Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

島根県代表幹部会 仏法は振る舞い、賢き人が幸福の人

1991.9.9 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

前後
2  安来といえば、戸田先生も、年末になると、よく皆の前で「安来節」を踊っておられた。私も、
 一緒にやれと言われて、やったものである。
 気さくで人間味あふれる、独特の節まわし。そのあたたかい響きとともに、うれしそうに踊られた恩師の姿が、忘れられない。
 戸田先生は「安来に、いっぺん行ってみたいな」ともおっしゃっていた。その思いが、きょうかなったようで、感激でいっぱいである。(拍手)
 島根広布の一粒種は、ここ安来で活躍されている支部指導長さんである。きょうは来られているだろうか(「ハイ!」と立ち上がると、満場の拍手。入会は昭和三十年。七十四歳。草創の地区部長として活躍)。島根の広布は安来から始まった。その先駆を切られた、大切な大切な方である。
 それにしても、何とも言えない、いいお顔をされている。
 戦いきることが、人生を若々しくする。ご夫妻、ご一家の、ますますのご健勝を祈らせていただく。(拍手)
3  また、昭和五十九年(一九八四年)の島根訪問以来、安来の婦人部の方々が、「山光希望菖蒲園」から、毎年、美しい丹精こめた菖蒲を本部に届けてくださっている。本当にありがとう! この場をお借りして、あらためてお礼を申し上げたい。(拍手)
 そして、安来では、「聖教新聞」の購読推進をはじめ、あらゆる広布の活動に、全国模範の拡大の実証を示しておられる。
 旧習深い地域にあって、法を弘め、信頼を勝ち得ていくことが、いかに困難で、たいへんであるか。本当によくやってくださっていると思う。まさに″日本一のパワー″を感じる。
 そのほか、ほめたたえたいことはたくさんあるが、何よりも大聖人が最大に讃嘆してくださっている、と私は確信する。(拍手)
 ここ島根の安来の地も、他宗教が深く根を張った旧習の深い地域であった。しかし、わが学会員は堂々と謗法を責め、正法を弘通してきた。
 謗法に対して厳格であるゆえに、まことにたいへんな苦労があったであろう。どんなに無理解と蔑視と圧迫に耐えてこられたことか。しかし、皆さまは一切を乗り越えて、偉大な広宣流布の歴史を築いてこられた。
 だれ人が何と言おうとも、日蓮大聖人、日興上人が、必ずや御称讃くださっていると、確信する。(拍手)
4  「太陽の国」出雲に「太陽の仏法」
 さて、「産湯相承事」に、この出雲について、次のように記されている。
 (「産湯相承事」は、大聖人の秘伝を日興上人が記された書。「日蓮」という御名乗り等について述べられ、大聖人の生まれた国は「日本」であり、日本の神の代表は、「日神」の天照太神であることなどが示されている。なお天照太神は、諸天善神として御本尊に認められている)
 「久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神は我国に天下り始めし国は出雲なり、出雲に日の御崎と云う所あり、天照太神始めて天下り給う故に日の御崎と申すなり
 ――久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神(天照太神)が、わが国に初めて天から降り来った国は出雲である。出雲に「日御碕ひのみさき」という所がある。天照太神(日神)が初めて天から降りて来られたゆえに「日御碕」というのである――と。
 日御碕といえば、昭和四十八年(一九七三年)九月(「山陰郷土まつり」のおり)、訪れたことを懐かしく思っている。
 くわしい法門については略させていただくが、この出雲また島根全体が、いわば「太陽の国」であり、末法の闇を赫々と照らしだす大聖人の「太陽の仏法」に、深いゆかりのある天地といえよう。
