Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第四十五回本部幹部会 「人間共和の永遠の都」を世界に

1991.8.24 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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2  さてオーストリアといえば、日本にとって、文化の大恩ある国である。
 じつは、この北海道・札幌の地に初めて写真文化の道を開いたのも、オーストリア人の写真家であった。その名はスティルフリート。彼は明治五年(一八七二年)に、ここ札幌を訪れ、開拓期の北海道の貴重な光景を写真に収めた。そして、札幌では初めて本格的な写真技術の指導にあたり、日本人写真家を育成したという歴史が残っている。
 ――ご存じのように、私は、この写真の分野で、オーストリア芸術家協会から、栄誉ある「在外会員」の称号をいただいた(拍手)。今年の六月、女史は、その「会員証」の授与のため、ご多忙のなか、わざわざドイツのフランクフルトまで駆けつけてくださった。その真心、友情を、私は一生涯、忘れることはできない。
 きょうは、このように、音楽を愛し、文化を大切にされる北海道の皆さまとともに、サイフェル卜女史をお迎えでき、本当にうれしい。また、きょうの出会いも、両国の友情の歴史に必ずや輝いていくことを確信したい。(拍手)
3  さて、サイフェルト女史は、一面、わが学会婦人部の方々と同じように、お一人で何役もの大任を果たしておられる。まず、オーストリア文部省(芸術・文化・教育省)の次官という要職。そして、その重責を担いながら、ご自身も一人の第一級の声楽家として、ドイツ、スイス、チェコスロバキア、ポーランド、ハンガリー等々、各国各地で歌曲のタベを開き、幅広く文化交流を進めておられる。
 とくに、厳しい状況にある東欧の人々に、歌をもって希望を贈りたい――と。美しい心の発露である。金儲けのことしか頭にない、どこかの国とは全然違う。(笑い)
 「人間の中へ、民衆の中へ光をもたらしたい」――これが、女史を貫く気高い生命である。″文化の母″としての強い一念である。そして、だれよりも「行動の人」「実行の人」。だからこそ、私は尊敬する。
 また、そうした社会的な大活躍とともに光っているのは、大学の名誉教授であるご主人を支える、良き妻としても頑張っておられることだ。私もご主人にお会いしているが、たいへんにうるわしいご夫妻である。
 また、女史自身も、名門ウィーン大学に学ばれ、哲学博士の学位を取得しておられる。このように女史は、政府高官、歌手、主婦の一人三役を、見事にこなしておられる。
 「楽しくやっていますので、苦労はありません」と、女史の笑顔はいつも明るい。忙しいけれども、人の何倍も価値ある人生を生きゆく人は、本当に美しい。身も心も、生気はつらつと輝いている。
4  ところで、女史の美しい歌声を育んだのはだれか――。それは、ご両親である。
 女史は、こう振り返っておられる。
 ――私は、すばらしい子ども時代を過ごしました。五歳になった時、すでに父も母も盲目で、私が両親の「目」となり、手を引いて歩きました。
 父はオペラ歌手でした。その父から、歌や楽器を教わったのです。他の子どもたちのように、自由に遊ぶこともできませんでしたが、今、振り返ってみても、その少女時代、決して苦しいとかつらいなどと思ったことはありませんでした。
 オペラの歌曲は、すばらしい「精神の官殿」でした。毎日、その中で育ちました。それが私の、心の糧となりました。
 今は、盲目であった亡き両親に、心から感謝しております――と。
 まことに美しい、″心の調べ″である。(拍手)
5  われらは王者、「精神の宮殿」に住む
 どんな苦しい境遇にあっても、たくましく、朗らかに、希望の歌を回ずさみながら生きぬいていく――。その人が「勝利の人」である。人生の、また人間としての「王者」であり「王女」である。そしてこれこそ、尊極の「精神の宮殿」に生きる、私どもの誇りなのである。(拍手)
