗教たる日蓮大聖人の仏法の正しい実践なのである。(拍手)
5  ネルソン将軍――勝利への将の一念
 指導者は一人一人の人生を、そして全体を「勝利」へ導くのが使命である。そのために「指導」もある。
 そのポイントは、相手の「一念」を変えるところにある。一念が変われば「祈り」が変わり、「行動」が変わる。「一念三千」と説かれるように、目に見えない一念の微妙な変化が、すべてを大きく変えていく。
 その転換をさせていくのが名指導者である。たんに命令や指示をしているだけ、ましてや叱ったり、威張ったりしているだけでは、リーダー失格であろう。
 一例として、アメリカにゆかりの深いイギリスの話をしておきたい。
 古来、イギリス人に最も人気のある人物の一人は、片目片腕の将軍ネルソン(一七五八年〜一八〇五年)とされる。ナポレオンのイギリス征服の野望を、二度にわたり、まずエジプトで破り、さらにトラファルガー(スペイン沖)で破った。
 エジプトでのこと。ナポレオンは、イギリスとインドとの連絡の道を断つために、この地を占領した。
 しかし、結局、ネルソン率いるイギリス海軍に敗れ、エジプト遠征は失敗した。(ナイル河口のアブキール湾の戦い。一七九八年八月一日、二日)
 ――決戦の前夜、ネルソンは副官のペリーに作戦を明かした。ペリーは興奮して、「よくわかりました。もしも、われわれが成功しましたら、イギリス国民がどんなに称讃することでしょう」と言った。
 ネルソンは、聞きとがめた。
 「何と言ったのだ? もしも、何だって?」
 「はい。もしもわれわれが成功すれば――と」
 ネルソンは、厳しい口調に変わった。
 「何を言っているのか。今は『もしも』などと言うことは許されない。われわれは、きっと勝つ。必ず勝つ。まちがいなく成功する。明日の今ごろは、きっと栄誉の叙勲をもらっているだろう。さもなくば、英雄として葬られているだろう」
 ――将軍と副官との「一念」の違いであった。
 この「将の一念」が、副官を通して皆に伝えられた。翌日は、フランス軍九隻を捕らえ、残る艦隊を、ほぼ全滅させるという大勝利であった。名将は、兵士の微妙な「一念の弱さ」を鋭く感じ、うまく転換させる名人であった。
 皆さまも、個人指導の名人、生命と人生の名医であっていただきたい。人の心は本当にデリケートである。どうすれば、皆が心から納得し、強い決心で勇んで進めるか。
 問題は、人と場合によって多様であろう。相手の性格もまちまちである。ゆえに経験を積むしかない。
 また教学を身につけ、自身の信心を磨く以外にない。そして、相手のことを祈り、思う慈愛の心を根本に、賢明な名指揮をお願いしたい。
 「一人」の心をつかむ人は「万人」の心をつかむことに通じる。その鍛えあげられた「人間性」に仏法の核心もある。
6  みずからも戦死することになる最後のトラファルガーの戦い(一八〇五年十月二十一日)では、決戦が迫った午前十一時過ぎ、ネルソンは旗艦のマストに高々と信号旗を掲げた。
 有名な「イギリスは、各人が、その責務を果たすことを期待する」との、この信号旗は、戦いの間ずっとひるがえり、戦意を鼓舞し続けた。
 彼は、みずからも重傷を負いながら、渾身の力で指揮を執り続けた。その「勇気」に、皆が奮いたたずにおれなかった。
 そして、ついに「大勝利」の知らせが、横たわる彼のもとに届けられた。その瞬間、「感謝する。私は責務を果たした」と叫び、まもなく息絶えた。
 味方の船を一隻も失うことなく、敵艦二十隻を捕らえ、一隻を爆破するという完全勝利であった。一方、ナポレオンの海軍力は致命的なダメージを受けた。
 「責務を!」――と。人間の価値は、自分が″なすべきこと″を確実になすところにある。ネルソンはどんな敵の前にも、へこたれなかった。退かなかった。「何としても」という責任感をもっていた。そこに、彼の真骨頂があった。
 勝利をあせるあまり、人々を″追いつめる″ことはいけないが、何ごとも「勝たせる」のがリーダーの要件であり、慈愛である。
 あの人とともに進めば、必ず「勝てる」――その常勝将軍に人はついてくるのである。そのためには、だれよりも「真剣」「熟慮」「雄弁」「行動」の人でなければならない。
7  人々を救った釈摩男しゃくまなんの犠牲
