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日蓮大聖人・池田大作

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青年部・教学部代表協議会 大勇猛心の人を諸天は加護

1991.9.20 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

前後
1  文証無き者はすべて邪偽
 真実を真実のままに話す。事実を事実のままに話す。それが歴史となり、未来を照らす。また、自身の魂の健康を育んでいく。青年は語らねばならない。
 そして教学を学び、正邪の基準を知った教学部員は、「正」を訴え、「邪」を破ってこそ、学んだ価値がある。教学を武器に戦ってこそ、「学」が成仏への推進力となる。
 日蓮大聖人は「文証」「理証」「現証」という″証拠″が、正法には不可欠であると教えられた。
 御書には、文証がいかに大切であるか、経文や天台などの文を引いて強調されている。
 「文証無き者はことごとく是れ邪偽・彼の外道に同じ
 ――経文によって説明できない者は、すべて邪であり、偽りである。かの外道と同じである――と。
 これは天台の『法華玄義』の釈を引かれての仰せである。
 また「若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属けんぞくなり
 ――もし仏の説くところ(経文)に従わない者がいれば、よく知っておきなさい、この人は魔の一類である――との涅槃経の文を引いておられる。
 そして「文証」に基づかない過ちについて、それは「天魔の部類・外道の弟子」であると厳しく破折しておられる。
 私は大聖人の仰せどおり、つねに御書の「文証」を基準とする。また歴代上人の正しき言葉にのっとって語る。
 ある牧口門下生が言っていた。「現在の宗門が、師匠である日亨上人、日昇上人、日淳上人、日達上人等、歴代の上人のお言葉に『信伏随従』していたら、決して今のようなことにはならなかったであろう。師弟相対という、最も大切な基本はどうなってしまったのだろうか」と。
2  正法の行者を憎む者には仏罰
 初めに「日女御前御返事」の一節を拝したい。
 「法華経をば経のごとく持つ人人も・法華経の行者を或は貪瞋癡により或は世間の事により或は・しなじな品品ふるまひ振舞によつて憎む人あり、此は法華経を信ずれども信ずる功徳なしかへりて罰をかほるなり
 ――法華経(御本尊)を経文のとおりに持つ人々であっても、法華経の行者を、あるいは貪欲・瞋恚・愚癡の煩悩によって、あるいは世間のことによって、あるいはさまざまな振る舞いが良くないといって、憎む人がいる。このような人は、法華経(御本尊)を信じていても、信ずる功徳はなく、かえって罰を受けるのである――。
 これは、末法の法華経の行者、すなわち御本仏日蓮大聖人に背く大罪を明かされた御文である。貪欲・瞋恚・愚癡によって憎むというのは、貪りと瞋り、癡かさ、すなわち、その人の心に巣くっているさまざまな煩悩が原因で、法華経の行者を憎むことである。
 世間のことによって憎むというのは、仏法の教義によらずに、世間的な事によせて、憎む場合である。
 仏法の世界は「経文」が基準である。私どもでいえば「御書」が根本である。それなのに、風評などの世間的な面を基準にして正法の行者を憎むという本末転倒の姿をいう。
 さまざまな振る舞いによって憎むというのは、その人の振る舞いや言動などの表面に現れた姿を見て憎悪をいだく場合である。
 自己の小さな感情にとらわれ、表面のみを見て人を憎むことは、いつの時代にも変わらない、人間の傾向性であろう。
 大聖人は、いかなる理由があろうとも、真実の法華経の行者を憎んだ場合には、法華経を経のごとく持っている人であっても、功徳はなく、かえって罰を受ける、と厳しく戒められている。いわんや、法華経を正しく修行もしないで、行者を憎む場合は、罪は当然である。
 総じて、現在にあてはめれば、大聖人の仰せのままに、信行に励み、広布に邁進する正しい信仰者に対して、感情からであれ、世間の事によってであれ、その言動からであれ、憎しみをいだいて行動した場合には、どのような立場であろうとも、功徳がないばかりか、大罰を受けることになる。
