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日蓮大聖人・池田大作

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学生部・教育部合同総会 教育が人間を、人間が世界を変える

1991.9.3 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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1  「教育」は開かれた″人類救済の王道″
 今年は、牧口先生のご生誕百二十年(一八七一年〈明治四年〉六月六6日生まれ)。初代会長牧口先生はご存じのとおり、後世に残る偉大な教育者である。
 私ども創価学会(発足当時は創価教育学会)の創始者が大教育者であったことは、先生のご一生を知れば知るほど、決して偶然とは思われない。深い意味を感じてならない。
 その牧口先生について、日淳上人は、「一切法是仏法」(=御書五六三ページに『摩訶止観』の文「一切法は皆是仏法なり」〈大正四十六巻〉が引かれている)の法理の上から、「先生(=牧口初代会長)には宗教は即教育であり、教育は即宗教であったのであります」(昭和二十二年十月十九日、創価学会第二回総会。『日淳上人全集』と述べておられる。学会を深く理解してくださった宗門の先師であられた。
 日淳上人はさらに、「法華経に、遣使還告の薩埵さった(菩薩)ということがありますが、仏の道を教育に於て実践された、此れが先生の面目であると私は深く考えておるのであります」(同前)と、仏法の眼から、教育者としての牧口先生をたたえておられる。
 牧口先生が歩まれた「教育の道」はすべて、広宣流布のための「仏法の道」に含まれるとの意であろう。
 その牧口先生の″孫弟子″である私も、仏法基調の「平和の道」「文化の道」「教育の道」を、世界に壮大に開いてきた。
 あらゆる苦難と戦い、また″世界の英知″″世界の指導者″と友情のネットワークを広げながら、万年の広宣流布のための大道を築いてきた。私どもの実践が、すべて「菩薩の道」であり、「仏の道」の実践であることは、日淳上人のお言葉に明らかである。(拍手)
 今や牧口先生の「創価教育学」は、いよいよ世界の国々から、世界の大学者から、注目されるようになってきている。
 見る人は見ている。公平である。また真剣に求めているから、パッとわかる。むしろ皆さまのほうが、偉大さを知らないかもしれない。(笑い)
2  先日も紹介されたが、鳥取大学の佐伯友弘教授も、牧口先生の思想を高く評価するとともに、牧口先生が、″近代教育学の父″と呼ばれるコメニウスに相通じるところがあると称讃されている。
 (佐伯氏は、八月十一日、鳥取県教育部の人間教育実践報告大会に来賓として出席されあいさつ。その内容は同二十五日の海外・各部代表協議会でも紹介され、二十七日付「聖教新聞」に掲載)
 宗教改革者として出発したコメニウスが、弾圧によって亡命生活を余儀なくされながら、教育による社会変革を志し、『大教授学』という著作を遺した生き方。一方、宗教革命のために権力の不当な弾圧で獄死しながら、後世のために『創価教育学体系』を遺された牧口先生の生き方。この東西の二人の生き方が重なって見えるという指摘である。
 東洋と西洋の間には、こうした、共通性のある人物が現れることがある。
 十七世紀、イギリスにニュートン(一六四二年〜一七二七年)が現れれば、日本には数学者の関孝和(一六四二年〜一七〇八年。関の数学理論は当時のヨーロッパの水準と比べてもまったく遜色ないといわれる)が出るように――。
 また、両者の思想の内容にも似通うところがあるようだ。牧口先生も、『創価教育学体系』の中で、コメニウスを「教育改革家の先輩」とたたえている。
3  教育改革者コメニウスの不屈の闘争
 さて、コメニウスは一五九二年に生まれた(没年は一六七〇年)。ちょうど明年、生誕四百年を迎える。出身地はモラビア。現在のチェコスロバキアの一地方にあたる。