 舞台は古代インドヘと変わる。釈尊の「九横の大難」の一つに、釈尊の一族が波瑠璃王によって滅ぼされたことがある。
 御書にも「はるり波瑠璃王と申せし王は阿闍世王あじゃせおうにかたらはれ釈迦仏の御身したしき人数百人切りころす」――波瑠璃王という王は、阿閣世王にそそのかされて、釈迦仏の御身に親しい一族の人々、数百人を切り殺した――と仰せである。
 (王は、成長してから、自分の母が釈迦族の使用人であったことを知り、恥辱を受けたと復讐を誓う。そして父王を追い出し、王となってすぐ兵を出して、釈迦族を襲撃し、ほとんど全滅させたといわれる)
 この悲劇の時の一つのエピソードが、仏典に伝えられている。
 全員が処刑されようとしている時のことである。一人の老人が王の前に進み出た。王と血縁のある釈摩男(釈尊のいとこともいわれる。仏教に深く帰依した在家の信者)であった。
 「王よ、たった一つ願いを聞いてほしい。私が水中に入って、それから水面に浮かんでくるまでの間、せめてその間だけは、皆がここから逃げるのを許してほしい」
 ″せいぜい数分のことであろう。逃げた連中は、また捕まえればよい″――義理のある老人の頼みを、王はしぶしぶ聞いた。
 老人は池に飛び込んだ。釈迦族は、われ先に門から逃げた。一分また一分。人々はどんどん門から出ていってしまう。
 王は、じりじりした。
 「まだ浮かんでこないのか!」
 「まだか」「まだか」と繰り返した。
 しかし、いつまでたっても老人は浮かんでこない。
 「見てまいれ!」――王は、しびれを切らした。
 部下が池に入って確かめた。見ると、老人は、自分の髪の毛を水中の木の根っこに結びつけ、浮かばないようにして、すでに死んでいた。
 壮烈な死であった。老人は、自分が犠牲になって時をかせぎ、皆を救ったのである。
 このことは経典に記され、今なお伝えられている。(「増一阿含経」「瑠璃王経」など。大正二十四巻、大正十四巻参照)
8  真の指導者は、後に続く人々のために、忍耐強く、時をかせぐ。自分が犠牲になって、人々を守る。しかし多くの指導者は、反対に皆を犠牲にして、自分を守ろうとする。
 真のリーダー、とりわけ仏法の指導者は、決して、人々を犠牲にし利用する″抑圧の権力者″ではない。仏子をこよなく慈愛し、守り、たたえ、わが身をなげうって、人々の「幸福」を実現していくのである。
 この根本的な違いを、皆さまは賢明に見極めていただきたい(拍手)。仏子に尽くすリーダーには大福徳がつく。仏子を見くだす指導者は大罪をつくってしまう。
9  法華弘通の衆生・男女に差別なし
 末法の御本仏であられる日蓮大聖人は、一切衆生を少しの偏頗もなく、差別もなく、平等に成仏させることを願われた。
 「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし
 ――一切衆生がそれぞれ異なる苦しみを受けることは、ことごとく、日蓮一人の苦しみなのである―――。
 この御文を拝するたびに、末法の一切衆生をあらゆる苦悩から救わんとされる御本仏の広大無辺の大慈悲に、私は感動する。「ありがたい」と、心から感謝の念がわいてくる。
 仏法は、一切衆生に本来具わっている仏性を開かしめ、自覚させ、成仏させることが目的である。なかんずく法華経は、救うべき衆生に、何の差別も設けないのである。「平等」を否定するのは、法華経の否定である。
10  大聖人はまた「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず」――末法において妙法蓮華経の五字を弘める者については、男女の貯け隔てをしてはならない――と仰せになり、末法において妙法を弘める者には、男女の差別がないことを明確にお示しになられている。
 この御書は、文永十年(一二七三年)五月の御述作とされ、今から七百十八年前にしたためられている。中世の封建的な時代にあって、大聖人はすでに「法」を基準に、徹底して男女の平等を説いておられたのである。
 一例として、世界的に見ると、男女平等の思想が大きく現れたのは、十七世紀から十八世紀にかけてであり、さらに婦人参政権の獲得運動が起こったのが、十九世紀に入ってからである。