 「法」を大切にするといいながら、その「法」を持ち、弘める「人」を憎み、いじめ、なきものにしようとする。そのような門下がいれば、大聖人から厳しいお叱りを受けることは疑いないであろう。
3  三毒の代表――舎利弗の瞋恚
 日亨上人は、この貪欲・瞋恚・愚癡の三毒について、次のように述べられている。(『追考 聖訓一百題』。以下、引用は同書から)
 「三毒とは貪慾と瞋恚と愚癡の三つの精神作用で此がすべての迷い煩悩の真先に差出る猛烈な迷いであって人類の智徳を壊る事が頗る多いので毒の名が与えられてある。僧衆の中で此三毒を沢山に所有する代表者は難陀と舎利弗と提婆達多で次での如く貪瞋癡を持って居るが、但し此は猛烈な特徴のある代表者と云うべき御弟子方であって、其外の人々にも三毒ある事は無論の事であり又三毒互具も当然の事である。貪慾の人に瞋恚や愚癡が附属し、瞋恚性の人に貪慾と愚癡とが附き纏うている事も有り勝である」と。
 三毒とは、あらゆる煩悩、迷いの根本であり、衆生を害するので「毒」と名付けられているのである。
 日亨上人は、釈尊の弟子のなかで、三毒がとくに強い代表者として、難陀(阿難、阿難陀ともいう)と舎利弗と提婆達多を挙げておられる。
 提婆達多が三毒に支配された代表というのは当然と思えるが、智慧第一の舎利弗や、多聞第一といわれた難陀が挙げられているのは、意外な感じがするかもしれない。外見だけではわからないものだ。
4  日亨上人はその根拠として、舎利弗の強い「瞋恚の心」が説かれた、次のような経論のエピソードを紹介されている。
 ――ある時、釈尊が、羅喉羅(釈尊の子で、十大弟子の一人)に向かって、この大衆のなかでだれが上座(第一人者)であるか、と尋ねたところ、直ちに「舎利弗である」と答えた。
 ところが釈尊は、「舎利弗は、かつて不浄食(言葉巧みに人々から求めた、けがれた食物)を食べたことがある」と言った。
 それを伝え聞いた舎利弗は、日の中の食べ物を吐き出して、「きょうからは人から食事の招待を受けることはお断りだ」と宣言した。師・釈尊の言葉に怒ったのである。
 信者である波斯匿王はしのくおうや須達多長者などが、舎利弗に向かって、「なぜ私どもの食事の招待を受けてくれないのですか。尊敬する尊者に供養を断られては、私どもは功徳を積むことができません」と訴えた。
 舎利弗は、「勝手に受けないのではなく、師の釈尊が、舎利弗は不浄食を受けたから良くない、と言われたと聞いたので、あなた方の特別招待は不浄になるから受けません」と供養を拒んだ。
 王たちは、釈尊に、供養を快く受けるように舎利弗を説得してほしいと願ったが、釈尊は、「彼は強情だから、私の言うことも聞くまい。彼の本性は毒蛇なのだ」と言い、舎利弗の過去世の姿を語り始めた。
 ある時、一人の国王が毒蛇に噛まれ、痛みで死ぬばかりになった。多数の医者が協議して、王を噛んだ毒蛇に毒を吸い取らせる以外に方法がないと決め、毒蛇を連れてきた。
 医師たちは、毒蛇に対して、「国王に回った毒を吸い取って元のようにしろ。いやだと言うのなら、人の中に入って焼け死ね」と厳しく責めた。すると毒蛇は「いったん吐き出した毒を元のように吸い取れるはずがない。命なんかどうでもよい」と、即座に火の中に飛び込んで焼け死んでしまった。
 この毒蛇が、舎利弗の過去世の姿である。そうした因縁のある彼であるから、諭しても聞くわけがない――。釈尊は王たちに、こう説いて聞かせたのである。
 以上が、日亨上人の述べられた舎利弗の逸話である。
 師に過ちを指摘されてカッとなった舎利弗。責められて怒り狂い、みずから火中に飛び込んだ毒蛇。「瞋恚」に支配された心の醜さ、頑迷さをわかりやすく示されている。「毒蛇」の本性をもつ者は、仏である釈尊の言うことさえきかない。諭しても無駄である、と。
 ゆえに、そうした人間が「悪」に走った場合は、これは断固、責める以外にない。道理で話しても聞く耳をもたない。厳しく打ち破るしかない。
5  舎利弗の「瞋り」について、日亨上人は、もう一つエピソードを紹介されている。
 ――釈尊が祗園精舎に居た時、舎利弗を連れて経行(一定の場所を歩いて往復すること、散歩)していた所へ、鷹に追われた鳩が逃げてきたことがあった。釈尊の影に飛んでくると、鳩は安心して鳴きやんだが、舎利弗の影が鳩の上を覆うと、鳩はふるえ恐れて鳴きだした。