 また、一家においても、親が、こうした強い生き方を示していけば、それが子らのかけがえのない″財″となっていくにちがいない。
 昨日も、札幌創価幼稚園の園児の皆さんと、楽しいひとときを過ごした。未来へ伸びゆこうとする″躍動の生命″に満ちあふれた、すがすがしい光景であった。心強く、心清らかなこの子らが、二十一世紀の主役たちが、どうかすこやかに育つように。自身の生命に、またやがて社会に、世界に、すばらしき「精神の官殿」を創り広げゆくようにと、私は祈った。(拍手)
 さて、この夏の一カ月間に、私は各地の会館、研修道場を訪れ、三万五千人を超える多くの同志とお会いすることができた(拍手)。まだまだ多くの方々にお会いしたいのだが、あまりにも多忙であり、ご理解願いたい。ともあれ、私は学会員がいちばん大切である。皆さまが何を喜んでくださるのか――ただ、そのことを祈り、悩み、戦い、私は生きている。(拍手)
6  『永遠の都』――″民衆が主役″がテーマ
 今回のソ連の政変(「ソ連のクーデター」編集注を参照)における劇的な民衆の勝利――。
 私は、いちばん近い北海道の地で見つめた。即座に、ソ連の多くの友人と連携を取り合いつつ、私は私の立場で、今回のクーデターに対して絶対反対を貫いた。(拍手)
 ソ連からの連絡のなかには「ソ連の国民と″同苦″してくださった池田先生の恩情を決して忘れない」との声もあった。
 ともあれ、ソ連の今回の事件をとおして、世界中が「民主の流れは逆行させられない」「民衆の力は武力、権力よりも強い」ことを、あらためて痛感している。
 その偉大な「民衆の力」による社会変革のドラマを目のあたりにして、私は恩師戸田先生から若き日に学んだ″一冊の本″を想い起こした。
 今から四十年前、戸田先生が会長に就任される直前の、最もたいへんな時代であった。私をはじめ青年部の代表に読ませたのが、革命小説『永遠の都』である。
 この作品は、これまで何度も紹介してきたとおり、二十世紀幕開けのころのイタリア・ローマを舞台にした、波瀾万丈のドラマである。
 作者のホール・ケイン(一八五三年〜一九三一年)は、イギリスの貧しい鍛冶屋に生まれ、小学校を中退して、働きながら独学で学び続けた苦労人である。ヨーロッパやアメリカでベストセラー作家となった後も、社会主義への情熱をもち続け、下院議員を務めたほか、ロシアとポーランドにおけるユダヤ人の弾圧を糾弾するルポ(現地報告の記事)を発表している。
 ″正義の人″はつねに戦っている。″民のため、正義のために戦う人″は強い。美しい。
 『永遠の都』が書かれたのは一九〇一年(明治三十四年)。まさしく″二十世紀の始まり″の年であった。日本での初の翻訳出版は一九三〇年(昭和五年)。創価学会創立の年である。当時、戸田先生は三十歳。先生もまた、青春の真っただ中でこの書を手にされたわけである。そしてこの物語をとおし、戸田先生が私に、また後継の青年たちに「学会精神」を教えてくださった、師弟の縁が刻まれた一書である。
 『永遠の都』には、主人公の革命児ロッシが、革命に参加する人々にこのように語る言葉がある。
 「もし″人間共和″がいつ実を結ぶのかと聞かれたら、われわれはこう答えればよいのです。たとえば、まずあそこに一つ、ここに一つ、あるいはあそこの国、ここの国といったように、世界が″人間共和″をつくりあげるような下地が出てくれば、従来の世界を支配してきた権力は、こんどは″人間共和″によって支配されるようになるだろう、と」(新庄哲夫訳、潮文庫。以下、引用は同書から)
 ――私どもの志向する、仏法を根本とした″大民衆運動″への力強い励ましとも思える。
7  ″政治″と″宗教″の二重の圧制に、苦しみあえぐ民衆を救わんと、立ち上がった青年革命児ロッシ。そして彼を信じ、革命に殉じたブルーノ。
 いかなる弾圧を加えられようと、いかなる策略を張りめぐらされようと、二人の「信念」と「友情」だけは絶対に壊せなかった。