 そして、実際に婦人が国政選挙において男性と平等の参政権を獲得したのは、最も早いニュージーランドで一八九三年、イギリスが一九一八年、アメリカが一九二〇年、日本では一九四五年である。
 こうした歴史を考えると、大聖人が十三世紀にして男女平等を説かれたことの先駆性、仏法の平等主義、人間主義の偉大さが、あらためて実感される。
11  日淳上人「妙法こそ民主主義の基盤となる世界宗教」
 日淳上人といえば、近代の宗門の大学匠であられる。学会こそが大聖人の「民衆の仏法」を世界に弘めゆく団体であると確信され、称讃してくださっていた。
 上人は、「民主主義と宗教」を論じた中で、次のように述べられている。(「大日蓮」昭和二十四年十月号、『日淳上人全集』)
 「此の世界は宗教の世界である。それ故に民主主義の世界は宗教が基盤となり、常に宗教が強調されなければならない。
 しかし他方に一口に宗教といって一般の宗教が此れに当るものではない。所謂宗教といわれるものは多く無智蒙昧によって発生したものであり、或はそれを理論づけて発達せしめたもの、或は既成宗教が堕落して起ったものや種々雑多である。
 此れ等の宗教は本来非合理的であって理智を無視する。従って教法をもたない。或る程度教法を立てるものがあるが結局は迷盲の教理である。此れ等は、民衆を愚昧ならしむる以外の何ものでもない。
 個人の開発には非合理なるものは敵である。民主主義は合理主義といわれる。近代に於て、科学と宗教という問題が常に論議されるが、此のことは宗教が非合理的なものであることから起る問題である」
 「民主主義の世界は宗教を基盤としなければならぬことが確認されるとともに、非合理なる宗教は此れが敵として勇敢に削除されなければならない。かく考える時、唯一の妙法蓮華経の宗教のみ現在及将来の宗教として取り挙げられねばならない。それは一切の人々が仏性を有し且つ仏となること、個人の自由と平等と尊厳と正しく合理的に説き明かし且つ実証しておる唯一の教法であるからである」
 大聖人の仏法こそ、一切の人が具えている仏性を開いて成仏させる「大法」である。また、個人の「自由」と「平等」「生命の尊厳」を合理的に説き明かし、現実の社会に、人々の生活のうえに実証していける最高の教えである。
 ゆえに大聖人の仏法こそ、真の民主主義を実現する基盤となる世界宗教であることを、日淳上人は明瞭に示されている。
 一方、民衆を愚かにする″非合理の教え″は、個人の可能性の開発を妨げ、民主主義の敵となるとも指摘されている。
 今や世界的な潮流となっている「民主の時代」「民衆の時代」。この人類史的転換を、混乱と反動によって逆流させ、不幸な結果に終わらせてはならない。そのために、「民主の時代」の基盤となりうる、普遍的な「人間学」「宗教性」「精神性」の必要が、多くの識者の間に認識され始めている。
 いよいよ、日蓮大聖人の仏法が、世界の民衆から求められ、その偉大さが実証される時が来た。時代が仏法に近づいているのである。本格的な世界広宣流布の時が来たことを確信していただきたい。(拍手)
 こうした時代にあって、民衆を抑圧し、権威への無条件の従属を強制するような宗教や宗教者は、もはや時代錯誤の遺物として自滅していくであろう。
 まして大聖人の門下と名乗りながら、そのような姿があれば、それこそ大聖人の「慈悲」と「平等」の御精神に背き、反逆する大罪である。また、日淳上人のご指摘のように、非合理であり、民主主義を破壊する″反社会″の行為となろう。
12  ベセル教授「権威主義と独善の宗教は逆流」
 アメリカの著名な教育学者であるデイル・M・ベセル教授(インタナショナル大学)は、次のように語られている。「聖教新聞」一九九一年一月二十八日付から)
 (ベセル教授は、ミシガン州立大学で国際比較教育学の博士号を取得、二十年にわたって牧口初代会長の業績と創価教育学説を研究された、牧口研究の第一人者として知られている)
 「十九世紀から二十世紀にかけての潮流は『民主主義』であった。人々は、人間個人の可能性と能力に信頼を置いた民主主義に『救済』の希望を見いだしたのであった」