 舎利弗は、「仏も私もともに三毒がないのに、仏の影では鳩は安心し、私の影では鳩が恐れるのはなぜでしょうか」と尋ねた。
 釈尊は、「お前には、三毒はなくとも、その習気(身についた惑いの余残)が残っているからだ」と語ったという――。これらは、『大智度論』に説かれた故事である。
 「智慧第一」といわれた舎利弗でさえ、瞋恚の心を抑えることができなかったと。しかも、あろうことか師・釈尊の教えに対しても、反発し、怒ったとされるのである。
6  恐怖感与える「瞋り」の人は自滅の道を
 日亨上人は、さらに述べられている。
 「先づ瞋恚の煩悩と云うのは普通の忿(=いかる)とか怒(=いかる)とか憤(=いきどおる)とかと共通する『イカリ、オコル』ことである。古語に『腹アシキ人』現代に『チウッパラ』の人である、我が目前に顕わるゝ境遇が自分の気に向かねば用捨(=容赦)なく御機嫌を損ぬる事である、違順の境界(=苦を感ずる境界と、楽を感ずる境界)と云って自分に都合のわるいのと都合のよいのとに安忍(=安心し、堪えること)が出来ぬ、特に都合のわるい嫌な境遇に触れて目を怒からして血色を励まして(=顔色を変えて)忿々とおこる」と。
 舎利弗ほどでなくとも、一般にも、頭は良いかもしれないが気むずかしく、気分屋で、すぐにカッとなりやすい人はいるものだ(笑い)。そういう人は、行動や容貌にあたたかさが感じられず、何となくとっつきにくい場合が多い。
 そういう人が何かのきっかけで、「瞋り」のあまり正気を失ってしまうと、どのような正論も耳に入らなくなる。言われれば言われるほど、自分を省みるどころか、ますます怒り、猛り狂っていく。ついには″毒蛇″のように自分自身をも滅ぼしてしまうのである。
 とくに、高い指導的立場にありながら、″気に入らないから″言うことを開かないから″というだけで、目下の人々を攻撃するようなことがあれば、それは日亨上人がお述べの「瞋恙」の姿以外の何ものでもない。位が高いほど、その罪は大きい。
 日亨上人は、また「其人々の特有の瞋恙の程度相応に其に接する他の人々が不快なり恐怖なりを感ずるものである」と述べられている。瞋恙の心が強い人ほど、周囲の人々を不快にし、恐怖におとしいれる、と。
 「抜苦与楽ばっくよらく」こそ仏法の精神である。それを反対に、人々を苦しめ悩ませ、「不快感」や「恐怖感」をもたらすようでは、もはや仏法者とはいえないであろう。
7  ゆえに私どもは、こうした「瞋恙」の悪の勢力に対しては、絶対にひるんではならない。こちらが安易に″妥協″したり、中途半端に″寛容″になれば、ますます増長し、かさにかかって圧迫を加えてくるだけである。
 「正論」の呼びかけに耳を閉ざし、「対話」をすら拒む″毒蛇″のような心の人々に対しては、相手の非を完全に打ち破るまで徹底して戦いぬくことが、仏法者としての真実の「慈悲」に通じていくのである。
 そのことを、日亨上人は次のように述べられている。
 「併しながら通俗の人々から疎外せられ怨嫉せられ迫害せられて、患難不安の中に辛うじて世を送るとも、正法をだに厳持せば遂には邪は正に勝たず、終極の勝利は清浄人聖賢人正法行者に帰して、安穏なる事を得る、此は諸天善神等の悪を忌みて善に与みする者が顕に冥に正義者を保護するからである」
 「されば第一に積極的に正義を主張して少しも迫害苦厄を恐れぬ大勇猛信(=心)を持つ者は、陰に陽に、一直線に強盛に正義を主張するが善い、決して他人の云為うんい(=言動)を顧慮(=気にかけること)すべきでない、諸天の加護、仏祖の冥加は日々夜々に下るであろう」
 どのような迫害や苦難に遭おうとも、正法を持ち、「大勇猛心」の信心で正義を主張していけば、必ず諸天の加護がある。御本仏日蓮大聖人が厳然とお守りくださる、との意である。
 「邪は正に勝たず」と――。大聖人の仰せのままに正法を実践している私どもが、正道無視の″邪″に勝利することは絶対に間違いない。どうか、このことを強く強く確信し、大いなる勇気をもって一直線に「正義」を主張しきっていただきたい。
8  「法師」とは正法弘通の在家
 さて諸天善神については、これまでも何度かお話しした(昭和六十二年八月二十七日、杉並区幹部会など)。本日は、その基本の上に、少々、申し上げておきたい。