 皆さまは、大聖人、日興上人が貫かれた「立正安国」の御精神のままに、折伏、弘法に励み、正法をこの有縁の大地に打ち立てられてきた。また仏法の乱れを正し、唱題に励んで、すばらしい福徳の天地を築いてこられた。
 その労苦は、なみなみならぬものであった。その分、大きな福徳につつまれることを確信していただきたい。(拍手)
 また、諸天はこぞって、妙法を持った仏子を守護するにちがいない。仏子が諸天に法味をさしあげ、力を得た諸天がさらに力強く仏子を守る。この循環のなかで、島根は、いやまして福光満つる″日本第一の楽土″と輝きゆくと信ずる。(拍手)
5  「正直にして少欲知足の僧こそ真実の僧」
 ここで、正宗の僧侶のあり方について戒められた御金言と、歴代上人のお言葉を確認しておきたい。それらをきちんと知っておくことが、大聖人の門下としても誤りなく正道を歩みゆく力となるからだ。
 それにしても、私は正宗を外護しぬいてきた一人として、この十年間、さまざまな僧の振る舞いに対する批判もあったが、何があっても心の内につつんできた。むしろ厳然と守ってきたつもりである。
 しかし、その真心を踏みにじり、私を誹謗し、多くの会員をいじめぬいている僧の振る舞いを見る時に、少々、申し上げておきたい。
6  大聖人は、「但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ」――ただ、正直であって、少欲知足(欲望が少なく、少しのものを得て満足すること)である僧こそ、真実の僧なのである――と、僧侶の道を示されている。
 この御文を拝して、日亨上人は、「正直とは邪曲じゃきょくの反対であろう」(『追考 聖訓一百題』。以下、引用は同書から)とお述べである。
 この場合の「正直」とは、一般にいう、心が正しく素直なこと、偽りのないこと、という意味よりも、むしろ「邪曲」(よこしま、不正、非道)の反対で、正しい、正義、正道、という意味であろう、と。
 すなわち、真実の僧とは、第一に「仏法の正義を貫く」僧でなければならない、ということである。いかなることがあろうとも、大聖人の仰せのままの信行に励み、広宣流布のために身命を惜しまず邁進する者こそ、真の仏弟子といえるのである。
 したがって、正法を持つ僧侶の姿をしてはいても、大聖人のお教えに背き、広宣流布を妨害し、正法を弘める学会の破壊を企むような非道を行う者は、不正直の僧であり、邪曲の悪侶なのである。
7  日亨上人は、さらに「少欲とは五欲を少なくすることで、眼に色を見、耳に声を聞き、鼻に香を嗅ぎ、舌に味い、身に触れる五感の欲情をほしいままに貪らぬ事で、最小限の生活の必要に五欲を止むる事ぢゃ、其の最小の限界を、其身其身にとりて過不及なく適度に受用するのが、即ち足ることを知る知足である」と述べられている。
 すなわち、少欲知足の「少欲」とは、五欲(色欲、声欲、香欲、味欲、触欲)を少なくすることであり、眼で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、身に触れるという五感の欲望を、ほしいままに貪らず、生活に必要な最小限に止めることである、と。
 また、「知足」とは、生活に必要な最少の欲望を、自分にとって適度に用いることである、と教えられている。
 ぜいたくな暮らし――それ自体が、大聖人の仰せによれば、もはや「真実の僧」ではない証拠なのである。いわんや、時代の違いはあるにせよ、信徒以上の、世間の多くの人々が驚くようなぜいたくな生活を、どうして大聖人が許されるであろうか。(拍手)
 さらに日亨上人は、「自分は御開山日興御上人三祖日目御上人の重須上野の御事蹟を考えると、少欲知足の御苦労の跡の物体なさに暗涙に咽ぶことがある、其は御開山の方も目師の方も農作を為されたようである、其御手作の瓜なんどを上野より重須の興師に献ぜられた事が度々ある、重須の方でも今年は畑が日焼け(=日照りで水が涸れること)で一つも瓜の顔を見ぬのに、珍らしい物であると書かれた消息もある」とも述べられている。