 チェコスロバキアには、私も、昭和三十九年(一九六四年)十月に初訪問している。また友人には、視聴覚芸術の国際的権威であるフリッチェ教授(芸術センター教授)らがいる。教授とは昨年もお会いしたが(一九九〇年十月二十一日、関西文化祭に出席のさい。七五年、八三年に続いて三回目の会談)、″ぜひ、チェコスロバキア訪問を″と何度も語っておられた。東欧にもSGI(創価学会インタナショナル)の理解は広がっている。(拍手)
 コメニウス当時のチェコは、長い間、他国の支配に苦しんでいた。また、ヨーロッパ全土を巻き込んだ宗教改革と、それに続く宗教戦争の嵐は、チェコでも激しく吹き荒れた。
 とりわけ、外来の支配者(政治権力)は、既成の「宗教権力」と結び、改革派を力ずくで抑えつけようとしたため、国内の対立はいっそう深まっていた。
 (チェコは、一五一七年に始まるルターの「宗教改革」より一世紀も早く、「教会改革」が試みられた先駆の地。その指導者であるフスは異端とされ、一四一五年、火刑に処された。コメニウスはこのフス派の流れをくむ信徒団体「ボヘミア同胞教団」の一員であった)
 政情の不安と相次ぐ戦乱。コメニウスの青年時代には、有名な「三十年戦争」(一六一八年〜四八年)が勃発している。一説によれば、この戦乱により、モラビアとボヘミアの人口は四百五十万から百万まで激減したという。
 どこの国であれ、どんな時代であれ、権力者の手段にされて苦しむのは、結局「民衆」である。いつまで、そんな愚行を繰り返すのか。もう、そうした人類の宿命は絶対に転換しなければならない。そのために諸君がいる。(拍手)
 こうした激動の時代を、コメニウスは「宗教改革の闘士」「民衆の教師」として、新しい「人間変革の道」「宗教改革の道」「教育改革の道」を歩んでいった。
4  コメニウスの行く手には、当然のごとく、既成の勢力の壁が立ちはだかった。棚津も受けた。「改革者」と「反動」との対決――いつの時代も、この構図は同じである。
 彼は、三十六歳から、死ぬまでの四十二年間、亡命生活を強いられる。権力者や聖職者たちによる、事実上の国外追放であった。その苦しみ、半生を異国の地に送る″流浪の旅″――少々の悪口など、比較にならない。
 だが、コメニウスは退かなかった。戦い続けた。すべてを新たな飛躍へのバネにした。そこにこそ、彼の偉大さがあった。
 彼は、ポーランド、イギリス、スウエーデン、ハンガリー、オランダと、ヨーロッパ中を駆けめぐる。各国の著名な学者や有力者たちと友情を築き、連携をとりつつ、正義のネットワーク、平和のネットワークを広げていった。
 ――わが使命ある限り、愚痴はなかった。後退もなかった。彼を追い出したつもりの、堕落の権力者や、狂信の聖職者たちとは、まったく次元が違っていた。そうした人間たちを、堂々と見おろしながら、彼は、前へ、つねに前へと、わが道を進んだのである。
 生きている限り、必ず何かを為す。成し遂げる。圧迫があるほど、かえって闘志を燃やし、道を広げていく。それが、人生の真髄である。信念の勇者の魂である。
 まして、「革命児」といい、「学会精神」を口にするならば、みずからが獅子でなければならない。「羊千匹より獅子一匹」と。それが牧口先生の遺訓でもあった。私もまた、この心で戦ってきた。口先だけの者は、ご存じのとおり、背信者として皆、去っていった。彼らは組織の偉大さに安住していた。
 保身を微塵でも考えるようになったら、殉教の牧口先生、戸田先生の弟子とはいえない。学会精神の崇高さ、峻厳さを、いささかもおろそかに考えてはならない。
 コメニウスの鋭い眼は、当時の堕落した聖職者たちを、次のように赤裸々に描き、批判している。
 「私は彼ら(=聖職者)が宗教の奥儀をきわめ、祈念しているだろうと思ったのに、羽根ぶとんにくるまって高いびきで眠っている者がいるかと思うと、酒宴を開いて、あらゆるものを口がきけなくなるほどのんだり食ったりしている者がいる。他の者は踊ったり、はねたりしている。他の者は財布や金庫を部屋の中につめこみ、他の者は浮気と涯乱におぼれている」(『地上の迷官と魂の楽園』。ここでの引用は、堀内守『コメニウス研究』福村出版から)と。