 それは、諸天善神とは、決して、遠くの何か特別な存在のみをいうのではない。むしろ、最も身近な学会の同志こそ、最も大切にし、感謝すべき諸天善神の働きをしている、ということである。
 大聖人は、伊豆流罪のさい、大聖人を助けられた船守弥三郎夫妻に、こう感謝のお手紙を書かれている。
 「法華経第四に云く「及清信士女供養於法師」と云云、法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとことなり或は女となり形をかへさまざま様様に供養してたすくべしと云う経文なり
 ――「法華経の第四の巻(法師品)に『(もしも釈尊滅後に法華経を弘める者〈法師〉があれば、釈尊が僧侶や尼)および在家の男女を使いとし、この弘通者を供養させる』うんぬんとある。これは法華経を行ずる者を、諸天善神等が、あるいは在家の男となり、あるいは在家の女となり、形をかえて、さまざまに供養して必ず助けるという経文である――。
 「法師」とは、別しては大聖人、総じては門下である。法華経を正しく信じ、行ずる人を諸天善神らが形をかえて守ってくれるとの仰せである。
 「御義口伝」には、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は法師の中の大法師なり」――今、日蓮とその弟子・檀那らの、南無妙法蓮華経と唱える者は、法師のなかの大法師である――とある。
 もちろん、在家も含めて、「法師」である。それは法華経法師品でも明確である。
 すなわち「若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊に一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし。是の人は則如来の使なり」(開結三八六㌻)と。
 ――もしもこの善男子、善女人、仏滅後において、よくひそかに一人のためにも法華経の一句(元意は南無妙法蓮華経)でも説く人は、よく知りなさい、この人は如来の使いである――と説かれている。
 ここでは明らかに「善男子、善女人」とある。くわしくは略させていただくが、在家を表とした言い方である。このことに着目して、「法華経における在家の存在の大きさ」を論ずる学者もいる。
9  法師品の冒頭では、諸天、比丘(僧)、比丘尼と並んで、「優婆塞」(在家の男性)、「優婆夷」(在家の女性)が、求道の人として同様に登場する。
 次いで、これらの人々が、在世、滅後に、法華経を受持し、読誦(経文を読み、暗誦すること)し、解説(他人に説き聞かせること)し、書写して修行する姿が示される。このように、受持、読、誦、解説、書写の「五種の妙行」を行う人は、「五種法師」と呼ばれる。ここには、出家、在家の差別はない。経文のとおりの実践をするかどうかが、「法師」の要件である。
 著名な仏教学者・岩本裕氏は、法華経に説かれる「法師」について、次のように述べている。
 「われわれは法師すなわち僧を考えるが、そうではない。仏教では一般に、仏・求法者および大弟子たちは深甚微妙の法を知り、これを演説するが故に法師といい、われわれが現在『法師』という語にもつイメージでも、例えば西行法師と言うように、『出家者』であり、『僧』である。ところが、『法華経』では異なるのである。『法華経』を信奉して、読んだり、誦したり、解説したり、あるいは書写したりする人を『法師』と呼んでいる」(『法華経』坂本幸男・岩本裕訳注、岩波文庫)
 また、「五種の妙行」と並んで、法師の修行として、法華経への十種供養が説かれる。その一つに「伎楽」(舞や音楽)を演じて法華経を讃嘆することが説かれている。
 元来、出家者には、舞や音楽を見物することすら戒律で禁じられていたのであるから、これは明らかに在家の修行であろう。この点からも、正法弘通の「法師」として在家が活躍していたことがうかがえる。法華経では″出家の優位″など説かれていないのである。
10  大乗仏教の真髄である大聖人の仏法でもまた、現実に悪と戦い、法を弘めている人こそ、「法師」であり「如来の使」とされる。
 そして、「諸天善神等・男女と顕れて」と仰せのように、この″如来の使い″を守るために、諸天等が在家の男女として顕れるのである。
 学会員は、一次元からいえば、みずからも″如来の使い″であり、同時に同志を守る諸天善神の働きをもしている。まことに尊貴なる方々である。