 日興上人も、日目上人も、みずから農作業にいそしまれ、畑を耕して野菜などをつくられるという、大聖人の仰せのどおりの「少欲知足」の御生活をされていたのである。
 日目上人が手作りされた瓜を、重須の日興上人にお届けしたところ、″今年は重須では日照りで瓜が取れなかったので、珍しいものをいただいた″としたためられた日興上人のお礼のお手紙が残っている、と。
 日興上人は、大石寺を開創された八年後の永仁六年(一二九八年)に、上野郷の隣の重須郷に御影堂を建立して、そちらへ移られた。その後は大石寺を守って、実質的な座主の立場にあられた日目上人が、法務の余暇にみずから畑に出て瓜をつくり、師匠のもとへお届けしているのである。
 その愛弟子の真心を喜ばれ、感謝されている日興上人。まことに、うるわしい師弟のお姿である。同時に、質素な生活を苦にするどころか、悠々と楽しまれている両上人の御境界の広さを拝することができる。
 日興上人は「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し」とも仰せである。
 大聖人、日興上人、日目上人の末流と名乗りながら、信徒からの御本尊への供養をわが物として貪り、五欲のままに振る舞い、ぜいたくを当然のこととして、なおも貪る。「少欲知足」の反対で、欲深く満足することのない「大欲不足」の僧といわれている人もいるくらいである。大聖人、日興上人、日目上人のお嘆きはいかばかりであろうか。
8  日達上人「広布に働く信者を大事に」
 日達上人は、次のように述べられている。(以下、引用は『日達上人全集』から)
 「我々は今幸いにしてよその宗旨から比べれば非常に豊かになってきて、みんな楽な生活をしておるのである。昔から『衣食足りて礼節を知る』という言葉がございます。今我々が普通の世間の僧侶からみると、十分衣食が足りております。衣食が足りて騎慢になってしまったらたいへんなことである。どこまでも慎重にして、そして常に謙虚な心を持ってお寺を守り、信者を大事にし、また学会の人たちもたいへん身をすり減らして、そして宗門のために広宣流布のために働いておるんだから、どうか信者を大事にしていっていただきたいと思います」(昭和四十八年八月三十一日、第二十二回教師講習会閉講式)
 日達上人の炯眼は、鋭く未来を見抜いて警告されていたのである。また、そう言わざるをえないという状況が、そのころ、すでにあったということであろう。僧侶が、このとおりに実践していたら、今回のような問題はとうてい起こらなかったであろう、と多くの人が言っていた。(拍手)
 現実は、日達上人が指摘されたとおりに、衣食が足り、生活が豊かになったことで、逆におごりたかぶった僧侶が、広布に励む信徒を見くだすようになってしまった――これが、今回の問題の大きな原因であろうと、このお言葉に照らせばよくわかる。
9  「裕福に甘んじ信徒を悪く扱う僧は処分」
 また日達上人は、こうも述べられている。(同三十日、同開講式)
 「僧侶はとかく信者が折伏して信者を連れてくる。それに対してご授戒をして法要をする。そうするとお寺も信者がふえることによって、みな裕福になっていくということは当然でございます。しかし、それに甘んじておってはいけないのである。甘んじるばかりか、かえって連れて来た信者を非常に悪く取り扱う。こういうことは僧侶として恥ずべきことであると私は思うのであります」
 「先日ある寺院において、せっかく信者が折伏してご授戒に連れて来たのに、今日は休みですといって断わったお寺があります。そんなお寺は私はいまだかつて聞いたことがない。お寺に休暇があるということは宗務院から出したこともなければ本山もないはずである」