 偽の手紙を使い、なんとか友を裏切らせようとする権力者の巧妙な謀略にも、ブルーノは屈しない。最後の最後まで、同志の正義を信じ、民衆の勝利を信じて、「ロッシ万歳!」と、友の名を叫んで死んでいく――。
 その不屈の信念に、時代、民族、社会状況を超えた「人間」の真髄がある。それに比べて″裏切り者″の、なんと愚かで、なんと哀れなことか。
 戸田先生は、このロッシとブルーノをとおして、「学会の同志も永遠にかくあれ!」と、″青年の魂″に深く強く楔を打ち込まれたのである。本物の同志、本物の共戦の戦友。その″心を合わせた″戦いは、十倍もの力を引き出していく。
8  「民衆の味方」が「正義の指導者」
 物語についてくわしく論ずるのは略させていただくが、ロッシはローマの古代遺跡コロセウム(円形競技場)で、大衆を前に、こう演説する。
 「われわれの敵は、われわれに反逆者の烙印を押したがっております」
 それがつねに権力者の手口である。しかし――。ロッシは言う。
 「いったいだれにたいする反逆なのでしょうか。民衆にたいする反逆以外に反逆なるものは存在いたしません。民衆こそ真の主権者であり、その民衆を抑圧する階層こそ唯一の反逆者なのであります」
 今、私どもも、彼の論の正しさに心から賛同する。(拍手)
 さらに、ロッシは「彼らは軍服に身をやつしているかもしれないし、あるいは大臣の礼服に身をやつしているかもしれない。しかし、もし彼らが民衆の臣民、民衆の召使でないとすれば、つまりは真の反逆者といわざるを得ません。たとえだれが否定しようと、これは痛切な真理なのであります」と。
 演説は憲兵隊の監視下で行われたにもかかわらず、聴衆に共鳴の大波が広がり、すぐに満場の歓声となった――。
 青年は「雄弁」であれ。青年は「知力」がなくてはならない。″あの人の言うとおりだ″″彼は私たちの本当の味方だ″と、民衆から信頼され、安心される青年であってこそ、大切な「広宣流布」の将来を託すことができる。
 ともあれ、ごまかしの詭弁が渦巻く現実社会の中で、真実の「正義」を財極める″ポイント″は何か。
 それは「民衆のために尽くすのか」、それとも「民衆を裏切り、利用するのか」――この一点を基準に判断していけばよいというのである。
9  これは宗教の次元においても変わらない。
 『永遠の都』では、″民衆を圧迫する聖職者″が厳しく断罪されている。
 一人の庶民は、こう言いきる。
 「もし法王が民衆と共に歩きたくなければ、民衆は法王をぬきにして前進しなくちゃいけない」と。
 いつの時代も、庶民の目は鋭い。ごまかせない。傲り高ぶった一部の人間によって、民衆と時代の前進を止めることはできない。否、絶対に止めさせてはならない。(拍手)
 ロッシは呼びかけた。
 「われわれはいったい何をなすべきか。人間としてのわれわれにあたえられた義務とは、不正と圧制に直面して民衆の主権を強く主張するということであります」と。
 また、「人間としてのわれわれの義務とは、民衆の進む道に横たわるあらゆる障害を取り除くことであります」と――。
 そして、その障害物の一つとして、宗教の権威――聖職者が立ちはだかってきても、われわれは権威の″幻″に尻ごみしてはならない、と彼は訴える。
 ″断じて進め! 権威の壁を乗り越え、押し倒して進め!″――これが青年ロッシの、命をかけた絶叫であった。また、これこそが、わが学会青年部の永遠の魂であると、私は確信する。(拍手)
10  恩師戸田先生が、この一書に託して、私をはじめとする青年部に示そうとされた「民衆救済の道」「宗教革命の道」――私はその茨の道を四十四年間、歩みぬいてきた(拍手)。世界に妙法を弘めた。日蓮大聖人の名を全世界に輝かせた。平和へと渾身の力で時代を動かした。文化と教育の大道を開いた。
 口先だけの人間に、何を言われようと、「事実」は世界の人々が知っている。民衆が知っている。何より御本仏、三世の諸仏が深く真実を知っておられる。(拍手)