 ともあれ、外の権威には弱く、内には強い――外には言うべきことも言わず、卑屈にへつらって、あなどられ、内の信仰者に対してはすぐに威張るというのでは、まったく本末転倒である。
11  広布を支える人こそ諸天、仏菩薩の働き
 大聖人は、数々の御書で、妙法の友を、諸天、諸仏、諸菩薩の働きとして、たたえられている。その一部分を拝読したい。
 (1)妙法比丘尼へのお手紙では、このように仰せである。
 「十羅刹の人の身に入りかはりて思いよらせ給うか
 ――(長年来の出家の弟子たちなども逃げてしまったのに、親しく会ったこともない婦人から身延にまで志を届けられるのは)十羅刹女が人の身に入りかわって(大聖人に)思いを寄せられるのでしょうか――。
 十羅刹女は、法華経に来て善神となった諸天善神である。
 (2)また、同じ手紙に、「華経の方へ御心をよせさせ給うは女人の御身なれども竜女が御身に入らせ給うか。
 竜女は「女人成仏」の手本である。
 (3)また、佐渡で大聖人をお守りした阿仏房には、このように仰せである。
 「浄行菩薩うまれかわり給いてや・日蓮を御とふらい給うか不思議なり不思議なり
 ――浄行菩薩が、(あなたに)生まれかわられて、日蓮をお訪ねなさるのか。不思議である。不思議である――。
 大聖人は篤信の一老人であった阿仏房に対して、地涌の菩薩の四人のリーダーのうちの一人、浄行菩薩の生まれかわりであろうかとまで、たたえられたのである。
 (4)大聖人の病気を治した四条金吾には、次のように感謝をされている。
 「教主釈尊の入りかわり・まいらせて日蓮をたすけ給うか、地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給えるか
 ――釈尊があなたの身に入りかわって、日蓮を助けてくださったのだろうか。地涌の菩薩が妙法蓮華経の良薬をさずけてくださったのだろうか――と。
 (5)妙一女が「即身成仏」について質問した求道心をたたえられ、「教主釈尊御身に入り替らせ給うにや
 教学をすすんで″学ぼう″という求道心は、すでに仏界の働きにほかならない。
 (6)松野殿の未亡人には、「法華経の第四の巻には釈迦仏・凡夫の身にいりかはらせ給いて法華経の行者をば供養すべきよしを説かれて候、釈迦仏の御身に入らせ給い候か
 こうした御文は、ほかにも数多い。
12  大聖人は「諸法実相抄」において、末法にあって「三類の敵人」に迫害され、追放や死の苦難を乗り越えながら、なおも広宣流布をする行者を、「諸天」は「供養をいたすべきぞ・かたにかけせなかふべきぞ」――(この人を)供養しますよ。肩にかけ、背中に負ってくれますよ――と。懸命に働くと仰せである。
 また、「釈迦仏多宝仏・十方の諸仏・菩薩・天神・七代・地神五代の神神・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢・文殊・日月等の諸尊たち」が、こよなく称讃すると仰せである。
 法華経の実践は、なんとすごい境涯をもたらすことか――。諸天善神が″肩にかけ″″背中に負う″というのは、総じて私どもの立場でいえば、現実の問題に関して、必ず″守ってくれる人が現れる″ということであろう。
 仏法は決して抽象論ではない。生活の現実を離れて仏法の生命はない。病気、事故、死亡、その他、何かあった時、私どもを親身に守ってくれる人々は、その時その時に、諸天、諸尊の働きをしているといえよう。
 葬儀の時、故人を心からしのび、追善する、同志の真心の唱題は、まさに、諸仏、諸尊の声とも思えてならない。
 ともあれ学会の世界ほど、私心のない、うるわしい励まし合いの世界はない。他のどこの世界に、これほどまでに一人一人をだきかかえて守っているところがあるだろうか。御書に照らして、学会の同志こそ、諸天、諸仏、諸菩薩の働きをしている、最も大切な、最も尊き方々である。尊敬する者は福徳を、蔑視する者は罪業を積むであろう。
13  「悪鬼入其身」の本質を″信心の眼″で
 ところで、「其の身に入る」と大聖人が仰せのように、「入其身」は仏法の大切な生命観である。「悪鬼入其身」の場合にふれると、大聖人は、第六天の魔王が法華経の行者を迫害するために、智者や権力者の身に入ると仰せである。