 さらに日達上人は「これではせっかく学会の人が折伏して汗水たらして連れてきた人に申し訳ない。止むを得ず、その人は時間をかけて他の寺へいってご授戒をしてもらってきた。そういうことが頻々とあるならば、私はそういう人を処分しなくてはならん。僧侶として寺院をやっていく値打がないじゃないですか。みなさんどう思いますか」と。
 ――″日達上人のお言葉からすると、処分されなければならない僧がたくさんいるのに、だれも処分されない。この日達上人の精神は今どうなってしまったのだろうか″と憂える声も多い。
 日達上人は続けて「ただ金さえ持って来ておれば、寺が繁盛すればそれでいいか、それは通らないと思います。だから一方からいえば、僧侶は金ばっかり貯めておる。ある人は億に近い何千万の金をもって裕福に暮しておる。我々はめしも食わないで折伏して歩いておるということを信者の人から言われてもやむをえないじゃないでしょうか」と戒められている。
 これは、今から十八年前の指摘である。当時、すでに僧侶の一部にみられた金儲け主義の体質が、現在では全国的に広がっているようである。われわれ信徒ばかりでなく、世間の人々からも顰蹙をかうような、最近の多くの僧侶の醜行を知られたら、日達上人がいかばかり嘆かれることであろうか。(拍手)
 そうした一方で、折伏・弘法に励む学会員を、冷酷に見くだしながら、言葉たくみに誑かし、隷属させようと狂奔している罪は、御書と歴代上人の教えに照らして、あまりにも重いであろう。残念なことであるが、文証の上から、理証の上から、そのことは明白である。(拍手)
10  「学会員を寺に横取りしてはならない」
 さらに、この時、日達上人は、僧侶が学会員を横取りしてはならないと、いわゆる″檀徒づくり″を厳しく戒められている。
 「一寺の住職であるといっても、寺のことや宗門の学問のことは充分にわきまえているけれども、社会の生活の面においてはまことに疎いのである。だからたまたま信者が、たとえば学会の信者でも法華講の信者でも、その幹部の指導が気に入らなくてお寺へきていろいろ生活指導を求めてくる人があるように聞いておりますが、お寺としては世間的生活指導はむずかしいのであってできることではない。世間の生活の本当の苦しみを知らないからしてそれはできないはずである。それを口先だけでもって指導しようという根性は今後やめてもらいたい。
 もしそういうことができたならば、どうか幹部の方へいってくれ、学会ならば学会の幹部へいってよく相談しなさい。また、法華講なら法華講の幹部へいってよく相談してもらいたいとはっきり一言ってもらいたい。そこをあやふやにして、ああだこうだと自分勝手なことを言って、しかもその人を自分のものに手なづけておるということはもっとも危険な考えと思うのであります」
 「今まで学会なり法華講なり、十分に指導しておるのを横取りして、つまらない人情にかられて自分の子分にしようという根性がもしあるならば、今日以後止めていただきたいと思うのでございます」
 日達上人は、社会生活の苦悩を経験していない僧侶に、信徒の生活指導はとうていできえないことを明確に認められている。そしてそれにもかかわらず、信徒を回先だけで手なずけようというのは危険な考えであり、誤った心根であると、厳しく″檀徒づくり″を禁止されたのである。
11  功徳と罰さえ否定した僧侶もいた
 創価学会の発展の原因の一つは、牧口初代会長の時代から、会員の一人一人に、大聖人の仏法を″生活″に即して実践することを指導し、現実の″社会″の中に、偉大な功徳の実証を示してきたことである。
 ところが宗門からは、学会が御本尊に具わる功徳と罰を言いきることに反対さえ出た歴史がある。
 戦前の学会では、牧口初代会長が、罰論を表に折伏を開始された。それに対して、僧侶のなかから批判の声が上がった。こうした事態に対して、牧口先生は、「御本尊の中に、若し悩乱する者は頭七分に破る、と罰論がお認めになっているではないか」と、愚かな批判を一笑に付された。
