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日蓮大聖人・池田大作

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山光総会・音楽祭、中国総会、宮崎県総会… 民衆の歌が魂の夜明けを告げる

1991.9.8 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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1  「正法の勝利」が「郷土の勝利」
 第一回の山光総会・音楽祭、おめでとう!。本当に立派なステージでした。(拍手)
 本日は宮崎でも合唱祭を開催されている。宮崎の皆さまも、本当におめでとう。(拍手)
 また本日は、壱岐、対馬の皆さまも同席されている。遠いところ、ご苦労さま!(拍手)
 本年十月には、第一回対馬音楽祭が開催されるとうかがっている。できれば、壱岐の代表も参加し、盛大な音楽祭としてはどうだろうか(拍手)。(=十月二十七日「ニュー対島家族音楽祭」を開催)
 壱岐、対馬の両島は、大聖人の時代の蒙古襲来をはじめ、残酷な侵略・支配の脅威にさらされてきた。その宿命を転換するのが、立正安国の法戦である。「正法の勝利」が「郷上の勝利」である。今、ここで勝つことが、多くの人々を、また子孫をも救っていくことに通ずる。
 ゆえに「断じて強く。断じて勝て」と、私は祈りに祈っている。心はいつも皆さまと一絡である。(拍手)
 正邪の因果は、時とともに、あまりにも明白に、厳然と示されていくことを確信していただきたい。(拍手)
 本日はさらに、第二回中国総会も兼ね、中国各県の同志が各会館に集っておられる。
 近年のめざましい「広宣流布」の発展、人材の輩出、福徳の実証。私は「中国は完全に蘇った」「中国は、いよいよ本領を発揮し始めた」と、心から頼もしく、うれしく見つめている。(拍手)
2  難即安楽の証を
 さて昨日、新生ハンガリーのアンタル首相が来日された。首相は、あの歴史的な東欧の民主化にあって、先頭に立って戦ったリーダーである。また、優れた「知性の人」であり、著作も三百冊を超えるという。
 三十五年前のハンガリー動乱(一九五六年、反ソ・自由化を掲げた民衆の蜂起)のさい、不当な理由で逮捕され、激しく弾圧された。七年間にわたり著作は発禁処分にされ、また、十年間も教員の資格を剥奪されたが、断固として屈せず戦いぬいた。まさに不屈の「信念の人」である。
3  断じて「屈しない」――。これこそ「人間」である。「人格」である。いわんや私どもは、「信念」の究極である「信仰」の世界に生きている。何かあるたびに動揺したり、退いたりするのでは、人間としても、信仰者としても、あまりにも恥ずかしい。
 牧口先生は、「いてほしい人」「いてもいなくても、どちらでもいい人」「いないほうがいい人」の三種類の人間がいると言われたが、つねに迷惑をかけ、皆から「いないほうがいい」と思われるのは、自分がみじめである。
 当たり前の道理がわからない人を、この辺では「だらず」というと聞いた。(爆笑)
 創価学会は「いてほしい人」「いなくてはならない人」の集まりでありたい。(拍手)
 大聖人は、「難来るを以て安楽と意得可きなり」――難が起こることをもって安楽と心得るべきである――と仰せである。
 この御金言を拝して、″そのとおりだ″″難との戦いで、私は境涯をこんなにも開いた″と言いきれる自身の歴史をつくっていただきたい。(拍手)
 ところでハンガリーといえば、私も一九六四年(昭和三十九年)十月に訪れた。青きドナウ川の流れ。緑の沃野にわたる風。澄んだ湖にきらめく光――。美しい天地は、今も鮮やかに浮かんでくる。
 ハンガリーとは、民音(民主音楽協会)による音楽交流も盛んである。当初、首相との会見の話もあったが、大切な皆さまとの約束があったため、今回はお会いできなかった。
4  ハンガリーの革命詩人「今こそ起つ時!」
 さて、このハンガリーで百五十年近くにわたって語り継がれている、誇り高き″民衆の詩″がある。それは、ハンガリー独立戦争が始まった一八四八年、若き革命詩人ペテーフィ(一八二三年〜四九年)が謳いあげた詩である。彼はハンガリー最大の国民詩人として今も親しまれている。
 ここ鳥取も、「故郷」「春が来た」など、日本の人々に愛唱され続けている童謡、唱歌を生んだ作曲家ゆかりの詩情豊かな天地である。こうして″山光″の地を訪れ、私には、ハンガリーとも二重写しに思えてくる。
 当時のハンガリーは、十六世紀の初めから、じつに三世紀以上も異民族に支配され続けていた。その巨大な圧政に対して、ついに民衆が抵抗を開始したのである。
 権威、権力の悪に対して、目覚めた民衆が戦い挑んでいく――いつの時代にあっても、これは歴史の必然である。
 独立戦争の端緒ともなった一八四八年三月のペシュト(現在のブタペストのドナウ川左岸)市の市民蜂起で、二十五歳の青年詩人ペテーフイは、自作の詩を、民衆の前で高らかに朗読する。
5   起て マジャトル(=ハンガリ)の民よ、祖国がんでいる
  今こそ起つ時、今起たねば起つ時はない!