 その時、「形は人なれども力は第六天の力なり」――姿、形は人間だが、(動かしている)力は第六天の魔王の力である――と本質を教えてくださっている。「形は人なれども」――姿は、たとえどのように見えようと、その本質は魔王である。この一点を見誤ってはならない。
 第六天の魔王とは、生命の「元品の無明」の現れであり、それを切るには「信心の利剣」しかない、と説かれる。ならば、剣を抜かねばならない。
 「つるぎなんども・すすまざる不進人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ」――剣なども、勇気のない人には無価値である。法華経の剣は、勇気ある信心の人こそ用いることができる――と大聖人は教えられている。
 また、「法華経はよきつるぎなれども・つかう人によりて物をきり候か」――法華経は良い剣だが、使う人によって、切れるかどうかが決まる――と仰せである。
 大切なのは「勇気」である。何ものも恐れないのが「信心」の心である。「勇猛」の人には、諸天も威光勢力を増して守りに守っていく。「声は力」「文は剣」である。青年部、教学部は、正義を語りぬいた歴史を残していただきたい。
 これは悪の「入其身」であるが、釈尊、諸天等の善の「入其身」も、形は人であっても、力は釈尊、諸菩薩、諸天の力である。表面の姿にとらわれて、その尊貴なる本質を忘れては、たいへんな過ちとなろう。
 御書には、このほか修羅が「入其身」した「他に勝ちたい一念」の邪宗の僧、梵天、帝釈が「入其身」した蒙古の王、その他が説かれている。
14  「何千、何万の梵天、帝釈が一人の学会員を守る」
 「入其身」といっても、十界互具である以上、本来は、すべて、わが生命にも具わる働きである。
 戸田先生は、教えられた。(『戸田城聖全集』第二巻、第六巻)
 「その神々(=諸天善神)は、どこにいるかということになります。神社にいるかというと、神社にはおりません。われわれの体のなかにいるのです」
 「なにか困ると、梵天、帝釈が働くのです。向こうからきて助けるのではなく、こっち(=己心)にあるところの梵天、帝釈が働きだすのです。南無妙法蓮華経に照らされて、御本尊様のほうの梵天と帝釈がこっちに感応してくる。だから梵天、帝釈が働かざるをえなくなるのです」
 「諸天善神というものが、梵天、帝釈一人しかいないものだとするならば、みなこれだけの人が東の方を向いてやっているのです。時間が違っているから忙しくてしようがない。ひとりで走り回らなければならないことになる。
 そうではないのです。こっちにいる人が出て行って、そして仲間を呼ぶのです。梵天だって一人ではない。帝釈だって一人ではない。何千人何万人といるのです。それだけいるのだから、みな集まってきます。そして、その人ひとりを守るのです。それが法華経の諸天善神です」と。
 「何千、何万の梵天、帝釈が皆集まる」――皆さま一人一人のために、諸天がこぞって来集するのである。「信心」さえ確かであれば、諸天が動かないはずがない。働かないはずがない。乗り越えられない山などあるはずがない。
15  「御義口伝」等には、さまざまな角度から、「神」といっても、己心の仏界の働きであると論じられている。また太田左衛門に対しては、世界悉檀(世間一般の義に一応したがって法を説く)のうえから、″神内しんない神外しんげ″とも教えられた。
 「神内と申す時は諸の神・身に在り万事心に叶う、神外と申す時は諸の神・識の家を出でて万事を見聞するなり
 ――「神内」という時は、諸神が身の内にあって、何ごとも心のままになる。「神外」という時は、諸神が「識の家」(人間の心身)を家出し、(他国に遊びに行って)いろいろ見学したりしている(そこで厄年などという)――。
 妙法を持った以上、私どもは、いつも「神内」である。生命の″内″に諸天のエネルギーが充満している。広布の組織もまた、そうでなければならない。そして、たがいに諸天善神となって、守り合い、仏界の力を増幅していく。そこに、広々とした、いわば成仏へと人々を導く生命の″磁場″がつくられていく。それが広布の和合僧である。
16  会員を尊敬、仏敵とは戦う
 さて、戦いにあたっては、わが身に、諸仏、諸天を「入其身」させる決意で、強く行動すべきである、と大聖人は仰せである。