 嫉妬による策謀など、私は眼中にない。宇宙大の仏法の世界から見れば、豆粒のような小さな人間のうごめきにすぎない。ただ、御本仏の御遺命であり、最も大切な「広宣流布」が足を引っ張られ、遅れてしまうことが悲しい。ゆえに、断じて一切に打ち勝ち、断じて前へ前へと進みきっていかねばならない。御本仏とともに、皆さま方偉大な仏子とともに。(拍手)
11  広宣流布は「天魔」との戦い
 さて、大聖人は御流罪の佐渡の地で最蓮房に与えられた御書に、次のように仰せである。最蓮房が大聖人とお会いし門下となって約二ヶ月後のお手紙である。
 「予日本の体を見るに第六天の魔王智者の身に入りて正師を邪師となし善師を悪師となす、経に「悪鬼入其身」とは是なり、日蓮智者に非ずと雖も第六天の魔王・我が身に入らんとするに兼ての用心深ければ身によせつけず、故に天魔力及ばずして・王臣を始として良観等の愚癡の法師原に取り付いて日蓮をあだむなり、しかるに今時は師に於て正師・邪師・善師・悪師の不同ある事を知つて邪悪の師を遠離し正善の師に親近すべきなり
 ――私(大聖人)が日本の姿を見るに、第六天の魔王が智者の身に入って、正師を邪師となし善師を悪師となしている。法華経に「悪鬼入其身(悪鬼その身に入る)」(開結四四二㌻)と説かれているのは、これである。日蓮は智者ではないけれども、第六天の魔王がわが身に入ろうとするのに対し、かねてからの用心が深いので身に寄せつけない。ゆえに天魔は、力及ばずに王や臣下をはじめとして、良観等の愚かな法師たちに取りついて、日蓮を迫害するのである。しかしながら、今の時代は、師に、正師と邪師、善師と悪師の違いがあることを知って、邪悪の師を遠ざけ、正善の師に近づき親しむべきである――と。
 天魔は、御本仏であられる大聖人にさえ取りつこうとした、その身に入ろうとした、と仰せである。それほどに魔の働きは恐ろしい。
 「すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」――少しでもたゆむ心があれば、魔が便乗してくるであろう――との御聖訓のとおりである。
 絶対に魔がつけいるスキを与えてはならない。意識し、自覚して″魔を打ち破っていく祈り″がなければならない。
 どのような高位の人であれ、否、立場が上であればあるほど、信心の戦い、広宣流布の戦いをやめてしまえば、たちまち魔に食い破られてしまう。″まさかあの人が……″というような人が、醜く変わったとしても、御書に照らせば、決して驚くことではない。恐れる必要もない。御書の正しさの証明なのである。
 ゆえに、大事なことは、″つくべき正しき依処(よりどころ)″を間違えてはならないということである。御書を根本に、つねに、信心の眼で鋭く正邪を見極めていかねばならない。
12  大難の歴史が正義の証明
 では、その正しき師と邪な師を見極めるポイントは何か――。
 大聖人は、同じく「最蓮房御返事」で、こう仰せである。
 「日蓮末法の初の五百年に生を日域に受け如来の記文の如く三類の強敵を蒙り種種の災難に相値つて身命を惜まずして南無妙法蓮華経と唱え候は正師か邪師か能能御思惟しゆい之有る可く候 上に挙ぐる所の諸宗の人人は我こそ法華経の意を得て法華経を修行する者よと名乗り候へども・予が如く弘長には伊豆の国に流され・文永には佐渡嶋に流され・或は竜口の頸の座等此の外種種の難数を知らず、経文の如くならば予は正師なり善師なり・諸宗の学者はことごとく邪師なり悪師なりと覚し食し候へ
 ――日蓮が末法の初めの五百年に生を日本に受け、仏の予言のとおり、三類の強敵による迫害を受け、種々の災難に遭っても、身命を惜しまずに南無妙法蓮華経と唱えているのは、正師か邪師か、よくよくお考えいただきたい。
 先にゃげた諸宗の人々(天台の座主など)は、自分こそ法華経の意を心得て法華経を修行する者であると名乗っているけれども、日蓮が受けたような難には遭っていない。日蓮は弘長元年には伊豆の国に流され、文永八年には佐渡の島に流され、あるいは竜の口で斬首刑の座にすわるなど、このほかの難も数えきれないほどである。経文のとおりであるならば、自分(大聖人)こそ正師であり善師である。諸宗の学者はことごとく邪師であり悪師であるとお考えなさい――と。