 さらにコメニウスは、聖職者たちが、偶像をちらつかせて金儲けをしている実態をあばき、こう言い放つ。
 「思うに彼らは精神の(Duchovni)父と呼ぶのは疑問だ。金儲けの(Duchovni)父と呼ぶ方がふさわしい」(同前)――なんと鋭い一言か。「悪」を打ち破る弁舌はこうありたい。(拍手)
5  「すべての人に、すべての事を、楽しく学ばせよ」
 コメニウスが求めたものは「人類全体の救い」であった。それを求める過程で、しだいに彼の力点は一教団の枠を越え、開かれた、普遍的な「教育」へと移っていった。もとより″精神の父″たりえない、堕落した宗教など論外であった。
 「人間」を見つめ、「人間の完成」をめざした彼の眼光は、人類の希望の光を「教育」に見いだしたのである。教育の革新があってこそ「学問」も「政治」も「宗教」も光を放つ、と。
 「教育」こそ人類の「大事」なり――人生と社会を達観した人の心であろう。私も、二十年以上前に、「私の人生の最後の事業は、『教育』である」と宣言した。
 彼が訴えた「教育」とは、「すべての人に、すべての事を、徹底的に教える」という、「汎知(広く、全体にわたる知性)主義」の立場に立っていた。一部分のことを、一部分の人だけに教えるなどといった、偏った性格のものではなかった。
 そして、「教える者、あるいは学習する者に、この上もない楽しさを感じさせる」教育を主張し、実践していった。
 (彼はまた、男女の平等、教育の機会均等、当時の″学問語″であるラテン語よりも母国語を優先すべきこと、世界最初の絵入りの教科書を著し、視覚による学習を重視すること等を主張した)
6  「教育」――。学会もまた、創価教育学会として出発した。一貫して「教育」を重視してきた。
 青年部だけでも、各種の″大学校″をはじめ、御書を学び、人生と社会を学ぶ″学びの場″を、大きく広げてきた。だれもが楽しく、有意義に学べる「人間教育」の道を開いてきた。学会のあり方それ自体が、まさに、一つの大きな民衆教育運動、社会教育運動でもあったといってよい。
 すべての人が、すべてのことを、徹底的に、また楽しく学んでいける――ここに、人間が、社会が進むべき重要な進歩の軌道があり、成長の法則がある。そして、それはそのまま、私どもがめざし、進んできた道なのである。
7  さらにコメニウスは、「自分で自分を養い、自分を強め、自分を広げていく知識」を重んじている。仏法で説く、「知恵」の開発の重視に通じよう。
 ともあれ、「知は力」である。正しい「知識」を豊かにもってこそ、人間は人間として確立されていく。「知恵」が開かれ、「人格」が育まれていく。そのために「教育」がある。
 一方、権力化した宗教は、概して、自分たちにのみ通用する知識を、一方的に押し付ける。理性と道理に反する主張をし、納得しない人がいれば、権威で抑えつけ、閉ざされた狭い世界の中に、人間を押し込めようとする。――断じてだまされてはならない。そうした″自分を弱め、自分を狭めていく知識″の世界に、惑わされてはならない。
 「英知」を磨き、人間としての「力」をつけ、「人格」を築きながら、人生の幸福を満喫していける。人間の完成という、「教育」の目的を大きくつつみつつ、みずからの可能性を、最大に開いていける――それが真実の宗教である。(拍手)
8  指導者は民衆の日、民衆の口
 さてコメニウスは、現実社会の腐敗し、堕落した支配者たちへの鋭い批判をこめて、民衆を顧みない彼らの姿をこう表現している。
 「ある者は下々の訴えをきくべき耳がなかった。他の者は眼前の無秩序を見るべき眼がなかった。他の者は暴逆者が真実をひっくり返そうとするのを嗅ぎとる鼻がなかった」(前掲書)
 リーダーが″鈍感″であってはならない。巧妙な″へ理屈″にだまされる″愚か者″であってもならない。また、権威の横暴に甘んじるような″お人よし″では、自分も、周囲をも不幸にしてしまう。
 コメニウスは続けて「他の者は下々の者の声を代弁すべき舌がなく、他の者は正義の判断を実現するはずの腕がなかった。多くの者は正義が要請するものを行なうべき心臓がなかった」――と。