 「弥三郎殿御返事」には、権力者の前で堂々と正義を主張する心構えについて″不惜身命″を教えられ、「釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし」――″釈迦・多宝・十方の仏よ、集い来って、わが身に入りかわり、われを助けたまえ″と一念を定めなさい――と仰せである。
 諸仏を″動かす″どころか、わが身に諸仏を「入其身」させ、満々たる″仏界のエネルギー″で勝負に勝て、と厳しく教えておられる。諸仏が入其身したならば、所従(家来)の諸菩薩、諸天等が従ってくることは当然であろう。
 このように、″諸仏の入其身″を論ずることは、決して傲慢ではない。それは大聖人御自身が、″そうでなければならない″と強く教えられたことなのである。同様に、学会員に諸仏、諸天の働きを見ることも、御書に照らせば、決して不遜ではない。むしろ、御書の仰せをないがしろにして、感情で我見を押しつけることほど、不遜で傲慢なことはないであろう。
17  「三類の敵人(強敵)」と説かれるように、仏法には敵がいる。敵と味方を、よくよく知らねば広宣流布の勝利はない。
 「かたきをしらねば・かたきにたぼらかされ候ぞ」――敵を知らねば、敵にたぼらか(たぶらか)されますよ――と大聖人は警告してくださった。
 だれが自分の味方なのか。だれが広布の味方なのか。だれが人間性の味方なのか。はっきりと見極めねばならない。そして仏法の敵とは断固、戦い、味方は最大に大切にする、それが大聖人の教えられた道である。幹部も、学会の友を最大に大切にせねばならない。最大の満足を与えてあげる努力が自身の仏道修行となる。
 また一面からいえば、敵は必要ともいえる。
 「かたきのなき時はいつわりをろかにて候」――敵がいない時は、いつわった愚かな姿のまま安穏に過ごせる――。
 これは法華経の行者がいないうちは、他宗の者もいいかげんでいられるという意味である。そのうえで、私どもも、敵がいるからこそ「いつわり」「愚か」ではいられなくなる。その分、鍛えられ成長する。″本物″になり″賢明″になっていく。″敵″は成仏の必要条件でさえある。
 「僣聖増上慢」はじめ「三類の強敵」と戦ってこそ、成仏の永遠の幸福境涯が開かれる。
18  嫉妬は人の″目″を転倒させる
 大聖人は″法華の敵″の転倒を、こう指摘された。
 「彼の阿闍梨等は・自科を顧みざる者にして嫉妬するの間自眼を回転して大山を眩ると観るか
 ――あの高僧たちは、自分の誤りを省みない者であり、嫉妬するあまり、自分の目が回っているのに、大山のほうが回っていると見ているといえよう――。
 大山は不動である。広布をめざす、われらの信心も不動である。その「不動の一念」の周りを諸天が舞う。
 大山の不動をしらず、自分の目が回っているのを、大山が回っているごとく大騒ぎしている者たちに、少しでもまともに付き合うことは愚かである。
 大聖人が仰せのように「嫉妬」は物を見る目を転倒させてしまう。まことに愚かな、やっかいな感情のようだ。その心のすきまに大魔、天魔が入るのである。
 また、「彼等程の蚊虻の者が日蓮程の師子王を聞かず見ずしてうはのそらに・そしる程のをこじん嗚呼人なり」と。
 ――彼ら程度の蚊やあぶの者が、日蓮ほどの師子王を、ちゃんと聞くことも見ることもせず、うわの空でそしっている。それほどの愚人である――と。
 大聖人は師子王であられる。真実の門下の私どもも獅子でなければならない。蚊や虻は飛び回るとうるさいが、何も確かめもせず、理解もせずして、″聞かず見ずして″悪口したり、作りごとを書いたりしているだけなのである。獅子が、いつまでも、こうした「愚人」の勝手にさせておいたとしたら、大聖人のお叱りを恐れるべきであろう。
19  ともあれ、広宣流布に戦い、仏子の面倒を見ていく人の周りには、心と心の輪が幾重にも広がる。いざという時に、たがいに諸天の働きをしてくれる。行動した分だけ、自分の「生命のネットワーク」「福徳のネットワーク」は、宇宙へと拡大していくのである。
 この尊き広布の世界、学会の和合僧を青年部、教学部の力で断じて守り、世界へ世紀へと発展させていただきたいと念願し、スピーチを結びたい。
 (本部第二別館)

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