 また、戦後、学会再建に一人立たれた戸田先生は、大苦悩に沈む人々を救うために、御本尊の大功徳を訴えて大折伏を展開された。それに対しても、僧侶の一部に批判する者がいたのである。
 功徳もなく、罰もないような、観念的な信仰であるなら、民衆にとって、何の価値もない。大聖人は、一切衆生の救済のために末法に御出現されたのである。大聖人の仏法は、民衆の苦悩を救って、成仏させるためにある。(拍手)
 戸田先生は、「信心は大聖人の時代に還れ」と叫ばれ、つねに御書を拝して、会員の一人一人に具体的で明快な信心の指導をされ、あらゆる苦悩を解決する道を示すとともに、広布の使命を自覚させ、地涌の菩薩の大集団を築かれた。
 日達上人は、そうした事実をだれよりもよくご存じであった。そして″学会で指導している会員を僧侶が手なずけ、言うことを聞く子分にしようと横取りする″ことを、厳しく禁止されているのである。
 この先師の言葉に反する僧がいるとすれば、それこそ真実の日蓮正宗の僧侶ではないはずである。重大な師敵対となろう。(拍手)
12  日顕法主もまた、こう述べていた。
 「お互いに日蓮正宗の信徒でありながら、ある団体に所属する者に対して″そっちの団体での信心では功徳がない″とか″間違っているから罰が当たる″等と言って、信徒の取り合いをする――はっきり言えば″檀徒作り″という形ですが――これは、布教の邪道であると私は思います。日蓮正宗の御本尊を持っている人が、同じ御本尊を持っている人の悪口を言い、罵ることは、とんでもない誤りであります。
 それよりも、世間には日蓮正宗の御本尊を知らない人は大勢いるのであるから、その謗法の連中に向かって法を説き、たとえ一人からでも布教をしていくべきなのであります」(昭和五十五年八月二十八日、教師講習会開講式。「大日蓮」昭和五十六年一月号)
 檀徒づくりは「布教の邪道」であり、大聖人の御本尊を知らない人に折伏・弘法していくことこそ正宗僧侶の道である、と明確に示している。
13  日亨上人「外面では謗法厳誠、内部で容認は物怪」
 日亨上人は、謗法について、次のように述べられている。
 「外面にのみ謗法厳誠を立て内部には謗法認容の非行あらんことは物怪なり」(「有師化儀抄注解」富要一巻)
 ――外面にのみ(対外的にだけ)謗法は厳誠であると立てながら、内部では謗法を容認するという非行を行うことは、物怪(ばけもの)である――と。
 謗法厳誠は、大聖人、日興上人門流の根本精神である。日興上人の「遺誠置文」でも、謗法について厳しく戒められている。しかし現実には、宗門が、謗法厳誠を建前として唱えながら、実際には謗法を容認している場合が、過去にも、現在にも、しばしばみられる。
 たとえば、一時、釈尊像の造立をした歴史や、宗門が昭和十八年(一九四三年)に、学会に神札を受けるよう強要した事実は、よくご存じのことと思う。ここではくわしいことは省略させていただく。
14  戦後、学会が再建され、全国に折伏・弘法の活動が展開されたことによって、それまで宗門で容認されていた謗法が明るみに出て、撤去された事例がいくつもある。
 そのなかで、謗法の撤去に反対した檀徒との間で紛争になり、暴行事件にまで発展したのが、福島県の妙福寺事件であった。日尊の開基といわれる妙福寺は、日蓮正宗の寺院でありながら、六百年来、境内に地蔵堂があり、そこには、子安地蔵や三十番神、その他の仏像が祀られてきた。
 昭和二十八年(一九五三年)の初めに、学会の折伏に啓発されて正しい信心に目覚めた若い住職が、地蔵を謗法払いしようとしたところ、「歴代の住職が良いとして、何百年も過ぎてきたのに、今になって、いかんとは何ごとか」と、檀徒の猛反対にあったのである。そのくわしい経緯は、小説『人間革命』第七巻「飛翔」の章に書いたので、きょうは省かせていただく。(学会によって正しき信仰に目覚めることができたその住職も、後に正信会の悪僧となっている)