  隷僕の民に甘んずるか、自由の民になるか、
  いずれをとるか、君ら応えよ!
   (「民族の歌」から、田代文雄訳。パムレーニ・エルヴィン編『ハンガリー史』1、恒文社)
6  青年ペテーフイは叫ぶ。奴隷の身に甘んじるのか、本当の自由の身を獲得して、わが人生を謳歌していくのか、どちらを選ぶのか、どちらかしかないのだ、と。立つ時を見失ってはならない。立つ時に立たなければ、一生、悔いを残してしまう、と――。
 徹して真実を語り、訴え、叫んでいく――これこそ、正義の言論戦である。いわれなき非難が″十″あれば、″百″の反論をしていく。これが、生きた人間である。道理である。
 悪を放置するようなお人よしであってはならない。傲りに傲る権威、権力に盲従するような時代は、完全に終わらせねばならない。今は、民衆をしばっていた鉄鎖の迷妄を、民衆自身の手で打ち破っていく″民主の時代″である。
 大聖人の″民衆の仏法″を持った私どもこそ、この時代の先頭に立って進む、使命と資格がある。(拍手)
7  彼は、さらに民衆に呼びかける。
  これまで過せし隷民の日々
  自由に生き 自由に死んだぼくらの父祖も
  この隷土にあっては永き痛苦に苛まれ
  ひとときとして安かならず (旦U
 そしてまた、
  マジャールの 輝しきいにしたの名は
  今また美しく甦る
  長き年月のうちに身についた汚辱の穢れを
  今こそさっぱり洗い落とそう!
  マジャールの神に
  ぼくらは誓おう
  ぼくらは誓おう もはや隷僕の民にはなるまいと!(同前)
8  若き革命詩人ペテーフイは、みずからこの詩のとおり、愛する故郷の自由のために、″先頭″に立った。そして阿修羅のごとく戦い、革命の戦場に死んでいった。二十六歳という若さであった。
 ″先頭″に立って戦う――それでこそ革命児である。私もその決心で矢面に立ってきた。ゆえに、迫害も多い。陰に隠れていれば、風圧もないであろう。
 いずれにしても、「革命は死なり」である。死ぬ決心なくして偉大な道は開けない。広布の偉業にあってはなおさらである。
 牧口先生も、戸田先生も、一命を賭して広布の道を開かれた。私も毎日、「臨終只今」の決意で戦ってきた(拍手)。日蓮大聖人の正法の広宣流布――ただそれだけを祈った。そのために動いた。書いた。話した。尽くしに尽くした。広げに広げた。
 そして広宣流布が″もう安心だ″″もう盤石だ″というところまで見届けるために、私は生きて生きぬいていく決心である。(拍手)
 ともあれ青年ペテーフィは戦いきった。悔いなき、″魂の勝利の詩″を故郷ハンガリーに永遠にとどめたのである。
9  あこがれの故郷″山光″は中国の推進力
 先ほど聴かせていただいた、懐かしい「故郷」の曲。たいへんに上手でした。すばらしかった!(拍手)
 なぜ、きょうは「総会・音楽祭」となったか。また、各地で「文化音楽祭」を開催するのか。――「音楽」には青春がある。希望がある。平和がある。若々しい歌声は、人々の心を励まし、人生を前向きにさせる力がある。
 初めから終わりまで「総会」の形式だと、参加する人の気持ちも、なんとなく重くなりやすい。半分は音楽祭、半分は総会。これが″新しい思考″である。気分もパッとさわやかになり、いつも同じような幹部の話でも(笑い)、新鮮な感覚で聴く余裕ができる。(爆笑)
 それに、美しい歌声は、女性をより美しく見せる効果もあるかもしれない。(笑い)
10  「故郷」をはじめ、「春が来た」、「♪春の小川は さらさらいくよ……」の「春の小川」(作詞者不詳)、「♪なの花畑に 入り日薄れ……」の「朧月夜」(作詞者不詳)、「♪秋の夕日に照る山緩晰……」高野辰之・作詞の「紅葉」など、今なお親しまれているメロディー。先ほどもふれたが、これらの作曲者・岡野貞一氏は、ここ鳥取県の出身である。