 ″舌″は「雄弁さ」、″腕″は「行動力」、″心臓″は「信念」「勇気」を意味しよう。「改革の闘士」であった彼の言葉は、民衆のリーダーの要件を端的に表している。また私が繰り返し訴えてきたこととも一致する。
 悪を見抜く知性。悪にだまされない賢明さ。民衆の声を代弁する雄弁。正義を断じて実行する信念と勇気――どうか若き諸君は、これらをあわせもった偉大な指導者に育っていただきたい。
 民衆に渇望され、会員に慕われゆくリーダーこそが、今後ますます必要となる。民衆から離れて、どんな地位に就いたとしても、それは幻であり、無価値である。
 「民意の時代」である。ゆえに「民衆の要請に応える人」「民衆の声を叫びきれる人」でなければ、人々から支持されないのは当然である。
9  先日、あるテレビ番組で、中世イタリアのフィレンツェを中心とする「ルネサンス」を特集していた。その内容にいわく、宗教や政治の権威のくびきがら「人間」を解き放った、あの文芸復興(ルネサンス)の大運動は、″叫ベ! 叫ベ! 叫ばないのは死だ″との、熱き声から始まったのだ、と――。歴史の正しい視点である、と私は感銘した。
 「広宣流布」という私どもの進める″生命の大復興運動″も、真実を叫びきる、正義を語りぬく、その粘り強い戦いこそが、その原動力となっていくのである。(拍手)
10  「民衆の世紀」は「平等の仏法」を持つ
 ここで御書を拝したい。私どもはどこまでも「御本尊根本」「御書根本」である。ゆえに、何があっても迷わない。紛動されない。
 世界は今、ソ連の共産党解体に象徴されるように、「新しい時代」へ向かって激動している。ある識者は「ソ連ばかりではない。アメリカも経済不況をかかえており、いわば世界全体が、非常にむずかしい岐路に立たされているのだ」と。
 そして、人類は、来るべき「民衆の時代」をリードしうる、確かな哲学を模索せざるをえなくなっている。その解答はどこにあるのか――。
 日蓮大聖人の「御書」には、人類が長い歴史の中で多大な犠牲をはらって求めぬいてきた″民主″″自由″″平等″の原理が、最も本源的な次元から明快に示されている。私どもは、この最も進歩した世界宗教たる大聖人の仏法を、大聖人の仰せどおりに、時代・社会にみずみずしく開いてきたのである。(拍手)
 大聖人の仏法は、決して一部の人のための宗教ではない。本門戒壇の大御本尊は、「一閻浮提総与」、すなわち全世界の民衆のために建立されたのであり、決して特権的な人々のためにましますのではない。
 また信仰の本義に照らし、大聖人の門下は御本尊の前に平等であり、そこに上下の差別が存するはずはない。そのことを、大聖人は多くの御書で明確に説いておられる。
 「日女御前御返事」には次の有名な御文がある。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり
 ――この御本尊は、まったくよそに求めてはならない。ただ、われら衆生が法華経を受持し、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団においでになるのである。これを「九識心王真如の都」(仏界の尊極の生命)というのである――。
 大聖人の仏法は、御本尊を信ずる「人間」を、一切の差別なく、最極の尊体とみる。全人類に平等の「世界宗教」たるゆえんがここにある。そして、この御本尊は、信仰者の″内″にあると示され、「全く余所に求る事なかれ」と仰せである。当然、″どこか″に行かなければ成仏しないというのは、大聖人のお教えではない。
 御本尊を拝する″その人″が″その場で″仏となる。今、自分のいる場所で、自分を最高に輝かせながら、家庭のために、社会のために、そして人類のために、活躍していけるのが「妙法」である。
 したがって私どもは、どこまでも御本尊を根本にしていけばよい。信行に励む自分自身が、胸中に御本尊おわします妙法の当体であり、高貴なる存在であることを確信して、晴ればれと進んでいけばよい。(拍手)
 大聖人は、無名の一婦人門下に、最も深く、最も力強く、最も誇り高い信仰のあり方を、明快にわかりやすく、しかもロマンあふれる美しい表現で教えてくださっている。ここにも、御本仏の大慈悲と、仏法の深い精神が拝されてならない。