 経文のとおり、御書のとおりに、権力、社会からの大難を受けているのか、いないのか――。ここに正邪の決め手がある。あとの形式などは枝葉である。
 ″本物″であればあるほど、三障四魔、三類の強敵が激しく競い起こる。大聖人は、このことを諸御抄で繰り返し示されている。どうか、皆さまはこの点をよくよく考えていただきたい。
 今日において、経文どおりの難を、創価学会ほど受けている団体はないのである。(拍手)
13  次元は異なるが、一般の社会、人生にあっても、″ともに進む相手″を間違えたらたいへんである。結婚されている人なら、多くを語らずとも″選択の大事さ″はすぐわかると思う(爆笑)。また本日、参加されている皆さまの中には、恋愛中の方もおられるかもしれない。(笑い)
 一生を左右しかねない大切な問題である。自分の感情にのみ溺れたら不幸になる場合がある。大切な大切な皆さまである。私は、絶対に、ただの一人も不幸になってもらいたくない。
 自分の気持ちが根本であることは当然として、両親や、人生経験豊かな婦人部の先輩のアドバイスも冷静に聞いていただきたい。そして、自分も満足し、周囲からもうらやまれるような、価値ある幸の人生を建設していっていただきたい。(拍手)
14  戸田第二代会長「悪侶の非は責めよ」
 戸田先生は昭和二十七年(一九五二年)夏、いわれない圧迫のなかで開かれた臨時幹部会の席上、次のように断言された。
 「広布の道は、じつに厳しい。魔は、思いもかけぬ、さまざまな姿をとって、今後も襲いかかってくるものと覚悟していただきたい。
 しかし、私たちは、金剛不壊の御本尊様をいただいている。なにを恐れることがありましょう。台風は、いつか必ず過ぎ去るものであります。ただ、魔の挑戦には、身命を賭して戦うところに、創価学会の使命があることを知らなくてはなりません。それでこそ、創価学会の存在が偉大なのであります」
 「このたびの事件に関して、私たちは偉大な教訓を得ました。それは令法久住のためには、御僧侶と悪侶とを、はっきり区別しなければならぬということであります。今後の方針として、御僧侶は絶対に守り切る。ただし悪侶は、その非を責めるべきであるということを、きょうここで決定いたしたいと思うのですが、いかがでしょうか」と。
 (「このたびの事件」とは、神本仏迹論の邪義を唱えた悪侶・小笠原慈聞を厳しく問い糾した青年部の行動に対し、宗門の宗会が、戸田会長の謝罪文要求、大講頭罷免、登山停止の不当な″処分″を決議した事件。この時、宗会側は大謗法を犯した小笠原に対しては、「宗制宗規に照し適切な処置を望む」としたのみで、何の具体的処分もしなかった。小説『人間革命』第六巻「七百年祭」の章に詳しい)
 今また、私どもの進む道は、この戸田先生の指導に明確に示されている。(拍手)
15  日達上人「小樽問答は学会の大勝」
 この北海道で刻まれた、学会による正義の法戦「小樽問答」(昭和三十年〈一九五五年〉三月十一日)。――小樽は、この札幌の隣。小樽の皆さまも、きょうこの会合の模様を聞いてくださっていることと思う。
 この歴史的な法論について、日達上人はこう述べられている。
 「私は当時、はからずも、この問答の聴衆のひとりとなることができて、今でも、あの時の情景がありありと目に浮かんでくるのである。
 思えば、この小樽問答は、昔、驕りたかぶった武田勝頼の大軍を織田信長が深謀をめぐらせた行動によって破った長篠の合戦のような感じがする。長篠合戦の後、数年にして、武田氏が滅亡したごとく、小樽問答の後、年一年と身延派の衰退がいちじるしいのである。
 当時、創価学会の青年たちが慎重に事を運んでいったのに、身延派の人々は学会を侮り、身延から所謂学者ふたりをかんたんに連れてきて対論したのである。
 ついに学会の大勝に帰し、身延派は完膚なきまでに敗れたのである」(『小樽問答誌』)と。
 日達上人は「学会の大勝」と。その言葉のとおり、この法戦で戦ったのは学会である。学会の戦いによって、身延派を衰亡に追いやり、日興上人の正義を天下に知らしめた。