 一曲一曲に、平和があり、自然があり、愛情がある。いつ聴いても心が和むし、自然との一体感がある。
 これらのメロディーを生んだ鳥取の美しき山河。ここで人生の歴史を刻み、活躍されている皆さま方は、どれほど幸せであることか。
 鳥取の皆さまは近年、機関紙の啓蒙をはじめとして、広布の活動においても、活躍の舞台を大きく広げておられる。その発展の勢いは、日本随一、学会随一であろう。本当におめでとう!(拍手)
 そして、松江をはじめ島根の皆さまも、たいへんに頑張っておられる。おたがいに、良きライバルでもある。″山光″の両県が中国全体に波動を広げ、推進力となっていることは、多くの人々の称讃の的である。
 この″日本一″美しい、憧れのふるさと″山光″。きょうもすばらしい天気で、天も地も光に満ちている。七年前、山陰を″山光″と呼ぶことを提案させていただいて(=一九八四年五月二十一日、島根県各部の代表者会議)、本当に良かったと思う。(拍手)
 何ものにも縛られない、伸び伸びとした「魂の自由」。その境涯を、心ゆくまで満喫していくことは、山光の皆さまの特権であると申し上げたい。(拍手)
11  傲れるヤギの話――悪に従えば最後は不幸
 さて、数日前(九月六日)、友人である世界最高峰の童画家ワイルドスミス氏のご一家とお会いした。磨きぬかれた「人格」の人である。心の清らかな方々である。
 フイルドスミス氏の作品に『さあ みんな ついておいで!』(日本語版は長瀬遭子訳、太平社)という絵本がある。物語も絵も、ともにワイルドスミス氏の作品である。なかには、ところどころ窓があいていて、そこから次のページが垣間見えるという、楽しい工夫も施されている。
 簡単にストーリーを紹介すると――。
 ある山の上に、一頭のヤギが住んでいた。ヤギは、山での暮らしに退屈しきっていた。
 ある日、ふもとの町から楽しそうな音が聞こえてくる。ヤギはたまらず山をかけ下りた。途中、それぞれの場所で暮らしていたヒツジや牛、ブタやロバたちまで、次々に誘い、町へ引き連れて行く。
 「さあ、みんな、ついておいで!」。得意げに呼びかけるヤギ。皆が自分についてくるので、自信満々であった。しかし、このヤギたちの一群は、町の中で次から次へと騒ぎを引き起こす。そのたびに、人々から追いたてられ、いやがられ、逃げなければならなくなる。
 ついに、ヤギが「さあ、みんな、ついておいで」と言っても、もうだれもついていかなくなった。さすがに、皆、目がさめて、自分の家へと戻っていった。
 結局、ヤギはまた独りぼっちになってふたたび山に引きこもる――。
12  この作品は、何を表現しているか。ワイルドスミス氏は、こう述べておられる。
 「この物語は″盲目的に指導者につき従うと、人はだまされやすく、また不幸にも導かれる″ということを象徴的に示している」と。
 多くの示唆を含む、深みのある作品である。権威や権力に盲目的に従えば、結局、損をし、苦しむのは自分である。利用されるだけされて、最後はみじめな敗北者となってしまう。
 世間の道理でも、これほどに厳しい。仏法の世界においては、なおさらである。「仏法の偉大さ」を「自分の権威」にすり替え、「わたしのほうに、ついておいで」と誘惑してくる人間に、人々がつき従っていったとしても、いつかは必ずバラバラになるしかない。その結末は、あまりにも目に見えている。あまりにも愚かであり、不幸である。
 悪とは妥協してはならない。正法のため、仏子を守るために戦うところに、菩薩界、仏界の生命が強まっていくのである。ゆえに福徳も、力も、知恵もぐんぐんわき出でる。
 「仏法は勝負」である。戦ってこそ成仏がある。勝ってこそ、大歓喜の境涯が開ける。(拍手)
13  ヴィーゼル氏「激動の世界は″人間性の宗教″を希求」