11  「平等」こそ法華経の肝要
 流罪の地・佐渡でおしたための「生死一大事血脈抄」には、次のように仰せである。
 「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり
 ――(十界の諸法がことごとく生死の二法であり、妙法の当体であるから)五百塵点劫という久遠の昔に成道した釈尊(再往は日蓮大聖人)と、すべての衆生を成仏させる法華経(再往は御本尊)と、われら衆生との三つは、まったく差別がないと信解して妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。このことは、日蓮の弟子檀那等の肝要である。法華経を持つとは、このことをいうのである――と。
 「全く差別無し」――。大聖人は、仏と衆生との「絶対の平等」をお示しくださっている。このことを信解して妙法を唱えるのが「弟子檀那等の肝要」であり、「法華経を持つ」ことであり、「生死一大事の血脈」もここにある、と。
 その他の仰せからも、一切衆生の「平等」が徹底して説かれていることこそ、法華経の教えの「肝要」なのである。
 私どもは、断じて卑屈になってはならない。卑屈な心では、本当の仏法の醍醐味は味わえない。この御本仏のお教えに背くことになる。堂々と、また朗らかに、一生涯、わが境涯を広げていっていただきたい。(拍手)
12  また日達上人は、宗門の中興の祖といわれる日有上人の「有師化儀抄」を拝され、次のように講義されている。(昭和三十四年八月、第二十五回夏期修養会。『日達上人全集』)
 「勿論一番先に百二十一ケ条(=化儀抄の)は僧侶も信徒も貴賤道俗の差別ないと説いておるのでございまして、百二十一ケ条の一番はじめに『貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり』と日有上人はおっしゃっていらっしゃいます」
 「貴い人賤しい人、貧乏人も金持も、僧侶も俗人も皆妙法蓮華経の信心の体である、信心の人である。だからその上からいけば皆平等である。決して違いはないのである。大聖人様も日興上人様も歴代の法主もわれわれも、僧侶も俗人も皆一体の妙法蓮華経である。大聖人様の内証が南無妙法蓮華経の仏様である。そしてもしわれわれが信心をして本当の南無妙法蓮華経の信心の体になる時は一体である、師弟同体である。大聖人様もわれわれも結局一緒の体となるのである。そこに即身成仏があるということをちゃんと御説きになっておるのでございます」と。
 さらに、「もしそれを間違ったならばこの師弟相対の義ということがなくなる。師弟相対の義というのは大聖人とわれわれと同じだという義が、もしわれわれの信心がなくなれば、間違えばそれがなくなるので、たちどころに消えてしまう。それはもう地獄へ行く道であるということを説かれておるのである。だからむずかしいことはない。ただ信をたてる、妙法蓮華経の信をたてる所にわれわれは即身成仏、しかも大聖人様と同体であるということを御説きになっておる」と述べられている。
13  妙法の前には皆、平等である。″一人だけ特別″などという人はありえない。「信心」のある人は、だれでも大聖人と一体になれる。何よりも、「信心」のある人が偉いのである。
 反対に、どのような立場の人であれ、信心がなくなれば、もはや大聖人と一体にはなれない。いわんや、もし信心が狂い、「破和合僧」の重罪を犯すようなことがあれば、御本仏のお裁きは厳然であると信ずる。(拍手)
 こうした″信心の狂い″の一つの表れとして、正法正義を歪曲して、自分勝手な邪義を言いだしたり、やたらむずかしい、一見、深そうだが底の浅い″新説″を持ちだす傾向がある(笑い)と、ある幹部が語っていた。(笑い)
 また、「御書の仰せ、歴代上人のお言葉はこんなに明らかなのに、なぜそのとおりにしないのかしら。読んでいないのかな。読んでいないから今日のような宗門の大動乱を起こしてしまったのではないか」と指摘する人があまりにも多い。