 この一点だけでも、どれほど学会が称讃されるべきか、計り知れない(拍手)。いわんや世界に「法」を弘めた。それを、自分たちの勝手な都合と欲望に奴隷のごとく従わせようとし、意のままにならないと見ると、とたんに「謗法」呼ばわりするのでは――日蓮大聖人、日興上人がどれほどお嘆きであろうか。(拍手)
 残念なことであるが、「正法」を守り、「清流」を守りぬくためには、どうしても妥協することはできない。大聖人の門下である限り、悪とは戦わざるをえない。(拍手)
16  日達上人は、続いてこう述べられている。
 「小樽問答の緒戦において、当時の池田渉外部長、今の二代会長が、学会側の司会者として爆弾演説をしているのである。この演説がまことに重大なる役割りになったのである。
 この演説は時間にして数分ではあったが、身延派の心胆を寒からしめ、味方の意気を高揚したのである」(同前)――。
 戦いは緒戦で決まる。小樽問答も、初めのわずか数分で勝敗が大きく動いた。何の戦いであれ、大切な″最初の一撃″のチャンスを逃してはならない。
 家庭でいえば、ご主人に浴びせる、奥さまの痛烈な一言。ピシッとした切れ味の良さ(笑い)。″悪への一撃″も、まさにあのような鋭さで加えればよいのである。(爆笑)
 いったんご婦人を怒らせたら、だれもかなわない(笑い)。次から次へと、どこからあんな知恵がわいてくるのか(爆笑)――その点、壮年は婦人から、″言論戦″を見習うべきであろう。ご婦人のほうでは、疲れた壮年を(笑い)できるだけあたたかく″善導″してあげていただきたい。(拍手)
 また、ついでに申し上げると、陰湿な″夫婦げんか″は、子どものためにもよくない。子どもは敏感である。知らないような顔をしていても、じつによく覚えているものである。どちらが悪いかも、ちゃんと見抜いている。
 私自身も子どものころ、父と母がけんかをしたことがあった。たまたま友達が来ており、本当に嫌な思いをしたことを、今も覚えている。
 ″夫婦げんか″の原因は、多くの場合、お父さんの側にあるかもしれない(笑い)。しかし、その場合でも、お母さんも少々″言いすぎる″(爆笑)。″敵″を追いつめる一歩手前で(爆笑)、やめておいてはどうかと思う。″話し合いの時代″なのだから。(笑い、拍手)
 悪と戦う時は遠慮なく、しかし家庭は和やかに――こうあっていただきたい。(拍手)
17  晴ればれと悔いなき前進を
 ともあれ、私は本日で入信四十四年。大聖人の門下として、戸田先生の弟子として、御書の仰せのとおり、大法弘通のために、難を一身に受けながら戦ってきた。その法戦に、一点の悔いもない。心は青空のごとく晴れわたっている。これからも皆さまとともに、さらに晴ればれと進んでいきたい。(拍手)
 さて、本日も、各地に多くの方々が集っておられる。
 夕張、空知、オホーツク、稚内、根室、後志の皆さま、本当にご苦労さまです! また青森県総会、おめでとう! 十和田にも、できれば明年、うかがいたい。岩手の皆さま、墓園建設の決定、おめでとうございます。
 東京の江戸川区の皆さま、″日本一″の前進、おめでとう! 神奈川の横須賀、藤沢、川崎の皆さま、静岡の伊東、富士宮の皆さま、お元気で!
 また兵庫の皆さま、三官に日本一、世界一の文化会館の誕生、おめでとう!(拍手)。きょう、全関西の県長、県婦人部長も参加して、盛大に開館式が行われているとうかがった。心から祝福申し上げる。徳島、愛媛の皆さま、またうかがいます!
 さらに、本日、初めて衛星中継がスタートした、第二岩手県の三会館(花巻平和会館、北上会館、大船渡会館)、大分県の竹田会館はじめ、各会館にお集まりの皆さま、ご苦労さまです!
 そのほか全国の皆さまの幸福を、心からお祈りして、本日のスピーチとさせていただきます。長時間、本当にありがとう! お元気で!
 (北海道講堂)

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