 激動する世界。ソ連、東欧に象徴されるように、腐敗した支配体制、権威の勢力は次々と崩れ、「民衆」の手で倒されていく。この大変革の意味するものは何か。また、古いイデオロギーに代わるものは何か――。
 最近、ある世界的知性の示唆に富んだ発言が紹介された(『朝日ジャーナル』九月十三日号)。その人は、エリー・ヴイーゼル氏。アメリカの著名な作家で、ボストン大学の教授を務めておられる。一九八六年にはアメリカの作家として初めて「ノーベル平和賞」を受賞された
 (ヴィーゼル氏は、一九二八年、ルーマニアのシゲット生まれ。少年時代にナチスの強制収容所アウシュヴィッツに送られ、奇跡的に生還した。パリのソルボンヌ大学に学んだ後、渡米し、文筆活動と人権擁護運動に挺身している)
 ヴィーゼル氏は語る。
 「ソ連邦の始まり、それは偉大な夢でした」
 すなわち、ロシア革命には″民衆救済″の旗印があり、多くの人々がその理想を信じた――と。
 しかし、結果的に「すべてのよきものが腐敗し、すべての価値が堕落しました。恐怖、恐怖、恐怖のみ……。それがソ連邦でした」と、氏は指摘する。
 理想は美しかったが、理想ほどには人間は美しくなれなかった。独裁者が現れ、恐怖政治が支配した。もはや民衆は手段でしかない。氏は、人々を抑圧する″偽りの世界″にあったものは、「言語の堕落」「記憶の歪曲」「希望の腐敗」であった、と。
 言葉は、人々を″たぶらかす″ためや、″脅し″に使われた。「人々のため」のはずの哲学の言葉も、人々を縛り、鞭打つためのものに変わった。また、過去の事実を正しく認めない。希望と自由を奪い、人々を″がんじがらめ″にしていく――支配者の常套手段である。
 「平和」のため、「人権」のために戦いぬいてこられたヴィーゼル氏の眼は、さすがに鋭いと感銘した。
14  またヴイーゼル氏は、世紀末が近づき、歴史がものすごい勢いで動いていると語りつつ、次のように指摘している。
 「問題は、何が共産主義にとって代わるのか、ということです。ナショナリズムだという人もいます。私は、むしろ宗教だと思います。組織化された宗教のことでなく、宗教性ということです。私たちに欠けているのは精神性です。だからこそ私は、より高度で、より説得力があり、かつ慎ましやかな『ヒューマニズム』こそが、あらゆるイデオロギーや狂信的な動きにとって代わると思います」と。
 ″時代は「ヒューマニズム(人間主義)の宗教性を求めている″――私もそのとおりであると思う。そして、日蓮大聖人の仏法にこそ、世界が待望する最高の「人間性」と「宗教性」があると、私どもは確信する。(拍手)
 その大聖人の仏法を、私どもは、これほどまでに世界中に弘めてきた。宣揚してきた。仏法的にも、人類史の流れのうえでも、まさに″時″にかなった戦いなのである。私どもの広宣の大運動を妨げるものがあるとすれば、時代の要請に対する逆行であり、世界の物笑いとなろう。何より仏法上、極悪の行為である。(拍手)
 ヴィーゼル氏は、発言の結びに「すべての狂信は、精神と知性、人間性、連帯、魂の高貴さ、こういったものの死であることは、だれの目にも明らかです」と述べている。
 磨かれた″精神と知性″の光。ほっとする、あたたかな″人間性″の世界。平和への世界市民の″連帯″。仏界という、高貴なる″尊極の生命″への浄化――″狂信″は、これらのものの「死」である、と。
 人類のために、未来のために、私どもは断じて″狂信″に負けてはならないと、強く申し上げたい。(拍手)
15  修行は「日蓮が如くに」
 大聖人の門下の富木常忍の家系は、もともと因幡の国、すなわちこの鳥取の出身である。(富木常忍は下総の国〈現在の千葉県〉に住んでいたが、出身地は因幡国である。「富士一跡門徒存知の事」には「因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常に賜わる」と記されている)
