Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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鳥取・島根代表記念勤行会 御本尊において三宝は相即

1991.9.8 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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2  また、日達上人は、こうも述べられている。(昭和五十二年五月二十六日、寺族同心会)
 「我が宗の三宝は、御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝と立てます。それに対して日目上人は座主である。今言ったとおり、管領して、その大聖人の仏法を治めていく、よく受取って治めていく、すなわち管領という意味を持っていくのである。統べ治める、そして統治をしていく。その日目上人の後は、みな筒の流れのように、それを受継いでいくにすぎない。だから本宗の考えは、広宣流布の時は日目上人の再現、出現だという意味をとっております。すなわち日目上人が広宣流布の時の座主として再誕なされるとの指南であります。だから代々の法主が日蓮大聖人ではない。大聖人そのものと間違って書かれてよく問題が起きますが、その点ははっきりしてもらいたい」
 「三宝はどこまでも、大聖人・日興上人・御本尊、これが本宗の三宝の立て方です。法主が大聖人の代わりだと、即座にこういうことを言うと、外から非難されますから、よくその点に注意していただきたいと思います」
 日達上人は、代々の法主が、ただちに日蓮大聖人の代わりであるなどと言うことは誤りである、と示されている(拍手)。したがって、法主を「現代の大聖人様」などと主張するのは、この日達上人の言葉に違背している。(拍手)
3  「代々の法主が大聖人ではない」
 日顕法主も、その点について、かつて明確・に示している。(昭和五十八年三月三十一日、第四回非教師指導会。「大日蓮」同年五月号)
 「御先師が間違えないようにきちんとお示しくださっておることでありますが、六巻抄の『当流行事抄』の最後に″本門下種三宝″の御指南があります。そこにおいては、人即法の大曼荼羅本尊が法宝であり、また法即人の本因妙の教主・日蓮大聖人が末法下種の仏宝であり、そしてこれを正しく血脈のうえに伝受あそばされて、末法万年弘通の基を開かれた二祖日興上人が僧宝であらせられるということにつき、教道のうえに本門下種三宝をきちっと立てられてあるのであります。
 ですから、日興上人といえども、その唯我与我の御境界のなかにおいての御本尊の御内証と意味に約しては大聖人と一体であるけれども、その尊信のかたちとしての仏・法・僧の三宝とうえからするならば区別があるのであり、仏宝と僧宝とはおのずから違うのです。すなわち、仏宝は大聖人ただお一人であり、日興上人がすでに僧宝のお立場であらせられるのであります」
 「その僧宝ということをもう少し広く解釈すれば、歴代法主がその一分に加わるということもいえるでしょう。さらに広くいえば、日蓮正宗の正しい筋道によって出家得道した教師あるいは学衆等においても、正しい仏法を受持信行するかぎりにおいて、僧宝ということがいえるのであります。もっと広くいうならば、一切衆生のなかで正法を受持信行し、一分でも他に随力演説していく人達は僧俗ともに僧宝であるということができます。しかし基本においては、日興上人をもって僧宝の随一として拝するわけであります。
 そういうところからするならば、歴代法主は僧宝以下の立場であって、それを軽々しく仏様だ、仏様だというような表現は、少し言い過ぎであると私は思っております」
 「大聖人も『凡夫僧』と仰せでありますけれども、さらに七百年過ぎた現在は色々な意味で機根もくだっておりまするし、私を含め、みんな凡夫なのです。そういう立場からするならば、なにも大聖人の生まれ変わりだとか、今日における大聖人だとか、そういうふうな言い方での尊信の仕方は、尊信するようでいて、かえって逆の意味をもつ場合もありうるのです」
 厳密にいえば、歴代の法主は僧宝以下の立場であり、それを軽々しく「仏様である」とか、「現代における大聖人である」などと″絶対化″していくことは、尊信しているようでありながら、じつは貶めていることになる場合がある、と戒めている。
 したがって、「法主と大御本尊は一体不二」「法主は現代における大聖人」などと主張する人がいたとしたら、歴代上人の言葉にも背き、大聖人の仏法の正義を破る謗法となるのである。
4  過去にも、正信会の悪侶たちが、法主を絶対化し、その権威をふりかざして学会員を迫害した事実を、私どもは絶対に忘れることはできない。
 世間でも、権威、権力をもつ存在に、追従し阿諛した(相手の気に入るようなことを言ってへつらう)者が、虎の威を借る狐のように、民衆を見くだし、圧迫した例は、古今東西の歴史に枚挙にいとまがない。
 大聖人は、「佐渡御書」において、次のように御指摘である。
 「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣ゆしんと申すは是なり
 ――畜生の心は、弱い者を脅して、強い者を恐れるのである。今の世の諸宗の学者は、畜生のようなものである。智者が弱い立場であることを侮り、よこしまな王法(権力)を恐れるのである。諛臣(こびへつらう家来)というのは、こういう者をいうのである――。
 悪侶たちは、まさに畜生のように、権威をかさに、信徒を見くだして、誹謗し、脅し、迫害したのである。
5  複雑な理論を展開するまでもない。たとえば、牧口先生は、時の日恭上人の立ち会いのもと「学会も一応、神札を受けるようにしてはどうか」と申し渡され、「承服いたしかねます。神札は絶対に受けません」と拒否し、これがもとで投獄され、獄死された。時の法主の意向に「信伏随従」しなかったわけである。
 ″法主の言葉には絶対服従すべきであり、それが正宗の根本の一つ。従わないのは、すべて謗法″と主張する人は、牧口先生の殉教も、戸田先生の入獄も、すべて謗法の結果だというのだろうか。冷静に考えれば、すぐにわかることである。(拍手)
 「極端な服従は服従する者における無知を前提とする」(『法の精神三一通博之訳、岩波文庫)という、モンテスキューの有名な言葉がある。権威や権力に、無条件に服従するということは、服従する者が無知のために、それが当然のように思い込んでいるだけの場合が多いのである。それではあまりにも愚かである。自分も周囲をも不幸にする。
 正法を信ずる者は、賢明でなくてはならない。正義を装った邪義に、決してたぶらかされてはならない。そのためには、あくまでも法の道理を基準にすることである。仏法の本義をもととして、正邪、善悪を正しく判断することである。
 あまりにも明確であり、論ずるまでもない「基本」であったかもしれない。しかし最近、この「基本」を忘れている人が多いようだ(爆笑)。そこで少々語らせていただいた。
 「正しき人」は、「楽しき人」である。堂々と頭を上げて、だれよりも愉快な、だれよりも充実した青春であり、人生であっていただきたい。
 (米子文化会館)

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