 「しかし、ここ四半世紀に起こったことは、民主主義の挫折である」「そして、この民主主義の挫折に対する反動として、今、世界に保守的な宗教に望みを託す傾向が見られる。そこには、人間を離れた外なる神の権威と、神の代理者とされる人たちによる救済への期待がある。それがはらむ危険性は、権威主義的・絶対主義的宗教が社会を支配することであり、人々はそれへの盲従を強いられるのである」と。
 そして「創価学会の運動は、こうした『時代の逆流』に逆らい、自分で考え、分別する人間をつくる運動であり、人間の成長を阻害する権威主義を否定する運動である。すなわち民主主義を促進する運動である。したがって、それはきわめて大きな困難を伴う運動といえる。
 宗教には、人々を権威に従属させるドグマチック(=独善的、教条主義的)な宗教と、自分で物事を考える人間を生み出す手助けとなる宗教の二種類があるが、人類の未来を考えた時、後者の宗教がぜひとも必要となってくる」と。
13  さらに、「宗教者は本来の目的に照らして常に自己点検・自己反省する必要がある」「ひとたび特定の行動や考え方が制度化されると、本来、人間に奉仕するための制度だったものが、時間の経過とともに、皮肉にも人間を束縛・支配していくという逆転状況が生まれてくる」と指摘したうえで、「厳しい処分を設けたり、批判に対して過敏になるのは、その組織の硬直化、官僚化のあらわれの一つである」と述べられている。
 ベセル教授が指摘しているように、どこまでも民衆を″権威″に従わせようとする独善的な宗教は、あくまで人々に盲従を強要し、人間を束縛し、支配しようとする。
 ″人間″に奉仕し、人々を幸福にするためにこそ、本来、宗教はある。まして、大聖人の仏法は、どんな権威、権力にも屈することなく、世界の人々に平等に「自由」と「尊厳」をもたらす、最高の人間主義の大法である。
 仏子を見くだし、「差別」を設けるような姿があれば、もはや大聖人の門下とはいえないであろう。
 創価学会の歴史は、ベセル教授の指摘されたように、人間の成長を阻害する権威主義との戦いの連続であり、真の民主主義を促進する運動を、全世界に展開してきたのである。
 だからこそ、非難中傷を浴び、迫害また迫害の連続だったともいえる。
 ゆえに、私どもは、広布と信心を破壊する天魔の所業は鋭く見破り、正法を守り、信心を守り、仏子を守り、民主主義を守るために、悪とは一歩も退かずに戦っていかねばならない。(拍手)
14  ホイットマン「おおいに抵抗し、服従は少なく」
 アメリカ民主主義の代表的詩人ホイットマンも、「わたしは訴える、『おおいに抵抗し、服従は少なく』、/いったん服従に異議をとなえずにいると、とたんにすっかり奴隷にされてしまい」(「合衆国に」、『草の葉』杉木喬・鍋島能弘・酒本雅之訳、岩波文庫)とうたっている。
 宗教の権威に盲目的に従ってしまえば、信徒は精神の奴隷と化してしまうであろう。個人の自由も尊厳も踏みにじられてしまう危険がある。
 「仏法は勝負」である。皆さまも、私とともに、大聖人の仰せのままに、いよいよ堂々と、広布の前進を続けていただきたい。
 いかに圧迫されようと、日蓮大聖人と大御本尊は、「広宣流布」へ私どもこそが真剣に、最も正しく進んでいることを御照覧されていることを、確信していただきたい。
 一方、正法と民衆の敵となったならば、大聖人から厳しいお叱りを受けないはずはないのである。
 今こそ、信心を深め、福運を積むチャンスであり、大聖人の仏法の偉大さをより深く実感できるチャンスである。そう確信して、安心して朗らかに進んでいただきたい。″真の民主の時代″を実現するために、いかなることにも紛動されずに、お一人お一人が功徳を満喫しながらの勝利の日々であってほしい。(拍手)
 大聖人の御遺命は「世界広宣流布」である。それを実現してきたのはSGI(創価学会インタナショナル)である。私は、これまで以上に「世界への道」を大きく、限りなく開き続ける決心である。(拍手)
 そして、アメリカは、なんといっても世界の中心的舞台である。胸躍る大いなる舞台である。私も本格的に皆さまを応援したいと考えている。(拍手)
 「盤石なアメリカSGI、おめでとう!」「偉大な発展の未来、おめでとう!」と申し上げ、第一回の研修としたい。
 きょうは、ご多忙のところ、本当にありがとう! ご苦労さま!
 (アメリカ創価大学講堂)

1
1