 この当地ゆかりの富木常忍は、有名な御書「治病大小権実違目(治病抄)」を与えられている。この御書を鳥取県青年部は研鑽を重ねてきた。その成果をまとめた論文を昨日拝見した。正法求道の労を心からたたえたい。(拍手)
 さて、大聖人は「四菩薩造立抄」で、富木常忍に次のように仰せである。
 「私ならざる法門を僻案びゃくあんせん人はひとえに天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし
 ――個人のものではない(大事な)法門を、曲げて考える人は、ひとえに天魔がその身に入り代わって、他人を、自身とともに無間地獄に堕としてしまうのである。愚かなことだ。愚かなことだ―――と。
 御本仏大聖人の法門を、みずからの都合のいいように曲解するのは、天魔がその身に入っているのだ、と厳しく叱られている。
 自分だけ地獄に堕ちるのではなく、罪もない人々をたぶらかして巻き込んで、ともどもに無間地獄の道を歩むのである。私どもは、鋭くその正体を見破らねばならない。(拍手)
 続いて、このように述べられている。
 「此の法門は年来貴辺に申し含めたる様に人人にも披露あるべき者なり総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし
 ――この法門(末法は法華経の「本門の時」であるが、かといって述門を捨ててはならないとの法門)は、長年、あなたに申し含めてあるように、人々にも披露されるがよい。総じて、日蓮の弟子といって法華経を修行する人々は、日蓮のようにしなさい。そのようにされるならば、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏、十羅刹女も必ず守護されるでしょう――と。
 「人人にも披露あるべき者なり」と仰せのように、正しき法門、正道と正義を多くの人々に語り、伝えていかねばならない。黙っていてはならない。
 「日蓮が如くに」との御指南である。私どもは、この仰せどおりに、″信心は大聖人の時代に還る″決意で、正道を歩んできた。(拍手)
 大聖人も諸御抄に涅槃経の文を引いて「法に依つて人に依らざれ」と仰せである。
 大聖人以外の「人」を根本としてはならない。だれ人が御本仏のお心に背く法門を説いたとしても、われわれは決然と御書どおりの実践をすればよい。そこにこそ、釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏、諸天の加護があるのである。また、必ずや御本仏のおほめにあずかるものと確信する。(拍手)
16  さらに「諸経と法華経と難易の事」では、富木常忍に対して、このように御指南されている。
 「幸なるは我が一門仏意に随つて自然に薩般若海に流入す
 ――さいわいなのは、わが一門である。仏の心にしたがって、自然に仏の広大無辺な薩般若海(智慧の海)に入ることができる――と。
 仏の心に従うことが仏法の肝要である。末法にあっては、大聖人が御本仏であられる。大聖人に従うことこそ根本である。この一点を心に刻めば、いかなる天魔の所業にも、決して攪乱されない。
 私どもは、大聖人の仰せのままに行動する。そこには、自然と知恵がわく。無限の「希望の海」と、永遠の「幸福の海」を悠々と航海していけるのである。
 ともどもに、この福徳あふれる″長者″の道を楽しく進みながら、永遠に崩れぬ堂々たる″山光の広布の大牙城″を築いていきたいと申し上げ、お祝いのスピーチを結びたい。
 皆さん、どうか、お元気で!一人残らず長寿であってください。大満足の一生であってください。
 (米子文化会館)

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