 妙福寺だけではなく、東北などの他の正宗寺院にも、同じように謗法の仏像等があったとされ、その後、しだいに撤去されたようだ。その他、過去や現在の事実から、宗門は「謗法厳誠」と口では言いながら、実際には謗法を容認してきたことはまことに残念なことである。
 (本山のひざもとの、古くから正宗が広まった地域でも、多くの謗法が容認されており、一般にも報道されている。「本山はどうして、これらを責めないのか。それでいて、どうしてあれほど偏った、偉ぶった言い方をするのか」という声が高まっている)
 学会こそが清浄に謗法厳誠を貫いてきたのである(拍手)。大聖人の仰せのままに進んでいるゆえに大難を受け、そして大功徳を受けてきた。(拍手)
15  大聖人は、次のように仰せである。
 「受けがたき人身を得て適ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり
 ――受けがたい人身を得て、たまたま出家した者でも、仏法を学び謗法の者を責めないで、いたずらに遊び戯れて雑談のみに明かし暮らす者は、法師の皮を着た畜生である――と。
 謗法を容認し、仏道修行を怠る僧侶を厳しく戒めておられる。
 さらに日興上人も、「謗法を呵責せずして遊戲雑談の化儀並に外書歌道を好む可からざる事」――謗法を責めないでいて、戯れや雑談の振る舞いをしたり、外道の書物や歌道を好んではならない――と遺誠されている。どんな立派そうなことを言っても、ゴルフやキャバレー、カラオケなどへの執心は僧道に背くのではないだろうか。
 いわんや、みずからは謗法を責めず、折伏もせずに、遊戯雑談にふけるのみならず、労苦を惜しまず折伏・弘法に励んできた学会員を謗法呼ばわりする――そうした悪侶は、大聖人の言われるとおり、″法師の皮を着た畜生″であり、大聖人、日興上人の末流と名乗る資格など、まったくないと言う人がいるが、どうだろうか。(拍手)
16  濁世には皆で常に学び合って
 ともあれ、どこに「正義」があり、「広宣流布への正道」があるか。それを過たずに見極めていかねばならない。そのために大切なのは、大聖人のお教えを皆が学び合っていくことである。また正しく伝え合い、励まし合っていくことである。
 大聖人はこの″山光″ゆかりの富木常忍ら門下に、こう仰せである。
 「富木・三郎左衛門の尉・河野辺・大和阿闍梨等・殿原・御房達各各互に読聞けまいらせさせ給え、かかる濁世には互につねに・いゐあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ
 ――富木、三郎左衛門尉(四条金吾、河野辺、大和阿閣梨等の殿たちや御房たちは、おのおのたがいに読み聞かせてさしあげなさい。このような濁世には、たがいにつねに話し合って、ひまなく後世を願うようにしなさい――と。
 まさに「濁世」である。このような時には、僧俗を問わず、仏子は″たがいに″″つねに″話し合っていきなさいと仰せである。
 妙法の同志が集い合い、御本仏のお教えを真剣に学び合うところに、確信と歓喜の波動が広がっていく。私どもは、この″対話のスクラム″を絶対に崩してはならない。また、絶対に崩させてはならない。(拍手)
17  仏法は、口でどんなことを言うよりも、″振る舞い″が大切である。また賢明に生活していく人が、確かな幸福の軌道を歩む人である。
 その意味で、青年部の方々は、ご両親を大切にしていただきたい。また、女子部の方々は、夜遅くならないように、よく自宅と連絡をとり合って心配をかけないようにしていただきたい。そして奥さんは、ご主人を大切に、ご主人は奥さんを大切にし、「一家和楽」の幸福な家庭を築いていただきたい。(拍手)
 では皆さま、この次お会いする時は、一緒に「安来節」を踊りましょう。(爆笑、拍手)
 どうか、いついつまでも、お達者で! 本日お会いできなかった方々に、くれぐれもよろしくお伝えください。
 (安来会館)

1
2