 ともあれ、私ども創価学会は、仏勅の「世界広宣流布」を進める「和合僧」の団体である。日達上人はじめ歴代上人は、この私どもの「信心」を、最大に讃嘆してくださっている。御書の仰せ、また歴代上人の言葉に照らし、私どもこそ、大聖人との正しき師弟相対の道を歩んでいることを確信していただきたい。(拍手)
14  ユゴー「僧侶の侵略から未来を守れ!」
 ところで、きょうは『レ・ミゼラブル』の歌の合唱をありがとう(拍手)。いつ聴いても本当にすばらしい歌である。本年の学会創立記念の式典では、学生部をはじめ青年部が記念の演奏を行ってはどうだろうか。(拍手)
 さて『レ・ミゼラブル』でもそうだが、大文豪ユゴーは徹底して「人間主義」のために戦った。「民衆の勝利」のために叫び続けた。
 戸田先生と私が、ユゴーを愛読したのも、その「心」に「心」が共鳴したからである。
 そのユゴーは、「文明という光明」は「二種類の洪水」によって消される――と言っている。
 (『追放』〈『ユーゴー全集』第十巻、ユーゴー全集刊行会〉に「文明なるこの光明は、二様の洪水に依って消される、兵士の侵略と僧侶の侵略、この二つの侵略は文明に危険である。一つは我等の母、祖国を脅威し、他は我ら等の子、未来を脅威する」「領土の不可侵権と良心の不可侵権、この二つの者は、文化したる国民の最も貴重な二つの財産である。その一を軍人が侵略し、その一つを僧侶が侵略する」とある)
 ――一つは「兵士の侵略」であり、一つは「僧侶の侵略」である。この二つの侵略は文明にとって危険である。「兵士の侵略」は、われらの母・祖国を脅かし破壊する。「僧侶の侵略」は、われらの子ども、未来を脅かし、破壊する。
 また、「領上の不可侵権」と「良心の不可侵権」は、文化的な国民の最も貴重な二つの財産である。その一つ(領土)を兵士が侵略し、もう一つ(良心)を僧侶が侵害する、と。
 ユゴーの断罪は厳しい。ユゴーの憤りは激しかった。「黙っていられるか!」と血潮がたぎっていた。
 彼が″未来を壊し、良心を侵害する″と責めたのは、「狂信」である。人間のためのはずの宗教が、いたずらに人間を苦しめ、破壊するにいたる――その脱線を彼は許さなかった。「狂信」が自分だけにとどまっているならば、まだよい。せめて、人に迷惑をかけなければ――。
 しかし「狂信」が、明らかな真理と理性に敵対し、「聡明」に対して「暴行」を加え、力ずくで抑えつけようとすることは、断じて見すごせない。戦慄すべき人類への犯罪だ、と彼は怒る。そして戦った。
15  たしかに「狂信」が自分の領域内にとどまっているうちは、なんとか我慢もできよう。しかし、狂信が、今日のように、皆に「精神的暴行」を加え始めるのであれば、それは絶対に許すことはできない。(拍手)
 大切な御本仏の仏子である。いじめられるのを黙っていては、御本仏に叱られる。
 大切な俺就が「広宣流布の組織」である。破壊の後がを前に、断固、戦わなければ、大聖人、日興上人にお叱りをこうむるであろう。牧口先生、戸田先生が嘆かれるであろう。
 ゆえに立たざるをえない。このままでは日蓮大聖人の「正法」が法滅してしまう。この時に戦わずして、いつ戦うのか。地涌の証明を果たすのは今である。諸君も聡明に、″時″を自覚していただきたい。(拍手)
 大聖人が、われわれ衆生のために残してくださったのは「全民衆の幸福の道」であり、「万年ヘの希望の道」である。権力化して、人を苦しめる道ではなかったはずである。
 この「幸福と希望の大道」を行く前進を、狂信の徒に邪魔させてはならない。だれよりも勇敢に、そして世界最高の哲学を持った「知性の学徒」らしく、だれもが納得し、安心できる、明快な、さわやかな前進をお願いしたい。(拍手)
16  私は毎日、諸君の無事、成長、幸福を一生懸命、祈っている。皆のご先祖の追善も行っている。諸君には長い将来がある。どこまでも朗らかな青春、朗らかな人生であっていただきたい。また私ども先輩は、未来を諸君に託す以外にない。未来はすべて諸君のものである。
 最後に「大切な『創価学会』の将来を万事よろしく」と申し上げ、祝福のスピーチとしたい。
 きょうは、本当にありがとう! おめでとう!
 (創価国際友好会館)

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